快 晴

コロナ禍を経て久々の月山。

快晴、しかも乾燥しているためだろう、稜線からは飛島、粟島、佐渡島まで一望できる。

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いわゆる「アフター・コロナ」の登山を探ることも本日の山行の目的。

30人前後の登山者をみかけたが、なんとなくよそよそしい雰囲気の中、すれ違う時はやはり「こんにちわ」と挨拶を交わす。

山頂直下、鍛冶月光の登りはやはりマスク着用は無理。普段でさえ高齢の登山者の多い月山、コロナ後の登山として検討されているマスク、マフラーやスカーフを着用した登山は現実的ではないと感じる。

「自粛」が言われている県外からの登山者だろう、年配の男性登山者が「リフト駅で身分証確認されました?」と尋ねている。

そんな姿をみて、正直何か世知辛いものを感じる。

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金姥近くのシラネアオイはどれもつぼみ。今週か来週あたり楽しめるでしょう。

残雪を利用して速攻で登り、下山は花の咲き具合を観察しながら下る。

「巣ごもり生活」で貯えた脂肪(世間では太ったと表現するらしい)を燃焼させ、3時間半ほどで山頂往復を済ませ、車で山形県自然博物園に移動。来週の朝日少年自然の家行事に備えてブナ林遊歩道をまわる。

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 新緑のブナ林の遊歩道を行く。

 自粛明けのためだろうか、残雪期の博物園遊歩道は初めての方には迷いやすいのだが、親子連れはじめ結構な人数が入山していた。

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 周海沼では腰を下ろして休む。

 鳥の声と水の音。

 コロナウイルス禍の真っただ中、日本アルプスや八ヶ岳方面では登山自粛をめぐって喧々諤々の議論が続いているが、私自身は4月後半から建設業の方がバタバタしており、それどころでない、というのが現実だった。

 寝るときもyoutubeで「森の音」の動画を聞きながら眠りにつくほど精神的に疲れていた。

 今、目の前で「森の音」がライブで聴ける。あらためて精神的な休息をとる。

 ブナ林を巡った後、自然博物園事務所に立ち寄り、近田ガイド、真鍋ガイドに挨拶と今夏の月山登山の展望について話込む。

 月山から車で下り、所用のため月山朝日ガイド協会前事務局の横山さん宅を訪ね、ここでも今夏の月山について色々話を伺う。

 横山さん宅を訪れる度、奥様から出される梅の砂糖煮が美味い。美味いだけでなく、その鮮やかな紫蘇の紅色に心奪われる。

 用事を済ませ、自宅に戻り、休日は終わる。

 

【注意】

 月山・姥沢のリフトは現在スキー用に運用されており、リフトで下りの乗車ができません。

 2020年6月16日(火)から18日(木)までの3日間は終日運休、リフトの架け替えが行われます。

 リフトでの登り・下りが可能な夏山リフトは2020年6月19日(金)から開始されます。

 詳細は 月山観光開発ウェブサイト をご覧ください。

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5月上旬お仕事日記

5月×日

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巣ごもり生活とやら始まって久しい。

今夜のおかずは、カミさん実家から貰い物のコシアブラ。季節を感じるのは食卓だけという日々。

 

5月×日

 本日は在宅勤務。

 携帯は着信の連続。

 夕方6時過ぎまで、なんだかんだで電話の応対。一日振り返ると、スマホには22件の着信記録。

 ただの現場作業員やってた頃には、音声通話なんて2~3日に一度なんてことも珍しくなかったのに。

 本日の私の心象風景 ↓

 

5月×日

 必要緊急の用件が発生、親方と2人で大型トラックを運転し、日帰り神奈川県出張。

 途中の首都高の車の少なさに、緊急事態宣言下であることを実感。ただし大型トラックやトレーラーは多い。

 マスコミは医療関係者ばかりを取り上げるが、運輸業や建設業はコロナウイルスの脅威の下、平常運転だ。

 神奈川での用件を終え、海老名SAで買物タイム。

 本日は 皇朝 のシューマイセットをお買い上げ。

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翌日の夕食、家族皆で皇朝のシューマイを喰う。

 

5月×日

 今回も、

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 自然公園指導員委嘱を賜る。

 今シーズンはコロナウイルス禍もあわせて山あり谷ありのシーズンになりそうだ。

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復習するは我にあり

コロナウイルスという災厄下の連休日記。

5月×日

 連休直前に、出張班から関連会社への提出物を預かる。

 その他諸々の内業もあるので、通いなれた工場の事務室に出勤。連休後半初日で無人の事務室。

 各地から戻った出張班の若い衆たちのツナギ服が山と積まれているので、洗濯しながら、事務室で内業をこなす。

 工場の事務室、エアコン有り、大型モニター兼テレビ有り、wifi電波有り、コーヒーとお湯有り、山形新聞の配達有りと、1人で過ごすには最高の設備である。

 ダメ元で関連会社に電話をかけてみると、取締役のUさんが休日出勤していた。嗚呼、ここにも日本の企業戦士が一人。

 恐縮ながら事情を話し、車で数分の所にある関連会社へ行き、提出物を預かってもらう。

 時間をみて洗濯機から洗濯物を取り出し、まだ残っているツナギ服を洗濯機に入れ、また内業するというループ作業。

 内業を一区切りつけ、山形新聞を読む。今日の占い欄、2月生まれは・・・

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『仕事を忘れ、愛する人と共に過ごす時間吉』と書いてある。

 洗濯を終え、事務所を施錠し、さっさと帰る。

 

5月×日

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 先日の夕食のおかずの豆苗(とうみょう)、  茎と葉を切り取った種子の部分を水に漬けておく。ここ最近の暑さで、凄いスビードで成長。台所で生命力を感じる一コマ。

 

5月×日

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 世の人々は退屈だというが、こちとら身に着けたい知識はまだまだある。

 いつも会社の机に入れてある『測量トレーニングノート』。立正大学で測量学の単位は取得したが、就職して実務で測量を行うとなると、いわゆる測量士・士補の資格試験テキストは枝葉が多すぎて、あまり役立たない。実践的でかつ偏差値50の私の頭でも理解できるよう、社会人になってから購入した、農業高校生向けのテキストが一番わかりやすく、今でも愛用。連休利用して読み返す。

 復習するは我にあり。

 

5月×日

 山に行かない日々、里山をジョギングし、昼は老母の買物に付き合い、午後はのんびり読書というルーチンワーク。

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里山とはいえ、いろんな花が咲き始めた。

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里山登山口にある植栽のツツジは紅色なのだが、山上のツツジは淡いピンク。その淡さが野性味を感じさせる。

20200505_085406帰路の河川敷も春の花で彩られている。コメツブツメクサ・・・かな? 

黄、白、青、各種の花の鮮やかさに『雑草という名の草は無い』という昭和天皇のお言葉を思う。

 

5月5日

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カミさんから出された柏餅に、「ああ、子供の日だっけ」と思い出す。

来る日も来る日も報道はコロナばかり。

メディアでは子供の日の明るい話題は無いが、家族が元気に過ごしていてくれれば、それで十分。

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会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』

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 ご縁があり、郡山在住の登山家 保坂昭憲氏より会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』を送っていただいた。

 故・小谷部明氏は2018年に北日本海外登山研究会K2登山隊を隊長として成功に導き、2019年2月、中央アルプス宝剣岳で亡くなられたクライマー。

 室蘭工大ワンゲルOBである氏は山スキーと沢を得意とし、会津山岳会でも存分にその才能を発揮。

 それだけでなく日本山岳耐久レース、山岳スキー競技会、MTBオリエンテーリング世界大会など、狭い分野にこだわらず貪欲に活躍していた。

 驚かされるのはその几帳面さと研究熱心さ。厚い追悼集の大部分を占める小谷部氏自身による手記は、失敗も成功も、まるで医師のカルテを覗いたように (いや、たとえでして、私医師のカルテ読んだことないけど) 冷静に綴られている。

 その生涯で3度挑んだK2登山の記録。初めての遠征では高所順応に苦しみ、周囲のメンバーとのプレッシャーを感じながらも、決して自分のペースを乱すことなく行動している点に、強靭な意思が現れているといえよう。

  また、このような会報を出版物として発行できる会津山岳会の「地力」に敬意を表したい。

 かつて『山と渓谷』、『岳人』の数ページを彩っていた「山岳団体の会報紹介」のページは各団体の動向を知る手がかりとなっていたのだか、WEB全盛の今では知る人も少ないのではないだろうか。

 紙の出版物なんて古いと言われそうだが、近年になってニフティやヤフーがホームページサービスから撤退し、貴重な山行記録がWEB上からあっさりと消えている現実を思えば、そうとも言えまい。

 まだまだ活躍が期待される年齢であった故・小谷部明氏にあらためて哀悼の意を表します。

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クリス・ボニントン、コロナ危機によるロックダウンを語る

 イギリスの「社会派」アウトドアサイト grough にて取り上げられていますが、クリス・ボニントンがバーグハウス社を通じてyoutubeでコロナウイルスによるロックダウンに関するコメントを公表しました。

Sir Chris Bonington likes Covid-19 lockdown to being holed up in expedition tent  by grough 2020.5.1

 タイトルにあるように、コロナウイルスによるロックダウン(封鎖)を遠征登山での停滞になぞらえ、かつ「stay active」、身体を動かし続けることの大切さを語っています。

 当ブログのテキトーな文字起こしは次の通りです。

『 遠征登山に赴くこと、それは素晴らしいものです。

  家庭から抜け出し、育児やあらゆる責任から逃れ、多くの時間があります。

  テントや雪洞で何日間も何もできず停滞しているときは、あなたはただ時が流れることに身をゆだねるだけです。

 それをやりましょう。それが私たち皆がやらなければならないことです。しばらくの間、最高にやりたいこと、素敵なことを考えることができるのです。

 最初は夢のようなものですが、あなたが本当に行ってみたいところ、やりたいことを見つけることです。

 私は今までで気に入った、最も美しい場所を尋ねられましたが、1960年代初めにサザーランドにあるシルヴェン(Suilven)という山に行きました。

 私と仲間達だけでシルヴェンに登り、湖と小さい島々が織りなす原野を見渡すことができて、私の人生で最も素晴らしい経験の一つでした。

 今、何が起こっていても、実際に外に出ることができますし、運動することも奨励されています。

 私はカンブリアに住んでいて、家の裏には丘があるので好きなだけ歩けますが、ロンドンにも公園があり、ストリートを歩くだけでも、楽しむことができます。

 座らないで、歩き続けること。私は座るのが嫌なんで、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと着実に歩き続けること、それが重要です。

 3か月後、おそらくは6か月後には収束します。でも丘は私たちのために、常にそこにあるのです。

 本当に重要なことは、政府のガイドラインを遵守し、見守りましょう。

 私たち皆がやりたいことをすぐにでもやれるように、あらゆることの推移を見守りましょう。』

 好天に恵まれた連休、自粛自粛の最中で麓から山を眺めるだけの、ストレスフルな日々を送っている方も多いかと思います。

 日本とイギリス、社会や文化、政策の違いはありますが、日本を遥かに上回る死者を出したイギリス社会に住み、豊富な遠征登山の経験を持つクリス・ボニントン氏が発するコメントに耳を傾けてもいいでしょう。

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ハーケンの品格

4月のお仕事日記

 

4月×日

 現場作業員と現場管理の二足の草鞋を履く会社員生活。

 今まで長年愛用していたASUSのモバイルPC、キーボードが故障し、使い物にならなくなる。 

 新型コロナウイルス流行にもひるまず、中国・上海から

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11インチの軽量モバイルPC 「Ideapad slim 150」が届く。

CPUが最低レベルのAMDのため、動きはもっさり。しかし出張の多い身、現場写真整理と作業日報作成ができれば事足りる。

会社支給のcore i 5搭載ノートPCはメイン機にして、こちらはサブ機。

本社と工場を行き来し、社内でノマド的な勤務形態をとっているので、これから頼りにします。

 

4月×日

 一昨日は、工事機械を搬入のため東北自動車道を大型トラックで爆走。

 昨日は、故障した機械を修理に出すために宮城県を大型トラックで爆走。

 管理職になって最近あまりトラックに乗ってない親方、久しぶりの運転で機嫌も良く「よし、エンジンも温まってるし、オイル交換に出すぞ!」と意気込んでいる。

 助手席に座っていた私の携帯にメールが届き、各種書類作成の指令。

 「すみませーん、俺午後から内業します・・・」

 午前中はトラックにクレーンにバリバリ働く時間を過ごし、午後は事務所に缶詰になって数字と格闘。

 

4月×日

 金曜日、公休。

 しかし公休とは名ばかり、朝から携帯に取引先からの電話、書類の修正、夕方は携帯から離れた隙に、またまた取引先から電話。

 老母の様子を見に行くべく出かけた矢先、車中のハンズフリー通話で取引先と再度、電話連絡を取る。

 休みという名の、在宅勤務。

 隙間時間をみて、散らかった部屋をひっくりかえすと、

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え?何これ?

みたいな感じでアングルハーケンやらロシア製チタンスクリューやらが出てくる。

いや俺クライマーじゃない、ハイカーだし。

でもコロナが収まった将来を見据え、行きたい●●に備えてまた戸棚に仕舞っておく。

 

4月×日

 土曜日。

 私のジョギングコースには山形市内の里山も含まれている。

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 いつもなら早朝登山の爺婆しかいないのだが、今日は元気な親子連れ、ヒョウ柄のシャツ着たおばちゃん、トレイルランナーとすれ違う。

 コロナ禍の影響だろう、みんな外に出たがっている。

20200425_095050ツツジのつぼみがあちこちに。春も飛び越えて初夏も近いようだ。

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 現場仕事とデスクワーク、そしてコロナ騒ぎで家に籠っている間に、桜の花は道路脇の地面を埋め尽くしていた。

 

4月×日

 さすらいの現場作業員、本日から岩手県某所でビジホ暮らし。

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 現場管理するようになって、出張道具に電卓が欠かせない。(スマホの電卓はタッチパネルが頼りなくて使えない)

 メシはスーパーの総菜頼り。常食しているのは「もずく酢」。

 歳でしょうか、焼き肉とか丼物とかよりも、現場帰りは「酢の物」が喰いたい。

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あ、しっかり炭水化物も取らなくちゃね。

一関市・小松屋だんご店の「ずんだ餅」ゲット。

昔々、実家で作る「ずんだ」って、実際にすり鉢で豆すりつぶし、砂糖控えめだったのをよく覚えている。

自分達の親類家族が手掛けてきた「味」を学ぶことなく失われつつあるのを、最近ちょっと後悔しつつある。

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著作について話しましょう ベルナデット・マクドナルド インタビュー

ベルナデット・マクドナルド。

現在の山岳界で素晴らしい著作を出し続けている山岳ジャーナリストであり、当ブログでも『TOMAZ HUMAR』『ALPINE WARRIOR』『FREEDOM CLIMBERS』、そして恩田真砂美さんによる素晴らしい翻訳で日本に紹介された『ART OF FREEDOM』を紹介してきました。

ロシアの山岳ジャーナリスト、エレナ・ドミトレンコ女史によるインタビューが公開されましたので、ここに紹介します。

Let's talk about literature. Interview with Bernadette McDonald  by Womengohigh 2020.4.23

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著作について話しましょう
ベルナデット・マクドナルド インタビュー

B1ビルバオ・メンディ映画祭にて

ベルナデット・マクドナルドは、『Freedom climbers』の著者であり、冬季8000m峰登頂を夢見た人々の印象的な物語です。「ワールドブックデー」(訳者注:毎年4月23日の「世界本の日」)は、カナダ人作家とのインタビューを公開するよい機会です。

エレナ・ドミトレンコ執筆記事
写真・Bernadette McDonaldアーカイブ

B2 ベルナデット・マクドナルドはバンフ山岳文化センターの創設者であり、山岳文化と登山に関する11冊の本を執筆しています。彼女の著作は14か国で発表され、バンフ・グランプリ、ボードマン・タスカー賞(訳者注:イギリスの山岳文学賞)、Kekoo Naoroji賞(訳者注:The Himalayan Clubによるヒマラヤ関連著作に対する文学賞)、American Alpine Club賞など、多くの賞を受賞しています。山岳文化への貢献により、アルバータ・オーダー・オブ・エクセレンスそしてキングアルバート賞を受賞しています。

 彼女の著書「Freedom Climbers」は、6つの国際文学賞を受賞しています。彼女の最新刊「Art of Freedom」は、バンフ山岳文学賞、ボードマンタスカー賞、ナショナルアウトドアブック賞など、これまでに3つの国際賞を受賞しています。彼女はヒマラヤクラブとポーランド山岳協会の名誉会員であり、エクスプローラークラブのフェローに任命されました。執筆時以外は、ベルナデットはクライミング、ハイキング、スキー、カヌー、そして葡萄を栽培しています。

 ベルナデットの本はすべて「並外れた」人々に関するものだと言わざるを得ません。自分の世代の頂点を目指し、今後の登山の方向性を築いた人々に関するものです。そして、スポーツ・マラソン・ライブラリーが最近出版した「Freedom Climbers」には、ワンダ・ルトキェビッチのような女性も存在します。

 ベルナデット、あなたは人生の多くをポーランドの登山に費やしました。ポーランドに長く滞在し、地元のクライマーとコミュニケーションを取り、彼らの人生について学びました。もう彼らとは気兼ねすることの無い仲ですか?

 そのように感じ始めています。そうですね。私は取材のためにポーランドの出版編集者と会い、ポーランドで出版された本をPRするために、年に数回訪れています。そして、私がここにいる度に、登山関係者と会うたびに、時には専門的に、時には社交的に、ええ、それは一種の大家族のように感じています。

 「Freedom Climbers」の中心には、アンジェイ・ザワダ、ワンダ・ルトキェヴィチ、イェジ・ククチカ、ヴォイテク・クルティカ、クシストフ・ビエリツキの物語があります。これは私にとって興味深いものです。ヒーローにはさまざまなタイプがあります。なぜこれらの人々を物語の中心に置いたのですか?登山への貢献のため?それともあなたの共感のためですか?

 その成し遂げた登山への業績があって、私は著作のために彼らに関わってきました。しかし、多くのベテラン登山家が含まれていません。取材の過程で出会った人々、登山家としてだけでなく人間としても共感できた人、そして最後に、ヒマラヤ登山について興味深く注目すべきことを成し遂げた人に関わってきました。

B3   リンゼイ・グリフィン、ヴォイテク・クルティカ、ミック・ファウラーと共に ラグレイヴのピオレドール式典で

あなたの最新刊「Art of Freedom」は完全にヴォイテク・クルティカに関する本です。それはポーランド人の好みにあったのでしょうか?

 私の印象としては、ある時点でこの本が書かれることを地域社会が期待していたといえます。ヴォイテクはこのようなことすべてに消極的で有名でしたので、誰が書き上げるかはわかりませんでした。ついに出版されたときはちょっと驚かれたと思います。幸いにも、「Freedom Climbers」のおかげで、このコミュニティにはある程度の信頼をいただいていました。好評だったと思います。正直なところ、かなり売れてますしね。まあ、来るべきものがきた、という感じです。

出版前にヴォイテクが本の最新版を読んでいなかったと、どなたかが話してましたが。

 そのとおりです。私たちがそう決めた理由は、「自伝」ではなく「伝記」にしたかったからです。そしてそれが「伝記」であるためには、私は「独立」している必要がありました。干渉しては欲しくなかったのです。しかし、彼がすべてのクライミングの成果、過程を確認することには同意しました。彼は私に言いました。この本は登山家としての私の人生の記録になる。私はそれが間違っていることを望まない、と。誰が何をしたか、いつ、どれくらい大変だったか、どの程度の標高、何時間だったのか、間違いはないか。彼はそれが絶対に正しいことを望むと言いました。そして、私は答えました。大丈夫、それは大丈夫です、と。それらは出版前に彼が読んだ本の一部分です。しかし、それは事実でしたし、彼にとっては驚きだったようです。

彼は気に入りましたか?

ほとんどの部分は気に入ってくれたと思います。もちろん、彼がすべてに同意するわけではありません。

彼がすべてに同意したとしたら、意外ですね。

 それはおかしなことですし、いえ、私は彼に最大限の敬意を払っていますが、特定のことについては私自身の独立した意見もあり、それを表現しようとしました。

B4ベルナデットはクライミングで休暇を過ごすのを好む

あなたの本は何ヶ国語で翻訳されていますか?特に「Freedom Climbers」は。

「Freedom Climbers」は11か国語だと思います。「Art of Freedom」は13か国語で、「Alpine Warriors」は9か国語で出版されています。

あなたの本のうち、現在最も人気のあるものはどれですか。

 それはむしろ、その国特有、より正確には、大陸固有のものでしょう。しかし、全体としては「Freedom Climbers」と「Art of Freedom」で五分五分でしょう。

 あなたが長い間ペンを持たないことはめったにありません。今現在、新しい本を書いているのを知っています。仕事はどうですか?すでにそれについて公然と話しているのですか、それとも秘密にしていますか?

 私の新しい本はほぼ準備ができています。ページの校正段階です。ようやく!イギリスの出版社とアメリカの出版社から同時に発売される秋まで書店に並ぶことはありません。それは出版社からまだ発表されてないので、私はそれについて自由に話すことができません。でも、まもなくですよ。

B5  ポーランドの登山家アダム・ビエリツキがモスクワのスポーツ・マラソン・トラベラーズクラブでの講演中に「FREEDOM CLIMBERS」のロシア版にサイン中

楽しみにしてます!作家として、またコミュニティの一員として、登山家が書いた本や物語が数多くあると思います。沢山読みますか?

 ええ、実際に可能な限り読みまくりました。沢山読み、数多くのフィクションを読み、あらゆる分野の書籍を読んだりします。私は詩は読みませんが、他の分野はほとんど全て読んでいます。

 私は山岳書をたくさん読んでいます。私にとっては、それは多くの場合取材であり、私が取り組んでいるプロジェクトだけでなく、他の登山家や他のコミュニティに関する書籍を読むのが楽しいからです。それは私にとってすべてのバックボーンであり、すべて取材です。

そして、ここ数年あなたが注目した本は何ですか?何が印象的でしたか?

デビッド・ロバーツが書いた最後の本である「Limits of the Known」は彼自身について非常によく書かれています。つまり内省的であり、登山家としての彼の人生を見ているということですが、癌患者の観点から、彼の病、余命の変化、そして冒険家としての人生、登山家としての人生を興味深く観察し、過ぎゆく日々に感謝している人の視点があるからです。その年のボードマン・タスカー賞を受賞しました。

 それから、パウル・プロイスに関するデビッド・スマートの著作を本当に楽しめました。彼がクライミング・ストーリーに数多くの歴史的背景をちりばめる方法が素晴らしく、それ自体も興味深いものでした。ご存知のように、私は登山史が大好きで、デビッドは上手く書き上げました。

B6 ブドウの栽培は、ベルナデットのもう1つのお気に入りアクティビティです

あなたが登山の世界に身を置くようになるのに役立ったのは、どんな本ですか?

 私が最初に読んだ山の本の1つは、ハインリッヒ・ハラーの「チベットの7年」でした。それは登山の本ではありませんが、私にとって魅力的な場所に連れて行ってくれた本当の山の冒険です。私に深い影響を与え、旅行、異文化との接触、荒野への憧れを植え付けました。

 その数年後、私はその裏話、作者、そしてチベットへの脱出の必要性を生み出した政治情勢について多くのことを学び、その過程でハラーについてもよく知りました。初めの先入観の一部が現実というものに打ち砕かれた事にはがっかりしましたが、それでも私にとって土台となる本でした。

 私がいつも愛していたもう1つの本は、エリック・シプトンの著作です。エリック・シプトンのオムニバスを、私は繰り返し読み返しています。探検と冒険は自然に楽しいものですが、彼の執筆が飽くなきエネルギー、好奇心、ユーモア、苦痛の感覚によって伝えられる方法が好きです。

 私を大いに助けてくれた3冊目の本は「Mountaineering:The Freedom of the Hills」です。何年にもわたり多くの復刻版が出された教本ですが、夫と私は初版を持っています。1970年代に戻り、その本を熟読し、結び方を学び、ビレイ技法を練習し、滑落をシミュレートし、クレバスレスキューのZプーリーシステムを理解しようとしました。その後、夫はレスキューのスペシャリストとして仕事に就き、十分な訓練を受けましたが、初めはその本が私たちの「聖書」でした。

作家としてお答えください。登山家が読むべき3冊を挙げてください。

 なんてこと・・・難しい質問ですね。常に印象に残っているのは、Andy Caveの「Learning to Breathe」です。それは、英国の鉱業文化の真っただ中で育ち、高山の冷たい空気の中で彼の「魂」を見いだす素晴らしい物語です。美しく書かれています。もう1つの素晴らしい本ですが、スロベニア語(現在はポーランド語)以外の言語で見つけるのが非常に難しいのですが、Nejc Zaplotnik(訳者注 : ナイツ・ザプロトニク(1952~1983) マカルー南壁、エベレスト西稜登攀に成功したスロベニアの伝説的な登山家)による「Pot」です。タイトルは「The Way」と訳されており、詩的な文章、山での純粋な喜びの表現に十分お勧めできるものです。この本は数世代にわたりスロベニアの登山家達にインスピレーションを与えてきましたが、私はその理由を容易に理解できます。私が大好きなもう一つの本は、ジェームズ・ソルターの「ソロ・フェイス」と呼ばれる登山小説です。ソルターは、私が知る最高の作家の1人であり、ミニマリストで職人であり、すべての単語が適切なタイミングで適切な場所に存在します。

B8ポーランドのラデックマウンテンフェスティバルで。写真:Małgorzata Telega

さて、他人の推薦に左右されず、自分で読む本を選びたい人について話しましょう。どこを探せばいいですか?

 ご存知のように、それはあなたが探す言語によって異なると思います。英語の本に関しては、いい場所がいくつかあります。まず、Boardman Taskerのウェブサイトです。ショートリストだけでなく、ロングリストも。現在出版されている山岳書の本当に素晴らしいレジュメが得られるでしょう。もう1つは、バンフマウンテンフィルムおよびブックフェスティバルのコンペティションリストです。そこにもロングリスト、ショートリストがあります。閲覧するのに良い場所です。またアメリカではNational Outdoor Book Awardsと呼ばれるものがあります。NOBAと呼ばれ、様々なカテゴリーがあります。登山だけではありません。伝記があり、環境に関する本があり、多くの素晴らしい書籍があります。

あなたの著作のファンは主にどこに住んでいますか?ヨーロッパ?アメリカ?

 スペイン語、まあ、明らかにポーランド語版、スペイン語、イタリア語、ドイツ語版があると思います。私の著作のヨーロッパ市場は、北米市場よりも大きいです。しかし、今はアジア市場でも販売を始めています。韓国語、日本語版ですね。

B9   韓国の国際山岳映画祭で

彼らはヨーロッパの登山家の人生に興味があるんでしょうか?主にヨーロッパの登山家達について書いているからでしょうか。

主に東ヨーロッパのクライマーでしょう!

なぜ彼らの人生に興味があるのですか?

 大きな理由の1つは、東ヨーロッパの登山家が英語圏でよく知られていないし、十分に書籍化もされていないことです。つまり、ほとんどのカナダ人、アメリカ人はデニス・ウルブコについてあまり知りません。彼らはクシストフ・ビエリツキについてあまり知りません。誰もが彼らのことを知っているので、ここでは想像もできないことですが、それは私の目標の1つでした。彼らのストーリーを伝えることは、素晴らしいことであり、知られるに値することだと思います。

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以上引用おわり

 ロシアのクライミングサイトに掲載されていたインタビュー記事の転載許可にあたり、執筆者のエレナ・ドミトレンコ女史から快諾を頂戴するだけでなく、「ロシア語より英語版の方がいいのでは」とお気遣いいただき前記URLをご紹介いただきました。

 現在エレナ・ドミトレンコ女史は、女性による登山・冒険だけでなく幅広くアウトドアに関わる人生をも扱ったウェブサイト Womengohigh.com を主宰しています。ロシア語版だけでなく英語版もありますので、ぜひご覧ください。

Сердечно благодарю вас!, Елена Дмитренко !!

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ジョー・ブラウン逝去

 イギリスの重鎮、ジョー・ブラウンが2020年4月15日、イギリス・ウェールズ北西部ランベリスの自宅で亡くなりました。89歳でした。

 死因は明らかにされていませんが、どのメディアも「安らかに息を引き取った」と報じています。

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2012年に撮影されたジョー・ブラウン近影

 1955年に世界第三位の高峰カンチェンジュンガの初登を果たしていますが、イギリスはじめ各国のクライミングサイト、一般メディアも「クライマー」としてのジョー・ブラウンにスポットがあてられています。

 当ブログでも過去にジョー・ブラウンを紹介してますので、

 あの人は今 ジョー・ブラウン(Joe Brown)、祝・80歳 by 当ブログ2010年9月26日

 当ブログでは、各国クライミングサイトがあまり取り上げない、カンチェンジュンガ登頂にまつわるエピソードを中心に追悼します。

 1930年、ジョー・ブラウンはイギリス・マンチェスターに7人兄弟の末っ子として生まれ、学校を出てすぐ配管工見習い、建設作業員の職につきます。

 16歳のときにコリン・カーカスの著書『Let' go climbing』(日本でも森林書房から出版された邦訳「クライミングに行こう」を読んだ山岳関係者は多いはず)に影響されて登山とクライミングを始めます。

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著書の表紙にもなったsea stack(スコットランド北部・海岸部の岩場)を登る若き日のジョー・ブラウン

 チョモランマに消えたマロリーに代表されるような上流階級の人々とは一線を画し、労働者階級の一人としてイギリス各地の岩場に困難なルートを拓き、ヨーロッパアルプスでもその才能をいかんなく発揮します。

 「酔っ払い」ドン・ウィランスと素晴らしいコンビを組み、「軽量化」のためアイゼンも持たずw ドリュ西壁を速攻で登攀。その時のコメントとして、

 「フランス人って、クラックでハンドジャム知らないんだ」

 そうです、工業用ナットを加工してクラッククライミングのプロテクションとして駆使し始めたジョー・ブラウンは、クラッククライミングを得意としていました。後のカンチェンジュンガ登頂でも、頂上直下の岩場でクラッククライミングの実力を発揮します。

 ドン・ウィランスと組んだヨーロッパアルプスでの成果から、1953年エベレスト初登頂を果たしたベテランメンバーぞろいのカンチェンジュンガ登山隊に最年少隊員(26歳)として招かれます。

 大学出身でインテリぞろいの隊員達。

 隊員の一人で脳外科医のチャールズ・エバンスを病院に訪ねていき、こんなやりとりがありました。

 エバンスが外科手術器具を手にして、

 「スレート(訳者注 : 粘板岩)をカッティングするときはこんなの使うんだろ ? 」

 配管工のブラウンは負けずに手術用ドリルを手にして

 「御冗談を・・・私はこれよりいい仕事しますよ ! 」

 ジョー・ブラウンによれば、社会的地位のギャップはクライミングへの愛情で埋めることができた、と語っています。

 その言葉が大げさでないことは、最年少隊員であるジョー・ブラウンがカンチェンジュンガ登山隊で第一次登頂隊員に選ばれたことからも推察できましょう。

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 人類として初めてカンチェンジュンガ「頂上」に立つジョー・ブラウン

 カンチェンジュンガ峰の登山は、ご存じの方も多いと思いますが地元住民との取り決めにより、聖なる山として真の頂上を踏まず、手前に立つことで登頂とされています。

 登頂時のことについて、真の頂上に立とうと思わなかったかとインタビューされ、ジョー・ブラウンはこう答えています。

「いいえ。誘惑すら無かったです。私にとって山頂に立つことは意味がありません。私はクライミングの喜びのために山に登っています。喜びは頂上でおしまいです。あなたもそこに行けば、そう思うでしょう。旗を立てる必要もありません。当時ではあまりみられない行為でしょうがね。私たちは持っていきませんでした。その写真に写っている場所、そこが私たちが立ち止まったところ(頂上)です。」

 まさにクライマー魂ともいうべき答えではありませんか。

 蔵書を引っ張り出して当時の記録を読み返すと、登頂前夜の最終キャンプで「彼ら二人は(ジョー・ブラウン、ジョージ・バンド)はすごくぜいたくな夕食を食べた」と書いてある。

 2人はいったい何食べたんだ?

 Alpine Journal 1955年No.291号にジョージ・バンドが記した登頂記では、

 粉レモンで作ったレモネード(砂糖多め)、アスパラガスのスープ、マッシュポテトと子羊の舌の缶詰、食後にココア

 だ、そうです。

 その穏やかな人柄、無類のジョーク好き、クライミングに対する飽くなき情熱。

 ジョー・ブラウンの逝去を報じる一般メディア、UKCサイト、コメント欄いずれにも、『End of an era』(一時代の終わり)と表現されていたことが、彼の存在の大きさを物語ります。

 Joe41955年、カンチェンジュンガ登頂後のジョー・ブラウン近影

偉大な登山家の死去に、哀悼の意を表します。

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仙台暮らし

月曜から仙台市某所でゼネコン現場仕事。

コロナウイルス禍でついに私の勤務先でも「夜の街に繰り出しちゃダメ」指示が出る。

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仕事を終えてビジホに帰る途中にある、石窯パン工房パンセ に立ち寄る。

本日の夕食は、

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ベーコンエッグで決まりだね。

胡椒が効いててgoodでした。

 

ビジホ暮らし、夕食はめんどくさいのでスーパーの総菜頼り。

何かの本で、「肉屋のコロッケは旨い」とかあったけ・・・と思い、仕事帰り、近くの ミートショップサトウ に行く。

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狭い駐車場、すでに現場作業従事者と思われる車が停まっている。勤労者に支持されるとは期待できそうだ!

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本日は牛タンメンチコロッケ(左)とチーズコロッケ(右)お買い上げ。

牛タンメンチはつなぎのジャガイモも少なく、食感・味ともに肉を食っている実感。

チーズコロッケはつなぎのジャガイモが旨い! (肉屋のコロッケなのにごめんなさい)

また来たいお店が増えました。

安倍首相の緊急事態宣言をラジオで聴きながらビジホに帰宿。

緊急事態宣言だろうが戒厳令だろうが、建設現場は変わらない。明日も現場仕事頑張ります。

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やさら流し 山形県遊佐町 樽川地区 令和2年4月4日

山形県飽海郡遊佐町には、月遅れの節供の行事として藁人形を川に流し「災厄送り」とする行事「やさら流し」が伝承されている。


「やさら」とは八皿とも弥皿とも書く。樽川地区では八皿と書く。由来・起源は明らかではない。ヤマタノオロチ退治に用いられた八つの酒樽になぞらえた、八種類の料理を備えるから、など諸説ある。


 月山から下山してそのまま樽川地区を訪れる。17時45分、集落中央部の三差路に皆さん藁人形を持って集合されていた。


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樽川地区は全戸数17戸。皆顔見知りだ。


この日は遊佐町広報担当の方、山形新聞の記者、荘内日報の記者、そして私が撮影機材を抱えて集まっており、女性の方からは「これから着替えてこようか」との言葉が出て笑いを誘う。


 伝統行事はどこでもそうだが、集まった住民の方は年配の方が中心。


 平成16年発行の山形県教育委員会による行事調査報告書では多くの子供たちの姿が写真として掲載されているのだが・・・住民の方からも、


「外孫でも連れてくるといいっけか?」と声が聞こえる。


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 樽川地区の「やさら流し」で用いられる藁人形。背丈は30cmほど、赤い椿が頭上に飾られる。背中には御馳走の入った「わらつと」を背負う。


 各家庭で藁人形を作り、お膳やお神酒を捧げられてから行事に持ち出されるのだ。


 18時少し前、「はじめましょうか」とゆるく行事は始まる。


 鐘と太鼓の拍子と共に、皆さん声をそろえて


『やっさらにんぎょう おくんぜ どこまでおくんぜ さんどがしま(佐渡島)までおくんぜ』と唱えながら集落を歩き、近くの洗沢川へ行く。


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 最後にあらためて唱え歌を歌い、一斉に藁人形を川に放る。災厄を川へ、海へと流すのだ。


 おりしもコロナウイルスが猛威を振るう日本。


 近くの平津地区では大きな藁人形を作り、若衆がお神酒を飲みながら藁人形を担ぎ出す行事なのだが、今年は神事のみだと伺った。


 帰路、歩きながら世話役の方から樽川地区の成り立ち、やさら行事のことなど色々伺う。


 樽川地区では、現在2~3歳の子供しかいないとのこと。


 それでも、年配の方を中心に途切れずに「やさら流し」が継続されてきたことは、地区の方々の平安な生活を願う「祈り」の賜物だろう。


 樽川地区の子供たちが大きくなる頃、どんな世の中になっているのだろうか。


 この日記録した動画はこちらです↓



コロナウイルス蔓延が問題となっている中、部外者の見学を快く迎えてくださった樽川地区の皆様のご健康をお祈りいたします。

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春のブナ林へ

金曜。

来週から山形県某所に出張する親方達作業班の段取り、私は仙台市某所に出張する段取り、その合間に新入社員への工事機械のプレゼン。

諸々の仕事を片付け、好天を逃さず土曜は月山山麓へ。

不要不急の外出? ガイド山行を予定している身である。少雪のシーズン、下見しておきたいポイントはいくつもある。

Imgp0001毎年楽しみにしているザゼンソウは、もう開花している。今年はやはり一ヶ月は気候が早い。

そんなことを言っても仕方ない。あるがままに受け入れよう。

グサグサに腐った雪を、ワカンを履いてブナ林を進む。

G2

西川町の街中でも気温16度、風は冷たいが日差しはきつい。ブナの木陰で休憩。

キツツキのドラミングが聞こえる。もう冬は去ってしまったのだ、と実感する。

G1

ブナは凶作なのであまり見られないはずなのだが、枝のへし折り具合からみて熊棚。空き家物件。

G3

自然博物園も除雪が進む。山にも春が来る。

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コロナが吹けばFD食品が

コロナウイルスが猛威を振るうアメリカ。

アウトドア愛好家皆様におなじみのフリーズドライ食品ブランド「マウンテンハウス」が、パニックに陥り備蓄食料を求める消費者によって大変なことになっています。

 

Coronavirus Is Causing a Freeze-Dried Food Freak-Out  by Outside 2020.2.28  

 

 1月31日未明(日本時間)のWHOによる緊急事態宣言が発令されてから、マウンテンハウスの販売元であるオレゴン・フリーズドライの売り上げが異常なまでに急上昇。2月の取引額は前年比で1093%増、10倍以上増となったもの。

 このためコストコ(アメリカ)ではマウンテンハウスの販売サイトを閉鎖、マウンテンハウスのウェブサイトも注文受付停止という事態になっています。

 この事態に対し、オレゴン・フリーズドライの担当者ベクテル氏は

 「在庫切れではなく、長い付き合いのある顧客との商取引の優先順位を付けている段階」であり、すでに発生しているマスクの再販価格高騰のような事態を防ぐ方策でもあると説明。

 同社は4月から7月にかけてバックパッキングが盛んになる時期に向けて増産体制に入っており、バックパッカーはオレゴン・フリーズドライの顧客の根幹の大部分を成す人々であり、失望はさせないとコメント。

 3月6日の続報でも、同社は増産に励んでいるとのこと。

Mountain House tries to keep pace with virus-prep demands  by KOIN.com 2020.3.6

Rice

え?

いや私もストックしたFD食品整理しておこう・・・

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ヤーニャ・ガンブレッツ、オリンピックとコロナウイルス問題を語る

ついにJOCの山口香氏が五輪延期の意見を表明し、モメにモメてる東京五輪。

 各国のアスリートからも東京五輪開催に疑義が表明される中、スロベニアのヤーニャ・ガンブレッツ(ヤンヤ・ガンブレット)が1分40秒の短いインタビューながら、今現在の東京五輪、コロナウイルス騒動について語りました。

Janja

 スロベニア語は教本読んでもさっぱりですが、Yahoo News が文字起こししてくれているので以下引用開始

World's top female climber concerned but focused on Olympics amid coronavirus crisis  by Reuters Video 2020.3.20

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「まさに今、私たちはオリンピックが開催されるかどうか少し不安です。私のトレーニングは全力で進めています。その(コロナウイルス)ためにトレーニングを休むことはありません。」

「もちろん、オリンピックの1年間延期は困難でしょうが、無観客のオリンピック開催も異様なことです。なぜなら、それ(観衆の声援)が競技の魅力であり、皆が拍手し、応援してくれるからです」

「とにかく私は気にしないようにしています。ひたすらトレーニングを続けるだけですが、オリンピックが開催されるなら良いことですし、延期されるなら、私はそれがアスリートにとっても、スタッフにとっても最高だと思います。オリンピックが1年延期されるとすれば、私たちに何ができるでしょうか。それを気にしても仕方ありません。」

「混乱することはないと思います。毎年、コンペのために一生懸命トレーニングしています。毎年同じことです。12月からトレーニングをスタートし、冬の間中、ハードにトレーニングしています。すべてのコンペに備えて準備するからです。ですから、もし延期されたとしてもハードにトレーニングしているので、そんなに問題ないと思います。」

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以上引用おわり

 当方が収集した情報では、東京五輪に備えて日本でトレーニングしていたヤーニャ・ガンブレッツですが、さすがにコロナウイルス蔓延で自国に戻りトレーニングしているようです。

 『延期されるなら、私はそれがアスリートにとっても、スタッフにとっても最高だと思います。』

 というところにヤーニャの本音が垣間見えますが、その若さゆえでしょうか、オリンピックだからといって何なの ? とまで感じさせる落ち着きがトップクライマーの「貫禄」といえましょう。

 センセーショナルにIOCを批判するアスリートのツイッターなどは、世論誘導して五輪延期・中止にソフトランディングさせたい日本のメディアが即座に飛びつきますが、ヤーニャのような泰然自若としたコメントは日本のマスゴミもスルーするんでしょうね(棒読み)

 スロベニアでも感染者が200名を超え死者も出ているとの報道がありますが、コロナウイルス騒動が明けた時期のスロベニア勢の活躍が楽しみです。

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レニングラード包囲戦 クライマー秘話

第二次世界大戦、ソ連に侵攻したドイツ軍は約900日にわたりレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)を包囲。

いわゆるレニングラード攻防戦において、重要な役割を果たした登山家達のエピソードが公開されました。

«Невидимый» Ленинград: как подвиг альпинистов помог спасти город от фашистов by Tvzvezda 2019.5.7

以下引用開始

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「見えない」レニングラード:登山家達がナチスから街を救った偉業

リナ・ダヴィドワ、タチアナ・パヴリコワ

 包囲戦の初日、ドイツ軍はレニングラードに6,000発の焼夷弾を投下した。信じられないほど正確に、密集地帯が爆撃された。その原因は、レニングラードの黄金の支配者-尖塔、ドームが敵の目標物として役立っていたのだ。登山家達は、それらを隠すように命令された。

P1_20200315230701©写真:Russian Look、Globallokopress、alpklubspb.ru

 1942年8月、有名なエーデルワイス山岳部隊(訳者注:ナチスドイツの山岳兵部隊)の兵士たちは、重大な目標であるバクー油田に接近しました。山岳部隊はエルブルス山脈の西にある最も重要な峠に迫り、アブハジアとグルジア(現・ジョージア)占領に理想的な位置にあった。このままでは、ヒトラー率いるナチスドイツ軍はバクー油田攻撃を開始することになる。

 ソ連にとってバクー油田を失うことは、敗戦を意味する。1942年8月、党本部は中央コーカサス山脈の峠を解放するために山岳狙撃部隊を編成し始めました。彼らは、各地から名狙撃手である登山家達を集めなければなりませんでした。伝説的な軍人・登山家であるミハイル・ボブロフが特別な役割を果たしました。

 1937年、15歳のミハイル・ボブロフはスキー回転競技少年の部において、レニングラード選手権を獲得した。1940年には青少年大会で同じタイトルを獲得。このため彼は、登山キャンプ参加の資格を得て、初めてエルブルス地方を訪れ、山に恋をした。
 彼は登山訓練を受け、インストラクターとして短期間働いた。両親は息子の山に対する情熱を真剣には受け止めず、工場で機械工として就職すべきだと主張していた。1941年6月に戦争が勃発、ミハイルと彼の同僚は保留されていたが、ボランティアとしてとにかく最前線に行くことを志願した。

 1941年7月1日、特殊部隊を募集していた将校の前で、ボブロフは近所の知人から学んでいたドイツ語、体力と知識を示し、2日後には若いアスリートはオフタ川の中心部に到着、破壊工作員として訓練が始まった。

 (中略)

 ボブロフと彼の仲間はドイツ軍の道を忍び寄り、国境に向かって移動した。そこにはレニングラード支援者によって作られた要塞があった。若いミハイルはドイツ軍の動きを監視し、情報を軍に送信した。より経験豊富な破壊工作員がドイツ軍にゲリラ戦を仕掛けた。ある夜、ミハイルは機関銃の音で目が覚めた。ドイツ軍は要塞に侵入し、検問を突破していたのだ。銃撃戦が始まった。113人の兵士のうち、生き残ったのは10人ほどだった。彼らは東へ行き、ノヴゴロドを通ってレニングラードに戻った。

 大規模な敗退の後、指揮官は数人の小グループで敵の最前線後方に破壊工作員を送り込み始めた。ボブロフも数回にわたり最前線を越えた。ある日、彼の部隊が作戦から戻ってきた。ソ連軍の陣地に帰着すると、兵士たちは安堵のため息をついた。しかし突然、彼らは砲撃を受け始めた。軍と特殊部隊との連携不足が原因だった。ボブロフはミハイロフスキー城で目を覚ました。戦争中は野戦病院になっていたのである。

 ある日、登山家のアロイス・ゼンバが騒々しく部屋に入ってきた。ゼンバはいわく、「国家記念物保護監督官が、国家機密の任務のために登山家を集めている」

 1941年8月30日、第18国防軍が侵攻、レニングラードと全国各地を結ぶ最後の鉄道線を切断した。9月8日、敵はシュリッセリブルク市を占領し、レニングラードとの通信が途絶した。この日から、北部の首都の包囲戦が始まる。

 包囲戦初日、ドイツ軍はレニングラードに6000発の焼夷弾を投下した。ドイツ空軍機は極めて高い精度で都市機能部を爆撃した。やがて情報がもたらされた。レニングラードの黄金の支配者が敵軍のガイドとして役立ったのだ。光きらめく尖塔、ドームが、敵の大砲にとっては優れた「案内者」だった。

P2_20200315230901©alpklubspb.ru


 それらはすぐに隠されなければならなかった。登山家達が集められました。オルガ・フィルソワ、アリア・プリゴジェバ、アロイス・ゼンバ、ミハイル・ボブロフ。

 登山家が聖イサアク大聖堂に登ることは難しいことではなかった。10日以内に灰色のドームと大聖堂の鐘楼がレニングラードの空から「消失」した。海軍本部がある黄金の尖塔は、覆い隠すことが非常に困難であることが判明した。彼らは重さ0.5トンの巨大なキャンバスカバーを縫い付けた。しかし、構造物にフックを用いることなく、上部に固定することはそれほど簡単ではなかった。アロイスは戦闘で腕を負傷しており、ミハイルはひどい脳震盪からまだ回復しきっていなかった。オルガ・フィルソワが解決策を見つけた。防空気球(訳者注:低空飛行の敵機を防ぐための飛行船・風船)の使用を提案したのだ。

P3_20200315230901©alpklubspb.ru

 気球のキャンバス地と共にオルガ達も上へと持ち上げられた。彼女たちはキャンバスの全ての合わせ目を縫い合わせる必要があった。彼女が作業を始めるとすぐ、ドイツの戦闘機が雲の後ろから飛び出し、尖塔に機銃掃射を浴びせた。弾丸はオルガの隣の布地を貫いた。しかし彼女たちは作業を終わらせた。海軍本部の尖塔はレニングラードの空と同化し、ドイツ軍はランドマークを失った。1941年10月中旬まで、彼らはミハイロフスキー城の尖塔でも同様の作業を行った。

 登山家達がペトル・パウェル大聖堂の偽装作業を始めた頃、寒さが到来した。気温は下がり強風のため、ミハイルは7回ほど登っただけだった。寒い時期には偽装用の油絵の具がうまく付着せず、凍りついて層状に落ちるため、何層も塗り直さなければならなかった。

P4_20200315231001©alpklubspb.ru

 3月までにペトル・パウェル大聖堂の尖塔とドームの偽装作業が完了した。主なランドマークは敵にとって失われた。爆撃は少なくなり、それほど狙われなくなった。市内にはまだ目立つ構造物が残っていたが、登山家達は力尽きていた。1941年11月、ミハイロフスキー城の尖塔に16時間連続してぶら下がっていたアレクサンダー・プリゴジェフは、腎臓を損傷した。オルガ・フィルソワとアロイズ・ゼンバは壊血病に苦しんでいた。ミハイル・ボブロフは受けた負傷がほとんど回復しなかった(1942年2月に母親は餓死、父親は少し遅れて死去)。そして作業は中断された。登山家達は夏までに、ミハイル・ボブロフとオルガ・フィルソワの2人だけが生き残っていた。ミハイルは工場に戻り、海軍の大砲のメンテナンスに着任した。

 (中略)

 戦後、ボブロフは軍事文化研究所を卒業し、指導を始めました。1982年以降、ボブロフはレンフィルム映画スタジオでスタントコンサルタントとして働き、1994年からサンクトペテルブルク人道大学労働組合(大学)の体育学部で教鞭をとり、彼の生涯を通じてエルブルスに10回登り、78歳で北極を訪れました。そのためギネス記録に掲載された彼は、2018年8月に95歳で亡くなりました。

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以上引用おわり

 ナチスドイツによるレニングラード包囲は完全に物資を断つ非人道的なもので、同都市内ではカニバリズムが横行するほどに悲惨な状況になっていました。

 後半(中略)としている箇所には、そんな凄惨な包囲戦を生き抜いたミハイル・ボブロフが登山の師と偶然モスクワで出会い、再び山岳部隊の士官としてコーカサス戦線に従軍、ナチスドイツを撃退するまでが記載されています。

 ロシアのクライミングサイトや登山関係サイトでは、ごく普通に大祖国戦争(第二次大戦の独ソ戦を指す)や退役軍人クライミングコンペなどの話題が出てきます。祖国防衛の英雄として。

 かたや太平洋戦争当時、日本軍に協力したとされる山岳関係者や文化人は「戦後は沈黙を守った」と日本勤労者山岳連盟関係者らによっていいように糾弾されていますが、同じ軍関係者としての勝者と敗者の違いをまざまざと感じさせられます。

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アイスクライミングW杯を支える男たち

 韓国のトップアルパインクライマー、チェ・ソクムンが韓国・青松アイスクライミングW杯のルートセットに関する裏話を月刊『人と山』に公表しています。

 平昌五輪での公開競技開催には失敗した韓国。その一方で、青松アイスW杯は粛々と歴史を重ねています。

 こうしたルートセットに関する裏話は非常に興味深いものであると同時に、韓国人クライマー達が重ねた試行錯誤と努力、アイスクライミング競技での層の厚さが伺えます。

최석문의 벽 _ 청송 아이스클라이밍 월드컵 by  月刊『人と山』2020年2月

以下引用開始

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チェソクムンの壁_ 青松アイスクライミングワールドカップ
文・チェ・ソクムン(ノースフェイスクライミングチーム) 写真・ジュミンウク記者

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 コンペに向けて準備するスタッフ 左からキム・ジョンホン、キム・ジョンウン、キム・ジンウォン、筆者(チェ・ソクムン)、 キム・ビョング、 ミン・ギュ、 ソ・ジョングク、 ジェ・イソン.(キャプションは月刊『人と山』facebookより)

 青松アイスクライミングW杯は、国内クライミングコンペの中でも最大規模の大会で、今年で10年を迎えた。第1回大会の時からルートセッターとして参加しているキム・ジョンホン(安養キム・ジョンホンクライミングセンター)、ミン・ギュ(大田ワールドカップ競技場、人工壁)氏と筆者が今回の大会にもルートセッターとして参加した。今回はソ・ジョングク(ソ・ジョングククライミングセンター)氏も、ルートの設営を共にした。ソ・ジョングク氏は昨年まで選手としてW杯に参加していたが、今年初めてルートセッターとして参加することになった。

ルートセッターが持つ能力

 クライミングが繰り広げられる壁の後ろには、各種の登山装備、道具が積まれているルート設営スペースがある。中には電線を巻くときに使用するドラムをテーブルとして使っており、テーブル上には電動グラインダー、アイスアックス、電動インパクトドリル、コーヒーメーカー、カップラーメン、クイックドロー、スクリューなどが乱雑に置かれている。
 冬場の屋外で働く労働者が好んで着るつなぎ作業服を着て、コーティングされた赤い手袋をはめている人が、その周りに座って何ごとか真剣な話を交わしている。大会運営を知らない人が見れば、ただ現場作業について話を交わしているようにしか見えないだろう。

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青松アイスクライミングW杯スタジアム裏には、様々なクライミングギアが置かれたスペースがあります(画像・キャプションは月刊『人と山』facebookより)

 ルートセッターは選手名簿を確認し、ルート数を決定する。予選はオープン競技(他の選手たちの試合を見て、順番に従い登ること)であるため、速度戦にならないよう、ルートの難易度は高くなければならない。決勝戦ではアイスキャンディー(壁に吊り下げ使用する氷塊)を使用するが、ここで幾つ用いるかも慎重に決定しなければならない。また、選手のクライミングラインをどのように設定するかも場所を移しながら意見を交わす。
 ルートセッティング前に、ルートセッターはクレーンを使い、過去の選手権大会で使用したアイスキャンディーとハリボテ、ホールドを壁から取り除く。クライミングウォールを白紙状態にする間、他のルートセッターは下で予選に使用するホールドを選び、青色のスプレーを吹き付ける。青松アイスクライミングW杯では、一貫して予選には青色、準決勝に銀色、決勝には金色のスプレーを吹き付けている。

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 国際ルートセッター、キム・ジョンホンがラッカースプレーで着色している(画像は月刊『人と山』facebookより)

 このルールは、キム・ジョンホンが作った。彼はUIAA国際ルートセッターとして、国内アイスクライミング大会だけでなく、ヨーロッパや北米に至るまで、様々な世界のW杯の試合でルート設定の経験がある。
 「ルート設定でホールド一つ一つを配置することは、自分の哲学で壁を彩ることと同じ」と言う彼の真摯で慎重な姿勢を垣間見ることができる。
 筆者が考える彼の最も優れた能力は、ルート全体を読み取る力だ。彼はルートの難易度と時間を調整し、試合では一、二名の完登者が出る。長年の経験と感覚がなければ、ほぼ不可能である。クライミング時間が長く、あまりにも多くの完登者が出たり、あまりにも難しいルートで序盤に多くの選手が落ちると、観客と選手達は興味を失うからである。これらの調整能力はルートセッターが持つべき重要な能力である。

 

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クレーン(高所作業車)で作業中

公正の実現のためのスケッチと検証

 ホールド除去と配色を終えた後は、各ルートに合わせてスケッチを描く。予選、準決勝、決勝戦に合わせ、難易度とクライミングラインを考慮することが重要である。それから、詳細な「検証」のステップを経る。W杯は世界トップクラスの選手たちが技量を披露するため、高難度のルートが主となる。それだけ選手達の安全と適切な試合のため、検証を徹底的に重ねることが重要である。検証しなければ良い結果を保証することはできない。
 ルートセッターは直接クライミングをしてみて動作がどのように多彩になるのか、ホールドが破損する可能性はあるのか、特定区間の難しい動作で同じ順位者が多く発生しないかなど、様々な可能性を検証する。数回にわたりホールドとクライミングラインの非常に微細な部分まで検証を行う。
 いくつかの種目でも、物理的に良い条件があるものである。クライミングコンペでは背が高いか、腕の長さが長ければ有利となる部分がある。ルートセッターはルートを作成する際、特定の人の身体にとって有利・不利となるルートを作らないために努力する。たとえば、身長が小さい選手を考慮し、ホールド間の距離を慎重に決定する。次のホールドに届かないような箇所には配置しない。これは公正に反することだからだ。
 このようにルートセッターは選手たちの実力を把握している必要があるだけでなく、公正と価値を失ってはならないのである。
最も重要な要素の一つは、選手達が実力を発揮できるようにすることである。そのために選手がコンペルートで面白さと真剣さを失わないようにしなければならない。クライマーの緊張感は見守る観客にも完全に伝わるため、観客も選手たちのクライミングに没頭できるようになる。選手と観客が退屈せずに迫力あふれる試合を楽しむことができようにするのも、まさにルートセッターの仕事だ。

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UIAAルートセッター達が意見を出し合う 左よりミン・ギュ、筆者、キム・ジョンホン(キャプションは月刊『人と山』facebookより)

UIAAが認める世界最高の大会

 韓国のアイスクライミングコンペは、1997年トワンソン氷壁大会の時から始まった。初期の大会は速度で順位を競い、以降は氷壁に線を描いて大会を行った。徐々に自然岩壁を利用したミックスクライミングや人工壁が建てられ、大会は多様に発展した。
 10年前の青松アイスクライミングW杯時には、ルート設定への理解が不足していた。ホールドに穴をあけて使用する別名「穴打撃(どのような方向からでもピックが抜けない)」で、ルートセッティングを進めており、ホールドの選択と動作の多様性に欠けていた。
 最初、青松アイスクライミングW杯ではイタリア人ルートセッターであるアッテリォが参加してホールドの選択、ルート設営を助けてくれたが、ヨーロッパ方式(ホールド距離が遠いセッティング)に、韓国のルートセッターは満足できなかった。ヨーロッパ方式に対応はするが、様々な変化を与えたかった韓国のルートセッターはガストン、サイドホールド、エンボス加工ホールドを使用するなど、韓国だけのルートスタイルを発展させた。

 

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アイスアックスのホールドの特徴を引き出す方向を撮影中(画像・キャプションは月刊『人と山』facebookより)


 ルートセッターの努力で作られた韓国スタイルは、少しずつヨーロッパに影響を及ぼしている。それほど私たちは公正かつ面白い大会を作っていると自負している。青松W杯はコンペ運営だけでなく、イベントの進行に関してもUIAA関係者と選手が世界最高の大会と太鼓判を押してくれる。
 数年前から予選はオープン競技に変更された。以前はオンサイト方式で1つのルートだけのクライミングだったが、今はオープン競技方式で2つのルートで進められる。試合数が増えることは、少なくない犠牲を要する。ルートセッターは2つのルートを作り、運営する審判とビレイヤーにも苦労が増える。それでも、このような手間をかけることを甘受するのは、より多くの選手に少しでも多くの機会と経験を提供するためである。

P4_20200314120701頭上の壁を埋めるためのルート設定。天のキャンバスに絵を描くようなものです(キャプションは月刊『人と山』facebookより)

美しい祭典の時間

 UIAAは、青松W杯クライミングルートに氷の比重を高めてほしいという要請を毎年寄せてきている。韓国の気候を考慮する場合、青松W杯では、ヨーロッパのような氷壁を製作できる環境になく、仕方なくアイスキャンディーを作って壁に固定している。そんな中、特に今冬は異常気象で試合の準備がさらに困難になった。小寒の冬の雨が真夏の梅雨のようだった。雨は大会に使用されるアイスキャンディーの形を変形させ、スピード競技が行われる氷壁を溶かす。ギム・ビョングUIAAアイスクライミング委員とグム・ジンウォン慶北山岳連盟理事が雨を眺めながら心配した表情を浮かべる。すぐ開催される本競技に支障を与えないか心配する気持ちが感じられる。ギム・ビョング委員は運営と観客側の両方の立場で、複数の業務を調整している。グム・ジンウォン理事は青松W杯の全体的な流れをみて進行させながら、ルートセッティングを準備する、もう一人のルートセッターでもある。二人は韓国で開かれるアイスクライミング、ドライツーリング大会に多くの時間と努力、奉仕を通じて、アイスクライミングコンペの発展に大きな役割を果たしている。


 もうすぐプレーオフが行われる。決勝に進出した選手が一人一人紹介される度、観客席を一杯に満たした観衆の熱気はさらに熱くなる。初めて公開されるルートの動作と流れを予測できるよう、選手達には各7分の時間が与えられる。オブザベーション中の選手たちは、それぞれの頭の中で登る姿を描き、実際のクライミングのように天に向かって手を振っている。7分のオブザベーションが終わると、選手のクライミングが始まる。スタジアムの観衆もクライミングに一緒に没頭する。
 競技場の熱気は、ピークの終わりにたどり着く。男女それぞれ最後の選手がクライミングを続けていく。観客は最後の選手の一動作ごとに呼吸を共にする。ルートセッターは選手と観客を交互に見つめる。最後の選手が1位を確定し、トップホールドにアイスアックスをかける瞬間、虚空を切って墜落する。観客は本人が落ちたように惜しむ声をあげる。続いて選手たちの情熱と努力に、歓声と祝福の拍手を送る。

 静寂の中、誰も残っていない競技場の壁に、ルートセッターは再び向かう。壁は再び白紙の状態に戻る。私たちは互いを励まし、W杯を終える。
 美しい祭典の時間は、こうして終わる。

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以上引用おわり

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