ドングリマグ

息子、娘の進学に伴う手続き・雑用がおわり、ようやく山に復帰。

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快晴の下、湯殿山(1500m)山頂を往復。

今回の山行で新登場、

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ドングリマグ。

どんぐりの形を模したステンレスマグボトルです。キャップの木目に一目ぼれしました。

山形市内の雑貨店「La Casa」で入手。容量300cc程なので、日帰り山行のコーヒーボトルに使います。

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今年はブナの実豊作だといいなあ。

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毎春観察しているシークレットエリアのザゼンソウも、すっかり開いていました。今年はやはり雪解け早いかな。

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毎年写真撮ってますが、月山山麓・国道112号沿いは春の花盛り。

先日の降雪の影響でしょうか、ニリンソウの花はしおれかけ、カタクリの花も少々傷んでいました。

明日からまた現場作業に専念します。

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月山観光情報

 月山山麓の西川町・志津集落、弓張平手前の県道では、一旦停車しての検温を行っています。

 コロナ禍の情勢下、ご協力をお願いいたします。

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あなたが思うより不健康です

盛岡出張。

会社や山岳界の嫌な人をイメージしながら

(〇ね!△野郎!)

と気合いれてコンクリートをドリルでぶっ壊す作業を続けたおかげで、

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上腕三頭筋が炎症起こしたらしく、右腕が完全に曲がらず、きちんと伸びなくなった。

スーパーでキネシオテープを買い、ビジネスホテルでシコシコ貼る。

つらい現場作業の日々は、盛岡のお菓子で乗り切ることにする。

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3月29日、盛岡風月堂の「くるみの森」。洋菓子でクッキー生地に挟んだクルミが美味美味。

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3月31日、一関市・菅原食品販売の「くるみ餅」。醤油味が効いて、あまじょっぱいです。

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最終日は総理大臣・原敬の大好物「お茶餅」。味噌だれが効いてます。

いずれも胡桃を用いたお菓子。

胡桃の甘味は、昔の人々には貴重なものだったんだろうなー。

現場作業で悪戦苦闘しつつも無事終了、山形帰ります。

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最新の流行は当然の把握

あなたはいくつ覚えていますか?

アメリカ・ユタ州立大学図書館が、今は無きアウトドアメーカーのカタログを電子ファイル化し公開するというプロジェクトを進めています。

11 Dead Outdoor Gear Brands That You Should Know by Gearpatrol.com 2021.3.30

以下引用開始

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11 Dead Outdoor Gear Brands That You Should Know

(あなたが知っておくべき11の、今は無きアウトドアブランド)

TANNER BOWDEN 執筆記事

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 彼らのロゴは、もはやバックパックやテントを飾ることはないが、私たちが現在使用しているギアに多大な影響を残しています。

 ブランドに「墓地」は無いが、それは「死ぬ」。彼らは失敗し、破産し、株式会社に売却され、別会社に吸収されていく。これは多くのアウトドアメーカーの運命であり、冒険家に賞賛され、アマチュアに愛され、70年代と80年代にキャンプに親しんだ人々に、今では愛情を込めて記憶されています。

 Cloudveil、Camp7、Moss Tentsなど、これらブランド名を知る歴史家は、美術館にはいません。彼らはこっそりブログに書いています。そこでは、かつて高性能だが現在はヴィンテージになっているジャケットやバックパックを隠しておくこともできます。

 これら企業の記念碑に最も近いのは、ユタ州立大学図書館の特別コレクションです。図書館は最近、古いアウトドア用品のカタログを収集し、インターネットとインスタグラムを用いて表紙をデジタル化するプロジェクトを進めました。これら画像は、現在は消失したブランドへの視覚的な賛辞です。これらは歴史を築き上げていますが、すべてを語っているわけではありません。称賛に値する11社のストーリーをどうぞ。


シュイナード・エクイップメント

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 シュイナード・エクイップメントの物語は、すなわちパタゴニアの物語のプロローグといえます。創設者であるイヴォン・シュイナードは、ピトンや他のクライミング用ギアを手作業で鍛造することでビジネスを始めました。もともとは岩場で出会った山仲間のためだけのものでしたが、噂が広まり、ビジネスを法人化するのに十分な需要が生まれました。

 1989年にメーカーを襲った人身事故の訴訟によって破産するまで、パタゴニアの姉妹ブランドとして存続しました。しかし完全に消失したわけではありません。従業員のグループが企業を購入し、ソルトレイクシティに移動し、名前をブラックダイヤモンドに変更しました。

 

Cloudveil (クラウドベル)

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 1997年に設立されたCloudveilは、アウトドア業界の大手メーカーに比べれば、生き残ったとしても幼い存在といえます。スティーブン・サリバンとブライアン・カズンズがジャクソンホールで会社を設立したのは、サリバンがSchoeller社のソフトシェル生地を見出したことがきっかけでした。

 資金面の問題が発生し、サリバンとカズンズは最初にスポーツブランドインターナショナルに、次にスパイダーに、最後にプライベート・エクイティファームに会社を売却することを余儀なくされました。不思議なことに、Cloudveilのサイトは今でもオンラインで公開されていますが、そこには商品は一切掲載されていません。サリバンはノウハウを生かし、アウトドア・アパレルブランド「スティオ」を立ち上げ、ビジネスを展開しています。

 

スノーライオン

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 スノーライオンの「ポーラーガード・マミースリーピングバッグ」は、ダウンの代替品として十分な性能をもつ合成断熱材を採用した、最初の寝袋でした。1976年に発売されたとき、ブランドの設計思想と同様に革新的な製品でした。当時のカタログの紹介は、ブランドが当時目指した地位を主張しています。「スノーライオンは、従来の設計や製造法へのコミットメントや崇拝のない、独立した登山家の集団によって立ちあげられました」翌年、同社は売却契約が失敗したため、破産を申請しました。

 

キャンプ7

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 ジョージ・ラムが始めたアルプスポーツやアルパインデザインを含む一連のブランド最後の企業であるキャンプ7は、1970年代にボルダーに住んでいた人なら誰でも知っているはずですが、ラムはそのギアの多くを日本で販売していました。

 

アバクロンビー&フィッチ

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 アバクロンビーは現在も存続しているが、世紀の変わる頃、信頼できるアウトフィッターとして同社を知っていたハンターたちにとっては、現在の状態は認識できないでしょう。1950年代に発行されたカタログの表紙には、キャンプや犬ぞり、カヌー、釣りなどのシーンが描かれていますが、それ以降のカタログ、特に1988年以降のカタログでは、Limited Brandsという会社がA&Fを買収し、基本的なウェアを扱う方向に舵を切ったこともあり、従前とは大きく異なります。名前は残っていますが、オリジナルブランドは残っていません。

 

ラトックマウンテンギア

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 ラトック社は、その名の由来となったパキスタンのカラコルム山脈にある標高23,442フィートの山への遠征をはじめとする、最も大胆なアウトドア活動のための装備やウェアを製造しました。創業者のジェフ・ロウは、1978年にラトック山に挑戦し、その直後に会社を設立しました。ロウ・アルパインに統合される前のラトック社は、Outside誌の「最も影響力のあるアウトドアギア100選」に選ばれたチューブ式ビレイデバイスとソフトシェルプルオーバーの2つのアイテムを製造していました。

 

インテグラルデザイン
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 Equip Outdoor Technologies社は、Rab社やLowe Alpine社と同じ会社で、2010年にテント、ビビー、シェルターのメーカーを買収しました。Rabは現在も多くのアイテムを生産していますが、カルガリーを拠点とするオリジナルの生産チームは、Integral Tacticalという名前で一般消費者向けではないタクティカル・アウトドア・ギアを生産しています。

 

ダナデザイン
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 アウトドア愛好家の間では、バックパックメーカー「Dana Design」が今でもよく知られています。それは、創業者であるDana GleasonとRenee Sippel-Bakerが、今でも「Mystery Ranch」というブランド名で製品を作り続けているからです。2人は1985年にDana Designを立ち上げ、10年間にわたり成功を収めた後、K2に売却しました。Mystery Ranchのウェブサイトによると、2人は早期退職を考えていましたが、信頼性の高いバックパックを、多くの人に提供することほど充実した仕事はないとすぐに気付きました。


モステント

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 1955年、ビル・モスは南北戦争以来変わらない、重いキャンバス地のテントに嫌気がさし、「ポップテント」を考案しました。湾曲したポールで作られた骨組みを、軽量で耐候性のある生地で覆うという原理は今も変わらず、このデザインは親しまれています。

 モスは登山家というよりもデザイナーで、モステントを設立したのは1975年、退社したのは1983年ですが、そのおかげであらゆるタイプのアウトドア愛好家がより快適に眠れるようになりました。モステントは多くの企業と同じ運命をたどりました。結局、会社は買収され、そのデザインは別のブランド(MSR)で販売されることになりました。妻のマリリンが彼の人生と仕事についての本を出版、YouTubeのビデオではその背景が紹介されています。


アーリー・ウインタース

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 アーリー・ウィンタース社といえば、アマゾン以前に発行されていた、あらゆるギアやガジェットを掲載したカタログ、またはハウスメイドのテントのどちらかがよく知られています。1976年、アーリー・ウィンタースは、当時の新素材であるゴアテックスを世界で初めて購入し、ライトディメンションというテントを作りました。その後、ゴアテックス製のレインジャケットをはじめとするさまざまな防水製品の製造にもゴアテックスが使用されました。

 1984年にオービス社が同社を買収し、その後売却されサハリー社に社名変更する前に、アーリーウィンタース社はティム・レザーマンの最初のマルチツールを仕入れるという歴史的な発注をしています。

 

マザーカレン

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 ユタ州を拠点とする小さなアパレル企業、Mother Karen'sについての情報は、インターネット上ではあまり見つかりません。1973年に設立され、1980年代前半に全盛期を迎えたこのブランドが、今、蘇ろうとしています。美容業界の元幹部であるラス・ムーアヘッド氏は、このブランドを購入するほどの思い入れを持っており、かつての象徴的なプルオーバーが、再びその地位を得ることができると信じています。

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以上引用おわり

 栄枯盛衰、日本のアウトドア業界も吸収・合併が続いています。

 注目すべきは、ユタ州立大学図書館というアカデミックな施設が、アウトドア業界のカタログをこのような形式で保存に着手しているということですね。

 ご存じの方も多いと思いますが、アメリカではアウトドアメーカーが生み出す経済力は地方自治体を左右する影響力があり、全米規模のアウトドアメーカー展示会の開催場所を巡ってユタやコロラドですったもんだしていたのは記憶に新しいところ。

 日本でも諸先輩方が「登山は文化」と訴えて久しいですが、日本のアウトドアメーカーや小売店の古いカタログを公的機関が保存するなんて考えられない訳です。

 アジア人や黒人に暴虐の限りを尽くす人種差別の国アメリカですが、アウトドア文化に対するリスペクトは、大いに見習うべきものがあるといえるでしょう。

 あなたがお持ちのモンベルのカタログも、十年後には貴重品になっているかもしれません。(え?僕何かヤバい事書いてます?)

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Everything to Live For 女性として生きるという事

遥か昔の学生時代、友人からこんな質問を受けた。

『お前の彼女が病気か何かで醜い姿に変貌したら、お前は彼女を愛せるか?』

その時、私は適当に答えてはぐらかしたのを覚えている。

理由は単純だ。彼女なんていなかったのだから。

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それから数百万年経過した今、Turia Pitt著『Everything to Live For: The Inspirational Story of Turia Pitt』を読了。

チュリア・ピットは大学を出て鉱山技師として働き、長年付き合っている彼氏もいて充実した人生を送る、若きオーストラリア人女性だった。

2011年9月2日。

西オーストラリアで開催されたウルトラマラソンに出場中、山火事に巻き込まれ、全身の65%に火傷を負い、生死の境をさまようことになる。

火傷は深刻なもので、生還できたのも奇跡的と言われるほどの重体だった。ヘリで病院に搬送されたものの、右手指を全て切断、左手指を2本切断、そして顔面を含む全身に火傷の跡が残ることになる。

本書はチュリア・ピットの生い立ちから事故の詳細な様子、入院・リハビリ生活、そして事故の原因究明までを追った本である。

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大学卒業時のチュリア・ピット(右)と婚約者のマイケル・ホスキン(左)

顔面にも大火傷を負い、鼻・唇も欠損し、皮膚の移植をはじめ200回以上もの手術を重ねたチュリア・ピット。

一ヶ月以上の昏睡から回復し、そして現実と向き合うことになる。

母親は、火傷で変わり果てた姿を見せまいと、あらゆる所から鏡や姿が反射して見えるものを取り外していた。

しかし、チュリアはリハビリ入院中に手にしたipadで、画面に反射して写った、火傷を負った自分の顔を初めて目にすることになる。

変わり果てた自分の顔を見て泣き叫ぶチュリア。

彼女を支えたのは、家族、そして彼氏のマイケル・ホスキン、地域の人々だった。

チュリア自身も、「別の人間になった」と考え、ひたすら前向きにリハビリを重ねていく。

 本書の後半は、山火事でチュリアはじめ幾人もの負傷者を出したウルトラマラソンのレース主催者『レーシング・ザ・プラネット』の責任問題追及に焦点が充てられている。

 主催者の問題点として、チェックポイント、スタッフの不備・連携不足(本書では衛星電話、スラーヤとイリジウムの混用が問題点として挙げられている)。

 レース主催者の責任追及の側面も持つ本書だが、ある日を境に人生が激変する「不幸」に見舞われた一人の女性の、不屈の人生を描いた本と言ってよいだろう。

 性格の悪い私は、本書に美談ではなく、大火傷という不幸に見舞われた女性をとりまくダークな人間関係を期待していたのだが、チュリア・ピットをとりまく人々は献身的に彼女を支え続けた。

 彼氏のマイケル・ホスキンは警察の職を辞して彼女の看病とリハビリに付き添い、婚約。 Turiapitt 「私は彼女の外見ではなく心に惹かれた」というマイケル・ホスキンとの間に2児をもうけている。

 本書の表紙ではフェイス・マスクを着用しているチュリアだが、オーストラリアのテレビ番組『60minuts』で火傷を負った素顔を公開し、現在はマスクを着用することなく、堂々とメディアに登場。レース主催者の『レーシング・ザ・プラネット』とは和解に達し、莫大な賠償金を手にすることとなった。現在は様々な社会活動・慈善活動に関わっている。

 と、ここまではいわゆる意識高い系の女性っぽいが、実際のチュリア・ピットは結構おっちょこちょいらしい。

 講演活動の際、マイクを付けたままトイレに行き、その間の音声が会場に響き渡ったままトイレを済ませた。

 税務署申告で一桁間違い、莫大な追徴課税を背負うことになった(のちに完済)

 ニューサウスウェールズ州の「ウイメンズ・オブザイヤー」のファイナリストに選ばれ、キャンベラの国会議事堂に行くつもりで航空券を買い、キャンベラに行ったが、実は会場は300km離れたシドニーの国会議事堂だった。

 などなど。

 

 本書を手にした時期は、ちょうど建設業も繁忙期にさしかかり、一気に読むことができなかった。

 その間、世間では東京五輪にまつわる「女性差別発言」やら「性差別」が一気に問題として噴出していた。

 ちょうどその時期に本書を読み進んでいた私は、「容姿」が火傷によって変貌した一人の女性が困難に立ち向かう姿をまざまざと見せつけられていた。

 男女平等は大事ですけど、女性として生きる、その意味をあらためて本書で考えさせられた。

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ガントチャート再び

現場作業に追われ、早や3月、手帳買い替えの時期。

登山行動記録用は、

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今年も不動のPILOT社テト-455R。

付属の鉛筆が便利、ザックの中でも目立つ赤色が手放せない。

ビジネス手帳は昨年同様にダイゴー社のアポイントダイアリーを購入したが、どうしてもガントチャートにこだわり、

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ダイゴー社のダイアリーを返品(ダイゴー社の皆様、書店スタッフの皆様、ごめんなさい)、今年は永岡書店のA5方眼バーチカルN1010を購入。 

実は永岡書店のダイアリーは昨年も購入候補に入っていたが、重量感が気になって購入しなかったのだった。

Imgp0004_20210315215401永岡書店のN1010は、2ヶ月見開きのガントチャート入り。

建設作業員、山岳ガイド、民俗行事の追っかけと、幾つもの顔を持つ私にはどうしても2ヶ月見開きの予定表が欲しかった。

また週間ダイアリーは深夜・早朝まで書き込めるスペースがあり、朝6時出発(集合ではない)が割と普通な建設作業員にはありがたい。

朝8時からの記載しかないダイアリー、兼業ガイドには命といえる週末土日のスペースが縮小されている会社員向けビジネスダイアリーは論外である。

さて今シーズンは、どんな予定・記録が書き込まれることやら。

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【吉報】キム・ジャイン出産【朗報】

日本全国1憶2千万キム・ジャインちゃんファンの皆様こんにちわ。

クライマーの訃報の多い当ブログですが、たまには朗報を。

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3月10日、キム・ジャインが無事、第一子を出産しました。

体重3460g、女の子だそうです。

東京五輪出場の夢破れた後は、旦那様の国会議員選挙活動に専念、そして出産。

おりしも日本では、つまらぬ理由からアスリート性差別の議論が盛んになっていますが、日本以上に男尊女卑の風潮がある(と私は思っている)韓国社会で、キム・ジャインが母親アスリートとしてどのような活動を展開するのか、楽しみにしています。

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ウルドゥー語の夜 第15夜 最後の授業

3月1日から2週間にわたり、福島県某所にて出張生活。

火曜の夜は、ビジネスホテルの部屋で東京外国語大学のウルドゥー語の授業を受ける。

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3月9日、第15回目、最後の授業。

アーミル先生からは、授業を通じてウルドゥー語の何が難しかったか、一人一人質問を受ける。

授業は英語で進められているので、受講生の回答ももちろん英語。

私は単語を繋げてw ウルドゥーアルファベットの頭字、中字、尾字で文字が変化するのが難しいと答えた。

他の受講生の方も同様に答える方がおり、最後の授業はまたまたウルドゥーアルファベットの繋がりによる字形変化、発音のレッスンで締めくくられる。

授業のシラバスでも「文字を取り上げるとそれだけで授業が終わってしまうので自習が望ましい」ことになっていたのだが、やはりアラビア文字のハードルは高かった。

普通の会話練習をやってほしいというリクエストも多かったようだ。

東京外国語大学のウルドゥー語科の学生は文字の習得に一年をかけると聞く。やはり3ヶ月の講座では、講座のみでは限界があろう。

わずか3ヶ月とはいえ、ウェブの画面上とはいえ、ほぼ毎週顔を突き合わせた面々。

最後の授業では、アーミル先生との対話を聞きながら、チャットルームは皆さんからの別れの挨拶が続いた。

「皆さん自身で、これからも学び続けてください」

アーミル先生の言葉を受け、外語大のスタッフによりzoom画面は打ち切られ、3ヶ月にわたるオープンアカデミー・ウルドゥー語講座は終了した。

 実は東京外国語大学オープンアカデミー申し込みの際、申込日の23時50分くらいまでウルドゥー語を履修するか、スロヴェニア語を履修して可愛い女の子と知り合って〇〇するか迷っていた。結局、数年前に上京しての対面受講を断念したウルドゥー語に「初志貫徹」と申し込んだのだが、アラビア文字を用いる言語は初めてだったので、新鮮な体験だった。

 なぜウルドゥー語だったのか?

 もちろん登山絡みの理由もあるが、南西アジア世界に踏み入るツールとして、私はウルドゥー語を選んだ。

 まだまだウルドゥーアルファベットの勉強が足りない!

 好きでやっていることだ、あせらず続けよう。

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ブナ雪原探検と雪山遊び 2021

山形県朝日少年自然の家企画事業『ブナ雪原探検と雪山遊び』で月山山麓に子供達を引率。

アプローチ途上、弓張平のパークプラザにてトイレタイム。

事務所に挨拶に伺うと、ちょうど月山エコプロのイベント日、白田さん、倉本さんがスノーモービルを搬出中。

私の顔をみるなり、「今日は自然の家行事だっけか?」

お互い、今日は子供達相手の活動だった。

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おかげさまで天候は快晴、無風。

ただし、昨日までの悪天で雪面はガリガリ。

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今年の雪穴掘りは、保護者の皆様も興味津々で盛り上がりました。

最近は山メシに凝っているボラ仲間の咲ちゃんから、

P2_20210312102301ウインナソーセージの差し入れ。ちゃんとマスタードとソルトペッパー付き。

頂いた感想はこちら↓

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無風快晴の中、約4kmのコースを歩いてもらう。

小学1年の女の子もいたので心配したが、元気に歩き通してくれた。

スタッフ反省会では喜びの声をいただいたが、私としては雪のコンディションがガリガリでもっと安全に配慮できなかったか、反省点も多い。人様より少し多く月山を歩いているとはいえ、雪の表情は千差万別であることを思い知らされる。

参加者の感想として、「今までテレビでしか知らなかったことを実際に体験できた」と言ってくれた子供がいた。

とても嬉しい。

年明けから建設業の方も繁忙期となり、仕事と高齢の母の様子見の合間をかいくぐってブナ雪原引率の準備を進めてきた。

2000年にダム建設現場で1年2ヶ月を過ごし、「登山で社会に貢献したい」と気持ちをかためた。

それから20年、多くの方々の協力のおかげで、子供達に大自然を体験してもらう役割を果たす活動が可能になった。周囲の皆様には感謝しかない。

さて、少年自然の家、今年度の最後の事業が終わった。しばらくは一登山者に戻って、身近な里山を歩いてみよう。

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新雪の森

25日、山形県朝日少年自然の家・所員の皆様3名と共に、翌月の行事を控えて下見山行。

前日から当日朝にかけてガッツリ新雪が積もっており、車を停めさせてもらった旅館・清水屋の御主人からも「今日は大変そうだな~」と笑顔で見送られ、出発。

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スノーシューを装着していても膝下のラッセル。

なかなかペースはあがらないが、私自身本気でラッセルしないと行程が消化できそうにないのでついつい歩行ペースがあがる。

時折、後ろを振り向いて所員の方の様子を伺いながら予定コースを巡る。

日差しはあっても風は冷たい。

昼食会場で楽しく話しながら休憩をとるが、身体が冷えてくる。

P2_20210228175601 新雪がたっぷり積もったコースは前回・前々回とは全く異なるコンディションだった。

 志津集落に戻り、今年は宿泊者限定とされた「雪旅籠」を皆で眺める。

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寒の戻り、旅館仙臺屋さんの凍餅もいい感じ。

自然の家に戻ってコースの打ち合わせ後、解散。

帰路のセブンイレブンで甘い物が食べたくなり、豆大福とラテを購入。

休憩後、自宅に戻り、作業服に着替えて工場に出社。来週の現場に備えて内業が残っている。

工場近くからは月山の雄大な光景が眺められる。

日中は頻繁に雲がかかり、降雪もあったが、夕暮れの今はくっきりと山体が眺められる。

山中で天候不良に遭い、下山後にくっきりと山体がみられるのはよくあることだ。山が「また来い」と言っているものと、私は解釈している。

頭を切り替え、工場の駐車場に車を入れる。長い一日はまだ終わらない。

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吹雪の森

23日、祝日。

またまた月山山麓、志津温泉裏手のブナ林へ。

Dsc01244交通標識、少し高くなったかな。

本日はあいにくの荒天、風雪強く、前回とはうってかわって気温マイナス4度。

来月予定のガイド山行、好天とは限らないので悪天の中、入山。予定コースをひととおり歩く。

Dsc01247時折、地吹雪状態になるが微地形を確認しながら、前進。

同じコースを繰り返し歩いても、雪の状態は千差万別だ。

大勢の子供達を引率する予定なので、吹き曝しで氷化している斜面はないか、チェックする事はいろいろある。

Dsc01252私のペースで歩き終え、車に戻る。

吹雪の中では「くそ寒みい~」と思っていたが、人間は勝手な生き物だ。

エアコンを効かせた暖かい車の中で、吹雪を眺めながら少し落ち着こう、休憩しようと考える。

外の吹雪を眺めながら、来るときに買ってきたセブンのコーヒー飲み残しを口にしながら、午後の日程をビジネス手帳にまとめる。

 

月山から下山、自宅で洗濯を終え、会社・工場の事務所に出勤。

出勤してみると、若手連中の作業ツナギがトランゴタワー並みに積まれているので、洗濯しながら内業。

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内業のお供は、会社のお姉さま方から頂戴したバレンタインの煎餅&チョコ。

3月は少し大きい現場も抱えてるし、さあ今週も、嵐の予感。

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お仕事日記2021年2月 & ウルドゥー語の夜 第13夜

2月某日から岩手県は岩手山山麓で外仕事。

連日、最高気温がマイナスという日々。現場作業用の水もみるみる凍っていき、シャーベット状になって使い物にならない世界。

ビジネスホテルに帰ると、同行している親方から「ちょっと話がある」と言われる。

やべえ、若手社員の接し方で説教喰らうかと身構えつつも、親方の部屋に突入すると、仕事上の資格の手続きの件での相談だった。ほっ。

親方が手ぶらで私を帰す訳もなく、「おい、酒持ってくんなよ」と、もう既に私用に缶ビールと焼酎が用意されている。

酒が入った上、現場で得たデータの整理やら何やらで、本日の外大ウルドゥー語授業参加は断念。

また前回同様、チャットルームに英語で「残業で欠席です!次の授業よろしくです!」と書き込み、ウルドゥー語の夜第13夜は終了。

はあ・・自習しっかりしなくちゃ・・・

 

2月某日

極寒の岩手山麓での仕事も3日め。明日を切り抜ければ何とか帰社できる、という夜。

取引先担当者様とみんなで晩飯食いに行く。コロナ上等!みんなで温かい食事を摂って何が悪い!

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というわけで、近くのキンキラキンにLEDで飾られた中国料理店に行く。

台湾ラーメンと高菜炒飯セットで700円。安くて美味くてボリュームがある。

と申しましょうか、連日氷点下の中で仕事してきたので、温かい食事が美味い。

私の持論では、人類史上、世界征服に成功したのはコカ・コーラと中華料理。

20210217_202610カミさんからもらったバレンタインのチョコ喰いながら、データ整理で夜を過ごす。

 

2月某日。

ようやく岩手県某所から解放。

親方は別現場の視察に行くため、帰りは私が工事機械を積んだロングボディの10tトラックを運転して山形まで帰る。

若手のS君はまだ不慣れということで、助手席で周囲確認の役割。

久々にロングボディの10t車を運転すると、現場作業に携わっている実感が湧く。

悪天で麓しか見えない岩手山に別れを告げ、東北自動車道を南下。さあ山形に帰ろう。

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ヤーニャ・ガンブレット、彼氏と別れる

突然ですが、ヤーニャ・ガンブレットが、

彼氏と別れました。

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彼氏のドメン・スコフィッチとは昨秋、世界最大の煙突をマルチピッチで一緒に登ったのに・・・

別れたのはこの後の出来事とか。

Janja Garnbret o težkem letu in razhodu z Domnom: O sebi sem se ogromno naučila  by MICNA 2021.2.11

スロベニアの女性誌が詳細をすっぱ抜いてますが、別れた理由は明らかにされていません。

ドメン・スコフィッチの影響で料理を学び一緒にクライミングジムも創設した仲だったんですが。

ヤーニャ・ガンブレットは現在、実家に戻ってトレーニングを重ねているようです。

スロベニアではもはや国民的なアスリートなので、メディアでも「ショック!」のタイトルで二人の別れが報道されています。

野口啓代さんの時は日本のメディアもこんな報道しな(以下省略)

 

女心はクライミングより難しい。

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妻にミシンを買ってあげたい アリ・サドパラ

 2月18日、パキスタン・スカルドで行われた記者会見において、冬季K2登頂を目指したまま行方不明になった3名のクライマーについて、「死亡宣告」がなされた。

 欧米人クライマー偏重の日本の山岳メディアが決してとりあげることのない、パキスタンのアリ・サドパラについて、アメリカのAlpinist誌が秀逸なインタビュー記事を掲載している。私自身の記憶のためにも、以下に引用したい。

Muhammad Ali of Sadpara by Alpinist 2019.5.2

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Amanda Padoan執筆記事

 2016年2月、パキスタンの登山家、ムハンマド・アリは、-62度の風の中でナンガパルバット冬季初登頂を果たした。これは冬季8000m峰に残る大きな課題の1つだった。しかし、この登山は彼のサバイバルの一つに過ぎない。彼にとって最初のサバイバルは、幼少時代だった。

 彼の11人兄弟のうち、8人は生き延びることができなかった。パキスタン北部、彼の出身地であるサドパラ村では、出生時または病気による幼児の死亡が普通の出来事だった。喪失感は彼の母親フィザを悩ませた。彼女の最後の子供であるアリが1976年に生まれたとき、彼女は何としてでも彼を生かすことを決心し、6歳まで彼を母乳で育てた。それまで、彼女は彼が危険な目に合わないようにと願っていた。

Sadpara

サドパラ村の風景

 アリは「母の母乳が私を山に登るために十分な強さに育てた」と語る。そして、すぐに彼は「登山」に関わることになる。サドパラ村の誰も、その努力を「登山」とは呼ばない。アリにとって、それは単なる仕事だった。少年の頃、彼は高山の牧草地への道をたどり、世話をするヤギよりも速く急なモレーンを駆け上がった。はるか下のサドパラの村は、岩山に溶け込み、濁ったターコイズブルーの湖のそばに集落が存在している。上部には緑豊かな放牧地が広がり、広大な高原が野花で覆われてた。アリはそこで冬のための飼料を刈り取り、40kgの草を束ねて背負い、村に運んだ。夏の間、彼はこの4000メートルの高地を何十回も登り返した。

 山々は彼にとって第二の故郷のように感じたが、その脅威を過小評価することはなかった。子供の頃、アリはあらゆる災害を目撃した。サドパラ村の上部には、厚い氷河のセラックとモレーンが雪溶け水を貯めていた。アリが9歳の時、この天然ダムが決壊した。下の湖の水位は一瞬で上昇し、洪水が村を襲い、壁を壊し、ポプラを根こそぎ倒し、すべての牛を溺死させた。水が引いた頃、アリの両親は植林を行い再建を試みた。サドパラ村は、夏と冬、そして祈りの季節を周期的なリズムで繰り返し、歳月が流れていた。

 19歳、アリは結婚の時期がきていると感じた。風習により、若い女性ファティマに近づくことは妨げられ、自分から彼女を誘うことができなかった。彼の叔父が結婚の提案をもちかけ、ファティマの両親はそれを受け入れた。結婚はアリに不安な幸福をもたらし、妻を養うためのプレッシャーを感じていた。さらに、生まれたばかりの息子、サジッドも養わなければならない。彼は再び山に向かった。外国の登山隊のポーターは、転職可能な最高の仕事だった。カラコルム山脈のベースキャンプに25kgの荷物を運ぶだけで、1日3ドル相当を稼げるのだ。K2、ブロードピーク、ガッシャブルムは見慣れた光景だが、まだ登頂をイメージすることはなかった。アリは、帰り道に運ぶ荷物、つまり収入を2倍にするチャンスを夢見ていた。ラッキーな数人だけが、その仕事にありつけた。

 彼が能力を得るには時間を要し、他人には明確に見えるものを理解するのに時間を要した。少しずつ、アリは「良い荷物」と「悪い荷物」を見分けることを学んだ。遠征隊のリーダーが荷物を分配した際、なぜ誰も灯油を持ちたがらないのか不思議に思った。たぶん、何人かはタバコを吸うし、荷物に引火するのを恐れたのだろう。アリにとって、残された灯油缶は小さくコンパクトな荷物に見えた。へこみや漏れがないかチェックし、大丈夫だったので背負い籠に追加した。その後、何時間にもわたって背負い籠の中で液体が揺れ、道でバランスを崩した後、経験豊富なポーターがなぜ燃料を避けるかに気が付いた。

 ほとんどのポーター同様、アリはビーチサンダルと粗末な道具で険しいバルトロ氷河を横断した。仕事の2日目、彼はサングラスを落とした。ポーターでもある叔父のハッサンは、落としたサングラスを見つけポケットにしまった。10代の若者は、雪原に到達するまで、落としたものに気が付かなかった。眩しさが彼の目を焼き、アリは彼の背負い籠を探しまくった。ハッサンは彼を見つめ、必死になっているアリに忠告とともにサングラスを渡した。「山での小さなミスは、大きくなる。今回の事はお前の視力を駄目にしたかもしれないぞ。」

 以来、アリは定期的に彼の貧弱なギアを再確認し、一歩一歩が不安定に感じられる風景の中でも、何事にもチャンスを逃さないようにした。「インシャアラー」とアリは唱えながら、何が起こっても神の意志だと確信した。しかし彼は、神の加護が人間の不注意や無謀にまで及ぶのかと疑問にも思った。正常な人々が山頂を目指す姿、すなわち象徴的な行為や情熱の一形態としての山に登る、という考えは、彼の心を揺さぶった。アリにとって山頂とは、反対側に行くために到達する場所に過ぎなかった。それでも彼は、氷河のリスクを読み取ることに長けた、テクニカルクライマーへと成長した。さらに高所に行かないと稼げないので、さらにリスクを取るようになったのた。

 パキスタン軍のトラックがサドパラ村を訪問してポーターを募集した際、アリはそのチャンスに抗えなかった。当時、パキスタンとインドは、中国への戦略的回廊であるシアチェン氷河をめぐり、長年にわたり紛争を続けていた。アリは世界最高所の戦場に向かった。夜、彼は氷壁を登り、遠く離れた峠で待つ兵士に物資を運び、暗闇が「結婚式の爆竹のように執拗に」思われる砲撃から守ることを祈った。繰り返し、彼は小さなミスがどれほど大きくなるかを見てきた。何人かのポーターがタバコに火をつけた。このかすかな光が彼らの思惑を裏切った。数分以内に、迫撃砲弾がキャンプを襲い、2人の男性が中にいたはずのテントが倒壊した。ほんの数ヤード離れていたアリは、彼らが死んでいくのを聞いていた。

 商業登山は、犠牲者がいないわけではないが、戦場よりはましだ。安全な世界を提供しているように見えた。「シアチェンの後、私はもう何も恐れていませんでした。クライミングでは、生と死の2つの結果があり、どちらの可能性も受け入れる勇気を見いだす必要があります。」

母フィザは、家にいてジャガイモを栽培するようにとアリを説得した。

「しかし、探検する魅力的な山があります」と彼は言った。「外国人が山を登るためにお金を使いたいのなら、なぜ私は助けてはいけないのか?」

 2006年から2015年まで、遠征隊員として、アリはナンガパルバットとガッシャーブルムI峰、II峰の登山に参加した。アリはK2で8350mに到達し、ボトルネックを乗り越えたが、彼の野心は、キャンプ設営、フィックスロープ、彼らが管理できる範囲内でガイドするクライアントのニーズに縛られていた。

 彼らの安全に気を取られ、自分のことはほとんど考えていなかった。

 そして2012年、サドパラ出身の高所登山家が冬季ガッシャーブルムI峰で行方不明になった。ニサール・フセインはアリの幼少期からの友人で、彼の死は地域社会に大きな打撃を与えた。ニサールは妻、息子、二人の娘を残した。今では3人の子供の父親となったアリは、自分の人生は他人のものであることを理解している。アリは、妻のファティマが静かに恐ろしさを表現するのを聞いていた。「アリ!」彼の母親は、より大きな声で言った。「この仕事は危険すぎる」

 しかし、彼は登山をやめようとは思わなかった。登山は農業にはない爽快感を与えてくれたのだ。登山は特に冬季を得意としていた「ヨーロッパ人は凍えることはないんだよ」と彼は母フィザに言った。「テント、手袋、ダウンスーツが支給されるんだ」

「冬は冬なんだよ」と彼女は答えた。

 2015年1月。
 アリは不在の言い訳を思い付き、ナンガパルバットの冬季初登頂を試みるために出発した。嘘をついたことは彼を悩ませた。しかし、アリは病弱な母親が心配することを恐れていた。

 結果として、心配する材料はたくさんあった。気温はマイナス47度前後で推移し、山頂から約300メートル下では強風が吹き荒れ、彼は方向感覚を失った。「私のメンタルの中の「地図」が消えてしまった」とアリは回想する。「夏にナンガパルバットを2回登頂し、地形を知っていると思っていたが、冬に見た光景と記憶が一致しないんだ。」

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2015年1月、ナンガパルバット山頂直下から下山直後のアリ・サドパラ(左から2人め)

 アリの混乱が脳浮腫の発症かもしれないと恐れた2人の外国人登山家、アレックス・チコンとダニエル・ナルディに伴われて下山した。一週間後、アリは家族に彼の不在を説明するつもりで家に帰った。しかし、彼がサドパラに到着したとき、母親が呼吸するにも苦労している事に気づいた。フィザがどこに出かけたのかを疑い、彼女はもう決して彼を手放さなかった。アリは最後の数ヶ月間、彼女を看病し、何も告白することはしなかった。

 もしチコンとナルディが新たな試みをしなかったら、彼は冬の登攀を完全に諦めていたかもしれない。頂上付近でアリの記憶が途切れたとき、彼は2人を失望させたかのように感じた。アリは彼らに何の借りがあるというのだろうか。彼らとの雇用関係は曖昧だった。フェアな手段で登るプロの登山家にとって、高所ポーターを雇うのは妥協の産物だ。アリの役割は無給の「対等なパートナー」だった。しかし実際には、彼はしばしばルートをリードし、彼は労働によって彼のギアの費用を稼ぎ、他の人が辞めれば、彼も辞めることが期待されていた。

 多くのハイレベルな遠征隊と同様に、2016年の歴史的なナンガパルバット冬季登攀に緊張が高まった。チコンとナルディは、タマラ・ルンガーとシモーネ・モロと合流した。しかし、ナルディと彼らとの関係はすぐに悪化し、ナルディは帰国を決心した。問題は、アリのダウンスーツはナルディの所有だったことだ。

 風速は時速45km、気温はマイナス34度。山頂を目指すには、アリのウェアは十分暖かいものではなかった。アリの強さに感銘を受けたモロは、自分の服を貸与することを申し出た。モロは予備のダウンスーツを含む、スポンサーのギアを大量に持ちこんでいた。それはアリにぴったりだった。

 2月26日のサミットの日、アリは借りたスーツを着て、山頂直下でモロが到着するまで待ち、最後の3メートルを一緒に登り、双子の蜂のような写真を撮った。モロは、パキスタンの登山家がパキスタンの山で歴史を作るのを目撃することに喜びを感じた。「エベレストにテンジンがいたように、ナンガパルバットにアリがいる。」と彼は言った。アリはその瞬間を淡々と語る。明け方、彼は7100mのテントを出て、山頂の台地に向かって岩の迷路をナビゲートした。「日の出の暖かさに勇気をもらった」と彼は言う。

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シモーネ・モロと共に冬季ナンガバルバット初登を果たしたアリ・サドパラ(左)

 その後は有名人に囲まれ、アリは他のサミッターと共に祝うため、スペインとポーランドに飛んだ。しかし、ヨーロッパの仲間達とは異なり、アリのスポンサー獲得は実現しなかった。彼はその理由を口には出さない。小麦の脱穀、ジャガイモの収穫、牛の世話、壁の修繕、屋根の葺き替え、子供たちの教育、自分の仕事は山ほどある、とサドパラ村に戻ったアリは言う。

他の人生が良い、と彼は言う。それは、彼が何者かになりたかったことを思わせる。
夢について尋ねられたとき、アリは2つの夢を打ち明けた。


妻のために、ミシンが欲しい。
自分のために、K2の冬季登頂を果たしたい。

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人類初のK2冬季登頂。

それと同じくらいの大事な夢が、奥様にミシンを買ってあげる事。

Ali

アリ・サドパラ、永遠に。

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陽気の下

13日夜、福島沖を震源とする地震で山形市も震度4。

建売住宅の自宅、崩れるんではないかとドキドキするくらい揺れた。

 

翌日、月山山麓へ。

来月ご予約いただいているガイド山行コースの下見と確認。

国道も志津温泉に至る道路も影響は無いが、彼方に見える山肌は崩れて茶色い地層がむき出しになっている箇所も見える。それなりに昨夜の地震で揺れたのだろう。

P1_20210214214101天気は文句ない晴天だ。

湯殿山、姥ヶ岳、月山が並び、飛行機雲が天に延びる。

山形市内は気温マイナス2℃、月山山麓の山の中で気温7℃と、暖気が入っているためだろうか、気温分布が異常である。

本日はファイントラックのアンダーウェアにアウターズボンを直接履き、上半身はアンダーウェアにメリノスピンライトの2枚だけである。

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日差しが反射する雪面をグイグイ登っていく。

2月から月山山麓に通っているが、子供達を引率する予定があるため、コースどりを考えながら歩く。大人の私がグイグイ登れる斜面でも、小さい子供達にとっては苦痛である。

それだけでなく、子供達が楽しみにしている肥料袋を使った「そり滑り」ができる斜面も探さなくてはならない。

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幸いなことに、昨年は少雪で運行されなかった志津温泉のキャットが運行されたようで、キャタピラの踏み跡を有り難く利用させてもらうことにしよう。

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 枝に付着することなく、雪面に落ちた鳥の糞 = ヤドリギの実。

 雪解けと共に、ブナの森を養う栄養になるのだろうか。

 温暖化とはいえ、時期外れの陽気の下で下見山行を終え、駐車場に戻る。

 ここ最近、日曜の生活パターンは午前中は山、昼過ぎ下山して午後は高齢の母を訪ね、夕方にかけて会社、という生活。

 車の定期点検のため、ディーラーのフロアのテーブルでココアを飲みながら待機する時間、ようやく「休み」という実感を得る。

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晴れ間の森

P1_20210214213301今日も月山山麓・一本ブナコースをスノーシューでたどる。段々交通標識も近づいてきました。

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作業現場でも、山でも、久しく青空を眺めてない。雲間の青空に見とれる。

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日の光が差し、雑木林の影が雪面に映るのも新鮮だった。

P4_20210214213501毎年訪れる小ピークに一本だけ生えているダケカンバの樹皮。

今シーズンも、子供達と好天の下で眺められますように。

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