秋日記 2020年9~10月

9月×日

勤務先で在宅ワーク用に光回線整備・ネット関連機器購入用の手当が出ることになった。

通達が回ってきたときの、私の心象風景 ↓

C6冬 用 登 山 靴 の 購 入 費 に あ て よ う。

直後、総務部から「購入物品の画像と領収書を提出のこと」と連絡が入る。

・・・今年もアウター買い替えは諦めよう・・・

というわけで、

C1_20201011183901
OAチェアを購入。ばりばりブログの更・・・もとい、社業に励みたいと思います。

 

9月×日

 休日はなんだかんだと所用のため下界で過ごす日々。

 本日のランチは、

C2_20201011184101

山形市嶋地区のベーグル屋「TENN」を訪問。

C3_20201011184201

オリ(左)とマロンベーグル(右)を購入。

オリは硬パンにベーコンを仕込んだパン。マロンベーグルは中にマロンクリーム入り。ベーグルといえば何も入ってないパンをイメージしていたので意外。塩気の効いたオリと一緒に美味しいです。

 

9月×日

 本日のランチは、

C4_20201011184501

食パンとサンドイッチの店パルシェを訪問。

C5

エビカツサンド(税込302円)を食す。食パンの店だからなのかどうか、カツを挟む食パンが薄いような気がするが、美味しく食べる。

 

10月×日

Dscf3005

老母の住む実家近く、稲荷神社のナラの木が伐採されていた。

私が幼い頃には既に大木で、何らかの事情で伐採されたのだろう。

生まれ育った街も、少しずつ変わっていく。

 

10月×日

M1

 勤務先の茸の達人から、マツタケをいただく。

 朝鮮民主主義人民共和国でも中華人民共和国でもない、純国産品です。

 貧乏な我が家、カミさんと二人してどう食べるか頭を悩ませる。

 

10月×日

 本日のランチは、

M2

東根市の「山ベーグル」訪問。

 15時に訪れたところ、めぼしいベーグルは既に売り切れ。

 ボリューミーなベーグルサンドは残っていたが、あいにく昼食たっぷり摂った日だったので、

M3

フレンチトーストとドリップコーヒーを購入。

 店の前のベンチに座り、コクのあるコーヒーを飲みながら、ベーグルで作った甘いフレンチトーストを食す。

 車道を挟んだ向こう側は、東根市の里山、大森山。

 少しずつ紅葉が始まった大森山を眺めながら、コーヒーを飲む日曜の午後。

| | コメント (0)

東西統一を越えたクライマー

10月3日、東西ドイツ統一から30年。

ドイツの左派日刊紙『タズ』の昨年の記事ですが、『エルベの砂岩』開拓者として知られるBernd Arnold(ベルント・アルノルト)をとりあげてみます。

Über Grenzen gehen by Taz.de 2019.7.29

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

限界を越えて

 ベルント・アルノルトは、世界最高のクライマーの1人です。アメリカからもクライマーが訪ねてきました。ベルリンの壁が崩壊してから30年 ー GDRスポーツ特集。

P1_20201003235901

ベルント・アルノルトは空を見上げます。 彼はハンチング、丸メガネ、鮮やかなスカーフを着用します。
アーノルドは今もクライミングを続けていますが、最近では孫娘と一緒に登っています。写真:dpa

 東ドイツ国務院議長ヴァルター・ウルブリヒトが作ったスローガン「どこでも誰でも、週に数回のスポーツ」は、東ドイツの高度に偽装されたドーピングまみれの競技スポーツ、「トレーニングスーツの外交官」だけでなく、「アウトドアスポーツ」愛好家のための隠れ蓑でもありました。多くの人々がこのスローガンを高く評価しました。イデオロギーと壁に囲まれた社会主義の日常生活から逃れる、数多くの創造的な個人主義者のモットーでした。

 72歳ながら、ベルント・アルノルトはまだ現役です。おそらく旧東ドイツで最も有名なクライマーであり、60年以上にわたり岩場で活躍しました。多くの山友のように、彼はドイツ社会主義統一党政権下で、岩場で個人の自由を楽しみました。

 彼は、今日まで住んでいるエルベ砂岩山脈のホーンスタインで生まれ、ロッククライミングを学びました。子供の頃、遊び心から砂岩にとりつき、後に現在まで続く「人生の情熱」となりました。エルベ砂岩山脈には900以上もの初登ルートを作りました。

 南チロルのラインホルト・メスナーはかつて彼を次のように称賛しました。「ベルント・アルノルトは間違いなく世界最高のクライマーの1人です。」1970年代から80年代にかけて、アルノルトはザクセンでのクライミングの難易度を上げ続けました。

 サクソンスイスはフリークライミングの発祥地です。アルノルトは1999年に出版した著書「Zwischen Schneckenhaus und Dom (カタツムリの殻と大聖堂)」で次のように記しています。『狭い砂岩の岩場を知りつくしていたので、これまでのところ、日常生活にはうまく対応し、逆境を乗り越えることができました。』

 よく見かける彼の裸足でのクライミングも伝説的です。痛みに鈍感な場合は、それが利点にもなります。素足で岩をより良く感じることができるからです。もちろん、敏感な足ならば、そんなことはできません。しかし現在のクライミングシューズのラバーソールは、自分の素肌よりもはるかに優れた摩擦を持っていることも明らかです。

P2_20201004000001 ドレスデンの学生で熱狂的なクライマーであるリンダは、次のように述べています。「若い世代の私たちにとっては、ベルントは思想的にも偉大な指導者です。個人的には、彼が裸足でハイレベルなルートを登るのはとても印象的です。もちろん、ギスベルト・ルートヴィヒ(Gisbert Ludewig)のような優れた同世代の方もいます。」

 アルノルドは未だ健在です。孫娘のヨハンナと一緒に地元の岩を登るツアーに参加していました。彼は4人の孫をとても誇りに思っています。もちろん、大自然の中でクライミングを通じてスポーツを彼女達に教えました。

「ここエルベ砂岩山脈からチェコ共和国のボヘミアまで、このような美しい自然がどこにありますか。限られた地域でも、多様な風景を体験できます。」アルノルトにとって、登山は「常に人生の学校であり、自己発見の方法でした」。

 旧東ドイツ時代、アルプス山域からだけでなく、アメリカからもクライマーがエルベ砂岩山脈に来訪、アルノルドと競い合いました。最初の一人は1972年、フランス人ジャン・クロード・トロワイエでした。クルト・アルベルトとウォルフガング・ギュリッヒが後に西ドイツから来ました。彼らは、当時東部地域の山に登ることしか許されていなかったベルント・アルノルトや仲間の優秀なクライマーに、最新のロープ、登攀用具など優れた装備を持ちこみました。

 一方、東ドイツ当局が拒否したため、彼は西側諸国のクライマーの無数ともいえる招待に応えることができませんでした。それは彼を非常に苛立たせ、州首長だったエーリッヒ・ホーネッカー(訳者注:後の東ドイツ書記長)に抗議の手紙を書いたほどです。多数のシュタージ文書(訳者注: 東ドイツ秘密警察の機密文書)が示すように、個人主義者が集う東ドイツのクライマー達は疑惑を持たれて監視下にありました。

 当時、小さな印刷業を営んでいたアルノルトは、クラブに所属する競技アスリートのような公的な支援無しにトレーニングを行い、自分達でウエイトトレーニングを行うための装置を作りました。

 1984年。北朝鮮の国家主席であり飛行機が嫌いなキム・イルソンは鉄道で東ドイツを訪れ、車窓からスイスサクソンで幾人ものクライマーを目にしました。1985年、アルノルトを含む東ドイツからの登山代表団が北朝鮮に招待されました。そこで彼らは「金剛山脈」で最も困難なクライミングを行うことができました。

 1986年、アルノルトは驚くべきことに、オリンポス山山麓で開催さ​​れた世界平和評議会のイベントに出席するため、ギリシャ旅行が許可され、メテオラでのクライミングを果たします。1987年、ミュンヘンでウォルフガング・ギュリッヒとハインツ・ザックによる著書のプレゼンテーションを行い、そこで彼はラインホルト・メスナー、1950年代にザクソンから西側に亡命したアルピニストのディートリッヒ・ハッセ(Dietrich Hasse)とハインツ・ローター・シュトゥッテと面会できました。

 そして1988年、41歳でクライマーとしての絶頂期、架空の叔父の記念日を口実に西側に招待された際、滞在期間を利用してクルト・アルベルトら含むパキスタン・カラコラムの大規模な登山隊に参加しました。

 しかし、アルノルトは登頂に成功後、クレバスに落下しました。出血を伴う骨盤骨折を負い、急性腎不全も併発、生命の危機に陥りました。幸運にも救助されドイツに帰還、ミュンヘンの病院に入院し、そこで彼は何週間も過ごすことになりました。回復後、彼は妻のクリスティンと娘の待つ東ドイツに戻りました。「ええ、山仲間の多大な支援のおかげで、死の淵から這い上がったんだ」と彼は人生で最も困難な局面を振り返ります。

 アルノルトはクライミング生活の中で様々な危機を生き延びてきました。数年前から、彼はより意識してクライミングしています。肩、肘、骨盤や脊椎の骨折、2018年の背中の手術、その後遺症は行動範囲を制限します。アルノルトも年をとったのです。

 ベルリンの壁が崩壊し、それに伴い無限の自由がもたらされてから数年後、アルノルトは数多くの山の夢を実現しました。アルプスからパタゴニアにいたるまで。

 1989年以降、印刷業を閉め、ホーンシュタインとバードシャンダウに2つの登山用品店を設立、現在もクライミングの専門家、地元の岩場のツアーガイドとして、「選ばれた形」で旅を続けています。「参加者は東側と西側の人々が半々」多くの人との出会い、多くの友情を大事にしています。

 ドレスデンで毎年開催される「Bergsichten」フェスティバル(訳者注 : 山岳アウトドア映画祭)で、2017年11月にアルノルトは、クライミングに関して個人的に望むことを尋ねられた際、「サクソンのクライミングが、始まった頃のままであってほしい。それが私のルーツだから。」と語った。

 一方で、「変化から自分を閉ざすことはできず、それに向き合わなければならないのは当然のことです。変化が起きることは多くの人にとって困難であるとしても、変化に直面することは必要になるでしょう。しかし、他の人が登る機会を否定するのは エゴ です。」 彼はサクソン登山連盟(SBB)は「良い方向に進んでいる」と評価する。(中略)

 アルノルトは、本紙に対して壁の崩壊を「素晴らしい贈り物、そして何よりも、取り戻された自由の一部として旅行する自由がある」と話します。ただし「遠い目的地に移動するには、それなりの資金も必要」という制限が追加されました。1990年の再統一後、幾度も悩まされた彼はクライミングルートに「ドイツー吸収されたドイツ」と名付けました。アーノルドは今日まで批判的な精神を保っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 東西ドイツ統一といいながら西ドイツに事実上吸収された形の東ドイツ。記事最後のアルノルトが名付けたルート名は『Deutsch-deutsche Vereinnahmung 』なのですが、意訳してみました。

 冷戦の狭間でキム・イルソン率いる北朝鮮に招待されるなど、数奇な運命をたどってきたベルント・アルノルト。国境地帯が舞台となるヒマラヤ登山のように政治に翻弄されるクライミングもあれば、政治体制に関わりなく、したたかにクライミング生活をおくるクライマーの人生がありました。

 統一から30年経過した今日、旧西ドイツ・東ドイツ市民の経済格差が埋まらない現状を、今日付の日経は大々的に報じています。

| | コメント (0)

Bernadette McDonald著 『 WINTER 8000 』

8000

荘厳な、レクイエム(鎮魂歌)である。

Bernadette McDonald女史の新作『WINTER 8000』を読む。

8000m峰の冬季登頂史を14章、すなわち14座全てにわたり網羅した本である。

この本を読むにあたり、私は2つのテーマを抱いていた。

1. 北海道大学山岳部による1982年ダウラギリ冬季登頂はどう扱われているのか。

2. 2013年3月、ブロードピーク冬季初登を果たして還らなかったポーランド人、マチェイ・ベルベカを巡る人間模様はどうだったのか。

の2つである。

 

 1.の北大山岳部の件とは、1982年12月13日、80年代当時ネパール政府の定義する冬季(12月1日から2月15日まで)に従いダウラギリ冬季「初」登頂を果たした北海道大学山岳部の登頂の事である。

 ヒマラヤ登山の冬季の定義が「冬至から春分の日まで」が一般的となった現在では、1985年1月21日、イェジ・ククチカとアンジェイ・チョクが登頂したポーランド隊が冬季初登とされている。

 この事がどのように描かれているかに関心があった。

 読み進めて第3章、ダウラギリの話はいきなりイェジ・ククチカの登場から始まる。ええ~!北大の成果はガン無視ですか!?

 日本の大学山岳部の成果、残した登山報告書が後々の欧米の登山家に多大な影響、すなわちヒマラヤ登山史に影響を与えた、というのが持論の私にはモヤモヤするものが残るので、Bernadette McDonald女史に直接問い合わせた。

 「北大山岳部を取り上げなかったのは登頂日が12月13日だったからですか?」

 女史からは「その通り! 初登であったとしても、完全なる「冬」でなければ記録に加えられませんでした。」と明快な答が返ってきた。

 とはいえ、シシャパンマの章では2004年12月11日に登頂したジャン・クリストフ・ラファイユに関してはしっかり記述している(後に論争となるシモーヌ・モロー、ピオトル・モラフスキーの事を主題とするのに必要だったのだろう)。女史は触れていないが、やはり8000m峰冬季登頂の歴史=ポーランド人クライマーの苦闘史というイメージがあるのだろうと推測する。

 

2.のマチェイ・ベルベカとは、当ブログでも追悼記事を書いたポーランド人クライマーの事である。

 1988年冬、ポーランド隊隊員としてパートナーが脱落したにもかかわらず単独で山頂を目指したマチェイ・ベルベカは、一人、ついに冬のブロードピーク山頂に立つ。

 世界初の冬季カラコルム8000m峰登頂の栄光に輝いた・・・かに思われたが、実はマチェイが登頂したのは前衛峰で主峰ではなかったことが帰国してから明らかになる。隊員達は、登頂の状況から「彼が登ったのは前衛峰ではないか」と薄々気づいていた。

 何故、自己主張の塊ともいえる西洋人、特に主張が強いといわれるポーランド人達は、マチェイに真実を黙っていたのか。私の疑問はそこにあった。

 本書によれば、隊長であり智将であるアンジェイ・ザワダも前衛峰登頂であることに気が付いていた節がある。マチェイは強力なクライマーゆえ、そのまま主峰に進めば死ぬとアンジェイは考えていたらしく、無線でも余計なことは口にしなかった。

 しかし早々にアンジェイがポーランド本国に「ブロードピーク冬季登頂成功」として知らせたのはなぜか。クシストフ・ビエリツキは真実はわからないまでも推測として、「アンジェイにとっては「誰が」「いかに」は問題ではなく、隊が登頂に成功したことが全て。軍隊のような登山だが、こんな考え方は今の世代の人々にはわからないだろう。」とコメントしている。

 そもそも、誰も口を出せないような、壮絶な単独下山を果たしたマチェイ。帰国後、一瞬の栄光をつかみながら、同僚のアレクサンドル・リボフの手記によって前衛峰登頂が明らかにされ、人間不信に陥るマチェイ。そして2013年、再び冬のブロードピークに挑み、登頂に成功しながら還らぬ人となったのは当ブログの前掲記事のとおりである。

Kan

1986年1月11日、カンチェンジュンガ冬季初登を果たした後のクシストフ・ビエリツキ(左)とイェジ・ククチカ(右)

あまりに有名な写真であるが、冬季8000m峰初登を果たした後の疲弊感とポーランド人の強靭さが同時に表れているような感想を抱く

 

 さて、長年の付き合いからポーランド人贔屓のBernadette McDonald女史であるが、我が日本隊に対して
「If anyone deserved a winter ascent of annapuruna, then it was Japanese.」(冬のアンナプルナ登頂にふさわしい者がいるとすれば、それは日本人である)と賛辞を送っている。すなわち1987年の群馬岳連隊による冬季アンナプルナ南壁登攀について詳細に記述されている。それだけでなく「超人的」と女史が評する故・山田昇氏、故・斎藤安平氏によるアルパインスタイルによる冬季マナスル、JAC東海隊によるローツェ南壁冬季初登にもページを割いている。

Ewa

夫、マチェイ・ベルベカが行方不明のままのブロードピークを訪れた妻のエワ・ベルべカ(2018年、病没)

 

 当ブログでは旧ユーゴスラビアのヒマラヤ登山史を記録した『ALPINE WARRIORS』を「壮大な叙事詩」と記した

 冬季8000m峰。

 経験者いわく「地獄のような世界」を登攀し山頂に立つために、どれほどの犠牲を払ってきたことだろう。本書でとりあげられたクライマーは日本人も含め、多くは故人となっている凄まじさ。

 第5章カンチェンジュンガでは、女史は

『The cost of climbing can be extremely high.』

と綴り、凍傷のような肉体の傷だけでなく「人生の犠牲」を払ってきたクライマー達にも心を寄せる。

 クライマー個人だけではない。冬の8000m峰から還らなかったクライマーの家族達にも、死は暗い影を落とす。

 それゆえ私は本書を叙事詩ではなく、「荘厳なレクイエム」と評することにする。

| | コメント (0)

パタゴニアの沈黙

Afp

Photo by AFP

「クソ野郎を落選させろ」

という品格の欠片もない言葉を商品のタグに付けて話題となっているパタゴニア社。

アメリカメディアはトランプ政権の環境政策を解説しながら、おおむね賛同の記事を掲載しています。

 しかしアメリカ世論が皆リベラル派な訳ではなく、アメリカの保守派週刊誌『Nationalreview』誌、政治部記者のJim Geraghty氏 がパタゴニア社の「影」を突いた記事を掲載しています。

That Big Military Contractor . . . Patagonia? by Nationalreview 2020.9.16

-------------------------------------------------------------

Joint

2020年7月9日、ワシントンD.C.で下院軍事委員会の前で証言するマーク・ミルリー統合参謀本部議長(ロイター)

 昨年、パタゴニア創業者でありセレブなイヴォン・シュイナードが「私は社会主義者だ。それを誇りに思う。ほんの数年前、バーニー・サンダースが掲げるまで、それは汚い言葉だった」と言い、Fast Company誌インタビューで、「ベネズエラは社会主義国ではない」と主張したことを書いた。シュイナードの顔は、目を引く見出しとともに、雑誌の表紙を飾った。"資本主義は死んだ。資本主義は死んだ。"

 今日(こんにち)まで知らなかったのは、パタゴニア--"弁解せずとも政治的 "な企業であるが、米国防総省と長年契約している企業でもあるということだ。
 2018年5月、軍用品業界紙SoldierSystems.netは、「パタゴニアには専用部門があり、保護戦闘服プログラムのプライムプロバイダーとして、アメリカ製防寒服・戦闘服を納入し、USSOOCOM(アメリカ特殊作戦軍)のサポートに注力している "と指摘する。

 パタゴニアのPCU(訳者注 Protective Combat Uniformの略)をよく知る人でも、どれほどの期間にわたり軍をサポートしてきたかは知らない。私とパタゴニアとの関係は1980年代後半にさかのぼり、第3ID長距離監視部隊に配属されたときのことだ。潜伏中に寒さをしのぐため、紺色の厚手パイルスーツと、左胸にロゴ入りポリプロピレン製の長袖肌着を支給された。間もなく、これらの衣服のコピーが米陸軍の寒冷地用ウェアシステムに含まれた。ナイロン製の胸ポケットに至るまで。

 90年代を通じて、SOF(特殊部隊)は過酷な環境で使用するためにパタゴニアの特別なウェアを支給していた。しかしパタゴニアが国家の要請に応え、SOFのために衣料システム全体の開発に着手したのは、対テロ戦争(訳者注 アメリカ同時多発テロ以降の対テロ作戦を示す)になってからのことだった。

 7月には、警察機関と契約を結ぶアパレル企業に関する記事の中で、GQ誌のサム・ライスはこう指摘する。

「パタゴニアの戦術衣料品部門であるロストアローは、さらに密接な関係にある。衣料品(オーバーオール、ソフトシェルジャケット、ネックゲイター、アーミーグリーンまたはグレー)には、ロストアローのブランド名はなく、「PATAGONIA TACTICAL *GOV'T SALES ONLY*」と表示されており、販売はタクティカル・ディストリビューターというウェブストアだけである。(中略)」

 パタゴニアが米軍向けに高品質のエクストリーム・ウェザー・ギアを開発・販売していることに、多くの人々は何ら問題ともしないだろう。多くの企業は、世界で最も過酷な条件の中で働く、世界で最も過酷な兵士たちのため、自社ウェアは十分優れていると延々と自慢するだろうが、パタゴニアはそのことに関してはほとんど口を閉ざしている。しかし、パタゴニアの顧客の中には、米軍を本質的に帝国主義的または破壊的な勢力と見なしているリベラルな顧客もいる。パタゴニアの軍事契約を容認できる罪とは思っていないかもしれない。

自称「社会主義者」の億万長者が率いる企業の中で、リベラルかつ進歩的な大義への支援を使命の一部としながら、軍事契約を結んでいる企業がどれだけあるというのだろう?

----------------------------------------------------------------

 パタゴニアはそのことに関してほとんど口を閉ざしている。(記事中より)

 私自身は当ブログで前々から主張しているように、「国防は国家の要」だと考えてますので、パタゴニアが軍用品作ろうが驚きません。以前にブログ『雪山大好きっ娘。』さんとギアの話題に触れた際、世界各国の有名アウトドアブランドの軍需産業生産率が高いことを知り「え、そんなに?」とむしろ驚いた方でした。

 上記記事を掲載している『nationalreview』誌は、日本の『正論』をさらに強硬にしたような保守派誌です。

Pataパタゴニア社が誇る米軍仕様ウェアのラインナップ

 ちなみに私が知る限りでは、パタゴニア社が直接これら国防省に納める軍需品を生産しているわけではなく、生産は提携会社であるPeckham Vocational Industries が担っています。

| | コメント (0)

ドメン・スコフィッチの生き方

 去る5月末、スロベニアのラドブリツァに、ヤーニャ・ガンブレットと彼氏のドメン・スコフィッチが共同で設立したクライミングジムがほぼ完成しました。
 前々からスロベニア・メディアにおけるヤーニャ・ガンブレットのインタビューでは「自分のクライミングジムを持ちたい」とコメントしていましたが、コロナ禍で五輪延期の騒動の最中、二人は着実に、自分達の人生の「プロジェクト」を完成に導いていたのでした。

 その詳細を、スロベニア地元紙SiolNETが報じています。

Janja in Domen sta nam odprla vrata svojega življenjskega projekta by SiolNET 2020.5.29

---------------------------------------------------

ヤーニャとドメンが人生のプロジェクトの扉を開いた

記事執筆 Alenka TeranKošir
P1_20200922224301

 ヤーニャ・ガンブレットとドメン・スコフィッチは、家族の助けを借りて、ラドブリツァ近くのヴルニェ地区にクライミングジムを設立しました。ここでは、3種のクライミング全て(リード、スピード、ボルダリング)をトレーニングすることができます。 写真:Peter Podobnik / Sportida

 新しいクライミングジムは、ラドブリツァ近くのヴルニェ地区に建てられました。クライマーとその家族らによる共同出資で作られたクライミングジムには、必要なものがすべて揃っています。

 雪で覆われた山を連想させるプレハブのクライミングジム(ドメンによれば、デザインをカラヴァンケン山脈最高峰のStol峰に似せたと説明した)は、スコフィッチ家のすぐ近くにあります。そのため、世界最高のスポーツクライマーであるドメンのガールフレンド、ヤーニャ・ガンブレットが一日のほとんどをここで費やしています。

P2_20200922224401

「箱型のオブジェクトをこのような環境に設けることはできません。景観を害しますし、私たちは自然と調和するものを作りたかったのです」と、ジム設立に重要な役割を果たしたドメンの父、パベル・スコフィッチは語る。写真:Peter Podobnik / Sportida

 新しいクライミングジム建設の構想は、少なくとも10年以上前には頭の中に生まれていた。2016年、2018年シーズンで世界3位となったクライマー、ドメン・スコフィッチは語る。

 クライミングウォールの設置と建設を手がけた機械工でありイノベーター(改革者)でもある彼の父、パベル・スコフィッチは、夢と理想を現実に変える役割を担いました。

P3_20200922224501

10年前、スコフィッチは自分のクライミングジム設立を密かに検討していました。 写真:Peter Podobnik / Sportida

 ドメンは、これまでのところ約30万ユーロ(訳者注 約3700万円)がジムに投資されていると推定しています。彼らが父親と一緒にプロジェクトに費やした肉体労働は含まれていません。

 彼らは壁、建物の外観デザインを自分で描いた。「父はプログラミングを習得し、私たちは一緒に仕事を始めました。パソコンの前に座り、私に自分の考えを説明し、父はそれをすべて描きました」

P4_20200922224601

ヤーニャは、肉体的・技術的に負担の少ない作業でジム建設を支援します。 写真:Peter Podobnik / Sportida

 箱型の建物はそのような環境には属していません。バベル・スコフィッチは、構造物の最終的なイメージと、屋内に設営されたもの、内側の見えない内装すべてを誇りに思っています。彼はすでに建築家から賞賛の言葉を受けたと言います。

「このような環境では、構造物を靴箱の形に置くことはできません。景観を害しますし、機能的ではありません。私たちの風土・自然に調和するものを作りたかったのです」と彼は説明する。形状も、建物は近くの森の形に似ており、周囲からの突出物は最小限に抑えられています。

 ジムは未開発の土地に建てられ、スコフィッチは同じ地区で他の土地と交換することに敷地を取得しました。

P5_20200922224701

2018年にクライミングジムが建設される前の土地  写真:AnaKovač

 P6_20200922224701
...そして今日、2020年5月。 写真:Peter Podobnik / Sportida

 彼らは、スポーツ、観光、地域の環境をクライミングジムに結び付けたいと考えています。クライミングジムの後ろには、干し草小屋が立ち、登山者がリラックスして交流できる広大な土地があり、近くに宿泊施設も備えた観光農園もあります。

ジムはいつ一般公開されますか? 完全に完成し、「役者が揃った時」です。

 ヤーニャとドメンがジム公開日を決めるとバベル・スコフィッチは言いますが、ジムが本当に完成し、2人がそれを誇らしく思えることができるとき、そう彼は付け加えました。

 当初、センターは10月に開館予定でしたが、コロナウイルスのパンデミックにより遅れるとドメンは言う。一方で、すべてのクライミングジムが閉鎖された今、ボルダリング壁をより早く完成させたことは、コロナ危機の中でも心強いものでした。

P7_20200922224901

 スロベニアでの流行が宣言される数日前に、ドメンはボルダリング壁にホールドを集中的に設置し始めました。 「しばらくはどこにも行けなくなるような気がした」と彼は言う。写真:Peter Podobnik / Sportida


「スピードクライミング用の壁はコロナ危機の前に設置されました。コロナ危機の間、私たちはボルダリング壁にホールドを素早く設定し、スムーズにトレーニングすることができました」

 難易度の高いクライミング用の巨大な壁(20m)もあります。これは世界最大ではないにしろ、スロベニアでは大型の人工壁の1つになるため、特別な存在となります。

P8_20200922225001

 室内にはスピードクライミング用の壁も備えています。室内壁としては2番目で、 1つ目はツェリェ、リュブリャナには屋外に1箇所あります。 写真:AnžeMalovrh / STA

 中央にスピードクライミング用の壁があり(スロベニアでは3箇所目、室内壁では2箇所目)は、ロマン・クライニクコーチの指導を週3回受けるガンブレットにとっては非常に有利になります

P9_20200922225201

コーチであるロマン・クライニクは、スコフィッチとガンブレットのコーチを務めているため、新しいクライミングジムの常連客です。 写真:Peter Podobnik / Sportida


以下、スロベニア最高のスポーツクライマーの1人であるドメン・スコフィッチへのインタビューです。

ドメン、クライミングジムを自身で建設することから何を学びましたか?

 (コロナで)自粛中でしたが、私たちは多くを学びました。機械工をしている父も含めてね。

 その場で多くのことを学び、臨機応変に多くのことをうまくやり遂げました。今では設計図に書いていたものよりもずっと気に入っています。非常に魅力的であると思います、私はそれぞれの新しい壁を誇りに思っています。

P10_20200922225301

「建設中に、その場で多くのことを学びました。私たちは多くのことを臨機応変に行い、良い結果が得られました。今では設計図よりももっと気に入っています」 写真:Peter Podobnik / Sportida

自粛中は、ヤーニャと別の場所でトレーニングをしていましたか?

 いいえ、ここですべてのトレーニングを行っていました。興味深いことに、コロナ流行が宣言される前でも、しばらくはどこにも行けないような不思議な気持ちになっていました。私の感覚が正しかったと思っています。

(コロナ)検疫開始の2〜3日前から、いつでもトレーニングができるようにホールドの設置に熱心に取り組みました。新しいホールドの唯一の欠点は、皮膚が早くすりむけることです(笑)。

あなたはどの位の時間をジム建設に費やしたんですか?

え~と、少なくとも10年。子供の頃、私は地元の小学校のあるラドヴリツァでクライミングを練習し、週3〜4回のトレーニングでは不十分でした。もっとやりたくて、家の地下室に小さな壁を立てるように父にせがみました。それが全ての始まり、自分のジムの欲求はどんどん大きくなっていきました。

P11_20200922225501

「自分の大好きな事で十分に経験を積み、すべての人生をクライミングに繋げたいと思っていました。いつか実現できればいいんです。」 写真:Peter Podobnik / Sportida

それで自分のクライミングジムを思いついたんですが、選手生活を終えてから指導を始めようと思っていました。

私の家族、特に父が私の願いをすぐに聞いてくれたおかげで、私たちはより早くジム建設に着手し始めました。

同時に、ヤーニャと彼女の家族がいなければ、少なくとも不可能だったと言えるでしょう。今現在ヤーニャと私は選手生活に完全に集中しており、すぐに引退するつもりはありません。

P12_20200922225701

 今シーズン、少しでも機会があればリード部門だけで競います。このクライミングの分野では、彼は2016年シーズンで世界最高でした。 写真:GregaValančič/ Sportida

もし今シーズンなら、今シーズンはどう思いましたか?出場しますか?昨年、ワールドカップの後、人工壁の競技場であなたを見ることができませんでした。

 今年、私はリード競技だけに出場することにしました。今シーズンはベストを尽くせるようトレーニングしています。それができなければ、次のシーズンに備えます。

 現代のクライミングのスタイルに学ばなければならないことが、たくさんあります。特に壁に沿ったダイナミックな動きに関して、多くの革新があり、それが常に課題を生みます。スポーツは常に変化するので、興味深いことです。すでにすべてを知っていると思っていると、それが真実ではないことに気づきます。

P13_20200922225901

 私はパンデミックの時期が役立つと信じています。私は自分自身に新たな挑戦を課します。モチベーションが枯れることはありません。 写真:Peter Podobnik / Sportida

 しかし、私は自分の進歩に満足しています。多くのことを学びました、ここヴルニェには本当の平和があり、パンデミックの時が私にとって役立つと信じています。

 過去の動画を分析して、自分のミスからも学びます。自分自身に課題を設定します、どんな長期間であろうとモチベーションが枯れることはありません。

主催者がスロベニアで今シーズンのコンペをキャンセルしたとき、失望しましたか?競技はストチツェで行われる予定でした。

 とっても。このコンペのために意欲が高まっていました。しかし、主催者の決定を理解しています。無観客でコンペが行われるならば、キャンセルされて当然です。

 しかし、今は自分の立ち位置を確認するためにコンペに出たい。現時点では、トレーニングとジム、人生のプロジェクトに重点的に取り組んでいます。自分にとっては素晴らしいことです。

すべてが何かのために役に立っています。私たちはジムでさらにトレーニングを重ねます。でも、秋には外岩に戻りたい。スペインには未完成のプロジェクトがたくさん待っています。それまでに国境が開かれることを期待しています。

-----------------------------------------------------

五輪延期の混乱で、各種競技の選手達の困惑が伝えられている一方、「パンデミックの時期が役立つ」と言い切るドメン・スコフィッチ。

コロナ禍で前例の無い登山を模索する私たち凡庸な登山者にも、一石を投じる生き方ではないでしょうか。

| | コメント (0)

【訃報】ゴアテックス発明者 ロバート・W・ゴア氏逝去

 今やアウトドア界になくてはならない防水透湿素材「ゴアテックス」の発明者、ロバート・W・ゴア氏が9月17日、アメリカ・メリーランド州の自宅で亡くなりました。83歳でした。死因は明らかにされていませんが、長い闘病生活を送っていたとのことです。

Robert W. Gore, company president and inventor of Gore-Tex, dies at 83 by The Washingtonpost 2020.9.20

Gor1

1969年ゴアテックス素材「発見」の様子を再現しているゴア氏

 道具マニアな方は既にご存じかもしれませんが、もともとデュポンの配管テープの低コスト化のため改良に取り組んでいたゴア氏。

 1969年10月28日、「あー今日も残業かよー」といったかどうかはわかりませんが、業務時間も過ぎた夕方6時過ぎ、

「熱を加えてゆっくり伸ばすのがダメなら、ぐぐぐいっと一気に材料伸ばしたらどうなるべ?」

と、思い付きで上記画像のように材料を両手で伸ばしたら、材料であるPTFE(ポリテトラルフオロエチレン)が予想外に伸びたのです。

これによりPTFEの分子構造が解きほぐされ、何十億もの微細な穴が生じ、今のゴアテックスにつながる生地が産まれたとのこと。

その後のゴアテックスの利用はアウトドアだけではなく、医療・各種産業に用いられることになります。

家内制手工業のような小企業から始まったゴア社は数十億ドルの収益をあげる大企業に成長。

 アメリカでも珍しいといわれるシステムの企業で、かのブルームバーグが「近視眼な投資家に邪魔されず、エンジニアが材料に魔法をかける勤労者の民主主義がある」と述べるように、社長や経理など厳格な階層ではなく従業員は「仲間」として付き合い、ゴア氏自身も「ボブ」と呼ばれることを普段から主張していたとのこと。

 私個人は普段当ブログで主張しているように、大汗かきなもんでゴアテックスの費用対効果には懐疑的です。

しかしながら、現在のアウトドア・登山の隆盛、類似した防水透湿素材がいくつも生まれてきた陰には、1969年10月28日、ゴア氏がたどり着いた「偶然」に端を発するゴアテックス素材誕生が大きく影響していると敬服しています。

 偉大な研究者・経営者の逝去に哀悼の意を表します。

| | コメント (0)

【母よあなたは】The Sharp End of Life: A Mother's Story【強かった】

Al

9月14日、アレックス・オノルドとサンニ・マッカンドレスの挙式が湖のほとりで執り行われました。

ちなみに司会進行はトミー・コールドウェル。

どうぞお幸せに。

 

今春から、

51inhzeszl

ディアドル・ウォロニック・オノルド著『THE SHARP END OF LIFE』を読み進めてました。

58歳でクライミングを始め、エルキャピタン登攀最高齢記録を果たし、マラソンにも挑戦する女性。

大学での勤務の傍ら、オーケストラ演奏にも力を入れる才女。

そうです、アレックス・オノルドの母親の自伝です。

出版当初はよくある「意識高い系で全てに意欲的・ポジティブな女性の本かなー」とスルーしていたのですが、スペインのDesnivel掲載・女性クライマーを主題とした書籍の推薦記事で絶賛されていたので、読んでみることにしました。

ディアドル・ウォロニックの旦那様(アレックスの父親)は書き方に注意を要しますが、発達障害を抱えた個性的な性格の持ち主で、それゆえ結婚生活が破綻していきます。

ディアドル・ウォロニックは日本との関りが深く、大学研究職のため、夫婦で日本に長期滞在。

ディアドルは積極的に、雑誌や新聞を頼りに地元のママさんサークルを探し当て、日本の生活に溶け込んでいきます。

現在のお住まいにも和室があり、日本産のカエデを庭に植樹しているとか。旦那はその性格故に東京のゴミゴミした雰囲気が好きになれず、東京の花見で込み合う風景もお気に召さなかったようです。その直後に旅で訪れたオーストラリアではイキイキしていたと書かれています。

アレックスがまだ小さい頃、クライミングジムで危なっかしいことをやり、近くにいた女性から

「あんた自分の子供をコントロールできないの?」

と言われてしまいますが、この言葉がディアドルには非常にひっかかったことが描かれています。そこには、自分の子供を「独立した人格」として扱うディアドルの生き方への想いが表れていると言えるでしょう。

非常にポジティブな人生を描いた本として欧米で評価が高い同書。それは否定しませんが、旦那様との結婚生活の暗い話に延々とつきあうことになりますw

 

結婚生活って難しいですね。

私も二回目に結婚するときは辺境旅行に一緒に行っ(以下省略)

ツイッターではアレックス・オノルドの挙式にお祝いのメッセージがあふれてますが、同書を読んだ直後だけになかなか複雑な思いでした。

あらためて、アレックス・オノルドとサンニ・マッカンドレスの幸せをお祈りいたします。

| | コメント (0)

名号峰、花崗岩の山

峩々温泉から蔵王連峰・名号峰を目指す。

蔵王といえば「御釜」。

それほどに火山の代名詞でもあるが、その最高峰・熊野岳すぐ南側のピーク、名号峰は基盤岩である花崗岩で形成された峰である。

あの庭園のような花崗岩を久しぶりに目にしたい、と名号峰を目指す。

P1_20200920215501

今夏の猛暑のせいだろうか、9月中旬だというのに木々は緑色。

キノコが多く、その紅色が目立つ。

P2_20200920215701

登りつめるにつれ、リンドウが多くなる。色褪せたリンドウも多いが、冷たい空気の中で蒼い花に秋を感じる。

P4_20200920215901蔵王の主稜線が近いのだろう、それまでの火山灰質の土壌から、石英の多い岩が目立つようになる。

P5_20200920220001冷たい風の中、名号峰の山頂に立つ。

北方には南雁戸、北雁戸の山並み。

P6_20200920220101山頂にて休憩中、足元の岩を接写。

P7_20200920220401

同じく山頂から、中央蔵王である熊野岳、刈田岳を望む。手前の花崗岩の地表と熊野岳の荒々しい火山岩のコントラスト。

P8_20200920220601

山頂にて。風化して細粒化した石英が古寺の庭園のように美しい。

山頂で休憩後、のんびり下山。

P10_20200920220701ナナカマドがうっすらと紅葉し始めている。本格的な紅葉はまだ先のようです。

| | コメント (0)

白孔雀食堂 福島県会津若松市

福島の現場作業も最終日。

メインの作業を終えたところで昼。

あまりの暑さに、連日ランチは幸〇苑のつけ麺。

私「あ~今日も魚出汁つけ麺かな~」

若手E君「え、親方に勧めてもらったソースカツ丼いかないんですか?」

初日、機械を運んできてくれた親方は若松市内に詳しく、「よし、昼はソースカツ丼だ!」と3人で店を目指したのだが、当日は定休日。

最終日、さよなら会津若松というわけで、親方お薦めの「白孔雀食堂」に行く。

昭和チックな店に入り、1300円の食券でソースカツ丼注文。

20200916_121043

ドンブリの蓋からはみ出ているカツ、カツの脂身をラードにして調理しているとか。

でかいわりに、すんなり口に入るおいしさでした。

白孔雀食堂ブログ

さて、午後から現場撤収、そして山形に帰ります。

| | コメント (0)

8月9月お仕事日記

あ~ブログ更新さぼったさぼった。

超ウルトラスーパー久々に鬱々になりながらサラリーマンとして生活してました。

 

登山って、何ですか?中国語?

 

8月×日

 アメリカ製の工事機械導入のため、春から稟議書を書いては書き直し、書いては書き直し。

 コロナで暴動起きている海の向こうから、ホントに機械来るのか?!

 しかも社長からの特命で、今月8月中に会社に納入しなければならない。どうなる俺?!

8月×日

 今月中にアメリカから機械届くことが決定。

 一息ついたのもつかの間、携帯に電話がかかってくる。現場仲間のYさん。

 「大滝さん、機械をトラックに載せるステップ板、重量耐えられないんですけど・・・」

 しかもウチで使っているステップ板は特注品。納期は?!値段は?!

 ステップ板を調達すべく、メーカーに電凸、そして 書 類 作 成 の 無 限 ル ー プ 

 ハリウッドのアクション映画並みに問題が次から次へと現れる。

 機械納入失敗 → 社長から叱責 → 会社クビ → どっかのヒマラヤ公募隊に行こう・・・

8月×日

 なんやらかんやら乗り越えて、めでたく工事機械の納品。

 専務より「社内報に原稿書くように」とのご指示をいただく。

 原稿書く → 専務にお伺いをたてる → 原稿真っ赤になって帰ってくる。

 専務は最近「学位」を取得しただけあって、理路整然とした文章を求めてくる。

 私の文章履歴

  中学時代、生徒会長とかいうバッジつけてたもんで挨拶文・スピーチ文は国語の教師に徹底的に直される。

  高校時代、志望校が小論文必須だったため、国語の教師にメタメタに直される。「大滝の文章はパンチに欠けるんだよなあ・・・」と何度言われたことか。

  大学時代、文章に関してうるさい存在がいなかったため、文学部論叢などに山行記を好き勝手に投稿した天国な時代。

  今の会社に就職。最初に配属されたのが地質調査部門で報告書を書くのがメインだったため、書く文章は徹底的に指導を受けた。

  それから数百万年経過、いまだに社内報に書く文章すら穴だらけ。

  登山と同じように、進歩が無いなあ~

9月×日

 心療内科受診。

 毎月、健康診断(血液検査含む)を兼ねて受診している。ネットやツイッターでブイブイ言わしてる山岳関係者と違い、僕って高山植物のように繊細なの。

 医師いわく、休日に外出することは、私が考えている以上に心理的に大事らしい。

9月×日

 さすらいの作業員生活の始まり。

20200907_194153

今回は福島県某所に滞在。

あまりの暑さに、熱中症になる。(労基署のおじさん気にしないでね)

翌朝、どうも食欲が無くて変だなと思っていたら、日中は異常な発汗量。

山形で溶接講習を受けるため、現場仲間のYさんと交代して帰宅したが、体調の回復に3日を要する。

9月×日

 20200913_192418

自宅で栗ご飯を喰う。またまた季節の移ろいは山ではなく、食卓から。

9月×日

 ふたたび、さすらいの作業員生活の始まり。

 20200914_190448

またまた福島県某所に滞在。フリーズドライ「こづゆ」なかなか美味かったでした。

9月×日

 気温が少し下がったとはいえ、汗まみれになって現場作業。

 ビジホに帰ったら、まずやることはシャワー浴びてから、洗濯。 Original

おねえさん、僕と文通しませんか?

20200914_190343    

そして冷たい現実。今日もビジホのコインランドリーで洗濯、それから書類作成。

| | コメント (0)

蕎麦 山岳部(やまぶ)山形県山辺町

8月15日、盆休みも後半。

魑魅魍魎のいる本社には近寄らず、工場の事務所に出勤して内業。

昼までに内業を終え、昼食のため山辺町にある蕎麦屋 山岳部(やまぶ)を訪問。

P2_20200818225501

 本日は板蕎麦(¥800)を注文。北海道産そば粉と、山形県産「でわかおり」が選べるのだが、もちろん後者を選択。

 蕎麦好きの父を亡くしてから、蕎麦店のプロがうつ蕎麦を喰うのは久しぶり。

 蕎麦つゆに浸けるのを控えめにして、蕎麦の風味を楽しむ盆休みの昼。本日は蕎麦にナスの煮びたし、キュウリの漬物、茹でた枝豆が付きました。

 P1_20200818230101

 この変わった店名、実は山形南高山岳部OBで2年先輩の方が営んでいるお店。

 山岳部OB間のLINEで存在が広まり、その実態を確認すべくY先輩が突撃して〇〇先輩の店、と判明したもの。

 蕎麦屋ですが、店内には山の本・山岳雑誌が並ぶ店。ご主人も現役で山登ってます。

 山の帰りにぜひどうぞ。

 蕎麦 山岳部(やまぶ) 

 所在地 山形県東村山郡山辺町大塚127-3  TEL 023-674-7480

 営業時間11:00~15:00  定休日 火水または水木※祝日は営業

 お品書き 板蕎麦¥800 板蕎麦おかわり¥400 限定10杯ぶっかけ肉蕎麦¥850 ぶっかけおろし蕎麦¥750 とろろそば¥900 

| | コメント (0)

以心電信

8月12日午後、朝日連峰・鳥原小屋へ。

目的は小屋管理人の鈴木正典氏に会い、山の話をして過ごすこと。

毎夏、日帰りで訪れていたのだが、昨年は

「日帰りはもういいから、来年は絶対泊まりに来て!」とおっしゃって下さった。

 人付き合いが苦手で山仲間もさほどいない私に、「泊まりにきて」と誘ってくださるのもありがたい話である。今夏の盆休みは雑事が多く、日中の時間があまりとれない。午後に入山して鳥原小屋に一泊し、翌朝早く下山は願ったり叶ったりだ。

 よく拝読している長井の八木先生のブログでも、既に正典さんは鳥原小屋に入っている様子。

 今年も事前連絡無しに、押しかけ訪問することにする。

 Imgp0018

 古寺口から入山。

 10分も歩かないうちに、全身汗まみれになる高湿な空気。さらに断続的に激しい雨。

 メジャーな山岳雑誌は、朝日連峰といえば、せいぜい『花の山』か『紅葉の山』特集でしかとりあげない。

 歩いてまもなく全身汗まみれになるような、高湿な真夏の東北の山は記事にならない。

 しかしこれが、真夏の東北地方、樹林帯の山の現実である。ゴアテックスの提灯記事書くのに懸命なライターは記事にすることもないだろう。

  ジーン・ケリー並みのハイテンションで雨の中を2時間半かけて歩く。

 古寺から鳥原小屋にたどる道筋の最大の魅力は、高層湿原にたどり着く瞬間にある。

 灌木に覆われ鬱蒼とした道が続き、突然視界が開け、目の前に大空と湿原が広がる。何度訪れても、この瞬間がたまらない。

 「あ~久しぶりに正典さんと会うな~」と鳥原小屋に入ってみると、

Lo

 小屋内にも生活感は無い。正典さんがこの時期に入山していないところをみると、なんらかの事情があるのだろう。

 せっかく来たし、外は大雨に強い風も吹いてきた。今夜は一人、鳥原小屋で静かな夜を過ごすことにする。

 性格が暗い私は、避難小屋で一人で過ごすことは全く苦にならない。

 P2_20200813151601いつも変わらず綺麗な小屋を、今夜は独り占め。

 簡単な夕食を済ませ、会社の仕事、ガイドの事、自分のやりたい「山」のことなど、色々考えながら眠りにつく。

 一晩中、外は激しい雨と風だった。

 

 翌日、夜明け前から日の出を待つ。

 東の空が明るくなる頃から、一斉にウグイスが大合唱を始める。

 Imgp0021_20200813151901 

今日の日の出は、暦では4時52分。やる気満々の雨雲が空を覆い、東の空にも厚い雲。

P1_20200813152001

5時00分、厚い雲間からの日の出。仕事仲間、ガイド仲間、家族、ブログご覧の皆様の安全と健康、その他欲張りな願い事。

Imgp0022

 本日13日は、下界で野暮用が多数待っている。朝6時前に下山開始。

 鳥原小屋前の湿原、例年だとチシマゼキショウが沢山咲いているのだが、今年は数えるほど。

 Imgp0023_20200813152401

キンコウカが出始めていました。

Imgp0034

歩きながら撮影したためブレましたが、登山道はオクモミジハグマで彩られていました。

 Imgp0037

山ぶどうはまだまだ青い。

 小屋を出て間もなく、ザックに入れていたスマホが鳴る。アラームの切り忘れだった。

 スマホを確認すると、不在着信のSMSが届いている。

 確認すると、昨夜に正典さんからの不在着信だった。

 え゛え゛~! 留守の鳥原小屋に入った時点、このタイミングで正典さんから携帯に着信とは・・・

 私と正典さんは

 2_20200813192401

アムロとシャア並みに繋がっているのか!?

いやいや、どうせ繋がるんなら年上の素敵なお姉さまの方がいいんだよな~と思いつつ、早く正典さんに連絡をとらなければと考えるが、古寺鉱泉付近は一切の携帯電話が通じないエリアなので、西川町の大井沢集落に出るしかない。

古寺方面に向かう登山道は粘土質で枯れ葉も多く、雨の直後で滑りやすく、時間も稼げない。

8時前、古寺口に下山。古寺登山センターに顔を出したかったが、正典さんへの連絡を優先し着替えもそこそこに駐車場を発つ。

西川町の国道に出たところで、車のハンズフリー画面に着信。正典さんから再びの電話だった。

私が鳥原小屋に一泊して下山直後であることを伝えると

「いや、留守していてゴメン!」とおっしゃるが、毎年連絡も無く勝手に押し掛けるのは私なので、「こちらこそ連絡もせず出向いてすみません~」と、お互い「すみません、すみません」を繰り返す。何かアメリカあたりのテレビCMで放映されている「典型的日本人」みたいな会話になる。

 挨拶も済み、少し山の情報を交わして「また次の機会に」ということで電話を切る。

 正典さんとも少し話したし、久々に山小屋にも泊ったし、今日から盆の雑事に突入するに十分なリフレッシュタイムの二日間だった。

| | コメント (0)

月山湖上のプライド

8月11日、山形県朝日少年自然の家チャレンジキャンプ2020 のイカダ体験の日。

本来ならば子供たちが最上川をイカダで下るのだが、先日の豪雨被害で最上川は危険な状態となっており、寒河江ダム・月山湖でのイカダ漕ぎとなった。

P1_20200813141101豪雨の影響で月山湖はアマゾン川なみの濁り

P2_20200813141201

午前中の活動地、四谷沢川の河口めざして子供たちのイカダは進む。

 当初は、私はゴムボートに乗りサポートする予定だった。

 元職員の服部さんから、「四谷沢川河口の様子を見に行くんで、大滝さんにも見てもらいたいんですが・・・」

 と声がかかる。結果、カヤックに乗り込み単身、湖上に乗り出す。

 子供たちのイカダより先回りして、カヤックで四谷沢川河口にたどり着く。滝口支配人はじめ所の皆さんと共に四谷沢川の流れ、水遊びできる箇所を確認。

 それから引き返し、子供たちのイカダを迎えに行く。

 イカダは左右に子供が3人ずつ、班付サポーターと呼ばれる高校生リーダー1名が乗り、オールで漕いでいく。

 左右の3人が息を合せて漕がないと、イカダは迷走する。

 ぴったり息が合いグングン進むイカダもあれば、個性的な子がそろい喧嘩が始まり先に進まないイカダもある。

 

 一番遅い班のイカダをサポートすべく、私は後方のイカダに伴走する。

 男の子と女の子の間で口論が始まり、なかなか前に進まない。

 「よし、7馬力だ ! 」

 私はカヌーの舳先をイカダ後方に押し付け、力を入れて漕ぐ。私が7人目の漕ぎ手となるのだ。

 「らくちんだ!」 イカダ上の男の子が叫ぶ。

 まもなく女の子から、

 「やめてよ!やめてってば!」

 と怒られてしまった。

 自分達の力で漕ぎ進みたいらしい。

 「ごめんなさーい!」素直に私はカヤックをバックさせ、イカダから離れる。

 近くで見ていた元職員で現・学校教員の工藤さんに

 「怒られました・・・子供には子供のプライドがあるんですね」と打ち明けながら反省。

P7_20200813142801 四谷沢川岸辺に上陸した子供たち、ほっといても自分達で遊びを考える。

 女の子たちはダム作りに夢中。

 自然保護論者の大人たちはダムを目の敵にするが、子供たちは誰に教わるでもなく、ダムを作り、そこに喜びを感じている。

 P3_20200813143101

 四谷沢川河口から戻り、午後からは桟橋にて水遊び。

 水の濁りも気にせず、子供たちは喜々として水に飛び込む。高価な玩具も器具も不要、水辺にいることが楽しいのだ。

 P4_20200813143201

遊びの後は、イカダ解体が待っている。皆での共同作業も、チャレンジキャンプの大事な行事。

P5_20200813143301

所に戻った後は、子供たちは入浴、その間に所員・サポーター総出で機材の洗浄。

P6_20200813143401

この光景を目にするとき、私たちの「夏」の終わりを感じる。

 イカダ関連機材の洗浄が終わり、所員の皆様に挨拶して退所。

 今年も貴重な体験をさせていただきました。山形県朝日少年自然の家関係者の皆様に深く感謝申し上げます。

| | コメント (0)

Lost But Won

P1_20200810112201

強雨の中、月山ブナの森を歩いた子供たちの雨具が連なる。山形県朝日少年自然の家にて

 

今年も 山形県朝日少年自然の家チャレンジキャンプ2020 の月山登山引率のご依頼をいただく。

今シーズンは思うところあり、旅行社のガイド業務は自分から志願すまいと決めていた。

コロナ緊急事態宣言明けから、自然の家の月山登山1本に絞り準備を進めていく。

今年はコロナ禍による県内小中学校の夏休み短縮のあおりを受け、例年と異なり日曜に登山日が決まっていた。

コロナ禍の中、日曜の登山者動向を確かめるべく、6月から週末は足しげく月山姥沢ルートに通う。その結果、県外からの登山者も例年と変わりなく多く、登山予定日の8月9日も混雑が予想された。

混雑と共に頭が痛いのが天候だった。

10日程前から停滞前線による悪天、加えて台風4号が発生、8月9日の東北地方に荒天をもたらすことが予想された。

悪天の予想に加えて、今年はコロナ感染のリスクを負うことになる。

5、6、7月と不安と葛藤の中、情報を収集するが、ふと、「コロナ禍の今、山岳地で大人数を引率する行為」に有利な情報だけを集めている自分に気が付く。不安は不安のままに、あらゆる情報を受け入れようと考え直す。

 

会社が盆休みに突入した8月8日。

公休を取得していたが、取引先からの電話に対応したり、先日までの現場のデータを職場の仲間から引き継いだりとテレワークしながら自宅でパッキング。

夜、自然の家に入所。私にとってチャレンジキャンプ月山登山は、必ず前夜に参加し、子供たちの様子を確認することから始まる。

その後、所長室にスタッフの皆さんと集まり、月山登山の可否と代替プログラムについて話し合う。

2014年の葛藤の再来を覚悟していたが、板垣所長はじめ皆さん月山登山中止の方向で動いてくださった。代替プログラムとして山形県自然博物園のブナ森探検を第一候補とする。

それから所員の皆さんは手分けして、明日参加予定のサポートスタッフに月山登山中止の連絡。私は伊藤ガイドに連絡。急募しておきながら、快くキャンセルに応じてくださった伊藤ガイドには頭の下がる思い。

 

当日、子供たちを2班に分けて山形県自然博物園に移動。

1、2、4班を私が引率、3,5班は真鍋ガイドが担当してくれることとなった。

止まない雨の中、ブナの森に入る。

意外にも、ブナの木の幹を流れる雨水「樹幹流」が子供たちから「冷たくて気持ちがいい」と好評。

道はドロドロにぬかるみ、ブナの葉と土でブヨブヨになった道は足首まで沈むところもある。

「泥沼のワナにひっかかるなよー」と子供たちに声をかける。職員の小野さんがやはり学校の教員らしく「泥沼のワナに引っかかった人ー」と子供たちに声をかけ、子供たちも「はーい !」と元気よく反応、場を盛り上げてくれる。

「ブナ林広場」に出て、子供たちに休憩をとらせる。そこから先の階段は強雨のため、雨水が滝のように流れていた。子供たちの様子を注視、「寒い・・」と口にする子供のつぶやきをとらえ、私の判断で引き返すことを決めた。

通常の博物園散策であれば、復路は石跳川に通じる道を下る。

今日は何かが違う。山上の散策路をあるきながら「タッキー、あれ何の音?」と子供たちから尋ねられる。この位置から石跳川の様子は見えないが、それは明らかに石跳川が増水した川の音だった。

子供たちの渡渉は絶対に避けようと考え、石跳川方面には下りず、復路は登ってきた道をたどり下山。

博物園では倉本ガイド、近田ガイドが迎えてくれ、1階フロアを荷物置き場として、2階部屋を着替え室として開放して下さった。

 

折しも、月山登山ツアーの代替プログラムとして立ち寄っていた大先輩の佐藤攻ガイド、我がガイド協会のエース田中ガイドも博物園に詰めていた。今日ここにはいない伊藤ガイドはじめ、多くのガイド仲間に支えられて今日をのりきったことを実感する。

 

 子供たちの反応も様々だ。

 「濡れて楽しい」という子もいれば「濡れたくなーい」という子もいる。

 同行してくださった前所長の土屋常義氏からは、

「タッキー、いや、子供たちには後から「こんな天気に行ったっけな」という経験として残る。実際に行ってみた経験って絶対大事なんだよ」と熱く激励をいただく。

 ブナ森探検で一番問題だった「子供たちが長靴を持ちあわせていない」ことも、自然の家担当の山口さん、小野さん、柏倉さんの見事な連携プレーでビニール袋とマリンシューズを巧く利用し、解決していただいた。

 こうして私の「夏山」は終わる。今シーズン前半は月山・姥沢ルートに通い詰めだった。

 今度は近くの里山でも登ろう。

 所用のため夕食をいただいた後、スタッフの皆さんに挨拶してから退所。

 Hans Zimmer のLost But Wonを聴きながら、雨の国道112号を自宅に向かった。

| | コメント (0)

貧乏の神送り 山形県 小国町 白子沢地区

飯豊連峰山麓、小国町・白子沢地区。

ここでは新暦の8月1日、「貧乏の神送り」と呼ばれる行事が行われる。

集落の住民たちが隣接する沼沢地区の境で、「貧乏の神」を描いた似顔絵を焼き、お供えを川に流すという、「病送り」「虫送り」が重複したような行事である。

夜7時半頃、住民の皆さんが集落奥にある「湯殿山」石碑の前に集合し、提灯や「貧乏の神」似顔絵を持った役員と思しき方を先頭に歩き始めた。

急いで三脚をセットしたスマホを抱えて追いかける。

皆さん集落を通過して約1kmを歩き、学校前のカーブのところまでやってきた。ここが「儀式」の場所らしい。

P2_20200802224901

「貧乏の神送り」儀式の場所に住民の皆さんが集う

 軽トラックに乗ってきた年配の方に自己紹介と見学のお許しを得て、撮影させていただく。

 お話によれば、本来は太鼓を叩いて唱え文句を唱えるのだが、今日は雨天だったため、太鼓を傷めないように今年は太鼓無しで行うのだという。

 文献によれば唱え文句「オックレ オックレ オックレヤー 貧乏の神 オックレヤー」と唱えながら歩くらしいのだが、今日は皆さん楽しく雑談しながら夜道を歩いていた。

「貧乏の神」似顔絵を挟んだ竹棒が道路脇の草地に立てられる。

 P1_20200802225401

集落の子供が描いた「貧乏の神」はなんとも優しい表情である

P3_20200802225401

それからお供え物を「貧乏の神」前に捧げる。カボチャの葉で包んだ団子の類である。

研究者・菊地和博氏の著書によれば、人によっては「エサ」と呼び「人間の美味しいものは用意しない」との記述があるが、今日の見学で伺う限りでは「お供え」とおっしゃっていた。

「みんなあづまったが?」

集落の方々が来ていることを確認してから、代表の方が「貧乏の神」似顔絵に着火、燃やし尽くされる。

それから「お供え」が川の方向(闇夜でよく見えず)に放り投げられた。

30分ほどの行事でありながら、各世帯から誰かが参加するのだろう、手押し車を押す年配の女性から小さい子供まで、老若男女が参加する。

火の始末をし、再び歩いてきた夜道を皆さん戻っていく。

短時間の行事ながら、遥か昔から集落全体の健康と繁栄を祈って毎年続けられてきたのだろう。

つい先日、豪雨により山形県内各地で河川が氾濫し、深刻な被害を受けたばかり。

その一方で、今春の「やさら流し」に続き今回のように「川に災難を流し、集落の繁栄を祈る。河川が災難を引き受けてくれる。」行事を見学すると、古来の人間が抱いていた河川に対する想い、「自然観」のようなものを感じるのだ。

「貧乏の神送り」着火から「お供え」を流す(放り投げる)までを動画に収録しました。↓

| | コメント (0)

«DNAは誰のものか?