夏休み in 東京

東京で買い物したいという娘のリクエストに応え、娘と共に日帰りで上京。

娘と夕刻の待ち合わせ場所等を確認し、渋谷駅に送り届けた後、上野に戻る。

私の上京の目的は、東京国立博物館の特別展『三国志』の見学。

以前のブログにも書いてますが、前々から三国志好き

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ユニークにも、日本の横山光輝氏の漫画いわゆる「横山三国志」の原画も展示しながら、2~3世紀の貴重な文化財が展示されている。

待ち時間なく会場に入れたが、結構な混雑。漏れ聞こえる会話から、見学者には中国人も多いようだった。

今回参考になったのは、魏・呉・蜀の三国鼎立時代は現在よりも寒冷な気候で人口も5000~6000万人程度だったということ。

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2009年に発掘・実証された曹操の墓の発掘物はじめ、三国志の登場人物で唯一「印」が発見されている曹休の印。

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特に印象に残るのは、魏国の竹製の定規。(3世紀) 日本ではまだ場所すら確定できない邪馬台国があったとされる頃、古代中国では高度な文明の下、行政が機能していたことが伺える。

 映画、テレビドラマだけではわからない三国時代の文化財に囲まれ過ごす東京の休日。

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東京土産は、横山三国志のクリアファイルです。

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朝日連峰・鳥原小屋で感じたこと

13日。

昨年に引き続き、盆の墓参りを夕刻にさせてもらい、日中の時間を利用して朝日連峰・鳥原小屋を訪問。

今年は工事中の登山口視察を兼ねて古寺鉱泉から登る。

これまた昨年同様、登高途中で訪問目的である鳥原小屋管理人・鈴木正典さんとばったり出くわし、お互い苦笑。

「昼までには戻るからっ!小屋で待ってて!」

正典さんは途中にデポしてきたビールを回収するための下山とのこと。私は後の面会を楽しみにしつつ登高。

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正典さんの字で、古寺鉱泉に立つ標識から『鳥原小屋推し』が凄い・・・

決め文句は「ビールあります」と「大朝日小屋にはビールありません」(笑)

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強い日差しの中、高湿なブナの道を登る。

暑い。蒸し暑い。

ストームゴージュアルパインパンツも吹き出す汗で繊維が飽和してしまい、ピタピタと脚にまとわりつく状態。

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ユージン・スミス調に木陰から鳥原小屋を眺める。

正典さん手書きの案内の効果か、木道で行き交う登山者から

「ここビールあるらしいよ」という声が漏れ聞こえる。

汗だくになった鳥原小屋では、正典さんの奥様と初対面。デポしたビールを回収に行った正典さんが到着するまで、小屋で待たせてもらうことにする。

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「蕎麦食べていきませんか」という奥様のご厚意に甘え、調理いただいている間、小屋外のベンチで汗まみれの身体を乾かす。

高湿な空気の中に見え隠れする蔵王連峰を眺めたり、

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近くのヨツバヒヨドリを眺めたり。

湿原に囲まれたベンチで、静寂な空気の中、ウグイスの声が途切れなく聞こえる。汗まみれの身体に夏の日差しが心地よい。

ルートのことも、お客様のことも、山頂に立つことも考えず、山の中に座っている安らぎ。

先月から続いたガイド山行では味わうことの無い、ゆったりした時間。

先日の某登山用品店主催の山行では、自己紹介で「登山初心者です」という方が多かった。

そういった方に、私は何をガイドしたのだろう。登山を始めたばかりの人たちに、こんな時間、こんな過ごし方、こんな空間があることを知らせたい。

大混雑する月山ばかり登っていた私にとって、今座っている鳥原小屋の光景はまさに別世界だった。

そんな風にぼーっとしていると、「そば茹で上がりましたよー」と奥様から声がかかる。

P10鳥原小屋のアイドル犬ポチは神社の前でお昼寝中。

 奥様と一緒に雑談しながら蕎麦をご馳走になっていると、「あ、来た」と奥様が外に出る。正典さんが戻ってきたらしい。

 私はなんの気配も感じず、「おおー夫婦の絆か!」と思いきや、正典さんが鳥原小屋に近づくと愛犬ポチが反応するらしい。凄い・・・

 汗まみれでビールを担ぎ上げてきた正典さん、沢水でさっぱりしてから小屋に入り、1年ぶりの対面。

 インドヒマラヤの未踏峰を数々陥し、冬季ローツェ南壁にもトライした正典さん。知り合った頃はインド、パキスタンにある未踏峰の名前もすらすらそらんじている程だったが、今やそれらの峰々もほとんど既登峰になってしまった。

 高所登山の話題も出ず、もっぱら鳥原小屋をとりまく朝日連峰の話題に終始する。お互い、年齢を重ねたのだ。

 時間帯はちょうど昼、大朝日岳から下降して鳥原小屋にやってくる登山者もぼちぼち現れた。私も夕方の墓参りに備えて下山しなければならない。正典さん御夫婦に挨拶して鳥原小屋を離れる。

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昨年の同じ時期に鳥原湿原を彩っていたチシマゼキショウ、今年はまだ咲き始め。

すれ違う人々に「どこから登ってきたんですか」「今日はどこまで行くんですか」とたずねられる度、「鳥原小屋までです」と答える。

山頂も気にせず、のんびり過ごす。

アルパインクライミングの大センセイには怒られそうだが、ただ安らぎと人との出会いを求めて山に入るのも、いいものでした。

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パンと水。

山の日。

某登山用品店様主催の月山縦走ガイドに出動。

山の日、日曜、晴天ということもあり、月山は以前に一度経験したかどうかという位の大混雑。

牛首からは登山者の行列が延々と続く。

その状態で、私が率いていたグループの80歳超の女性の足が止まる。足の疲労らしい。

後方に延々と登山者の列が連なっていることもあり、道の脇で休んでもらう。

ツアーの他の参加者を足場の良いところで休ませ、私は下降し足の動かない女性の元に走る。

足が攣っている状態。同行の娘さんが看護師ということ、添乗スタッフSさんが付きそうということで私は再び走って登り返し、待機しているツアー参加者の元へ。

そのままツアーを山頂神社に引率。

携帯電話で確認すれば済むともいえるが、自分の眼で確認したいので、参加者の昼食休憩の時間を利用して私は再び山頂から下降、3人の様子を見に行く。

大混雑の中、下っても、下っても、3人の姿は無い。

結局3人と合流できたのは、3人と別れた場所からさほども登っていない所だった。添乗のSさんから姥沢側に下山することを伝えられる。

登山用品店スタッフの女の子Iさん、鈴木ガイド、私の3人で残る全員を連れて羽黒側に抜けるしかない。

みたび、大混雑する月山山頂直下の急登「鍛冶月光」を走って登る。

『大滝さん、ガイドもメシ喰える時に喰っといた方がいいですよ』

鈴木ガイドから言われた事を思い出し、何か焦っている自分にブレーキをかける。

鍛冶小屋跡でザックを下ろし、セブンイレブンの小さなレーズン入りバターロールパン2切れを水で流し込む。

結局、これが今日一日に口にした行動食の全てだった。

フラッシュバックのように、結婚したばかりの頃、本場のクライミングガイドがどんなものか経験したくてアメリカに渡った時を思い出す。航空券購入で精一杯だった私は、一週間、食べたものは巨大スーパーで買ったオニオンベーグルと、水だけだった。

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晴天に恵まれ、大混雑の山頂小屋周辺

 粗末な行動食でシャリバテする程ヤワではないが、少しは工夫しよう。

 長い羽黒側への下山を終えるが、予定していた入浴予定の温泉地は祝日で大混雑、お客様達には入浴断念をお願いする他ない状態だった。

 山形に戻った時にはもう日が暮れていた。

 ガイド山行後、主催の登山用品店側との事務仕事が増え、月山朝日ガイド協会事務局の横山さんに連絡。あれこれお願いし、「明日ご在宅ですか?」と尋ねるが、「いいよ送るよ、盆休みだろ」と言われ、はっとする。

 嗚呼、世間では盆休みなんだ。

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ちょっと頭を冷やすため、本日は奮発して280円のセブンのカフェラテショコラで1人打ち上げ。

濃厚な甘さが売りらしいが、疲労して脱水気味の私には心地よい甘さだった。

本日の月山縦走で、いったん私のガイド業務はお休み。

既に予約が入っている9月の山行控えて、また準備の日々です。

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リンクサール主峰、ついに陥つ

Link

 1979年、立正大学体育会山岳部登山隊が東面から挑み退却、以後も欧米の先鋭クライマーの挑戦をはねのけ40年間未踏を誇ったパキスタン・カラコルム山脈のリンクサール(Link sar)主峰7041mがついにアメリカ隊によって登られました。日時・ルート詳細は不明です。

 メンバーは今回が4度めのトライとなるスティーブ・スウェンソン(65)、グラハム・ジンマーマン(33)、クリス・ライト(36)、マーク・リッチー(61) という老若取り合わせた4名。

American Team Summits 7,041-Meter Link Sar  by ROCK AND ICE 2019.8.7.

2015年7月、イギリスのジョナサン・グリフィスらによって北西面から西峰は登頂されていました。

参考サイト:当ブログ カラコルムの未踏峰リンク・サール西峰陥つ

 

未確認ながら、スティーブ・スウェンソンらは今回も東面から登頂した模様。同氏はリンクサール峰の情報を得るため、わざわざ我々立正大学山岳部に問い合わせしてきており、1979年の登山隊報告書も読んでいます。4度めの挑戦にして登頂を果たしたアメリカ隊に賛辞を送ります。

 

 リンクサール西峰が登頂されたとき、お世話になっている山岳部の大先輩からいただいた言葉が、「青春が終わった感じ」。

 私が彼女もいない寂しい青春をささげた8000m峰など、今や登山素人の芸能人が登る山に成り果てましたが、「それも時代の変化」と、私は自分を誤魔化してきました。

 感情的な言葉など聞いたことがない大先輩の「青春が終わった・・・」という一言を目にしたとき、リンクサール峰は、先輩にとってはそういう山だったんだ、と少し衝撃をもってその言葉を受け止めていました。

 65歳にしてリンクサール峰に登頂したスティーブ・スウェンソン氏。

 面識はありませんし、岩と雪の高所登山を目指す情熱など私にはありませんが、自分のやりたいことを追求する執念を教えられた思いです。

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言 葉

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某企業様からご依頼をいただき、社員旅行の一環としての月山登山をガイド。

私もガイド資格取得以来、こんなのは記憶にないというくらいに月山山中も猛暑。牛首を通過しても吹き出す汗が止まらない。

クライアントの若い女の子が疲労のためか、歩くのが極端に遅くなり田中ガイドが付き添う。

私は先行して他の皆さんを率いてベンチ場で休憩していたところ、田中ガイドから携帯に連絡か入る。背負い搬送でいくので荷物を分担する用意をしてほしい由。

「搬送しますので、恐れ入りますが若い男性の方、荷物の分担に御協力お願いします」

と私が声をかけたところ、同行している若い女性たちから

「はんそう!」

「そんなに具合悪いんですか!」

私たちガイドが何気なく使う「搬送(はんそう)」という言葉、「救急車での搬送」のようなイメージを持たれてしまったらしい。あわてて背負い搬送であることを説明する。

田中ガイドがハーネスを巧く使ってザック搬送。私は先行してフォローにまわる。

ワンピッチ歩いたところで体調不良の女性を下ろす。他のお客様が付き添って歩ける程になっていたので、背負い搬送を解除。

ちょうどそのとき、同行していた小学生の男の子が「おしっこしたい」と言い出す。

リフト上駅への登り返し、藪の多い登山道の手前まで来ていたので、田中ガイドがそのまま男の子を連れて行くことになった。

「このおじさんに連れてってもらうんだよ」

とお客様達が言うと、田中ガイドが

「いや、おじさんじゃなくて、お兄さんと呼んで欲しいなあ~」

その一言で、女性の搬送で緊張しきっていたお客様皆さんがどっと笑い、一気に緊張がほぐれる。

 

私のようにうかつに「搬送」の一言で無用な緊張を与える場面もあれば、田中ガイドのようにさりげない一言で大勢の人間の緊張を消し去る場面もある。

 

言葉って、難しい。

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In Orbit

会社での勤務日をはさみ、土曜、再び山形県朝日少年自然の家へ。

本日はチャレンジキャンプ2019の「最上川いかだ下り」の手伝い。

昨年は悪天続きで月山ダムでのカヌーとなったが、今年は夏前半の雨のおかげでいかだ下りが可能となる。

だが最近の猛暑続きで水位が低下、スタッフの皆さん、我々サポーターもだいぶ苦労させられることとなる。

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浅瀬や急流ポイントで子供達が乗るいかだを待ち受ける。水位が低いため、浅瀬でひっかかり止まったいかだを我々が人力で押し・引っ張り、流れへと戻す。

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毎年恒例、橋の上からアイスクリームの差し入れ。

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子供たちも「アイス!アイス!」と必死で漕ぐ。

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差し入れを受け取った子供達は、再び最上川の彼方へ漕ぎ出す。

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私たちスタッフ・サポーターは先廻して、昼食会場の準備、いかだの引き揚げ。

この後、昼食会場から再び漕ぎ出した子供達は無事ゴール地点にたどり着く。

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所に戻った後、スタッフの皆さん、我々サポーターの人海戦術でいかだ資材、子供達のライフジャケット、ヘルメットの洗浄と片付け。

後片付けをしていると、夏が終わったような気がする。

子供達の歓声が建物の奥から聞こえる中、所の風呂で入浴させてもらい、サポーターのはじめさんと共に所を退出。

今年は「別れのつどい」で子供達の成長した姿を見てみたかったのですが、明日はガイド出動です。

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Wild Heart

今年も山形県朝日少年自然の家『チャレンジキャンプ2019』の月山登山を引率させていただく。

前日まで猛暑の中の現場作業。

ハードな作業にくわえ、大量の発汗で疲労も著しい。宮城県での仕事を終え、会社での後始末を済ませ、自宅で入浴と装備確認。

移動の車中で軽い夕食を経口補水液で流し込み、既に三日目となっているチャレンジキャンプの会場、西川町・志津キャンプ場へ。

子供達の様子を探るため、前日乗り込みが自分に課した鉄則である。なんとかスタッフミーティング終了間際に到着。子供達の様子を伺う。

例年同様、朝4時に起床してキャンプ場を離れ、月山方面の空を観察。

気象予報はいずれも快晴だが、月山本峰にはガスがかかっている。何より気になったのは、ガス、雲の動きの速さだ。山頂付近は風が強いと予想する。

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登山当日の朝食は毎年恒例、「朝からバーガー」。さすが女の子はマーガリンを塗るのもセンスが良い。

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筆者作の「朝からバーガー」。

F3これで今日一日頑張ります。

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子供達も頑張ってくれました。例年写真撮影・昼食休憩している山頂広場は強風。一旦山頂神社に行き、風の穏やかな神社斜面で昼食。

問題は下山。

以前のチャレンジキャンプで悪天のため姥ヶ岳経由の下山を試みた際、子供達の姥ヶ岳の雪渓下山に苦心した経験があるため、雪渓の距離は長くとも四ッ谷沢川ルートの下山を選択する。

 子供達のスニーカーには荒縄。それだけでは身体のバランスがとれないと予想し、自然の家職員の皆さんに頼んで全員分のストックを用意してもらったのだが・・・・その結果↓

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子供達にとっては、ストックを突いて斜面で身体のバランスをとるという行為自体が「わからない」。

事前の協議で雪渓の入り口・出口には自然の家スタッフに立ってもらい、自在に雪渓を往来できる私が全体を視ることにしてもらっていた。

なかなか下りられない子供に付き添い、足を置くところを指示し、時にはピッケルでカッティングし、下ろす。

雪渓の状況は日々変化する。

二つ目の雪渓下部には、雪解けの渓流の音が聞こえる「落とし穴」が生じている。

子供達は危険性もわからないため、ずりずり滑ってくる。

緊張をほぐすため、「おい、このまま先に行くとバラエティ番組のドッキリみたいな落とし穴があるから、こっちに進もう!」

と声をかけるが、「え!落とし穴見てみたい!」と興味津々な子供達には逆効果。

下山できたのは、リフト終了15分前の16時15分。なんとか間に合った。

今年も自然の家職員スタッフの皆様、サポーター仲間、そして子供達自身の頑張りに助けてもらったことを実感。

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キャンプ場では押野次長、滝口支配人、柏倉さんが、美味しいスタミナ丼に味噌汁を用意して下さっていた。

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今年の子供達は例年に比較して元気いっぱい。夕食に群がる子供達。

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大滝さんどうぞ、と柏倉さんに真っ先に盛っていただくが、あまりに申し訳ないので他のスタッフの皆さんと同時に「いただきます」。今年もごちそうさまでした。

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夜はキャンプファイヤー。例年のボンファイヤーではなく、盛大に薪を積み上げてのキャンプファイヤー。マイムマイムを子供達と踊りました。みんなあれだけ「月山登山は疲れた」と言っていたのに、火の周りでは元気だなー 。

そしてキャンプファイヤーの後は、ナイトウォークという名の、

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私も前職の工藤さん、井上さん、プロハイカーの斉藤さんらと組んで、脅かす係です。

会社から休暇をもらい、こんな夜中の月山山麓の森の中で、遊歩道のあずまや陰の地面に伏せている。一体俺って何やってんだろう?

でもでも、子供達の絶叫と「あ、山登りの人だ!」「タッキーだ!」と反応をみるのは面白い。

ナイトウォークも終わり、子供達が滝口支配人差し入れのスイカを食べている間、そっと退出させていただく。

8月の課題の一つが終わった。

志津キャンプ場から車で下山し、西川町のセブンイレブンでアイスコーヒーを買う。

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ここ久しく、激しい発汗の現場作業続きのため、コーヒーは控えていた。久しぶりに、1人打ち上げとしてアイスコーヒーを口にする。

 

Two Steps From Hell の『Wild Heart』を車の中で聴きながら、深夜の国道を走る。

明日もいつもどおり現場作業、そして次のガイド山行が始まる。

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休息の山

東北地方も低温の日々から一気に蒸し暑くなる。

どうにか仕事を片付けて土曜の公休をもぎとり、月山・姥沢ルートへ。

始発のリフトに乗り歩き始めるが、時々寒気がする。高湿な中、身体は既に汗びっしょりなのに。

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ヤッケが欲しくなるような冷涼な日々から、一気に蒸し暑くなった。

昨年は出張で寒い程の北海道・小樽で過ごした後、猛暑の山形に戻った際に体調がおかしかった

今回も同様のパターンだろうか。姥ヶ岳に到達したところで、どうも身体が本調子でないような感じ。

私は野蛮人なので、

Bj

 

こ の ま ま 登 っ て 治 す 」とハラを決める。(※良識ある登山者の皆様は、体調不良を感じたら下山してくださいね)

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月山の稜線、笹の陰に隠れていたゴゼンタチバナ。

鍛冶月光の急坂のゴゼンタチバナよりも、なぜか姥ヶ岳~牛首稜線のゴゼンタチバナの方が大きい。

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私の好きなヤマハハコも、あちこちで花開き始めました。

やっぱ高山植物も結婚相手も地味な方がいいですね。(何か変なこと書きました?)

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前述のとおり私は野蛮人なので、山頂直下の鍛冶月光を登っているうちに身体の寒気も収まり、調子が出てきた。

山頂はハクサンフウロの真っ盛り。

私の得た情報では、14時には雨雲が襲来することを掴んでいたため、さっさと下山。

えらい元気で下山も速い、若い女の子2人組と前後して下りる。

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土曜日、昼前の鍛冶月光はこれから山頂に立とうとする登山者の行列が牛首から続く。

前述の女の子たちがぼそっとつぶやく。

「台風だから、みんな関東から逃げてきたんだね~」

プライベート山行で息抜きも兼ねてマイペースで登り、昼12時前には車で国道112号線まで下りる。

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本日も飯より先に「かたくらだんごや」に立ち寄る。今回は変化球でしょうゆとぬたを注文。

下界は37℃の猛暑の中、激冷えの麦茶も美味い。

 

今週は猛暑の中の現場作業。

不本意な人事でうちの部署に来た若者くんが暑さで座り込む中、私と相棒はかまわず撤収作業を続けて引き揚げてきた。

会社に戻った後は、各現場から戻った若手社員が帰宅するのを見送りながら、仕事のデータの整理、図面を眺めながら明日の作業の準備。

事務所を施錠して職場を退出し、実家の老母を訪ね、それから帰宅。

メシと寝るまでの短い間が、ガイド山行の準備タイム。

次回は、誰もいない低山でゆっくりしようと思います。

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ガイド殺すにゃ刃物はいらぬ

ガイド殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればいい。

とは、某ガイドの名言。

朝日少年自然の家夏季キャンプの登山下見のため、一ヶ月以上も前から休暇を確保し山行に臨んでいたのですが、収集した情報では昼前から雷雨の気配。

天候判断も頼まれていた私、雷予報が出ている事、昼過ぎから天候が崩れることをお伝えしたところ、担当の山口さん経由で、板垣所長のご英断があり山行は中止。

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下界の山形市内は青空も見える曇天ですが、ピンポイントで月山は凄い天気になってました。

脳味噌はいつも休止状態の私ですが、今日は身体も休めたいと思います。

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謙虚であり続けるのは難しい

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筆者愛用のBD社レイブンウルトラのブレード 

 ガイドで月山山頂を往復したときのこと。

 休日で混雑する月山山頂小屋の前での事だった。

 人がやっとすれ違える狭い道で、某旅行社の団体ツアー一行が来たので道を譲る。

 最後尾のガイドらしき女性とすれ違った時、なにか光るものが見えたのでとっさに身をかわす。

 彼女はザックのピッケルホルダーにピッケルをくくりつけていた。カバーもせず、鋭利なブレードがむき出しではみ出たままに。

 石垣に挟まれた狭い登山道、しかも登山者で混んでいる休日でのその格好に怒りを通り越して呆れてしまう。

 意識高い系の登山者の皆さんにはすみませんが、多人数のお客様を前に行程説明中の同業ガイドを怒鳴りつける勇気は無く、私もお客様と共に移動中だったのでその場を離れた。

 いや、冗談抜きで黒澤映画『椿三十郎』の仲代達矢みたいにブレードでバッサリやられるところでした(ネタバレですんません)

 下山後、気持ちも落ち着き、思ったこと。

 

 ガイドは山の中では、立ち居振る舞いを他人から見られる。自分も気をつけよう。

 

 インターネットのスポーツ記事って質の低い記事も多いのであまり読まないのだが、最近ダイヤモンドオンラインの『なぜ大坂なおみは急に世界で勝てなくなったのか』という記事に感銘を受けた。

 最も印象に残ったのは、次の一節である。

『謙虚であり続けるのは難しい。だが、謙虚さを失った者の多くは、足下をすくわれる。どこかに隙が生まれ、常勝を呼び込む流れにほころびが生じる。』

 ガイドの資格をいだたき、年数が経った。私は未だに下っ端ガイドのつもりでいるのだが、最近はガイド協会会員加入の推薦を頼まれたり、少年自然の家はじめ登山講師を頼まれたりする。時折自分の高慢さを戒める時もある。

 人の落ち度をあげつらうよりも、自分も気をつけよう。そう言い聞かせた、夏山登山の1日。

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ちなみに私はピッケル(アックス)を装着するときはザックのピッケルホルダーは使わず、サイドポケットに刺しています。

学生時代、ピッケルを所持して大型ザック姿で山手線や混雑する新宿駅を往来することが多く、若さゆえ・未熟さゆえに苦い経験もしました。そのためカバーしていたとしても石突やブレードが人の顔に当たらないよう注意していました。

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カバーはマジックマウンテン社の薄手ナイロンのカバーを愛用。これなら行動中に急に必要になっても、かさばらずズボンのポケットに収まるため使い続けています。

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人を呼ぶ山

15日、個人ガイドのため月山山頂往復。

登山は初心者の方で、雪渓の対応のためガイドをお願いしたいというご依頼。

一緒に歩くためクライアントの経験を探ることも兼ねて色々お話を伺っていると、登山は初心者だけど、月山に何か呼ばれているような気がしてどうしても登りたいとおっしゃる。

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登山は初心者という割には大変健脚な方で、ガイドする方はだいぶ楽をさせていただく。

とはいえ、姥ヶ岳の雪渓では念のためショートロープを用い、下りの四ッ谷沢川雪渓ではポールを使って頂き、軽アイゼン装着も全てフォローして無事に月山・姥沢コースを周回。

 かくいう私、現在のように月山のガイドに携わっているのは、きっかけがある。

 大昔の若かりし頃、某8000m峰で最終キャンプに帰ってきた時のお話。

 誰もいないテントに帰ってきたので、自分でお湯作りを始める。凍った指を解凍するためだ。

 お湯を沸かしているとテント内の気温も上がり、指の解凍を始めると体温も上昇して一気に眠くなる。

 うつらうつらしながら、頭の中には春先の、『黄色い菜の花が揺れる最上川河畔の彼方に、白い残雪をいただく月山』の光景がひろがっていたのだ。

 はっと気がつくと、そこは無機質な8000mのテントの中。

 そんな事を一晩で何回も繰り返した。実は、それまで山形県人でありながら、月山には関心は無かった。月山に素晴らしいブナ林があることも知らず、県境を越えて福島の燧ヶ岳を訪れ、南会津のブナ林に浸るのがそれまでの休暇の過ごし方だった。

 そんな私が、なぜ高度8000m超のテントの中で月山の光景ばかりイメージしたのか、未だにわからない。

 帰国したら月山に行こう。

 それから人の御縁に恵まれ、おかげさまで月山を案内する立場にいる。

 高所登山の事を話すと自慢話に近くなるので、「昔海外の山に行ったら、月山が頭の中に思い浮かびまして・・・」程度にお客様に話すと、お客様いわく、

「月山って、人を呼ぶ山なんですね」

とおっしゃる。

「そうですね」

と相づちをうち、私たちは下りのリフトで姥沢登山口に帰着。本日も無事、ガイド活動完了。

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ローストチキンの夜

山形県朝日少年自然の家企画『サポーターのつどい』に日帰り参加。

メインの活動はダッチオーブンによるローストチキン調理。

ダッチオーブンが日本に出回り始めた頃、取り扱いやメンテが面倒そうなので結局使わなかった私はダッチオーブン初体験。

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健脚で過去のトレッキング行事でも頼れる仲間、中根さんと組んでチキンの下ごしらえにとりかかる。

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ぶつぎりにしたジャガイモ、人参、玉葱、鷹の爪、ニンニクを放り込み、ハーブソルトをすり込んだチキンを入れ、準備完了。

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炭火を熾してダッチオーブンを置き、上フタにも炭を置きます。これで30~40分放置。

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30分経過時に中を覗く。野菜の水分だけで、チキンも野菜もいい感じに仕上がってます。我らのシェフ・柏倉さんもビックリのできあがり。

一口食べてみた感想は、

Kai

料理が完成したところで、サポーター仲間や職員の皆さんと会食。Dsc00697

今回は2台のダッチオーブンを用い、ハーブソルトとペッパーソルトの2種類で作り分けたのですが、どちらも美味。ぶっとい人参も柔らかくなっており、圧力鍋でもないのにホント不思議な調理器です。

夕食をとりながら、高校生サポーターの男の子から「月山の自然環境」「山岳ガイドのやりがい」等のテーマについて宿題をいただく。山の自然環境、山を生業にする人についてレポートを書きたいらしかったのだが、山岳ガイドなど連絡の宛てもなく困っていたのだという。まあ、日本社会では山岳ガイドってまだまだマイナーな職業だよね。

山形県朝日少年自然の家では、年間を通じて随時サポーター(ボランティアスタッフ)を募集しています。

アウトドアや登山に詳しくなくてもかまいません。子供達や参加者達と共に野外活動を楽しめる方であれば大丈夫です。

お気軽にご参加下さい。詳細はこちら

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極上の青

姥沢口より月山山頂往復。

朝の月山は濃いガスに覆われ、小雨。雨具着用で登高。

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ヒナウスユキソウには、雨の滴がよく似合う。

 

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ミヤマリンドウも咲き始めました。

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月光坂を登っていると、雨もガスも強風と共に去り、青空が現れる。近くの登山者達の歓声が聞こえる。

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山頂に到達する頃には、雲海の世界へ。鳥海山も少し顔を出してくれました。月山では久々の青空が素晴らしい。

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シーズン初めは月山神社でお祓いしてもらいます。あんなこと、こんなことを願掛けしながら。

今年の登拝認定証は、社務所(お守りを頒布している所)に置いてあります。

年号が令和になったためでしょう、社務所は御朱印帳を携えた登山者でにぎわっていました。

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昨年は月山山頂神社社務所で「職場円満守」を求めましたが、今春の人事異動でますます人間関係もカオスになったために今年は「月山守」を求めました。

会 社 で の 災 難 除 け で す 。

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あの鐘を鳴らすのはあなた

月山山開きは毎年、曜日に関係無く7月1日。

山開きを翌日に控え、荒天で登山者も少ない月山へ。

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月山・姥沢口、リフトを降りたところには今年から「令和の鐘」が新設されました。

雪渓の状態を確認すべく入山しましたが、稜線は風ビュービューなので本日は姥ヶ岳で退却。

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たまに月山の花の時期を尋ねられますが、個人的意見として山開きの前後が百花繚乱の装いだと思ってます。

風雨の中、今日はハクサンチドリ、ウズラバハクサンチドリの鮮やかな紫が見事でした。

2019年6月30日現在、姥ヶ岳の雪渓はたっぷり残っています。雪上歩行に慣れていない方はためらわずアイゼンを使用することをお勧めします。

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私は山で涙を流さない クシストフ・ビエリツキ

2019年ピオレドール、生涯功労賞「ワルテル・ボナッテ賞」にポーランドのクシストフ・ビエリツキ (Krzysztof Wielicki) が選ばれました。

これに先立ち、ポーランドの大手ポータルサイトOnetにDariusz Faron記者の 『私は死ななかった』と題する、クシストフ・ビエリツキの半生をふり返るインタビュー記事が掲載されました。

Nigdy nie szedłem po śmierć by onet 2019.3.15

以下引用開始

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ドンブローヴァ・グルニチャ、ポゴリア。

 数ヶ月もすれば、水着に日焼け止め、タオルを身にまとった観光客が都会から押し寄せるでしょう。しかし今は時間が止まったかのようです。湖は凍り、森の上には赤れんが造りの家々が並んでいます。その中に、広い庭園のある美しいモダンな家があります。

 クシストフ・ビエリツキが中に案内してくれます。

 中に入ると、印象的なリビングルームがあります。一方の棚には山岳文学(クシストフの著書)、もう一方にはミステリー小説。壁に掛けられた世界地図(おそらくマナスルかK2と思われる)。

 一見したところ、伝説のヒマラヤニストに招かれたとは想像も出来ないでしょう。最近、ロシアの登山家がここを訪れた際にもクシストフは聞かれました「ロープやピッケルはないんですか」ありません。ビエリツキがその登山の功績で得たメダルの類いを捜そうとしても無駄です。カタジナ(夫人)は彼に言いました:「ただ壁があるだけですよ。」そこで彼は屋根裏部屋に連れて行かれました。

 窓の外の美しい太陽と湖まで、ほんの数分。クシストフはライトブルーのジャケットを着用し、少し歩くことを勧めました。

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 80年代初頭、ニューヨークで射殺されたジョン・レノンのために世界中が哀悼の意を表していました。 チェスワフ・ミウォシュ(訳者注:共産主義体制下ポーランドの反体制派の詩人)がノーベル賞を受賞しました。ポーランドは灰色の時代でした。ラジオからはコラ(訳者注:女性ロックシンガーでポーランド・ロックのカリスマ的存在)の曲が流れていました。

 クシストフ・ビエリツキとレシェック・チヒが、エベレストの冬季登頂に成功しました。それは世界で初めての、冬の世界最高峰登頂でした。ビエリツキにとってそれは自由を意味していました。スポーツパスポートを使えば、鉄のカーテンを往来することができたのです。妻は遠征に出かける前に言いました「あなたにはチャンスがあるのよ、行ってらっしゃい」。翌年にはカラコルムで成功を収め、他の8000m座を目指すようになります。やがて彼は、支払うべき代償がいかに高いものか、気づかされることになります。

- 私は家族と別れました。幾度も私は数ヶ月間、家を空けていました。家族はそのような状況にどれだけ耐えられることでしょう。私には山がありましたが、家族を失いつつあることに気付きませんでした。家族よりも山が重要でした。

娘と人生の話題について触れるとき、彼女は時々尋ねます。

- お父さん、そのときどこにいたの?。

 現在、彼は人生を別の観点から見ています。彼には10歳の息子がおり、もう危険なことはしないと話しています。遠征に赴く前には、得るものと失うもの考えます。遠征隊に参加する機会はますます減りつつあります。

 ビエリツキ家の玄関には目印があります。郵便受けとゴールポストです。クシストフの息子はサッカーをしています。週4回の練習、土曜日の練習試合、日曜日の公式試合。息子はレヴァンドフスキ(訳者注:ポーランドのサッカー選手)のような有名選手になって高級車を運転すると父に語ります。彼はまた別の人生プランを持っています。もしサッカー選手にならなければ、ユーチューバーになりたがっています。クシストフは、何やら沢山の「いいね」を集める仲間たちという位しか、ユーチューバーのことがわかっていません。

- 私は息子が成長するのをみつめてきました。彼が世界にどのように興味を持っているか、どのように変化しているか・・・私にとって最も悲しいことは(おそらくそれは適切な表現ではありませんが)娘と息子の思春期のことです。以前、子供たちが何年生か尋ねられたとき、私は答えることができませんでした。私は言いました「5年生か、6年生かな」より長い遠征に出かけたとき、娘たちは私の首にぶら下がっていて大泣きしました。どうすればいいかわかりませんでした。私の目にも涙が流れました。結局、私はこの苦痛を軽減する方法を思いつきました。夜中に出発したんです。朝、子供たちは母親に尋ねました。

- お父さんはどこ?

- 遠征に行ったのよ。

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 ビエリツキは決して山で泣いたことがないと主張する。山岳協会会長と一緒にセリーナ・ククチカの家に行き、イエジ・ククチカの死を告げるとき、彼は涙を流しそうになりました。しかし彼らは何も言う必要はありませんでした。セリーナはすでに全てを知っていました。多くの涙が流れました。ククチカの息子マチェクは、学校から帰ってきて何が起こったのか知りました。彼はランドセルを床に投つけ、部屋に閉じこもりました。

 ビエリツキは別の話をします。ワンダ・ルトキエビッチの行方不明を伝えるため、アンジェイ・ザワダ達と母親を訪ねました。彼らは何も言えなかった。母親が彼らを見た時、言いました。

「わかってます、わかってますよ・・・ワンダは修道院にいるんです」

 脳が悲劇的な知らせから自衛するのでしょう。ワンダの母親はほんの一瞬で物語を作り上げ、彼女はワンダの生存を信じていたのです。

 登山家達の死に際して、私たちの誰かがドアをノックして、家族に知らせるのは伝統でした。時代は変わりました。現在では家族がテレビのニュース速報のテロップで悲劇を知る可能性があります。

(中略)

 ビエリツキは長い間、2013年の冬季ブロードピーク遠征でのマチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキの死について語ることはありませんでした。彼によれば、当時はこんな状況でした。

アルトゥール・ハイゼルが隊を率いる予定でしたが、彼は予想外にもクシストフに電話してきました。

- 私はもう十分やったんだ、行ってくれませんか。

- 行くよ。

 ハイゼルは(アダム)ビエリツキ、マレク、コワルスキの3人の名前のカードを彼に渡しました。クシストフは一人欠けていると考えました。1988年、単独でマチェイ・ベルベカがいわゆる前衛峰に到達したことを思い出したのです。彼は電話しました。

- マチェイ、登頂するチャンスがあるぞ。行くかい?

- 私はもういいよ。別の所に行く予定があるんだ。

しかし3週間後、ベルベカは電話をかけ直した。

- 私は行くよ。

カラコルム。
 ビエリツキはあたかも悪い予感を打ち消すかのように、神経質にテントの周りを歩き続けました。何かがおかしい。4人が山頂に向かい、ビエリツキは彼らに早めに出発するように勧めたが、どういうわけか彼らはそうしなかった。

 アダムとマレクが山頂に立ち、降りる途中、彼らはベルベカとコワルスキと遭遇します。しかしビエリツキはそのことをまだ知りません。アタックチームは自分達で判断します。ビエリツキはアダムの事を懸念していました。なぜ何時間も無線に出ないのか?

最後に、ベルベカの声が無線で聞こえました。ビエリツキはすぐに尋ねます:

- アダムはどこだ?

- 彼らはすでに降りた。

- すぐそこから下りないと死ぬぞ!

 数時間後、他の2人は頂上から下降しました。トマシュ・コワルスキが無線に出ました。彼の声には恐れもパニックもない。彼は助けを求めることもない。まるでレストランに座っているかのように話します。

 クシストフはトマシュにすべてうまくいくだろうと言いますが、しかし、彼はそれを自分で信じていませんでした。彼はトマシュが決して戻らないことを知っていました。彼にはもう希望がありませんでした。

 トマシュはクシストフに、すべて上手くいっていると伝え、自分でそう信じています。しかし、彼の体は既に低体温状態にあり、脳は本来の機能を果たしていませんでした。

- トマシュ、どうしている?

- 何もしていません...私は進みます...

- マチェイを見かけたか?

- どこかで...私は思う...それは...

- 手袋はあるか?

- 一つ(沈黙)。もう一つは無くなった。

 遠征後、コワルスキの家族は遠征隊隊長としてクシストフ・ビエリツキが任務を果たさなかったとポーランド山岳協会に訴えました。

 ビエリツキは答えます。 - いかなる論争にも加わるつもりはない。彼らには起こったことを評価する権利があります。私は息子を失った両親の痛みを、想像することしかできません。

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ブロードピーク遠征から帰国後、報告会にて

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 最近、クシストフは2018年1月にナンガパルバットで亡くなったトマシュ・マツキェビッチの夫人であるアンナ・ソルスカのインタビューを読んだ。その内容は、救助活動前にk2登山隊からヘリを飛ばせたのではないかというもので、クシストフは申し訳なく思っています。しかしビエリツキがソルスカと会うならば、彼にはそのようなヘリは無かったと言うことになるでしょう。

 私たちのコミュニティでは、トマシュは疎遠な存在でした。私達と山岳協会でトレーニングを共にしました。様々なトレーニングの後、信じられないほど頑固で強く、私は彼の頑健さに感心しました。 ナンガパルバットは彼にとって「聖杯」だったのです。(訳者注:原文ではGraalem 、アーサー王伝説に出てくる財宝である聖杯を意味する) 私は彼の行動を見守っていましたが、彼とエリザベスがうまく高度順化できず山頂を目指したときに少し不安に思いました。

 奇跡的にパキスタン大使館協力の下、救助隊を組織することに成功した。陸軍は6000m以上の高度は飛べないと言ってきたので、トマシュを収容する方法はありませんでした。仕方なかったのです。

 アンナ・ソルスカ夫人は、私は隊員を危険にさらすことはできず、救助隊を送ることができなかったことを知らなければなりません。私は送りたくは無かった。私は誰か救助活動に行きたいか皆に尋ね、ほとんどの隊員が手を挙げた。そのとき初めて、私は誰かを任命する機会があることを知りました。

 キンスホーファールートの通称「鷹の巣」まで、エリザベートだけで下降するのは不可能です。これが実現できたのは、女性はよりよく順応し、より精神的な強さがあったからでしょう。

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 私は山の中でもう戻れないだろうという状況になったことはありません。1988年ローツェ遠征中には最も重要な経験をしました。整形外科に処方されたコルセットを着用して登っていましたが、低体温症になりかけ、時折、意識を失うかのような感覚を覚えました。下りる度に、ひどい激痛が走りました。

 同僚が双眼鏡で私を見ており、彼らは私がゆっくり歩いているのを見ました。私に向かって小さな黒い点が第2キャンプから出発したのが見えました。誰かが私の方へやって来るという事実は私に大きな力を与え、そしてついにテントにたどりつきました。

 私のキャリアの中で後悔は何もありません。私が繰り返さないことが一つ、あります。ナンガパルバット遠征です。私は一人で、山を完全に知っているわけではありませんでした。私を待つことになっていた遠征隊は登山を終えて帰国していました。私は前に進むべき「シンボル」を探していました。そして私は見つけました。 美しい太陽が輝いていたんです。

 6200 mで、私は大きな危機を迎えました。私の顎にできた潰瘍はとても痛く鎮痛剤を飲みました。それから私は昏睡状態に陥り、幻覚が始まりました。私は過去の自分を見ました、私の子供の頃からの情景が目の前で点滅しました。その後、今までの人生が幻覚として見え、24時間が経過しました。

 私がナンガ・パルバットから戻ってこなければ、皆に狂人呼ばわりされるでしょう。そして彼らは正しいでしょう。

 しかし、私は戻ってきました。
(訳者注:クシストフ・ビエリツキは1996年、8000m峰14座めとしてナンガパルバットに単独登頂を果たしている)

 おかしいと思われるでしょうが、サンダル履きでガッシャブルム近くのベースキャンプにたどり着いたことを覚えています。あなたがこのタイプの履物で氷河の上を行くことができるか、誰もが疑問に思うでしょうが、保証しますよ。可能です。とにかく、私たちはさまざまなことに賭けていました - 誰もが水なしで、食料なしで山頂に立てるか...私たちは様々な愚かな考えを持っていました。

 今日、人々は何も拒否することはできません。世界はこの点で絶望的です。誰もがいろいろな物を持っている必要があります、それはなぜかは、わかりません。私は何かで、ベルリンには人が必要とするよりも7倍以上の商品があると読んだことがあります。

私は息子との会話を覚えています。息子に言いました:

- 私が10歳の頃、家には電気が無かったんだよ。

- テレビをどうやって視たの?

- テレビなんか無かったよ。

- どうやって生きてたの?

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1950年代に撮影された、ビエリツキ一家


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 先のK2冬季遠征の間、私は世界が変わったことを感じました。私は山で数千枚の写真を撮影しました。その中で、1枚も「自撮り」を撮っていません。私の時代だったら、誰かが「自撮り」を始めたら、同僚は脳に酸素を取り込まなければと思うでしょう。 (「おい、大丈夫か?」)。

最近私はラジオでジャーナリストのWaglewski氏と対談しました。彼は尋ねました

- あなたは本当に携帯電話を持っていないんですか?

- はい。私にとってそれが何だというんでしょう。 グジェゴシュ・マルコフスキ(Grzegorz Markowski 訳者注:ポーランドの著名歌手)も持っていないと聞きました。そのために私たちは会うことができません、約束する方法がないからです。

 私たちがソーシャルメディアですることといえば、ナルシズムに関連したものです。我々は自分の人生を自画自賛します。幸せになるために、料理の写真や海岸にいることや、女の子と別れたことを知る必要はありません。

 しかし、もちろん文明の発達に反対するわけではありません。登山隊の隊員がインスタグラムに写真を、ある者は写真をFacebookに、ある者はライブ中継していても、私はまったく気にしません。それは私の世界ではないということです。

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 メディアはK2登山隊への期待を膨らませました。 「我々だけがそこに立ちいることができる」、「国家登山隊」、「ポーランド人のためのK2」。選ばれた国は山に勝利する。すべてが国民的なものです。まもなく、窓の外の茂みや家の前の塀まで国民的なものになるでしょう。

 私はいまだにデニス・ウルブコと友情を保っています。私に知らせずに彼は一人で山頂を目指しました。私は緊張を和らげ、デニスを守ろうとしましたが、不信感がありました。私は彼に言いました。

- 聞いて下さい、あなたが望むなら、何でもインタビューの中で話しなさい。しかし遠征の後で、今ではない。それは登山隊に悪い影響を与えるんだ。

 しかし彼は聞かず、ソーシャルメディアで私たちの活動を批判しました。子供達も本当に怒っていました。質問がありました。なぜ彼は自分自身でポーランドの市民権を持ちながら「ポーランド人」を批判するのですか? 私はこんな声を聞きました。

- 私がフランスの登山隊のために参加したならば、フランスについてそのようなことを書くことはないだろう。

 次回のK2遠征を控えて、組織上の問題は資金調達であると言われています。そうではありません。私たちは容易に資金を調達できるでしょう。最大の問題は、私たちが十分に強力なポーランド人を集められるかどうかです。いくつもの課題があります。

 1つの選択肢はチームを分けることです。 昨年、私は登山隊を2つのグループに分けることは倫理的ではないと思っていました。今は、登山隊を分割することが唯一の希望と考えています。

 私がまた隊長になるかどうかはわかりません。申し出があれば、私はおそらく拒否しないでしょう。けれど・・・知るよしもありません、k2を登るには弱すぎる登山隊を、私は率いたくはありません。

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 ビエリツキは長年の経験から、登山隊を管理するのは簡単だと主張しています。誰もが彼の意見に賛同しているわけではありません。

 ニューズウィーク誌の記事で、クライマーの一人は匿名で語っています。クシストフはグジェゴシ・ラトー(Grzegorz Lato 訳者注:ポーランドのサッカー選手出身の政治家)に似ています。素晴らしい選手であり、PZPN(ポーランドサッカー協会)のボスです。あまりにも自分の願望にフォーカスを当てすぎている、と。

 ビエリツキはこの記事について大声で笑った。彼によれば、それは昔のことだといいます。隊長として登山隊を率い始めたとき、彼自身の登山タクティクスを実行しました。アンナプルナに10人で遠征した際には、まず第一に彼が山頂に立たなければなりませんでした。他の9人は「それから」でした。

 しかしそれは変化しました。彼が語るように、隊長は隊員以上に精神的負担も大きいものです。彼はすでに自分やるべきことに専念しています。

 しばらく前のこと、長く面白い幸せな人生を送る方法を思いつきましたが、もう先は長くありません。幾つかのアイデアは実行中です。年をとっても、彼は湖の岸辺で長い時間を過ごすつもりはありません。古い探検を思い出すことも、古い写真帳を閲覧することもしません。本当の想いは窓の外にあると常に主張しているので、テレビの前で冬の夜を過ごすことはないでしょう。十分な体力がある限り、山に行くでしょう。彼にとっては、それが幸せなのです。

 妻はクシストフと一緒に映画館に行くのが難しいと不平を言います。彼のせいではありません。ビエリツキは微笑みながら言います。

- 眠くならない映画を監督する奴がいない。それだけです。

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以上引用おわり

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