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『登山のルネサンス』

先日の日曜、出張のもうひとつの楽しみである「古書店めぐり」をする。
名古屋の古書街は神保町のそれと違い、日曜でも開店しているので社会人の私には非常にありがたい。
薬師義美氏のヒマラヤ文献目録集を見つけたが、持ち帰るのに一苦労しそうなのでパス。
山と渓谷社刊・武藤昭氏の「穂高岳の岩場」を見つける。
80年代の大学山岳部員なら、お世話にならない者はいないであろう名著である。懐かしい。
しかし、21世紀になってから前穂4峰の中大・明大ルートって、登った人いるのかな?????

今回は、高山研究所編『登山のルネサンス』を購入。
名古屋を拠点とする高所登山のオーガナイザー・原真氏を中心とする同研究所の成果・・・パミール、アコンカグア、ワスカラン、インドヒマラヤ、そして故・禿博信氏によるダウラギリ単独登頂等の遠征記録と所見を取りまとめた本である。
現在の高所登山は、かつての「無酸素」志向から、高齢者登頂・ガイド登山にみられるように、酸素を効果・積極的に使用する方向にある。
あらためて、私自身の高所順応に関する知識を整理することが購入の目的である。

もっとも、原真氏の著書がそうであるように、同書も単なる遠征報告書・登山生理学の論文集では終らない。
82年刊でありながら、現在の登山に対していくつもの特筆すべきメッセージを含んでいる。
そのうちの一つは本書のプロローグにある。

 包囲法から生まれてくるイメージは、巨額の金と無駄な時間と馬鹿げた大宣伝とヒエラルキーである。これは物事の価値を他人に判定してもらおうと考えている人間、すなわち俗物の世界なのである。
 
 いかにも、ロングスタッフやシプトンに私淑している原真氏らしい強烈なメッセージである。
 私には私の価値観があるので、原氏のように極地法を否定するつもりは全くない。
 だが、いまだに登山の世界で、物事の価値の判定を他人にしてもらおうと必死な人間の多いことよ。

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山岳ガイドが読む本」カテゴリの記事

コメント

> だが、いまだに登山の世界で、物事の価値の判定を他人にしてもらおうと必死な人間の多いことよ。

私は登山始めたばかりでこの事実にびっくりしてます
スポーツという観点からすれば、なおさら。

ああ、目の前でいってやりたいセリフ。。。

投稿: POP | 2006.08.09 00:54

<<ああ、目の前でいってやりたいセリフ。。。
ええっ!
何かストレス溜めてませんかっ!?

 国体をはじめ、クライミングも競技化が進んで他者の「評価」が必要となるのはごもっともだと思っているのですが。
 以前に山岳雑誌でよくみかけた「世界の評価に耐えうる登山を・・・」という記事を読むたび、
 おめーの「世界」には中近東やアフリカ入ってんのか!?
 と、イチャモンつけたくなっていた私です。

投稿: 聖母峰 | 2006.08.10 00:01

山岳会とか山のぼらーの一部にはストレスたまるタイプの人がいます。
自分の考えをものすごく押し付けたり、一方的にえらそーにうだうだいうやつ。

私は「楽しむこと」が基本なので面倒は嫌いです。
なにせ日々ものすごいストレスの中働いているわけですから。。汗 これ以上うけとめる余裕は私にはないのにと思います。

派閥もどきに組する必要も共感もないのにしつこいやつとか。そんなにほめてほしいなら他へ行け。私に求めるな。。汗
ときどきはケリをいれて、厳しい言葉をぐさぐさとさしてやろうかと思いますが。。。
かわいそうなので猫かぶって心では「このヤロー!」って思ってます。笑

厳しいこといって一番実は弱いのはそいつだったりしてなーとニヤニヤと観察してはいますけれどね!

投稿: POP | 2006.08.12 10:30

あー。
私も自分のブログで好き放題書いているので耳が痛いですが・・・
思うに、自分の信念は必要だけれど、他人のそれを受け入れる寛容性の無い人々(特に酒の入った山岳会の爺)には辟易してますです。

投稿: 聖母峰 | 2006.08.12 22:44

押し付けてないじゃん

おっしゃるとおり山岳会という組織にはいると人間おかしくなるのだろうか?などと不思議な気分で眺めています。

私の場合は現実を生きることが第一の重要課題のため、現実的でないお話になると、あっさりと心から切り離してしまいます。
しかし。女房コドモもいる輩でも上記なのがいるということからすると嫁さんが優しすぎるのであろうか?日本の社会。笑

投稿: POP | 2006.08.13 14:23

禿博信君とは、1975年の元旦を剱岳山頂の雪洞で共に迎えました。彼を含む二名は、小窓尾根からチンネの厳冬期登攀隊で、私は下級生と二人で山頂直下にシエルターを拵えて、サポート担当でした。当時の大学山岳部の登攀としては、抜きん出た計画だったと思います。

1883年10月8日に禿君がチョモランマ山頂からの下降時に滑落遭難した翌日、先輩のO氏がたまたま同山麓に滞在しており、コンドルの様な猛禽が飛び回っていたことを、後日に話してくれました。

禿君は熊本県の有名寺院の嫡子でしたが、今から15年ほど前、彼の御霊を弔うために「山想歌」という歌を作詞作曲して、テープに吹き込んで、ご両親に送ったことが有ります。
(三番)
♪星を見つめて 独り想う
♪異郷に瞑る友のことを
♪人を想えば 剱ぞ恋し
♪今も忘れじ 心のザイル

遭難の経緯を知るにつけ、今マンガに連載中の「岳」の遭難シーンが彷彿としてきます。禿君たちの遭難実話をベースにしているのかと考えると、殺到する登山隊の中でも、知名度や権威主義の横行などによる登山マナーの壟断が、あの極限世界でも行われたのかな?と、今更ながらに亡き友が不憫に思えてきます。まだ31歳の新進気鋭の登山家でした。

投稿: 栫 講次 | 2012.02.07 20:08

re:栫 講次 様
 コメントありがとうございます。
 
 当時中学生だった私はドキドキしながら『山と渓谷』誌を読んでいましたが、禿氏たちの事故を誌上で読み愕然とした記憶が残っています。

 栫様も、大学山岳部で冬の剣という素晴らしい経験をされているのですね。
 私が学生の時はバブル全盛期で、今のようなアウトドアブームの片鱗もありませんでしたが、山岳雑誌のバックナンバーや山岳書で禿氏はじめ素晴らしい先達の記録から、自分を奮い立たせてもらったものです。

 今現在のヒマラヤ登山は、私が遠征した頃よりさらに一般大衆化が進んでおります。様々な考え・価値観の人々が入山しているため、栫様の懸念も現実になっていると思います。
 ただし、多数の隊が入山している現在とは全く異なる状況でダウラギリ単独登頂を果たし、無酸素という未知の領域で世界最高峰を目指した、禿氏の足跡とその輝きは失われることはないと私は考えています。

 貴重な思い出を書き込み下さり、ありがとうございました。

投稿: 聖母峰 | 2012.02.07 22:39

聖母峰 様

禿君への賛辞、我がことの様に嬉しく拝読しました。有難うございます。
剣岳山頂直下に掘った雪洞では、睡眠中にカサカサ音が発生し、何事かと明かりを燈すと、レーションを狙った「鼠」が雪壁から出現して驚かせてくれました。痩せこけていながら、体毛だけは長く伸びていて、1匹は元気でしたが、穴奥にもう1匹餓死しているのを発見しました。小動物の強靭な生命力に、感動したことを覚えています。

禿君は高校時代は野球部員でした。ショートを守っており、抜群の運動神経の持ち主でした。その才能は、ロッククライミングにおいて如何なく発揮され、天性の才能を誰しもが認めていました。

彼を偲んで創った「山想歌」の1番2番の歌詞です。
♪天壌高く 聳える峯に
♪己の卑小を 知らされる
♪谷間に響く 友のコール
♪沸き立つ雲に 花が揺れてた

♪酒酌み交わし 語り明かした
♪岩と雪への 憧れを
♪富貴は求めず 清貧の至福
♪山が教えた 天幕の宴


投稿: 栫 講次 | 2012.02.08 11:38

re:栫 講次 様

 剣の鼠のエピソードは大変興味深いですね。
 スケールは小さくなりますが、高校山岳部の頃、春山合宿で保存のためにと雪中に埋めた肉が、やはり何かの小動物に食い荒らされていた事を思い出しました。

「山想歌」、
『天壌高く 聳える峯に 己の卑小を 知らされる』
深く感じ入る歌詞です。

投稿: 聖母峰 | 2012.02.08 23:54

彼が亡くなって30年を迎えます。大好きな山に全身全霊で打ち込み、想いをかけた山で帰らぬ人となった彼の人の人生を想えば、「本望だったろう」などと、軽々に断じる事は出来ません。

一方で、三人の子に恵まれ、一番下の子供でさえ30歳を迎え、市井の中で平々凡々たる日々の生活に追われる私と、一瞬の煌きの中で己の思いを燃焼した彼の生き方との彼我の来し越し方に、人生の無常と感慨を覚えます。

表意文字である「幸」という漢字は、冠に「土」を抱き、下に「¥」を重ねています。土地やお金など物質的に恵まれることが、「幸せ」と永らく信じてきましたが、さにあらず、土の下に種を蒔き、双葉が芽生えて伸びゆく様を表わすのかな?と考える昨今です。

それは、山に教えられた人生観です。「体力」「気力」「時間」「乾燥度」「食料」「燃料」全てにおいて、スタート時が最も隆盛にして旺盛であり、行程の進行につれ費消していく山行。正に「下山するために登高する」のだと思います。

げに、失う前に失うものの大切さを感得することが、山往く者への山の教えなのではないのでしょうか?「健康」や「愛情」や「金銭」や「時間」等など。多くの人々は、失って初めて失ったものの大切さを知るのではないのでしょうか。

還暦を迎え、豊穣の稔りに感謝する「白秋」を迎えているからなのかも知れません。出会って絆を深め、縁を結び合う「青春」で始まり、子を得て懸命に育みつつ、自らの社会性や経済力を研鑽した灼熱の「朱夏」を経た今日だからこそ思い至るのかも。やがて、落葉が腐葉土と化し、培養土となり次代の「増ゆ」を期す「玄冬」を迎えることでしょうが、周囲に迷惑を掛けることなく自然に枯れて、「子孝行」したいと願っています。

正に、「剱の鼠」は、禿君と私との二人の「人生の暗喩」のようです。禿君が健在であれば、どの様な旨酒を酌み交わせたことかと、彼の早世が残念です。

投稿: 栫 講次 | 2012.02.09 15:03

re:栫 講次 様
 栫様の書き込みに、考えさせられました。

 20代の時、会社と遠征を天秤にかけ「自分にはこれ以外に道はない」と遠征を選んだものの、いまだにサラリーマン生活を送る自分。
 その後パキスタンの某高い山に二度お誘いを受け、いずれもお断りした自分。
 時折、「遙かな高い山に行くチャンス」も、『失って初めて失ったものの大切さを知る』ことがよくあります。

<<一瞬の煌きの中で己の思いを燃焼した彼の生き方との彼我の来し越し方に、人生の無常と感慨を覚えます。

禿氏には禿氏の、栫様には栫様の、私には私の、人生と幸せがある、ということではないでしょうか。
 過去の遠征登山でいずれも「人の死」に直面した私は、以前は「山で亡くなった者は一切尊敬に値しない」と発言していた事もありましたが、今は人の数だけ、幸せがあるのだ、と考えています。

<<土の下に種を蒔き、双葉が芽生えて伸びゆく様を表わすのかな?と考える昨今です。
 私も2児をかかえる者として、その言葉をありがたく頂戴いたします。

投稿: 聖母峰 | 2012.02.09 22:38

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