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改めて、高見和成氏を悼む。

仕事を終えて宿で休んだ後、広島県立図書館に直行。
西日本の登山情報は、なかなか東北のイナカまで伝わってこない。
私自身、ネットに浮遊するメディア情報に依存してブログを書いているが、ネットが万能だとは思わない。
やはり郷土資料などは図書館に行くに限る。

本日の目的は、ヒマラヤニスト・高見和成氏の遺稿集『山毛欅林より』。
地道な鍛錬と豊富な冬山経験を経て、世界の山へ飛雄した高見氏。
こうした遺稿集で初めて、その人となりを知ることができる、というのは悲しい現実である。

池田常道氏いわく、かつての岳人はヒマラヤ遠征に際してはよく冬壁で経験を積んできていた、とロクなんとかいう腐れ雑誌に記述していたが、まさに高見氏の経歴はその王道をいくものだろう。
邂逅に恵まれ、シェルパやガイドの力を借りて8000m峰に登ったことを実力と勘違いしている昨今の風潮に私自身も重ね合わせ、深く反省させられる。
また意外なことに、高見氏自身は「よく本を読み知識を蓄積せよ」という意味のことも語っている。

遺稿集で特に強く印象に残ったのは、広島山稜会の木村知博氏による一文『忘れられた「がんぴ」の皮』である。
高見氏への二つの疑問として1.なぜ自伝に若い頃のヨーロッパアルプス北壁行の記録を掲載しなかったのか  2.後年の、「文化人もどき」への傾倒 の二つを挙げている。
「文化人もどき」への傾倒とは、高見氏が後年に自ら陶芸に勤しんだり、積極的に芸術家に関わり、個展開催を自ら催したりしている活動を指す。
これに対し、木村氏は
『彼は常々山以外の生き方に「人生の空白部」を感じていたのではないだろうか (中略) チョゴリ達成感の大きさに、山の「虚しさ」がしのびよっていたのではないかと推測する』と喝破している。
他に同遺稿集では他にも岡島成行(現・野外活動指導者CONE創始者、80年チョモランマ隊取材班)と高見氏の会話が秀逸である。
何が秀逸か。木村氏の文も岡島・高見両氏の議論も、「人生にとって、人にとって登山とは何か」を問いかける内容になっているからである。
きらびやかにちりばめられた海外登山の記録の中で、これら随所に光る「登山を問う」文章がこの遺稿集を引き立てている。

続けて広島山の会の40周年誌『山毛欅林』に目を通すが、十分に精読する前に残念ながら閉館のBGMが流れてしまった。高見氏の筆による、私も登った韓国・雪岳山の露積峰の記録が興味深い。(もちろん高見氏は私とは異なり、困難な西壁直登を果たしている。)
何より、広島県という西日本の一地方で、これだけ層の厚い登山者・クライマーが輩出される理由は何なのか、考え続ける。
岩場として三倉岳に恵まれ、アルパインクライミングの実戦場として大山に恵まれ、理由はそれだけだろうか。
フィールドに恵まれただけではなく、個々人が常に高い意識を持って山に望んでいた結果ではないだろうか。
昭和49年の高見氏のインスボンの記録に、ボルト乱打とトポに囚われる風潮を嘆く一文がある。昭和49年の文章である。

東北のどっかのイナカ山岳会みたいに、一つの山域で「お山の大将」に祭り上げられている人たちと異なり、常に意識を高く持ち、視線を外に向け続けてきた結果が、この分厚い記念誌『山毛欅林』に集約されている。
なお、広島県立図書館郷土資料の書棚には三倉岳のトポも収められている。また前述の記念誌『山毛欅林』にも三倉岳、大山のトポが記載されている。遠方から広島を訪れるクライマーさんのご参考までに。

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