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ア ン ト キ ノ コ ミ チ

エミリオ・コミチと聞いて「おっ」と思うアナタ、オールドクライマーですねっ!(失礼)

イタリアで、エミリオ・コミチの写真集が50年以上の時を経て再販となりました。

Severino Casara presenta l’Arte di arrampicare di Emilio Comici by Montagna.tv 2011.3.8

Emiliocomici_book ←こちらが今回イタリアで再販となった『“L’arte di arrampicare di Emilio Comici』、邦訳すると『エミリオ・コミチのクライミング・アート』といったところでしょうか。アマゾンでも扱ってますね。

 エミリオ・コミチ(1901-1940)はイタリア・ドロミテにおいて約200の新ルート開拓を含む600本以上のルートを登った優れたクライマーだっただけでなく、特にエイドクライミングに優れ、クライミング技術の習得と開発に努めた人物です。

 リカルド・カシンの故郷レッコにもコミチはクライミング指導に訪れ、カシンも思想・技術においてその影響を強く受けたと言われています。
 そのカシン曰く、
 「フリークライミングに関する限り、コミチが我々に教えられることはほとんどない。」
 と強烈な自負を語っていますが、反面、それは当時いかにコミチがクライミングにおける偉大な指導者だったのか物語る言葉でしょう。

 コミチは「地上と頂上との間の最短距離の線をルートに選ぶべき」という自分の美学に基づきルートを開拓していきました。
 後年のいわゆるディレッティシマ(直登)につながる思想ですが、皆様ご存じのとおり、それはハーケン・ボルトを多用する人工ルートとなり、やがて批判の対象になっていきます。
 ダグ・スコットは幾人ものクライマーにヒアリングしたうえで、コミチの思想の偉大さを認めつつ、コミチが開拓したルートの多くは「時の試練には耐え得なかった」と結論づけています。(ダグ・スコット著『ビッグウォール・クライミング』)
 しかしながらエミリオ・コミチのパイオニアとしての偉大さは、ダグ・スコットはもちろん万人が認める事実です。
 チマ・グランデ北壁の登攀、そして同北壁で1937年、3時間半で達成されたコミチによる単独登攀は第一次・第二次大戦の間に達成された最も危険なクライミングとしてダグ・スコットも認めるところです。

 21世紀に入った2011年、再販という形でエミリオ・コミチの書籍が出版されたことは、かのクライマーの偉大さをあらためて認識させる事実です。
 著者のセベリノ・カザラ(Severino Casara、1903-1978)は自身もクライマーであり、コミチと共に困難なクライミングを果たし、かつコミチ研究の第一人者でした。

 エミリオ・コミチに関しては、既に日本でもいくつかのサイトで下記の動画が紹介されているようですね。

 私が上記のMontagna.tvの記事に注目したのは、コミチが履いているシューズです。
Emiliocomici_sho
 20世紀末、フリークライミング用にいわゆるEBシューズが出回ったときは斬新なデザインと思ったのですが、このコミチの履いているシューズをよく見ると、EBシューズの原型っぽいんですね。
 
  話題は戻して、こうした古典的なクライマーの本が出版されるところに、イタリアでのクライミングの認知度が伺えるような気がします。

Comici1
ふつーの登山サイトみたいに岩場の画像じゃつまんないので、両手に花花花花のエミリオ・コミチ。
よっ!さすがイタリア男児!

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クライミング」カテゴリの記事

コメント

 オヤジの会の者が1966年にチマグランデ。スーパーディレテシマ(コミチ・ルート)を登攀したとき、イタリアの新聞の一面に掲載されました。
 実に懐かしき名前です。

投稿: oyaji | 2011.03.21 21:40

re:oyaji様
 返信遅れすみません。
 
<<オヤジの会の者が1966年にチマグランデ。スーパーディレテシマ(コミチ・ルート)を登攀したとき、イタリアの新聞の一面に掲載されました。

おおっ、そうでしたか。メディアに掲載されるということは、やはり社会的にもクライミングが認知されているんですね。。

<<実に懐かしき名前です。
 はい、私もウェブ上の記事でコミチの名前を見かけたとき、図書館や古書店でしか見られない名前がなぜ?という思いでした。先達の足跡がしっかり残されているという証だと思います。

投稿: 聖母峰 | 2011.03.26 10:18

 コミチ・ルート・・・とレポートを貰ったとき、ハイキングコースだと思っちゃいました。それが、とてつもないルートと開拓者の名前だと知ったときに心底・驚かされました。
 登攀した二人はイタリア山岳会の創立何周年だかに招待されました。
 欧州の国々では、山に対する認識が日本では考えられないほどに尊重されているのを色々な場面で知らされています。
 大日本低国は・・・やっぱり海洋国家で、登山家は酔狂な人種と思われているようですね (>_<)

投稿: oyaji | 2011.03.26 21:12

re:oyaji様
 
<<欧州の国々では、山に対する認識が日本では考えられないほどに尊重されているのを色々な場面で知らされています。

 私はヨーロッパはわずかしか滞在経験が無いのですが、同様の事は知人からも聞かされます。
 日本が変わるには、あと何世代必要でしょうか・・・

投稿: 聖母峰 | 2011.03.27 21:39

 今一緒に登っている相棒は、マッターホルン北壁で遭難寸前の状況になり、メンバーの内の二人が凍傷で指を切りました。その時も、下山してきたメンバーを町の人たちが病院まで車で運び、治療費も含めて全て無料でした。登山に対する感覚が山国と海洋国家では違いすぎているので、日本が変わることはないような気がします。登山に関しては日本よりも韓国の方がよほど成長していると思います。

 地震に対するボランティア活動、感動させられています。頑張って下さい!
 JKTC・・・読ませていただきました。oyajiの記憶にある、終戦の日の広大な焼け野原と防空壕で見た死体の重なりが思い浮かび、涙が溢れちゃいました。報道され得ない、見えない所の壮絶さが伝わってきました 

投稿: oyaji | 2011.03.28 07:34

コミチのルートを登る機会を得ました。ハーケン等の乱用はあまり考えられないルートで、寧ろ現在の支点の方が多く使える感じでした。カシンの技術論に関して想像すれば、彼の故郷とドロミテでは全く岩壁が違っていて、コミチの技術が全く単純であったことは理解できます。それでも写真などを見る限り、現在の六級を登る技術を駆使しているのは確かで、ダグ・スコットの見解の真意はもうひとつ分りません。なるほど、今回登ったルートにおいても核心部は新たに開発されていて、彼が登ったボロボロの取り付き二ピッチは廃路となってしまっていました。そうしたことを指すのでしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2013.08.09 15:58

re: pfaelzerwein様
 コミチ開拓のルートを登られたとのこと、 pfaelzerwein様ブログの記事も拝読しましたが、やはり東西を問わず、素晴らしい先達のルートは共通して「理に適ったルート」でしょうか。

<<ダグ・スコットの見解の真意はもうひとつ分りません。
 これは私の記事の書き方が乱暴だったかもしれません。
 その著書『ビッグウォール・クライミング』でダグ・スコットは、第二次大戦直前のナショナリズムに基づく競争意識(コミチは名誉のためドイツ系クライマーに遅れをとってはならない、と語っていたとのこと)にとらわれ、それがコミチのクライミングに影響を及ぼしていた、より良き時代であればさらに素晴らしい自由登攀ルートを拓いていたのでは、と書いています。ダグ・スコットもコミチの「自由登攀」ルートについては高く評価しております。

 pfaelzerwein様の記事のタイトルが「ルートをたどる」ではなく「影を慕う」となっていることに、先人の拓いたルートの変遷とpfaelzerwein様の想いが伺えますが、御自身のフィジカルな面でも満足された御様子、私もちょっと活を入れなければ。

投稿: 聖母峰 | 2013.08.10 01:12

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