洗浄のメリークリスマス
国道6号線。
県境を越え、宮城から福島に入ったところで夜明けを迎えた。
南相馬市に入ったところで、まぶしい日輪に照らされる。
国道沿いには、ざっと数えて十隻以上の漁船が、まだ耕作地のあちこちに横たわっていた。
もう、あの日から9ヶ月が経つというのに。
南相馬市・原町区の福祉会館(ボランティアセンター)で災害ボランティアの手続きを行う。
本日の目的は、津波による流出・遺失物の洗浄作業。
洗浄作業を志願する理由は、当ブログで度々記述してきたが、陸前高田を訪れた時期にさかのぼる。
仮設住宅のインフラ整備のため、一刻を争う緊急度で私たちは成果を出さなければならなかった。
自衛隊・警視庁の方々により行方不明者の捜索が行われているその場で寝泊まりし、作業をする。
周囲や足下にはおびただしい数の遺失物・流出物が残されていた。
写真、印鑑、書類、教科書・・・
生き残った人々のための現場作業と割り切り、地面に散らばっているそれら流出物に心を配ることもできず、私たちは作業を進めなければならなかった。
だが、と思う。
月日が経ち、生き残った人々の証言をメディアで見聞きするにつれて、「残された物」の大切さを知ることになる。
日に日に縮小されるボランティア活動の中で、南相馬の原町区で続けられている『流出物の洗浄』作業に私が関心を持ったのは、当然の成り行きだった。
誤解されたくないので重ねて強調しておくが、私はボランティア活動に対して崇高な使命感など持ち合わせていない。人のために、などというお人好しでもなければ善人でもない。
ただ、「あとでああやっておけば良かった」と後悔したくないだけである。
本日集まったボランティア希望者は18名。
ボランティアセンターでは、私を含め原町区での活動が初めての者はオリエンテーションで一般的な注意事項を聞く。
南相馬特有の事情として、原発に近いこと、まだ状況が不安定で不測の事態もありうること、ボランティア保険は放射能による災害には無効であることを明確に説明を受ける。
遺失物の洗浄作業では、写真の洗浄などで感情移入してしまう女性もいたとのこと。また遺失物という性格上、プライバシー厳守、写真撮影は厳禁を言い渡される。
センターから徒歩で5分ほど、流出物洗浄の施設に移動。
殺風景な大きい室内に、写真現像の暗室のようにロープが張り巡らされ、たくさんの洗濯ばさみ。
そこには前回まで洗浄された流出物が干してある。
大きなテーブルを18名で囲んで座る。
配られたのは、室町時代の古文書ですか?と思われるほどボロボロになった文書の束。
津波から9ヶ月。
捜索隊が「これは貴重品ではないか」と収集した文書や貴重品、雑貨などがここに集められている。
微細な粉塵が舞うため、全員帽子・防塵マスク、手には薄手のゴム手袋着用。
水でふやけ、泥・カビがこびりついた文書を慎重に剥がし、9ヶ月経過した泥・カビを、ナイフ、ヘラ、歯ブラシ、スポンジでこすり、こそぎ落としていく。
臨席の人と分厚いファイルを分割し、分担して作業にとりかかる。
最初に紙と紙の間から出てきたのは、手紙だった。
十代の女の子が書いたものらしい。若い女の子特有の可愛らしい文字で、友人に宛てたものらしい。
これを書いた子は生きているのか、亡くなっているのか。
自己紹介の、今風にいう「プロフ」の用紙らしい「将来の夢は?」などと書かれた文字に胸をうたれる。
プライバシー保護の事もあり、便せんの表は泥に汚れていないことを確認して、すぐに封筒に戻す。
最初の仕事は、この封筒にこびりついた泥落とし。
オリエンテーションで「感情移入しないように」と言われてはいたものの、手紙はどうしても差出人・受取人の事が頭をよぎり、精神的に参ってしまう。写真ならば、今の私には耐えられなかっただろう。(幸い、流出物として収集された写真は洗浄が終了していた)
最初の休憩。
集中して流出物と泥、刃物を見つめていたためだろう、無性に青空と雲が眺めたかった。
(作業中は撮影厳禁のため、休憩時に建物外から撮影した南相馬市の空)
手紙を終え、続けて農家の関係書類。すごい分厚い泥と格闘。
こうして午前中が終わる。
いわゆる災害ボランティアの「泥だし」「瓦礫片づけ」とは異なり、ストーブの焚かれた室内でイスに座り、ひたすら道具を持った指先を動かしているだけなのだが、精神的に疲労する。
引きこもるのもどうかと思い、福祉会館の和室で他のメンバーと同席して昼食をとる。
とくに会話もせず喰い終わり、自分の車に戻った。
少し独りで休みたかった。
被災地に持って行った「リラックス用」MP3プレイヤーを聴く。
中身は、
Vivaldi 調和の幻想
ザ・ ローズ ( The Rose ) ベッド・ミドラー
インスピレーション ジプシーキングス(鬼平犯科帳エンディング)
仮面ライダー響鬼オープニングテーマ「輝」
仮面ライダー クウガ オープニングテーマ
海のトリトン オープニングテーマ
ひととおり聴き終わったところで眠りかけ、昼休みが終わる。
午後は引き続き、ひたすら分厚くこびりついた泥と格闘。
何度も何度もナイフで泥を慎重にこすり落とす。
力を入れすぎると紙が破れてしまう。力を入れないと、泥がとれない。
もうボロボロになった紙の縁を指で曲げ、少しずつ力を加えながら剥がしていく。
剥がしていった紙に付着した泥・カビをナイフやスポンジでこすり、落としていく。
これらの工程を幾度繰り返しただろう。
本日のメンバーは東京や埼玉、札幌からいらっしゃった男性グループ、地元の女子高生仲良し2人組、地元の男性の方々など。
時間の経過と共にうち解け、作業が単調なこともあって午後はおしゃべりにも花が咲く。
そんな中、私は無言でひたすら泥おとし。別に無愛想をきどった訳ではなく、極薄く、しかも硬い泥がびっしりと文書に張り付いていたのに手こずっていたのだ。
15時半、片づけ開始。
私が手がけた泥だらけのファイルは中途までの作業になってしまったため、この日リーダーを務めていたキュートな女性Kさんに引き渡し、引き継ぎ。
作業場には、多くの洗浄済み流出物が保管されてあった。
それらは後で流出物展示場に移設・展示されることになる。
今日の私の成果は、手紙数通とファイル半分の泥はぎ。
陸前高田で流出物を置き去りにせざるをえなかった、贖罪?それにしては成果は微々たるものだが、今の私にできることは、これだけだった。
皆でボランティアセンターに戻り、解散。
帰路、国道6号線を戻って宮城に向かう。
『浜通りの人間が、中通りや会津に移り住んで、そんなうまくいくか?いかねえべさ。』
今日耳にした、地元の方の言葉だ。
同じ福島でも、浜通り(いわき・相馬など海側の街)・中通り(福島・郡山・須賀川・白河など)・会津では生活文化も、何より気候も大きく違う。
何も知らない左翼系反原発のクルクルパーがツイッターで「移住」を声高に叫んでいるが、地元の人間にとって、生まれ育った土地への愛着・執着は強いものなのだ。
国道脇に、ときおりヘッドライトで照らされる仮設住宅への案内看板。
夜の暗闇は、国道沿いに横たわっているはずの多数の漁船を隠していた。
人々の心よりも早く、街並みの風景は復興に向かっていく。
| 固定リンク
「東日本大震災」カテゴリの記事
- あれから8年(2019.03.11)
- アルメニア大地震で活躍したクライマー達(2018.12.11)
- あれから6年(2017.03.11)
- 故・田部井淳子氏と原発事故(2016.12.18)
- 祈り(2016.02.12)
コメント