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茶の環

いやいや一日に二つも山登ったし、水道資料館でお勉強もしたし、疲れた時は甘いモノだよな!

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とゆーわけで、本日は広島市の 茶の環 二階のカフェ『チャフェ』へ。

本日は「抹茶セット」を注文。
抹茶と一緒に出てきたのが、抹茶生クリーム塩大福

汗ばむ陽気の日曜、少し冷えた塩大福が激ウマでした。

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牛田山(うしたやま)261m

白木山から下山、JR芸備線に乗って広島駅に戻る。
駅でトイレを済ませた後、休憩もとらずに都電とバスを乗り継ぎ、牛田山(261m)に取り付く。

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開発の進んだ牛田山の山並み。(正面の建物は広島市東区スポーツセンター)

牛田山はJR広島駅の北側、標高200m前後のピークが馬蹄形を成している。
コース取りとしては広島駅から最寄りの二葉山(139m)を起点に縦走登山がポピュラーなようだが、広島市街に所用もあるため、牛田新町の神田山荘登山口から山頂を往復する。

登りはじめはコンクリートで造られた階段が続く。
あーあ、やはり整備されすぎた里山かな、と思ったが、登るにつれて植生も濃くなり、静かな山が楽しめる。

神田山(178m)を経て、上り下りを繰り返す。
標高261mにしては「登山」が楽しめる道のりだ。

登山口からちょうど30分、山頂到着。
空は薄曇りながら、白木山と同様、ほぼ周囲360度の見事な眺望。
広島市街が一望でき、遠く宮島も見える。

え?
画像?
素晴らしい景色は、パソコンのディスプレイじゃなくて、いい汗かいてご覧下さい。

午前中の白木山よりさらに気温は上がり、14度。

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有志が立てたという、あずま屋に飾られた花が出迎えてくれました。

帰路は、のんびりと自然観察しながら下山。

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常緑樹の中で、アクセントとなる赤と黄。ヤブツバキ。

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白木山でもみられましたが、ここ牛田山の登山道、両脇が派手に掘り起こされている。
誰の仕業か?

Poirot
いかに巧妙に誤魔化そうとしても、この灰色の脳細胞はだまされませんぞ!

いや、わたしゃ単細胞の脳しか持ってませんが、犯人の足跡みっけ。

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イノシシが掘り起こしたようです。(脇の百円玉はスケールとして置いたもの)

人口118万人の政令指定都市、広島。
そんな都市の中の里山で、野生生物の生きる証を所々にみかけながら下山。
それからちょいとお勉強したいため、下山して広島市水道局・水道資料館に直行します。

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白木山(しらきやま)889m

JR芸備線、白木山(しらきやま)駅に降り立つと、その山は目前にそびえていた。

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広島市第2位の山、白木山889mである。
様々な山の本で「訓練登山の山」「体力気力を試す」などと形容されている。

Hu
訓練の山、トレーニングの山って何?というわけで、日曜日、白木山を目指す。

芸備線の始発に乗ってきたのだが、白木山駅前の車道には登山者と思われる車が3台路上駐車されている。
登山口で一人のおばさん登山者と出会う。
私がデジカメを用意していると、
「初めてですか?」と声をかけられる。
この山は常連の登山者が多い、花はミツバツツジ、アセビがいい時期、山頂はアセビの花でいっぱいですよ、と親切に教えてくれた。

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白木山の登山道には、一から九合目までお地蔵様が立っている。

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西日本の山らしく、登山道の周囲はシダ、シダ、シダ・・・

急登と平坦な登山道が交互に続く。
1000mにも満たない山としては、なかなか登りがいがある。

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登山道を彩るミツバツツジ。まだまだツボミも多い3月末。

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途中に現れる見事なヤセ尾根。
左右は急斜面が続く。中国地方、山城跡も多いらしいが、自然の造形としてはあまりに見事な道だった。

常緑樹の緑を楽しみながら、1時間半ほどで山頂へ。
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途中の登山道もアセビだらけでしたが、山頂はさらに見事なアセビの群落。

山頂は綺麗な芝生になっており、お社と地元の方が作った避難小屋がある。
気温は6度、広島にしては冷たい風が吹いているが、気持ちがいいので芝生の上で小休止。

休んでいると、登山口で出会ったおばさん、その他の登山者が登ってきた。
どうも皆さん顔なじみらしい。
しかも「三日前は・・・」とか、「明日も」とか話が漏れ聞こえてくる。週一登山どころでなく、もう幾度も登っておられるようだ。
この白木山、本当に地元の方に愛されている。

山頂は芝生、そしてほぼ周囲360度見晴らしが良い。
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山頂の芝生の向こう、アセビの群落の中に立つ枯れ木が印象に残る。

展望を楽しみたい方、どうぞいい汗流して、登りに来て下さい。

登ってきたペースから、どうも予定より一本早い電車で帰れそうなので下山開始。
あれ?
山頂で見かけ、すぐ下山したおじさん。
下山途中、追い抜かされたトレイルランのお兄さん。
下りていくと、また下から登ってきた2人とすれ違う。

なるほど、ここは「訓練の山」「トレーニングの山」である。
JR白木山駅に着く頃、さらに団体様が白木山へと向かっていった。
まだまだ東北の山は雪に閉ざされているが、ここは広島、3月で既にこんな風に無雪期登山が楽しめる。
駅のホームで、ザックを背負ったおじさんに話かけられる。
自分はバイクで来て、JRを利用して周回登山をするという。皆いろんなコースを楽しんでいる、と教えてくれる。
私はデューク東郷なみに人を寄せ付けない顔で山に登るのだが・・・今日出会った広島の人は皆親切だ。

予定より一本早い電車で広島駅に戻る。
本日はさらに広島市民の山「牛田山」を目指す。

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桜の園

今日も、現場仕事に疲れて帰る。

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広島は、夜桜が綺麗です。

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今日から、

Hiro
お仕事のため、広島県に短期滞在しまーす。


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キム・ジャインちゃんがビールCMに出演

日本全国1億2千万キム・ジャインちゃんファンの皆様、こんにちわ。

 一昨年、大の酒好きであることを明かした キム・ジャインちゃんですが、3月23日から韓国で放映開始されたビールのテレビCMに出演中です。

 韓国産のビール、カス(CASS)フレッシュのテレビCMで、メインは若手俳優キム・ウビン、イ・ジョンソクなのですが、テレビCM開始11~14秒にキム・ジャインちゃんが出演してます。
 テレビCMは15秒、20秒、30秒の各バージョンがあるのですが、ここでは30秒版をどうぞ。


 メイン俳優のキム・ウビン、イ・ジョンソクが人工壁をクライミングしているシーンがありますが、この2人にクライミング指導したのがキム・ジャインちゃん。
 このカス・フレッシュを生産しているOBビール社がキム・ジャインちゃんのスポンサーなんだそうです。

Kim
最近は、自動車のGMコリアで新車モニターとして試乗会に出演するなどひっぱりだこのキム・ジャインちゃんでした。
今年のW杯もファイテン~

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軍沢岳(いくさざわだけ)

3月も下旬。
今でなければ登れない山。

夏道が無い山、軍沢岳(いくさざわだけ)1193mを目指す。
昨年、ガイドでもプライベートでも通った最上(もがみ)の山々で、稜線から目立った山、軍沢岳。

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日射しは時折さすものの、冷たい強風が吹く。
雪面は硬く凍りつき、一部は完全に透明な氷と化している。

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強風が樹林を吹き抜け、昨夜積もった粉雪を巻き上げる。

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夏道の無い山。熊のテリトリーなのだろう、爪痕を幾つも眺めながら登高する。

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主稜線に立ち、頂上は目の前。
スキーシールも効かない氷った斜面に苦労した報酬は、誰もいない、足跡も無い、静かな山頂でのひととき。

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帰りの立ち寄り湯。
ガイドブックの記載では秋の宮山荘の紹介が多いようですが、今回は新規開拓も兼ねて少し離れた太郎兵衛へ。

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車を停め、玄関に入るとご主人らしい老人が立っていた。
「釣りですか?」
「登山です」
「えっ、一人ですか」
「はい」
「この辺で高い山というと」
「軍沢岳へ・・・」
「雪崩とか危なくないですか」
「はあ、気を付けてますんで・・・」
どうもご主人からは、雪山に一人で登ってきたということで呆れられてしまったようだ。

浴室は共同浴場のような大きさで、広くはない。
洗い場も一つだけ。(シャンプー、ボディソープ有)
大型浴場と違い、静かに入浴したい単独行者にはオススメの温泉。

帰り際、敷地内から車で出ようとすると、宿の女将さんらしいお婆さんがわざわざサッシ戸を開け、会釈して見送りして下さった。
立ち寄りの入浴客にすぎませんが、宿のご主人とのやりとり、女将さんの丁寧なお見送り。
静かな山行、人情厚い温泉のある東北の山に、ぜひどうぞ。

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事実、真実、人々の記憶

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 3月12日付の記事で、イタリア隊によるK2初登頂のドラマ化を 【テレビ映画】 K2、イタリア人の山 としてとりあげました。
 
 この話題、よくコメントを頂戴する方から某SNSでもとりあげて下さったのですが、「いやはや、ボナッティの一件はどんな風に描かれるんでしょう。」と私が危惧したとおり、番組放映後、イタリアでは議論の的となってしまいました。
 K2初登頂に関わった隊員遺族、関係者から、

 「てきとーに話盛るんじゃねえ」
 「番組製作前に遺族に何の挨拶もねえぞ」
 「今さら昔の話を蒸し返すな」

などなど批判が相次ぎ、イタリアでも著名な山岳映画祭トレント山岳映画祭のディレクター氏もコメントを求められる事態となりました。イタリアの登山・アウトドアポータルサイトMontagna.tvだけでなく、一般メディアも「批判相次ぐ」と報道しています。 

 あまりヒマラヤ登山に詳しくない方も当ブログをご覧になっているようですので、ここで簡単に世界第二位の高峰K2(8611m)初登頂に関わる出来事を当ブログ流に説明します。

 そもそもイタリア隊による1954年のK2初登頂は、登山隊結成前から様々な人間の思惑が絡む登山でした。
 初登頂の前年53年、イタリアを代表するクライマー、リカルド・カシンが張り切って偵察に行きますが、54年の登山隊の隊長の座は、リビアで石油をあてた地質学者アルデート・デシオにかっさらわれてしまい、カシンも相当に凹んだといわれています。
 そして54年、K2に赴いたイタリア隊。

 最年少のワルテル・ボナッティがバリバリ活躍。
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 登山活動で先頭にいたアキレ・コンパニョーニとリノ・ラチェデリが「ボナッティに初登頂もってかれるんじゃね?」と考え、荷揚げ予定のボナッティが届きそうもない、当初予定されていた場所より高い位置まで登りキャンプを設ける。
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 何も知らず頂上攻撃用に酸素ボンベを荷揚げに来たボナッティ。キャンプ予定地に到着しても何もなく、疲れ切った高所ハイポーターと必死のビバークを強いられた挙げ句、ハイポーターは重度の凍傷を負い、下山せざるを得なくなる。
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 コンパニョーニとラチェデリ、ボナッティが必死の思いで荷揚げした酸素をちゃっかり回収、K2初登頂に成功。
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 登山隊は「隊全体の成功」として、登頂者2名の氏名は公表せず、隊の成功のみ発表。
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 登山隊下山後。
 デシオが編纂した登山隊報告書でコンパニョーニが「頂上に着く前に酸素切れちゃってさー、空のボンベで登頂したんだよね。ぬけがけで登頂狙ってたボナッティ酸素吸ってたんじゃね?」と主張、執筆。
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 さらにK2初登10周年の1964年、マスコミが「ボナッティがハイポーターと共に初登頂狙ってたんだよね」と報道
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 さすがのボナッティも激怒、名誉毀損で訴訟を起こし、CAI(イタリア山岳会)と孤独な闘いを続ける
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 50年経過。
 この間、1986年、オーストリアの医師がボナッティの経緯に関心を持ち、酸素ボンベ残量など詳細に検討、K2報告書の疑問点を洗い出す。
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 50年経過した2004年、リノ・ラチェデリが自著でボナッティの証言を認める。
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 2007年、CAI(イタリア山岳会)、ボナッティの名誉回復を正式に認め、公式見解も訂正。
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 2009年5月、アキレ・コンパニョーニ逝去。同年11月リノ・ラチェデリ逝去。
 ↓
 2011年9月、ワルテル・ボナッティ逝去

 と、クライマー達の思惑、そして名誉を賭けた訴訟が50年にわたり続いた登山隊でした。
 この登山隊を史実のとおりテレビドラマ化しようとするならば、当然コンパニョーニ、ラチェデリ、そして隊長のデシオも悪役にならざるをえないでしょう。
 番組を製作したRAI(イタリア放送協会)はフィクションであることを強調しながら放映したものの、登山隊隊員の遺族を満足させるものではなかったようです。
 特に「悪役」である故アキレ・コンパニョーニの奥様、エルダ・コンバニョーニは「放映前に一度番組を見せて欲しいと制作者に手紙を書いたが、なんの返事も無かった」と怒り心頭。
 その他、関係者遺族からは「脚色が強すぎる」という旨のクレームが多いようです。

 さて私もイタリア語はチャオぐらいしか知りませんし、とにかく番組視てみたい。
 幸い、RAIは放映番組を放送局ウェブサイトで公開している事が日本のイタリア語学習者には知られています。
 このK2ドラマも公開されるだろうと期待してサイトを閲覧しましたが、番組が論争の的になっているためでしょうか、出演者のインタビューは公開されているのですが、放映された番組自体は今現在閲覧できないようになっています。そこで某動画サイトで本編を閲覧すると・・・

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遅れる仲間をひっぱりあげ、高所でも無類の強さを発揮するワルテル・ボナッティ

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「ボナッティに初登頂もってかれちまうぜ」と、予定キャンプ地からさらに高所に登ることをくわだてるアキレ・コンパニョーニ、ボナッティの事を気に掛けながらもついていくラチェデリ

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「ちょ、ちょ、なんでなんもねーの?なんで2人上に登ってんの?」と空のキャンプ予定サイトで呆然とするボナッティ

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暗闇の中、疲労しきって倒れかかるハイポーターをかばいながらビバークに追い込まれるボナッティ達

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やったぜベイベーと初登頂するコンパニョーニ、ラチェデリ

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登頂シーンでは、当時の実録フィルムも使用されています

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2人の初登頂を呆然と下から眺め、ポーターに声を掛けられるボナッティ

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登頂成功後、喜びにわくベースキャンプで一人孤独に記録をとるボナッティ。
この後、すまなそうな表情のコンパニョーニとラチェデリとの対面がありますが、隊長のデシオが割って入り、あくまでもお祝いムードが続きます。

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登山隊帰国後、熱狂して隊員たちを迎える群衆。
私の推察ですが、番組制作者が訴えたかったことの一つは、54年のイタリア隊K2初登頂がいかに国民に元気を与えたか、というメッセージではないかと思います。

番組は帰国後、愛する家族のもとへ帰る隊員たちの姿を映します。
しかし、その中にボナッティの姿はありません。

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ワルテル・ボナッティは独り、岩壁からロープでぶらさがって読書中。
その姿に山々の光景がオーバーラップし、番組は終わります。

番組の最後に、陽気なBGMが止み、静かなピアノの音色と共に字幕が現れます。

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そこにはこう記してあります。
『50年以上にわたりワルテル・ボナッティは裁判で争い、K2登頂における事実が認められました。2004年にはCAIの公式見解も訂正され、名誉回復がなされました。』

 このように、ドラマ本編ではコンパニョーニ、ラチェデリらによるボナッティに対する「だしぬき」が正直に映像化されています。
 そのことが実際に何万という大衆の眼に触れる「ドラマ放映」されるということは、コンパニョーニ、ラチェデリ、そしてボナッティの関係者の方々にとっては、安易な映像化、はっきりいえば触れられたくないデリケートな部分であることは想像に難くありません。

 ここまで番組が批判されていることを述べましたが、イタリアのメディアによれば、「山を知らない」一般の視聴者には評判はおおむね良かったそうです。いわく、「今まで私たちが知らなかったイタリアの歴史を知ることが出来た」ということで、ワルテル・ボナッティを演じたマルコ・ボッチも同様の意見を発言しています。
 前述しましたが、番組製作のRAIも放映前から強調していたように、1954年のK2初登頂は、第二次世界大戦の敗戦まもないイタリアでは、明るく勇気づけられる出来事だったのです。

 私は先に書いた記事のとおり、批判は多いけれども、やはり先人が成し遂げた「8000m峰初登頂」という出来事を通じて未知未踏への挑戦がテレビドラマ化され、一般大衆の眼に触れる機会があるということは素晴らしいことだと思います。
 様々な人間の思惑が絡み裁判に発展した登山隊ゆえ、そのドラマ化にはやはり賛否がつきまとうのも当然と思います。

 当ブログでは過去にも幾度か書きましたが、私自身もある遭難報道に巻き込まれ、「事実と真実は違う」ということを登山隊の留守本部で苦労された大先輩から言われました。
 一つの登山にまつわる人々の想いというものを、今回のK2登山隊のドラマ化・放映後の論争報道から考えさせられました。

蛇足ながら、番組の最後、岩場で一人静かにロープにぶら下がり読書するワルテル・ボナッティ氏。
イタリア人の抱くボナッティ像がかいま見えるような、最後まで「山男」「クライマー」として描かれているその姿に、私個人としてはホッとした次第でした。

参考サイト
Quello non è il nostro K2. Parlano Compagnoni, Desio, Rey e gli altri eredi del 1954 by Montagna.tv 2013.3.21
(それは私たちの知るK2ではない。デシオ、レイ、コンパニョーニ他遺族関係者が語る)

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【ネパール映画】UMA

2013年3月20日夜、ようやく映画予告編が公開されました。
ネパール映画『UMA』です。

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1996年、ネパールで武装蜂起を始めたネパール共産党統一毛沢東主義派、通称マオイスト。
停戦となる2006年まで、10年にわたりネパール国内が内戦状態となりました。
国連の報告では、犠牲者は約17000人に及ぶといわれています。

ドラマの設定は2000年はじめ。
内戦下のネパールにおいて、病気の母を抱えた家族を養うため職務に忠実であろうとする警察官の兄。
社会の改革を唱える教師に感化され、マオイストとして武力闘争に身を投じる妹。
一家がイデオロギーで分裂する悲劇を、映画は描いていきます。

公開された予告編がこちら↓

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病に苦しむ母、家族を支える兄、そして学生の妹。

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職務に忠実な警察官の兄ミランは、母と妹の幸せな人生が唯一の願いだった。

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そして忍び寄る、「社会改革」という名前の暴力の連鎖。

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政治闘争に身を投じ、兄と対立する身となった妹のユマ。
やがて一家は社会の流れに引き裂かれていきます。

 私がこの映画に着目したのは、ネパールでも映画というメディアを通じて、内戦当時の社会状況が顧みることのできる時代になったのか、と思ったからです。
 数年前、カトマンズでミスコンが開催された時はマオイストのブス女どもが開催反対をわめいて実力行使してましたからね。

 はっきり書きますが、ネパールの内戦当時、日本の名前の通った旅行関係団体の皆様も、客足が減ることを恐れてあまりマオイストの件には触れたがりませんでした。(あれ?ボク何か事実と反すること書いてます?)
 ネパールの民衆の多くは、先進国の人々のようにパソコンを手にして当ブログのように駄文を書くような手段を持ち合わせていません。ましてマオイスト闘争に身を投じるような、貧しい寒村の人々ならなおさらでしょう。
 映画という形式で、あのネパール内戦下、ある日突然「革命」の名の下に戦乱に巻き込まれた人々の姿を知りたいものです。

 クライミングライターと称する輩で盛んにツイッターで「革命」を唱える人間がいますが、本当に革命の意味をご理解いただいているのでしょうか?
 社会改革の名の下に、ネパールでは前述のとおり17000人以上の命が奪われました。
 その中には、この映画のように家族が敵味方に分かれた例もあったでしょう。(ちなみにこの映画、よくありがちですが実話を元に制作したというふれこみです。)
 やはり選挙を軸とする直接・間接民主主義は民主国家として守り抜かねばならない制度であることは、ネパールで流された血を思えば、まともな方にはご理解いただけるはずです。

 さて、話題を軽くしましょう。
 主役のUMAユマを演じているのは、ネパールの女優RECHA SHARMA。(サイトによってはRICHA、REECHAとも表記)
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 ずいぶん目鼻立ちがしっかりしてると思いきや、2007年ミス・ネパールでセミファイナル10人に残った美女でした。カトマンズ在住のモデル兼女優ですが、前作の『ハイウェイ』では売春婦兼ダンサーというきわどい役柄をこなしています。
 あ~巨乳だし。いやいや、私マラソン大会でみかけるスレンダーでキュートな女性にも目を奪われますよ(免罪符)
 
 またネパールのネットで話題になっているのは、映画『UMA』の主題歌「Siri ma Siri」を歌うロックグループ『Abhaya and The Steam Injuns』。
 私も90年代のネパールしか記憶にないんですが、今はこんなパンチの効いたロックグループがネパールにいるんですね。こちらも映画『UMA』の予告編を兼ねています。

 歌のようなスラングも多く含むネパール語はさっぱりなのですが、YOUTUBEで英訳してくださった方のコメントでは『すべての道が閉ざされ、夢も奪われ、愛しい人に裏切られた。 革命の嵐が吹き荒れ私たちは苦しんだ。 時の流れが夢と希望を持ち去っていった。』というような歌詞だそうです。

 どっか日本の映画祭で上映されることを、強く希望します。

映画『UMA』オフィシャルサイト

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喰われろ!

嗚呼、東北もようやく暖かくなってまいりましたよ。

さて、今夏の海辺キャンプにむけて張り切っている方へのお勧めグッズです!

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サメ寝袋。

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オルカ寝袋。

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アリゲーター寝袋。

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キッズ用サメ寝袋もあります。

 これらユニークなシュラフを製造販売しているのは、PatchTogether株式会社が売り出しているブランド、CHUMBUDDY

 『喰われろ!』と茶化したタイトルを付けましたが、この製品はもともと海洋生物を愛するデザイナー、ケンドラ・フィリップス(Kendra Philips)がサメを凶暴な生物としてセンセーショナルに報道するメディア、「非人道的な」漁業に疑問を抱き、ソフトで親しみやすい生き物の姿を提示したいというメッセージが込められた製品です。
 CHUMBUDDYのウェブサイトにも書いてありますが、製作段階では試行錯誤を繰り返し、試作段階では厚いフリース地を用いたため、ミシンを何台も駄目にしてしまったとか。
 気になるお値段は、子供用サメ寝袋が特別価格100$、他3種類は特別価格199$で販売中。
 販売サイトの説明文にある『Hand made with care and love!』が微笑ましいですね。

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韓国の『山の歌』

 韓国の山岳雑誌『MOUNTAIN』2013年3月号において、登山学校の老舗ともいえるコーロン登山学校校長イ・ヨンデ氏が『山の歌』に関して興味深いエピソードを披露しています。

登山家たちの哀歓込められた山の歌 by 月刊MOUNTAIN 2013年3月号

以下記事引用開始
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登山家たちの哀歓込められた山の歌

文 イ・ヨンデ コーロン登山学校校長

 近代登山がこの地に根を下ろしてから、いつのまにか80年が過ぎた。歳月を重ね、登山は既に一つの文化に成長し、文学、絵画、写真、音楽、歴史、生態など、さまざまな文化と交わり位置づけられている。

 登山文化の中でも『山の歌』は山屋の伝統、慣習、挑戦の精神、哀歓、生活などが歌の中によく溶けこんでおり、お互いの仲間意識を持たせる役割をも果たしてきた。軍歌が軍人の士気高揚の歌であるように、山の歌は登山家たちの挑戦の精神と哀歓を描いた歌だ。山屋の心を響かせる歌が『山の歌』という名前で呼ばれ始めた年代は定かではないが、解放前の第一世代の登山家たちから始まり、取り上げられてきたことは確かだ。

 レンギョウ峠は涙の峠
 登って下りてきた、あなたの家に
 エイヤ、レンギョウ
 そうさレンギョウ
 今はどこでレンギョウを想っているか

 きちんとした山の歌がなかった時代、日帝統治下の第一世代の登山家たちが愛唱した『レンギョウ峠』の歌詞だ。交通が不便だった時代、北漢山に行くために敦岩洞の電車終点(現在の太極堂ベーカリー前)から歩いてミアリ峠を経て、レンギョウが​​満開の三養洞レンギョウ峠を越えて口ずさんだ歌だ。民謡形式で歌われたこの歌は、九十を超えた元登山家たちに昔を回想させてくれる国内初の山の歌である。
 1970年代初頭、冬のヤンポク山荘の前でたき火を焚いて、キム・ジョンテ先生(1917~1988)が歌っていた情感あふれるレンギョウ峠が今も耳に残っているのは、この歌を最もよく歌っていた人が先生だったからと思っている。

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登山者の山の歌は1960~70年代に盛んになった。写真は1970年代初頭、韓国山岳会登山学校における山の歌を歌う光景

日帝統治下で生まれた山の歌、1960〜70年代に全盛期

 祖国光復後の1947年には、楽譜と歌詞が一緒に収録された山の歌風の『朝鮮遊覧歌』が出版された。1930年代、朝鮮半島にあちこちの高山を見つけ探検登山時代を開いた崔南善(チェ・ナムソン)が作詞し、金永焕(キム・ヨンファン)が作曲した歌だ。
 朝鮮の自然と山水の景観を賛美した歌80曲が冊子として出版されたが、当時は一部の裕福な知識層だけが登山をしていた時期だったため、大衆の共感を得られないまま6.25戦乱(訳者注:朝鮮戦争のこと)が始まり途絶えてしまった。

 山の歌が登山家たちの間で全盛期を迎えた時期は、1960年代後半から1970年代後半までである。この時期がピークであったが、炊事キャンプ制限措置がとられた後にはキャンプ場が制限され、山の歌の熱気も徐々に冷めてしまった。
 登山活動が盛んになった70年代には、これに歩調を合わせて山の歌も盛んになった。

「山には心がある山男のねぐら・・・あなたなしで生きられない人は山男だけ」

 当時の登山家たちの間で最も多く歌われた『山男』の一節だ。当時この歌は、登山家たちの情緒によく似合い急速に広がった。
 しかし、日本の山の歌『山男の歌』を翻案した曲であることが明らかになり、徐々に廃れてしまったが、その時代の登山家たちにとっては山の雰囲気あふれる歌だった。

 当時山に通った人々にとって『雪岳歌』、『雪岳、嗚呼さようなら』、『山娘』、『山男』、『登山家の歌』、『隠れた壁賛歌』、『懐かしい山頂』、『あの高い山』、『楽しい山歩きの道』、『遙かなる山頂』、『山の旅人』、『ザイルの情』、『山の物語』、『エーデルワイス』、『ベルネ山里』、『美しいスイスのお嬢さん』、『青い大空にロープを投げろ』など50編余りの山の歌を聴かなかったことはないだろう。音痴を自認する登山家たちも、こんな歌の二曲ぐらいは覚えているだろう。

 この時期に最も愛唱された山の歌は『雪岳歌』(イ・ジョンフン作詞作曲)が断然トップだった。星の光が長い尾を描いて落ちる雪岳山の麓のキャンプサイトで、ウクレレ(ハワイの先住民が使用する弦楽器)の伴奏に合わせて『雪岳歌』を歌えば、「ポンチャック」(訳者注:韓国の大衆民謡の一種)や大衆歌謡だけ慣れていた一般人たちも感動するほどだった。『楽しい山歩きの道』(イ・ジョンフン作詞作曲)は、歌手ギム・ホンチョルのアルバムに収録された歌であり、力強く軽快なテンポの『登山家の歌』は当時、韓国山岳会長を歴任したイ・ウンサンが作詞、キム・ドンジンが作曲した曲です。この歌は韓国山岳会歌が指定され、登山家たちに広く愛唱されている。

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 韓国初の山岳会だった白嶺会会誌に掲載されている山の歌の歌詞。ハングルで書かれた『山が呼ぶ』'のほかに日本語で書かれた『働け働け』、『ローレライ』、『モーツァルトの子守歌』などが掲載され、当時の山の歌を伺い知ることが出来る。

 登山家は山の歌で連帯意識を育て、心の痛みを分けあった。また、登山中の苦難に直面したときは、山の歌を介して挑戦の精神を育てて来た。
 1983年、北漢山インスボンを突然の寒波が襲い気象が急変、複数名が凍死した大量遭難が起きたとき、何人かの大学生は毛布をかぶったまま低体温症で意識が薄れるのを防ぐため、一晩中山の歌を歌い、お互いを励まし、危険を克服したこともあった。

 登山家たちは非常にユニークな集団である。彼ら同士通用する世界共通の言語である登山用語があり、コンセンサスを形成する歌まで作って歌っている。
 山屋は山の歌を歌って、集団意識を育て、心の痛みを分けた。また、登山中の苦難に直面した時も挫折せず山の歌を歌って精神を奮い苦難を克服した。当時、現場から生還した人々は「おそらく山の歌がなければ、全員が低体温症で死んでしまっていただろうと回想する。

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以上引用終わり

 月刊MOUNTAINの本文では、この後『山の歌』に関わった韓国の岳人たちの紹介が続くのですが、ここでは割愛します。

 韓国の近代登山を語る上で、どうしても韓国併合後の日本統治時代に触れないわけにはいきません。
 上記記事で大変興味深いのは、二枚目の画像、『白嶺会』会誌にハングルで書かれた歌詞の他、日本語で幾つもの『山の歌』の歌詞が書き込まれていることですね。

 簡単に歴史をふり返ってみます。
 1931年、朝鮮総督府の鉄道局職員である飯山達雄らにより、朝鮮山岳会が結成される。
 1936年、日本人を中心とする朝鮮山岳会に対して朝鮮人が集まり、金曜日に集会を開く山岳会「金曜会」が結成、38年に「白嶺会」と改名する。
 
 左翼プロ市民な方には「日本人VS朝鮮人」という図式が期待されるところですが、実際には朝鮮山岳会においても朝鮮の方々と日本人が一緒に登山を行っていました。
 上記記事の冒頭、『レンギョウ峠』を魅力的に歌ったキム・ジョンテ氏こそ、後に白嶺会の中心人物となり韓国の近代登山史に欠かせない人物です。キム・ジョンテ氏は朝鮮山岳会で日本人と共に山行を重ね、日本でスキーを学び、朝鮮の人々にスキーを広めていきました。
 1930~40年代、日本人によって行われた白頭山冬季登山を朝鮮の人々は忸怩たる想いで受け取ったようですが、1944年に白嶺会は雪岳山の冬季登頂を果たします。
(白嶺会会員ヒ・ソン氏の証言による)
 
 記事中、韓国において『山男の歌』(娘さんよく聞けよ~、というあの歌です)が日本の歌と明らかにされたため、廃れていったという記載がありますが、完全に潰えたわけではないようです。
 先のアンナプルナ南壁におけるパク・ヨンソク氏の遭難を受けて、追悼の意を込めて韓国語で「山男の歌」が歌われているのを動画サイトでみることができます。

 日本人と親交があった人々を「親日」と断罪、その子孫まで糾弾される韓国では認められるのは難しいのでしょうが、白嶺会の会誌に日本語で書かれた歌詞からみても『山の歌』において日本の登山者の影響があったと考えるのは自然なことでしょう。
 この会誌に書かれている歌は『菩提樹』や『ローレライ』など、正統派な合唱曲が並んでいます。
 
 この『山の歌』に関する文章を書いたイ・ヨンデ氏が校長を務めるコーロン登山学校では、「山の歌」の授業があります。そのことは以前韓国メディアで知っておりましたが、イ・ヨンデ氏によれば残念ながら、この度コーロン登山学校でも暫定的な措置ながら、「山の歌」授業は廃止されるとのこと。

 日本でも、稜線のキャンプ場では一人用テントがあふれる個人主義の現代ですから、若者の登山ブームが起こっているとはいえ、寄り集まって山の歌を歌うなんて風景はほとんど無いと思われます。
 かくいう私も学生時代、高校大学と山岳部に所属していながら、合宿中に山の歌を歌うなんてことは ま っ た く ありませんでした。
 
 それから数万年の時を経て、ある旅行社の無雪期シーズン閉めのツアー山行で、主催担当者さんのアイデアでランチタイムに「雪山賛歌」を歌ったことがあります。
 中高年から登山を始めた方にとって、「山の歌」はどんな風に受け取られたことでしょう。
 
 イ・ヨンデ氏の回想に出てくる『レンギョウ峠』とは、こんな歌です。
 クリックした後、少し広告が現れますが、すぐに曲が始まります↓

 韓国語で「ケナリ」とはレンギョウのこと。
 春に韓国を訪れると、黄色いレンギョウの花があちこちに見事なものです。
 まだ『山の歌』も確立していなかった時代、山屋たちがレンギョウの花を歌ったのも、うなずけるところです。

 こちらは70年代の韓国で爆発的な人気となった山の歌『雪岳歌』。
 知らない奴はスパイだと言われる程の人気だったとか。

 美しくあれ雪岳山、また来るよ、という内容の歌詞です。

 で、私の好きな『坊がつる讃歌』ですが、


 実は山で教わったものではありません。
 就職してから、私の8000m峰遠征を支援してくれた直属の取締役(地質学専門で御自身もよく山に入っていた)が飲み会のカラオケで歌っていたのを聴いて覚えたものです(^-^;

 数多く存在する、皆さんもご存じの『山の歌』。
 もしかしたら韓国の山でも、誰かが同じ歌を歌っているかもしれません。

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今春のエベレストさんは、

タラちゃんです。
今春のエベレストさんは、

 ★シモーヌ・モローとウエリ・シュテックがエベレスト南面に新ルート開拓予定(詳細不明)

 ★グレブ・ソコロフとアレクサンドル・キリコフのロシア隊がカンシュンフェースに新ルート開拓予定

 ★デニス・ウルブコとアレクセイ・ボロトフがエベレスト南西壁をアルパインスタイルで登攀予定

 ★韓国のキム・チャンホが無酸素8000m峰14座の最後として、エベレストを海抜0mから徒歩・カヌー・自転車でアプローチして無酸素登頂予定

 の、4本です。

 さて、日本のクライマーにも知られるデニス・ウルブコらの登攀予定ルートが公開されました。
 去る3月14日、ロシア・エカテリンブルグのコムソモールスカヤ・プラウダ・プレスセンターでアレクセイ・ボロトフが今春のエベレスト登攀に関する記者会見を開きました。

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 アレクセイ・ボロトフ(右 過去にマカルー西壁、ジャヌー北壁直登で2度ピオレドール受賞)、左のおっさんは登山隊の相談役ユージン・ウィノグラドスキー(80年代にソ連隊でカンチに登頂、07年K2西壁登攀したクライマー)

Уральский альпинист собрался покорить Эверест без кислорода, средств связи и сопровождения врачей by コムソモールスカヤ・プラウダ 2013.3.14

この記者会見に先立つ3月13日、地元のスベルドロフスク山岳連盟のウェブサイトで公開された登攀予定ルート図がこちら↓

R1

このルートがロシアの某クライミングサイトでは話題になっています。
私の手持ちの資料では、このラインは決してウルブコ、ボロトフのオリジナルという訳ではなく、南西壁の大クーロワールからロックバンドにかけては、71年のノーマン・ディーレンファース率いる国際隊のルートに沿ったラインですね。
71年の国際隊は日本からは植村直己(明大)、伊藤礼造(山学同志会)の両氏が参加したものの、イギリスの「酔っぱらい」ドン・ウィランスとドゥーガル・ハストンにトップを譲ってもらえず、さすがの植村氏も相当キレかかったといういわくつきの隊。
 ウィランスとハストンのペアはロックバンド下部を右上するルートどりで8350mまで到達。
 
 今春のウルブコ、ボロトフのペアはアルパインスタイルで当然無酸素、固定ロープ無、さらに外界との接触を断つため無線機・通信機の類もベースに置いていくと報道されています。

 エベレスト南西壁をアルパインスタイルで登攀するという課題は88年にチェコスロバキア隊の4名が達成していますが、下山途上に行方不明となり全員死亡。
 ウルブコらが、過去にハストンら当時一流のクライマーを退けたロックバンドを、アルパインスタイルでどう攻略するのかが注目されます。

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外国語は難しい。

「おとうさん、また『ヤマノススメ』みてんの?」

小学生の娘と息子にからかわれながら、えーえー、視てますよ『ヤマノススメ』。

アニメ版『ヤマノススメ』、人気なのは日本だけじゃありませんで・・・

Go

台湾でも原作、アニメ版両方とも人気です。

あれ?
台湾版はタイトルが『前進吧!登山少女』・・・

これ、『ヤマノススメ』の「ススメ(勧め)」を「進め」と勘違いしたんだろうか。

あのゆる~いストーリーに『前進吧』(行ってみよう)というニュアンスも合わないではないが、それも考慮しているとしたら、なかなか巧い訳ですね。

最近、台湾で放映された日本の某時代劇を視ていたら、

遠藤、辛苦了。』(遠藤、ご苦労さん。)

という字幕が出ていた。

その時代劇の台詞は、

遠路、ご苦労であった。

映像翻訳の方が、「遠藤(えんどう)」と「遠路(えんろ)」を聴き違えたんでしょう。

いやいや、外国語は難しい。

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追悼 Maciej Berbeka

去る3月5日、ブロードピーク冬季初登に成功したポーランド隊。
残念ながら、登頂した4名のうち、Maciej Berbeka と Tomasza Kowalskiの2名は最終キャンプに帰り着くことができず行方不明、3月8日、高所生理学の専門家・医師との協議も交え、両名とも死亡と判断されました。

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帰らなかったTomasza Kowalski(左)、Maciej Berbeka(右)

 Tomasza Kowalski(トマシュ・コワルスキー)は1985年生、アラスカ・デナリ山群で約100kmにわたる長大な縦走登山を敢行、30歳未満の優れた登山家に贈られるアンジェイ・ザワダ賞を受賞した期待の若手登山家でした。

 ここでは、当ブログで注目していたMaciej Berbeka(マチェイ・ベルベカ)についてとりあげます。
 なぜ私がマチェイ・ベルベカに注目したのか。
 それは1988年冬、「ブロードピーク冬季登頂に成功した」と言われながら、実は到達した場所が前衛峰(8030m)で真の頂上(8047m)ではなかった、という過去を持つ人物だったからです。

 マチェイ・ベルベカは1954年、ポーランドのザコパネに生まれました。
 父親のクシシュトフ・ベルベカもトップクライマーでしたが、マチェイが10歳の時にスイスアルプスで遭難、収容されたチューリヒの病院で亡くなります。
 マチェイはポーランドの国立美術学校で学び、家族も奥様も芸術・美術に関わる芸術一家でした。
 そんな環境の中で登山を始め、ポーランドの「ヒマラヤ黄金時代」と言われる80年代、活発に活動していたザコパネ山岳会でマチェイは鍛えられることになります。
 84年には冬季マナスル登頂、85年には冬季チョーオユー登頂、87年には冬季K2にトライします。そして88年、運命の冬季ブロードピークに挑みます。

運命の「3月5日」

 88年3月5日、アレクサンドル・リボフ(Aleksander Lwow)とマチェイは最終キャンプから頂上を目指しました。
 極寒の中、風雪が強まり視界不良となり、リボフはついに登高を断念。しかしマチェイは単独で登り続けることを決意します。
 そしてそのまま、マチェイの消息は途絶えてしまいました。唯一の無線機はマチェイが持っていたためです。
 ほとんどマチェイの生存が絶望視される中、リボフは彼の生還を信じ、お湯を作りながら最終キャンプで待機していました。
 翌朝、リボフはマチェイの叫び声を聞きます。高所衰退と低酸素で狂ったのではないかとリボフが思ったほどの叫び声でした。リボフはテントの外に出ますが、視界不良で何も見えません。ガスの中でライトを照らし、ようやくマチェイを収容できたのでした。
 「頂上に立てた」というマチェイのアイゼンと靴を脱がせ、リボフは凍傷の応急処置に追われます。
 まさに奇跡的な生還だったのです。

暗転した「冬季初登頂」
 88年のマチェイのブロードピーク「冬季初登頂」は、結果的には前衛峰の登頂でした。
 英語圏の資料では、マチェイの登頂写真から前衛峰登頂と判定された、といわれていますが、実際は異なり、登山隊のメンバーもマチェイの言葉から「頂上に達していないのではないか?」と思っていた節があったようです。
 それはマチェイの何気ない一言がきっかけでした。

「(登頂)記念の石をとってくれば良かった」

 そう後悔するマチェイの言葉に疑問を抱いたのは、老練なクシストフ・ビエリツキでした。ビエリツキは84年、単独でブロードピークのワンディアッセントに成功していました。彼の経験では、ブロードピーク主峰は雪に覆われたピークのはずだったのです。
 登山隊メンバーの間には(登ったのは前衛峰ではないか)という疑問が漂っていましたが、劇的な下山を果たしたマチェイにそのことを言い出せる者はいませんでした。

 その間にも「1988年3月6日、マチェイ・ベルベカがブロードピーク冬季初登に成功」という情報が世界各国に流れ、ポーランドとパキスタン両政府はマチェイにスポーツ表彰を決定します。

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88年冬季ブロードピーク遠征時のマチェイ・ベルベカ(左)、日本のヒマラヤニストにもおなじみアシュラフ・アマン(中)、アレクサンドル・リボフ(右)

 山から下山後、アレクサンドル・リボフが書いた手記から、真実が明らかになります。
 冬季初登頂を果たしたと思った頂上が、実は真の頂上手前の前衛峰だった。
 そのことに最も傷ついたのは誰よりも、マチェイ・ベルベカでした。

そして再挑戦
 登ったピークが真の頂上でなかったとはいえ、人類で初めて冬のカラコルム、8000mに到達したマチェイ。
 彼はその後もヒマラヤ登山を続けます。アンナプルナ南壁新ルート、冬季ナンガパルバット、そして93年にはガイドとして、チョモランマ北面ルートからのポーランド人初登を果たします。
 マチェイはタトラ山地の救援隊隊員であり、国際山岳ガイドでもあります。その足跡はヒマラヤ、アンデス、パミール、そして日本も訪れた経験を持ちます。

 59歳という年齢、そして長いブランクを経て、2013年の冬季ブロードピーク再挑戦。
 その心情は、ポーランド語のヒアリング能力の無い私には直接伺い知ることは出来ませんが、推察は容易です。

 日本ヒマラヤ協会の山森欣一氏が「高所遠足」と呼ぶ現在の8000m峰登山。
 今やサミッターは数千人以上になり、その現状の上っ面だけをとらえて「誰でも登れる8000m峰」などと勘違いしている方が多いようです。

 しかし考えてみて欲しい。
 50年代の初登頂時代以降、サミッター(登頂者)の陰にいる、その何倍もの、頂上に立てなかった幾人もの人々の数を。
 頂上に立てなかった者のその後は、どうだろう。
 夢を夢として諦める者。
 再挑戦を夢見、夢で終わる者、
 実際に再び再挑戦する者。
 様々であろう。
 
 登頂という栄光が後に幻となったマチェイ・ベルベカは、59歳という年齢ながら、再び冬の8000m峰に向かう選択をした。
 真の登頂を果たしたい。それ以外に理由はあるだろうか?
 世界には、その8000m14座完登を「疑惑の登頂」と騒がれながら、「もう再び山に向かうことはない」と宣言し、知らぬ存ぜぬとばかりに記録を主張する者もいる。
 そんな一方で、マチェイは自分自身のために、再び危険な冬の8000m峰に向かったのである。
 だからこそ、私は思う。
 マチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキーには生還してほしかった。
 マチェイの生き方には、8000m峰を目指して夢を果たせなかった者を揺さぶる何かがあるからだ。

 88年のブロードピーク遠征でのパートナー、アレクサンドル・リボフは現在、ポーランドの山岳雑誌の編集にたずさわっている。今回の2人の遭難でもポーランドのメディアからインタビューを求められていたが、その心情はいかばかりだろう。
 彼が88年の遠征について書いた本のタイトルは、『勝利、生きて帰ること』である。

 P3
マチェイ・ベルベカの画像を検索すると、どれも怖い顔をした画像ばかり。
一枚だけ、おそらくガイド山行の帰りであろう、ビール片手に笑顔のマチェイの画像を見つけることが出来た。

マチェイ・ベルベカ、トマシュ・コワルスキーよ、安らかに。

 なお今夏、マチェイ・ベルベカの弟でやはりクライマーであるヤチェク・ベルベカが2名の遺体捜索を目的に、ブロードピークに遠征することが報じられています。

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【テレビ映画】 K2、イタリア人の山

Nellabufera
 イタリアの公共放送局RAI(日本のNHKみたいなもんです)が、このたび『K2 - LA MONTAGNA DEGLI ITALIANI』(K2 イタリア人の山)と題して、1954年のK2初登頂のドラマを映像化、3月にテレビ放映とのこと(イタリアでの話な)。

Rai, la fiction sulla prima salita al K2 in onda il 18 e 19 marzo by Montagna.tv 2013.3.12

 まずは予告動画をご覧あれ↓

 再現ドラマということで脚色が強い内容のようですが、1950年代、第二次世界大戦の敗戦から間もないイタリアで、アルデート・デシオを隊長に、ラチェデリ、コンパニョーニ、そしてボナッティら強い個性の面々が集い、地球上で最も危険な山、K2を目指す・・・というストーリー。
 番組オフィシャルサイトを覗いても、やはり個性の強い面々とその衝突、ということが描かれるようです。
 いやはや、ボナッティの一件はどんな風に描かれるんでしょう。

 さて気になるキャストですが、

 隊長アルデート・デシオ(Giuseppe Cederna)
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 リノ・ラチェデリ(Michele Alhaique)
Michelealhaique_2

 アキレ・コンパニョーニ(Massimo Poggio)
Massimo_poggio

 リカルド・カシン(Alberto Molinari)
Albertomolinari

さあ!日本のオールドクライマーの皆様が一番気になる配役、ワルテル・ボナッティは、Marco Bocci
Marcobocci
え~こんなアラン・ドロンの出来損ないみたいな優男がボナッティかよと思いきや、予告動画では髭をたくわえてなかなかボナッティのワイルドさが表現できてるような気がするのですが、いかがでせう。

 タイトルの「イタリア人の山」も凄いですが、こうして自国の登山家による8000m峰初登頂が公営放送局でドラマ化されるというのは素晴らしい。
 井上靖のつまんね小説をさらに歪曲してドラマ化した売国守銭奴放送局NHKや、遭難事故しかドラマ化・脚本化できない民放のアホどもには見習ってほしいですね。

 ヒマラヤ登山のドラマは人の生き死にだけじゃなく、個性と個性のぶつかりあい、生きている素晴らしさというものがあるはず。そういったものを描いて欲しいものです。

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東日本大震災から2年。

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Photo by Jenny (America)

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ブナ雪原探検隊2013

岡山から車で帰宅。
翌日、山形県朝日少年自然の家で開催される『親子自然塾3「ブナ雪原探検隊」』(PDFファイル)一泊二日のプログラムにサポーターとして参加。

一日目は自然の家で活動、二日目は子ども達と共に、豪雪の月山山麓のブナ林を歩くという企画である。

早めに自然の家に行き、スタッフミーティング用の資料をみると、なんと児童の参加者のうち男児は一名、他十数名は皆、女の子。

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第一日目は自然の家敷地内での活動。
数年ぶりの「ブナ雪原探検隊」、以前と異なり、自然の家所有のスノーシューが増え、事前のスノーシュー装着・歩行練習が可能になっていた。
皆でスノーシューを履き、自然の家キャンプ場敷地内で歩行練習を兼ねた自然観察。

Imgp0601
スノーシュー練習後は雪灯籠作り。雪玉を固めたドームが・・・

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日没後、ロウソクの光の漏れ具合が可憐な雪灯籠になります。

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食堂前の広場に作った雪灯籠。
その光を眺めながら、食堂で夕食をとります。
夕食後、山形県自然博物園の横山氏を講師に、明日歩く冬のブナ林のスライドショーとレクチャー。

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みんなで頭突き合わせて何やってる???
ブナの若芽、何重に葉が重なっているのか、実際に若芽を剥いて調査中です。

今夜は久しぶりに自然の家に宿泊。
昨日までの岡山からの移動疲れもあり、翌日の天気図をスマホで確認してから爆睡。

翌朝。

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最悪最低な天気図のとおり、自然の家から月山山麓の志津集落まで強い雨。
前線通過も間近いのだろう、風も吹き出してきた。
自然の家の先生方と横山氏の協議で当初の予定を変更、志津集落より下の弓張平体育館をベースに、付近のブナ林を歩くことになる。

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風の弱い林に逃げ込んだあたりから、天候は雨から雪へ。

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画像の場所で、積雪深はおよそ4~5m。
すなわち目前にある樹幹は、無雪期ははるか頭上にある光景なのだ。

前線が通過中なのだろう、風が強くなってきた。
一抱えもあるブナの木も、よくよく見るとユサユサ揺れている。
「木が動いてるっ!」
と、子どもの素直な感激の声。

林の中といえど、風雪もだいぶ強くなり、横山氏の判断で弓張平体育館に戻ることになる。

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斜面があれば、見逃さず遊んでいきます。
悪天の下でも、子どもは元気です。

私が気にかけていた小学一年生の女の子、一緒に参加した御両親に手を引かれながら、なんとか歩ききった。
あいにくの悪天だったが、歩く距離も短く、雪山も初めての小学一年生にはちょうど良かったようだった。

弓張平体育館の暖かい室内で早めの昼食をとり、全日程を短縮して自然の家に戻る。
今回の私は本部付サポーターということで放置プレイ。
子ども達から「タッキーのザック何入ってんの?」と聞かれる私のザック、子ども達のための予備手袋、目出帽、防寒着が入っていたのだが、出番無し。

子ども達の感想発表では、雪の上を自由に歩けるスノーシューの感激が印象に残った様子だった。

軽薄山岳雑誌みたいに、晴天ばかりが雪山や自然じゃありませんからね。

この「ブナ雪原探検隊」は山形県朝日少年自然の家では毎春の恒例行事になっています。
保護者ならびに保護者同伴であれば低学年でも参加可能。
普段の生活には縁遠い、雪山体験の機会として、ぜひどうぞ。

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備前焼

岡山出張で私が滞在していたのは、まさに備前焼の窯元が集中する「伊部」(いんべ)という街。
煉瓦製の煙突が街のあちこちに林立したそれは、まさに陶芸の街である。

私は陶芸に関してはよく知らない。
「備前」といえば、今では高価な骨董で知られるらしい。
図書館で書籍を調べても、芸術としての「備前」をとりあげた書籍が多い。

備前焼の特徴は、釉薬(うわぐすり)を使わず焼き締め、通常の陶器よりも硬いといわれる。
その特徴を生かし、明治時代から土管の生産でも知られてきた。

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街のあちこちにみられる、薪の山。
備前焼は明治以前は共同窯が主体で、個人で窯を持つようになるのは明治以降である。
最近は薪の入手も難しいらしい。アカマツを主体に、岡山県北、鳥取、広島から購入したものが多い。

明治から大正にかけて、備前の土管は主に西日本の鉄道局に採用され、戦前の西松組や間組にも納められるようになっていった。

昭和初期の不況で一気に土管の売れ行きが落ち込み、朝鮮半島で塩田用のタイルとして売り出すものの、品質検査ではねられて契約を打ち切られ失敗、そして太平洋戦争に突入。戦争末期は陶器製の手榴弾、地雷、軍用水筒などの生産を続けた。

今でこそ人間国宝だの古美術などで売り出す備前焼も、そんな時代をくぐり抜けてきたのである。

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伊部駅前の公園に置かれた土管(チーズ、T型の配管継手)を利用した花壇。
伊部の街を歩いてよく観察すると、備前の街を支えた「土管」が民家の庭先や花生け等に見ることが出来る。

陶器製の土管は、耐食性があり自然素材ということもあり、結構利用されていたらしい。
私は下水道の文献や土木施工管理士のテキストでしか知らない。地中配管材としては、塩化ビニール管にとって代わられたのが現実であろう。

土木作業員の私には、ギャラリーと称する店で高価な値札を付けた備前焼よりも、人々の生活を支えた土管の方が素晴らしい。そもそも、人々の生活を支える道具でありつづけることが、備前焼本来のあり方なのではないだろうか。

参考文献
 田村善次郎・宮本千晴監修『宮本常一とあるいた昭和の日本19 焼き物と竹細工』
 上西節雄・中村昭夫著『窯別ガイド 日本のやきもの 備前』
 前川満著『岡山文庫207 備前を歩く』

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冬季ブロードピーク峰ポーランド隊、状況は困難

ブロードピーク冬季初登を果たしたものの、隊員2名が消息を絶ったポーランド隊。

ポーランドメディアでは、隊長のクシストフ・ビエリツキのコメントとして、「自らの経験から、二人の生存はかなり困難な状況、ただし仲間やその家族のため、現地にとどまる」というコメントを報道しています。

まずポーランド隊の頂上アタック前後の行動を整理します。

3月1日 BCでの協議にて、アタック隊を二つのパーティーに分けず、4人合同でアタックすることを決定。

3月3日 隊員4名およびパキスタン人ハイポーターKarim HayyatがC2(6200m)入り。カリムは下山する隊員のサポートにあたる予定。

3月4日 隊員4名、C4(7400メートル)入り。

3月5日 現地時間5時15分、隊員4名頂上めざし出発。同日17時30分、Adam Bielecki と Arthur Malek が登頂。約30分後、Maciej Berbeka と Tomasz Kowalski 登頂。Bielecki と Malek は下降中に2人とすれ違う。日没時刻は17時50分。Bielecki と Malek、暗闇の中で最終キャンプに帰着。Berbeka と Kowalski はブロードピークのコル付近で15m程離れ、別々にビバーク。

3月6日 現地時間午前6時30分、ビエリツキ隊長がKowalskiと無線交信。Kowalskiは体調不良(呼吸困難、脱力感)のため、服薬の指示を受ける。KowalskiはBerbekaの姿を確認している事を伝える。その後、Berbeka と Kowalskiの2人との連絡が途絶える。同日、カリムが7700mまで登るが、2人の姿は確認できず。パキスタン人ハイポーターShaheen Baig と Amin Ullah、隊員サポートのためBCを出発。

3月7日 Bielecki と Malek、カリムはBCに帰着。Bielecki と Malekの2名は凍傷も無く健康状態は良好。依然Berbeka と Kowalskiの2名とは連絡とれず。

なお深刻な問題として、消息を絶った2名が極度に疲労している他、3月8日以降はブロードピークでは悪天が予想されています。
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 ポーランドのメディアでは「奇蹟を」「諦めるな」というタイトルで報道が続いていますが、疲労し高度衰退の影響もあると推定される2人がテント無しという状況下、8日から天候が崩れるという現実。
 8000m峰冬季登山の経験が深いクシストフ・ビエリツキは、状況がかなり厳しいという事を十二分に認識していると思われます。わずかな望みでも、今しばらく推移を見守りたいと思います。

参考サイト
 ポーランド山岳会ウェブサイト

関連リンク
 雪山大好きっ娘。+ 『ポーランド隊、ブロードピーク冬季初登』2013.3.8

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【速報】ポーランド隊、冬季ブロードピークに登頂。隊員2名消息絶つ。

所用によりPCにアクセスする時間が無いので短信です。

ポーランド隊が3月5日、ブロードピークの冬季初登に成功した模様。

Po1
(登頂に成功したとみられる4隊員、画像はSPORT.plより)

しかし3月6日現在、ポーランドのメディアは最新情報として、登頂に成功した隊員達は最終キャンプのC4にたどり着けず、その後隊員と連絡がとれないことをアルトゥール・ハイゼルのコメントとして報道しています。
ウェブサイトSPORT.plの3月6日午前9時の報道では、ハイゼルのコメントとして『zaginionych』、missing(行方不明)という語を用いており、隊員の安否が懸念されます。

Problemy polskich himalaistów. Hajzer: Uznajemy ich za zaginionych by SPORT.pl 2013.3.6

ポーランド隊の動向についてはまた改めて記事にしたいと思います。

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3/6 21時 追記

複数のポーランドのメディアが「2隊員、行方不明」として報道しています。
登頂後、最終キャンプにたどり着けなかったのはTomasz Kowalski と Maciej Berbekaの2隊員。
情報も交錯している模様ですので、二人の無事を祈りつつ、推移を見守りたいと思います。

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まとめて山の話題

週明けから作業現場がバタバタしてきたので、まとめて山の話題。

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【爺に負けたくない】
あのジム・ドニーニとジョージ・ロウがペアを組み、今夏エルキャプ・ノーズのワンディアッセントにチャレンジの予定。

Donini and Lowe Plan Nose-in-a-Day Attempt by Climbing 2013.2.25

ジム・ドニーニは6月に70歳、ジョージ・ロウは8月に69歳になるというペア、ヨセミテの近くに家を借りて準備を進めているという気合いの入り方。
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【日本を代表するアウトドアメーカーは、】
スノーピークがアメリカに進出。

Japanese camping company opens its first U.S. store today by Portland Business Journal 2013.2.28

このブログを始めて以来、様々な国のアウトドア・登山メディアのウェブサイトを拝読してきました。
私が知る限り、日本のアウトドアメーカーの中で海外で最も評価されているのは、ずばりスノーピーク社。アメリカはもちろん、反日チャンコロがデパートで暴動起こそうが、中国のアウトドア愛好者からも支持を得てます。
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【冬のカラコルムはどうなった?】
今冬のカラコルム。
ナンガパルバットに挑んだ登山隊は全て撤退。
Alex Txikon とJose Fernandezらスペイン隊が挑んだライラ・ピークは冬季初登に成功。
ビッグウォールのアミン・ブラック冬季登攀に挑んでいたロシア隊は雪崩で装備の大部分を流され、撤退を余儀なくされました。

そしてブロードピーク冬季初登を目指すポーランド隊。
強風と積雪で最初の頂上アタックは失敗に終わりましたが、体勢を立て直し、3月5日の現地時間12時現在、Maciej Berbeka と Adam Bielecki のペアが頂上を目指し、7900m地点に到達。現在もなお登高中。まもなく登山隊の成否が明らかになるでしょう。

Broad Peak - godz.12.30 – Atak trwa! by PZA.org 2013.3.5

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アラビックコーヒー

操山から下山後、再び路面電車に乗り岡山市内を移動。

岡山市立オリエント美術館に直行。
ここは日本国内でも数少ない、西アジアを中心とした古代遺物の博物館。
東アジアより以西に疎い私としては見逃せない博物館である。

入場時に、「展示ガイダンスサービス」として端末タブレットを無料貸し出ししてくれる。

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画面のアイコンにタッチ、または展示品の解説に添えられている数字を入力する。
すると、その展示品の解説がディスプレイに表れ、音声解説も聴ける仕組みである。

いやあ地方の博物館でもこんな時代なんだなあ、と感心して利用するが・・・
どうも音声案内の女性の声、何か合成くさく、舌っ足らずで聞き取りにくい。
しかも展示解説と音声解説が全く同じなので、静かに展示解説を読んだ方がいいような気になってくる。

西アジアの歴史をふり返る上で欠かせない金属器も展示品は充実。
紀元前の時代に、当時としては最新のテクノロジーであっただろう「冶金」の成果である剣に目を奪われる。
ここで、端末タブレットの音声解説アイコンに触れてみると、女性の声で

「 こ こ で は 岡 山 弁 で 解 説 しま す 」

はあ?というサプライズ。
つーか、完璧な岡山弁で解説聞いてもメソポタミアの楔文字なみに 全 然 わ か り ま せ ん で し た (断言)。
まあ、その「遊び心」にやられた、という感じです。
(私が聴いた限りでは、岡山弁での解説は刀剣コーナーだけでした。念のため)

この美術館、「目には目を」「歯には歯を」で知られるハンムラビ(ハムラビ)法典のレプリカもある。
しかしオカルトマニアな私にとっては、なんといってもパズスの頭部護符を見学できたことが収穫ですね。
(パズスとは、古代メソポタミアに伝わる獅子の頭、鷲の脚、背中に翼、蛇の男根を持つ悪霊の王。悪霊の王ゆえに、魔除けの護符として祀られていた。映画「エクソシスト」に悪魔の象徴として登場する)

操山で身体(少しは)動かしたし、美術館でお勉強したし、やっぱ疲れた時は甘いモノだよなっ!
というわけで美術館内のカフェ「イブリク」に立ち寄る。
ここの目玉は、これまた西日本では唯一といわれるアラビックコーヒー(アラビアコーヒー)が飲めるのだ。

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アラビックコーヒーとチーズケーキセット650円也。

画像には写ってないが、店のおばさんがコーヒーメーカーであろう、取っ手の付いたカップ型鍋で客席の目の前でコーヒーをついでくれる。
小さな器になみなみと注がれたアラビックコーヒー、スパイスの良い香りがなんともいえません。
コーヒー豆の粉が沈殿するのを待ってから飲みます。
最初から砂糖が入っているのですが、甘みもスパイスの香りも良く、美味しく飲めました。

ただし。
カップの底にはたっぷりのコーヒー豆の粉がドロッと沈んでいるので、程よいところで飲み終えないと、口の中がザラザラになります。

引き際が肝心なのは、アラビックコーヒーも登山も女も同じですな。(経験者語る)

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登山詳細図

今回の操山登山で役に立ったのが、岡山県の吉備人出版から発行されている「登山詳細図」。

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日本勤労者山岳連盟の守屋益男氏による地図は、このような詳細図である↓

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国土地理院の2万5千図を1万分の1に拡大して登山コースを書き加えたもの。
2万5千図を拡大することによる等高線の精度低下も考えられるのだが、詳細にコースを網羅し、岡山県内の里山をこのような形で紹介する点に、編者の安全登山への意気込みを感じる地図である。
ちなみに吉備人出版からは、

鬼ノ城山塊登山詳細図

操山・半田山・楢津山・矢坂山登山詳細図(今回私が利用)

龍ノ口・金山登山詳細図

福山・軽部山・日差山 登山詳細図 吉備路観光コース付き全67コース

熊山登山詳細図全43コース

 これら岡山県内の山の他、東京近郊の山として

奥多摩東部登山詳細図 御岳山・大岳山・御前山・浅間嶺全58コース

高尾山・景信山・陣馬山登山詳細図

東丹沢登山詳細図

が出版・販売されている。販売価格は税込み525円。
これらはアマゾンでも入手可能。アマゾンの書評欄では、東京近郊の地図類は賛否が分かれているが、少なくとも岡山県内の里山を歩くうえで貴重な地図に違いありません。
ポイント間はコースタイムではなく歩行距離が詳細に記載されています。
「登山詳細図」に関わる方のブログを拝見すると、ウォーキングメジャー(交通事故現場で警察官が距離測定に使っている、車輪付いた棒みたいなアレ)で距離を実測されている様子で、編者らの地道な踏査の結晶といえるでしょう。

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操山(みさおやま)169m

日曜。
午前中に宿で洗濯を済ませ、所用と山行を兼ねて岡山市へ。

「岡山市民の山」と親しまれている操山(みさおやま)169mをめざす。

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アプローチは路面電車で、岡山駅から終点の東山駅へ移動。
岡山市内は新旧様々な車両が走っているが、今回乗り込んだのは猫の「タマ」がデザインされている車両。
休日ということもあり、乗り合わせた家族連れの子ども達が大喜びしている。

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路面電車「タマ」号のブラインドも猫だらけ。

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終点「東山」で下車。岡山市街に埋もれたような「操山」と対面。

地図を頼りに市街地を抜け、御成町登山口へ。
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目立たない、可愛らしい看板からスタート。

登山道の両側は、西日本の山らしい常緑樹に覆われている。
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地面を覆うコナラの枯葉を踏み、シャカシャカ音をたてながら、身体が温まる頃に展望の良い所に到着。
三勲神社跡と呼ばれる、元々神社が建っていた跡地だ。
ここからは岡山市街が一望できる。

標高の低い里山で、日曜なのでもっと人がいるかと思ったが、登山者は私だけ。
登るにつれ、山の形状のためだろうか、市街地の車の音も徐々に聞こえなくなってくる。

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「三勲神社跡」の小ピークから操山を結ぶ稜線を飾る「かなめもちのトンネル」。
東北には自生していない植物で、バラ科の常緑樹がトンネル状に枝を伸ばしている道が続く。

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 木漏れ日。
 山形に生まれ山形に暮らす私にとって、西日本の山、3月という時期にこれだけ緑あふれる山にいるだけで、気持ちが洗われるような気がする。
 年度末の多忙な時期。
 昼間だというのに、みるみるうちに目の前の水たまりに氷が張る作業現場。
 そんな環境で何ヶ月も過ごしてきた身には、常緑樹の山は天国だ。
 あまり品のある表現ではないが、グツグツ煮えたぎったお湯に入れた乾麺のインスタントラーメンみたいに、心がほぐれていく。

 約30分程で山頂に到着。
 三角点があるだけで、木々に囲まれ展望は効かない。
 山頂手前の広場にはベンチやあずまやがあるのだが、前述の精神状態なもんで、木々に囲まれた山頂で頂上ランチ。

 本日は岡山駅のVIE DE FRANCEで調達した、
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クロックムッシュ(左)と、卵とシュゼットハムの「さくっとサンド」(右)
クロックムッシュの酸味の効いたトマトと、クリスピーなパンで塩気の効いたサンドは山の上で御馳走です。

 操山は東西方向に約10kmにわたる全山縦走コースがある。多数の古墳や史跡がある縦走コースが非常に魅力的だったのだが、他に所用もあるため本日は再び東山に下山。
 ヤマモモ等の食用可能な実がなる木も多く、登山道中腹には桜の木々が立ち並ぶ。
 まだ花の時期には早すぎるが、四季を通じて親しまれているのだろう。

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桜の若芽もふくらみ始めた、3月の操山でした。

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Patricia Ellis Herr著『UP』

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Patricia Ellis Herr著『UP』を読んだ。
 これはハーバード大の人類学研究者であるPatricia Ellis Herrが、4歳と5歳の娘と一緒にニューハンプシャー州ホワイトマウンテン山系の山々を巡った記録である。
 この本では登山形態を「Peak Bagging」と表現されている。日本で言えば、「ピークハント」のようなものだろう。池田常道氏が『山岳』の論文中で偏見的に用いていた英語だが、彼の地ではれっきとした登山の1ジャンルである。

 この本の舞台となるのは、岩壁でも氷壁でもない、画像に掲げた表紙のように、針葉樹そして森林限界と、日本のハイカーの皆さんにも親しみのあるような山岳地帯だ。英語では「4000-footers」と呼ばれる、1200~1700mクラスの山々である。
 この本がアメリカでも話題になったのは、なんといっても4歳と5歳という幼い子どもを連れていった山行記、という事にある。
 パトリシアの描写は、山や自然そのものよりも、子ども達との対話、母娘の触れあいが中心だ。                                         


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いつも元気なAlexちゃん。裏表紙を飾ってます。

 娘たちを連れたパトリシアは、山中で出会う他のハイカーに聞かれることになる。
 「どうして女性だけで登るのか?」
 「なぜご主人は同行しないのか?」
 それは読んでいるこちらが気の毒になるくらいだ。アメリカ社会とは、そんなに保守的なのか?むしろ日本の中高年女性の方が女性達だけで、時には一人で、気ままに登山を楽しんでいるのではないかと思うほどだ。

 好奇の目と不躾な質問を投げかけられる度、自立した女性であるパトリシアはさらりとかわしていくが、5歳とはいえ娘のAlexは敏感に大人達の差別的な雰囲気を感じ取り、母親に問い尋ねる。アメリカ社会で女性が生きていくことへの、素朴な疑問を。
 その交流の様子がこの本のメインともいえるだろう。

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子ども達は元気に冬山にもチャレンジします。(2012年末、すっかり成長したAlexちゃんと妹のSageちゃん)

 パトリシアの山行への準備は慎重だ。
 本文には、ネットのフォーラム(登山愛好者のSNS)で情報収集し、念には念を入れ子ども達の安全を確保するために装備にも気を遣っていることが描かれている。
 雷雨に襲われもするがストライクアラートで様子を伺い、冬山登山を前に冬用装備を買い足す。その中にはPLB(パーソナル・ロケーター・ビーコン、緊急時にSOSを発信する機器)も含まれている。
 そんな彼女の姿を、某ネット書評で「彼女は荷物が多すぎ」という批判があったが、それは的はずれな意見である。

 この本の山行には、パトリシアのご主人は同行しない。わずかに登山口まで同行した際に登場する程度だ。
 パトリシアのご主人、Alexの父親であるHugh Herrは、実は10代の頃はアメリカを代表するバリバリのクライマーで、高難度のフリーもアルパインもこなすトップクライマーだった。だが1982年、ワシントン山のアイスクライミングのハードルートを登攀した後、天候悪化に巻き込まれ下山ルートを見失ってしまう。幾度もビバークを重ねて生還したものの、凍傷により両足を切断することになった。
 本文中で、Hughが事故当時の様子を娘のAlexに話し聞かせる一章がある。彼は下山ルートを見失ったミスとして、地図とコンパスを持たなかったことを挙げている。

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ワイルドカントリー社の広告モデルとなったHugh氏。義足でバリバリにクライミングします。

 そのHugh Herr氏はMITとハーバード大を出た秀才で、現在はMITで生命工学研究の第一線で活躍し、義足や人工関節の開発を進めている。
 才媛のパトリシアは、おそらくご主人の事故があったためであろう、装備にも慎重ではある。けれども山行では嵐に遭ったり雷にあったりと、なかなかハプニングは多い。
 本書の章ごとのタイトルも「Ignore the Naysayers」とか「Some risks are worth taking」とか、いちいち教訓めいているのが鼻につくのだが、やはりアメリカ社会で生き抜く女性研究者ならでは、といったところだろう。

 私はこの本をChicagoTribune紙の書評で知り、興味を持った。
 いつも『岳人』誌では真っ先に高井一氏の洋書書評を読む私、ふと思ったのだが、アルピニズムとやらの第一線で活躍するクライマーの本ばかり読んできたが、登山者の大部分を占めるハイカー、特に日本の山岳メディアなど全く取り上げようともしない、海外のごくフツーのハイカーの皆さんはどんな登山をしているんだろう?そんな疑問もあったのでこの本をチョイスしてみたのだ。

 同書には、パトリシアがちょくちょくネットのフォーラムを利用し、情報収集に役立てている描写がある。
 フォーラムで寄り集まった仲間たちである山に赴いたとき、「Child hater」(子ども嫌い)なる、ホントに子どもが嫌いで知られる男が登場、戦々恐々として「Child hater」と山行を共にすることになる。
 そして迎えた冬。
 初めての雪山登山で娘の安全を考え、晩秋から慎重に準備を重ねるパトリシアに山仲間のネットフォーラムを通じて連絡が入る。なんと、初めての雪山に、あの「Child hater」がサポートとして同行すると申し入れが来たのだ。
 雪山を一緒に過ごし、「Child hater」はAlexとしゃべりながら山に登る。
 そしてパトリシアの問いに答える。自分は不作法なガキ(Child haterの表現による)はたしかに嫌いだが、Alexはそんな子どもではない。彼女が子どもだとは思わない。身体の小さい二十歳の女性だよ、と。
  
 「Child hater」とのそんな交流を描いた様子は一つのクライマックスであり、やはりこの本は山や登山を描いた本ではなく、母と娘、そして人々の姿を描いた本なのだと考えさせられる。

 山に登る。装備を選ぶ。山を通じて人との出会いがある。親子の触れあいがある。
 そんな姿は、~アメリカ社会と日本社会の差異はあれど~ ハイカーの世界はそんなに変わらないものなのだ。

 パトリシア、そして子ども達AlexちゃんとSageちゃんの現在を伝えるブログはこちら↓
 2013年、彼女たちはスペインの巡礼の道「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を歩く計画があるそうです。

 Blog Trish, Alex and Sage

 書籍『UP』のプロモ動画はこちら↓
 

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寒いけど、

本日、岡山は午後から激しい雨。
周囲は標高300mに満たないものの、登高意欲をそそる里山に囲まれているのだが、そんな低山も低くたちこめた雨雲で見え隠れしている。

ふと通りすがりの畑を見ると、もう梅の花が咲いている。
やはりここは岡山。
先週働いていた、 人も風も冷たい仙台 に比べれば暖かい。

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現場作業の資材買い出しで立ち寄ったホームセンター。
店頭には白梅、紅梅が花盛り。

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