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追悼 Maciej Berbeka

去る3月5日、ブロードピーク冬季初登に成功したポーランド隊。
残念ながら、登頂した4名のうち、Maciej Berbeka と Tomasza Kowalskiの2名は最終キャンプに帰り着くことができず行方不明、3月8日、高所生理学の専門家・医師との協議も交え、両名とも死亡と判断されました。

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帰らなかったTomasza Kowalski(左)、Maciej Berbeka(右)

 Tomasza Kowalski(トマシュ・コワルスキー)は1985年生、アラスカ・デナリ山群で約100kmにわたる長大な縦走登山を敢行、30歳未満の優れた登山家に贈られるアンジェイ・ザワダ賞を受賞した期待の若手登山家でした。

 ここでは、当ブログで注目していたMaciej Berbeka(マチェイ・ベルベカ)についてとりあげます。
 なぜ私がマチェイ・ベルベカに注目したのか。
 それは1988年冬、「ブロードピーク冬季登頂に成功した」と言われながら、実は到達した場所が前衛峰(8030m)で真の頂上(8047m)ではなかった、という過去を持つ人物だったからです。

 マチェイ・ベルベカは1954年、ポーランドのザコパネに生まれました。
 父親のクシシュトフ・ベルベカもトップクライマーでしたが、マチェイが10歳の時にスイスアルプスで遭難、収容されたチューリヒの病院で亡くなります。
 マチェイはポーランドの国立美術学校で学び、家族も奥様も芸術・美術に関わる芸術一家でした。
 そんな環境の中で登山を始め、ポーランドの「ヒマラヤ黄金時代」と言われる80年代、活発に活動していたザコパネ山岳会でマチェイは鍛えられることになります。
 84年には冬季マナスル登頂、85年には冬季チョーオユー登頂、87年には冬季K2にトライします。そして88年、運命の冬季ブロードピークに挑みます。

運命の「3月5日」

 88年3月5日、アレクサンドル・リボフ(Aleksander Lwow)とマチェイは最終キャンプから頂上を目指しました。
 極寒の中、風雪が強まり視界不良となり、リボフはついに登高を断念。しかしマチェイは単独で登り続けることを決意します。
 そしてそのまま、マチェイの消息は途絶えてしまいました。唯一の無線機はマチェイが持っていたためです。
 ほとんどマチェイの生存が絶望視される中、リボフは彼の生還を信じ、お湯を作りながら最終キャンプで待機していました。
 翌朝、リボフはマチェイの叫び声を聞きます。高所衰退と低酸素で狂ったのではないかとリボフが思ったほどの叫び声でした。リボフはテントの外に出ますが、視界不良で何も見えません。ガスの中でライトを照らし、ようやくマチェイを収容できたのでした。
 「頂上に立てた」というマチェイのアイゼンと靴を脱がせ、リボフは凍傷の応急処置に追われます。
 まさに奇跡的な生還だったのです。

暗転した「冬季初登頂」
 88年のマチェイのブロードピーク「冬季初登頂」は、結果的には前衛峰の登頂でした。
 英語圏の資料では、マチェイの登頂写真から前衛峰登頂と判定された、といわれていますが、実際は異なり、登山隊のメンバーもマチェイの言葉から「頂上に達していないのではないか?」と思っていた節があったようです。
 それはマチェイの何気ない一言がきっかけでした。

「(登頂)記念の石をとってくれば良かった」

 そう後悔するマチェイの言葉に疑問を抱いたのは、老練なクシストフ・ビエリツキでした。ビエリツキは84年、単独でブロードピークのワンディアッセントに成功していました。彼の経験では、ブロードピーク主峰は雪に覆われたピークのはずだったのです。
 登山隊メンバーの間には(登ったのは前衛峰ではないか)という疑問が漂っていましたが、劇的な下山を果たしたマチェイにそのことを言い出せる者はいませんでした。

 その間にも「1988年3月6日、マチェイ・ベルベカがブロードピーク冬季初登に成功」という情報が世界各国に流れ、ポーランドとパキスタン両政府はマチェイにスポーツ表彰を決定します。

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88年冬季ブロードピーク遠征時のマチェイ・ベルベカ(左)、日本のヒマラヤニストにもおなじみアシュラフ・アマン(中)、アレクサンドル・リボフ(右)

 山から下山後、アレクサンドル・リボフが書いた手記から、真実が明らかになります。
 冬季初登頂を果たしたと思った頂上が、実は真の頂上手前の前衛峰だった。
 そのことに最も傷ついたのは誰よりも、マチェイ・ベルベカでした。

そして再挑戦
 登ったピークが真の頂上でなかったとはいえ、人類で初めて冬のカラコルム、8000mに到達したマチェイ。
 彼はその後もヒマラヤ登山を続けます。アンナプルナ南壁新ルート、冬季ナンガパルバット、そして93年にはガイドとして、チョモランマ北面ルートからのポーランド人初登を果たします。
 マチェイはタトラ山地の救援隊隊員であり、国際山岳ガイドでもあります。その足跡はヒマラヤ、アンデス、パミール、そして日本も訪れた経験を持ちます。

 59歳という年齢、そして長いブランクを経て、2013年の冬季ブロードピーク再挑戦。
 その心情は、ポーランド語のヒアリング能力の無い私には直接伺い知ることは出来ませんが、推察は容易です。

 日本ヒマラヤ協会の山森欣一氏が「高所遠足」と呼ぶ現在の8000m峰登山。
 今やサミッターは数千人以上になり、その現状の上っ面だけをとらえて「誰でも登れる8000m峰」などと勘違いしている方が多いようです。

 しかし考えてみて欲しい。
 50年代の初登頂時代以降、サミッター(登頂者)の陰にいる、その何倍もの、頂上に立てなかった幾人もの人々の数を。
 頂上に立てなかった者のその後は、どうだろう。
 夢を夢として諦める者。
 再挑戦を夢見、夢で終わる者、
 実際に再び再挑戦する者。
 様々であろう。
 
 登頂という栄光が後に幻となったマチェイ・ベルベカは、59歳という年齢ながら、再び冬の8000m峰に向かう選択をした。
 真の登頂を果たしたい。それ以外に理由はあるだろうか?
 世界には、その8000m14座完登を「疑惑の登頂」と騒がれながら、「もう再び山に向かうことはない」と宣言し、知らぬ存ぜぬとばかりに記録を主張する者もいる。
 そんな一方で、マチェイは自分自身のために、再び危険な冬の8000m峰に向かったのである。
 だからこそ、私は思う。
 マチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキーには生還してほしかった。
 マチェイの生き方には、8000m峰を目指して夢を果たせなかった者を揺さぶる何かがあるからだ。

 88年のブロードピーク遠征でのパートナー、アレクサンドル・リボフは現在、ポーランドの山岳雑誌の編集にたずさわっている。今回の2人の遭難でもポーランドのメディアからインタビューを求められていたが、その心情はいかばかりだろう。
 彼が88年の遠征について書いた本のタイトルは、『勝利、生きて帰ること』である。

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マチェイ・ベルベカの画像を検索すると、どれも怖い顔をした画像ばかり。
一枚だけ、おそらくガイド山行の帰りであろう、ビール片手に笑顔のマチェイの画像を見つけることが出来た。

マチェイ・ベルベカ、トマシュ・コワルスキーよ、安らかに。

 なお今夏、マチェイ・ベルベカの弟でやはりクライマーであるヤチェク・ベルベカが2名の遺体捜索を目的に、ブロードピークに遠征することが報じられています。

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