« 寒いけど、 | トップページ | 操山(みさおやま)169m »

Patricia Ellis Herr著『UP』

Up_2
Patricia Ellis Herr著『UP』を読んだ。
 これはハーバード大の人類学研究者であるPatricia Ellis Herrが、4歳と5歳の娘と一緒にニューハンプシャー州ホワイトマウンテン山系の山々を巡った記録である。
 この本では登山形態を「Peak Bagging」と表現されている。日本で言えば、「ピークハント」のようなものだろう。池田常道氏が『山岳』の論文中で偏見的に用いていた英語だが、彼の地ではれっきとした登山の1ジャンルである。

 この本の舞台となるのは、岩壁でも氷壁でもない、画像に掲げた表紙のように、針葉樹そして森林限界と、日本のハイカーの皆さんにも親しみのあるような山岳地帯だ。英語では「4000-footers」と呼ばれる、1200~1700mクラスの山々である。
 この本がアメリカでも話題になったのは、なんといっても4歳と5歳という幼い子どもを連れていった山行記、という事にある。
 パトリシアの描写は、山や自然そのものよりも、子ども達との対話、母娘の触れあいが中心だ。                                         


P3
いつも元気なAlexちゃん。裏表紙を飾ってます。

 娘たちを連れたパトリシアは、山中で出会う他のハイカーに聞かれることになる。
 「どうして女性だけで登るのか?」
 「なぜご主人は同行しないのか?」
 それは読んでいるこちらが気の毒になるくらいだ。アメリカ社会とは、そんなに保守的なのか?むしろ日本の中高年女性の方が女性達だけで、時には一人で、気ままに登山を楽しんでいるのではないかと思うほどだ。

 好奇の目と不躾な質問を投げかけられる度、自立した女性であるパトリシアはさらりとかわしていくが、5歳とはいえ娘のAlexは敏感に大人達の差別的な雰囲気を感じ取り、母親に問い尋ねる。アメリカ社会で女性が生きていくことへの、素朴な疑問を。
 その交流の様子がこの本のメインともいえるだろう。

P4
子ども達は元気に冬山にもチャレンジします。(2012年末、すっかり成長したAlexちゃんと妹のSageちゃん)

 パトリシアの山行への準備は慎重だ。
 本文には、ネットのフォーラム(登山愛好者のSNS)で情報収集し、念には念を入れ子ども達の安全を確保するために装備にも気を遣っていることが描かれている。
 雷雨に襲われもするがストライクアラートで様子を伺い、冬山登山を前に冬用装備を買い足す。その中にはPLB(パーソナル・ロケーター・ビーコン、緊急時にSOSを発信する機器)も含まれている。
 そんな彼女の姿を、某ネット書評で「彼女は荷物が多すぎ」という批判があったが、それは的はずれな意見である。

 この本の山行には、パトリシアのご主人は同行しない。わずかに登山口まで同行した際に登場する程度だ。
 パトリシアのご主人、Alexの父親であるHugh Herrは、実は10代の頃はアメリカを代表するバリバリのクライマーで、高難度のフリーもアルパインもこなすトップクライマーだった。だが1982年、ワシントン山のアイスクライミングのハードルートを登攀した後、天候悪化に巻き込まれ下山ルートを見失ってしまう。幾度もビバークを重ねて生還したものの、凍傷により両足を切断することになった。
 本文中で、Hughが事故当時の様子を娘のAlexに話し聞かせる一章がある。彼は下山ルートを見失ったミスとして、地図とコンパスを持たなかったことを挙げている。

Hughstagefright
ワイルドカントリー社の広告モデルとなったHugh氏。義足でバリバリにクライミングします。

 そのHugh Herr氏はMITとハーバード大を出た秀才で、現在はMITで生命工学研究の第一線で活躍し、義足や人工関節の開発を進めている。
 才媛のパトリシアは、おそらくご主人の事故があったためであろう、装備にも慎重ではある。けれども山行では嵐に遭ったり雷にあったりと、なかなかハプニングは多い。
 本書の章ごとのタイトルも「Ignore the Naysayers」とか「Some risks are worth taking」とか、いちいち教訓めいているのが鼻につくのだが、やはりアメリカ社会で生き抜く女性研究者ならでは、といったところだろう。

 私はこの本をChicagoTribune紙の書評で知り、興味を持った。
 いつも『岳人』誌では真っ先に高井一氏の洋書書評を読む私、ふと思ったのだが、アルピニズムとやらの第一線で活躍するクライマーの本ばかり読んできたが、登山者の大部分を占めるハイカー、特に日本の山岳メディアなど全く取り上げようともしない、海外のごくフツーのハイカーの皆さんはどんな登山をしているんだろう?そんな疑問もあったのでこの本をチョイスしてみたのだ。

 同書には、パトリシアがちょくちょくネットのフォーラムを利用し、情報収集に役立てている描写がある。
 フォーラムで寄り集まった仲間たちである山に赴いたとき、「Child hater」(子ども嫌い)なる、ホントに子どもが嫌いで知られる男が登場、戦々恐々として「Child hater」と山行を共にすることになる。
 そして迎えた冬。
 初めての雪山登山で娘の安全を考え、晩秋から慎重に準備を重ねるパトリシアに山仲間のネットフォーラムを通じて連絡が入る。なんと、初めての雪山に、あの「Child hater」がサポートとして同行すると申し入れが来たのだ。
 雪山を一緒に過ごし、「Child hater」はAlexとしゃべりながら山に登る。
 そしてパトリシアの問いに答える。自分は不作法なガキ(Child haterの表現による)はたしかに嫌いだが、Alexはそんな子どもではない。彼女が子どもだとは思わない。身体の小さい二十歳の女性だよ、と。
  
 「Child hater」とのそんな交流を描いた様子は一つのクライマックスであり、やはりこの本は山や登山を描いた本ではなく、母と娘、そして人々の姿を描いた本なのだと考えさせられる。

 山に登る。装備を選ぶ。山を通じて人との出会いがある。親子の触れあいがある。
 そんな姿は、~アメリカ社会と日本社会の差異はあれど~ ハイカーの世界はそんなに変わらないものなのだ。

 パトリシア、そして子ども達AlexちゃんとSageちゃんの現在を伝えるブログはこちら↓
 2013年、彼女たちはスペインの巡礼の道「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を歩く計画があるそうです。

 Blog Trish, Alex and Sage

 書籍『UP』のプロモ動画はこちら↓
 

|

« 寒いけど、 | トップページ | 操山(みさおやま)169m »

山岳ガイドが読む本」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/21370/56867031

この記事へのトラックバック一覧です: Patricia Ellis Herr著『UP』:

« 寒いけど、 | トップページ | 操山(みさおやま)169m »