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「女性登山家」ではなく「登山家」でありたかった 韓国イ・ミョンヒ

H 韓国の月刊『人と山』で連載中の、先鋭クライマーを詳細に取り上げる「韓国山岳界の未来を問う」。
 第1回は当ブログでもとりあげたキム・チャンホから始まり、今月5月号は連載5回目、韓国を代表する女性アルパインクライマー、イ・ミョンヒさんです。

 イ・ミョンヒさんに関しては一昨年、日本でも岳人誌掲載の恩田真砂美さん執筆による韓国登山界の記事で紹介されましたが、もっと日本でも知られていい存在だと思います。
 出産・育児、女性というハンディを乗り越えて自分のクライミングを実現する姿は、生活環境や登山を取り巻く文化が大きく異なる欧米の女性クライマーの姿などよりも、同じアジア圏のクライマーとして共感を呼ぶものがあります。

韓国山岳界の未来を問う その5 イ・ミョンヒ by 月刊「人と山」2013年5月号

 以下記事引用開始
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P1

韓国山岳界の未来を問う その5 イ・ミョンヒ

イ・ミョンヒが歩んだ道

「女性登山家」ではなく、「登山家」でありたかった

カラコルム、アルプス、南米の岩塔を登った女性ビッグウォール・クライマー

本文・写真 イ・ミョンヒ

P2

1992~1999年 ソニンボンからエルキャプ・ノーズへ

 山好きな女子高校生だった私は、1992年に友人と北漢山、白雲台を登りそびえ立つ仁寿峰と初めて対面した。巨大な岩峰それ自体も魅力的だったが、人が蟻のように岩にへばりついて、身をくねらせて登っていることにさらに驚いた。全身に鳥肌が立つように、クライマー達を目撃した瞬間、クライミングへの好奇心と憧れが風船のようにふくらんだ。インスボンを登るクライマーがまるで神のように感じられた。
 私もそこに一度登りたかったが、現実の壁のように、岩壁を登る術など私には無かった。残念に思いながら万景台を目指した。そこで道に迷った私は、幸いなことに家族と共に登山中のタイタン山岳会のソン・テソンさんと出会い、彼の助けを借りて万景台リッジを登ることが出来た。生まれて初めて岩を上下に移動して感じたスリルは私を興奮させた。

 それから一年。
 私はタイタン山岳会に入会した。私などとても及ばない先輩方は、女も男も区別せずにスパルタ式に鍛えてくれた。有無を言わせずギアを持たせられ、「行け」と叫べば「はい」と答えて共にクライミングを開始した。特にチェ・チョルサン先輩は私をより一層強い登山家で育てた。

 彼に強制(?)され、難ルートをリードしたものの墜落、顎を怪我したこともあったが、クライミングの楽しさに比べれば怪我などなんでもなかった。
 毎週末に山に通うと、地下鉄で宗教の勧誘に頻繁に出会った。彼はある日、私を見て決心したように「どこに行くんですか?」と問いつめてきた。その時私は「仙人峰チムニー教ですから、道峰山に行きます」と冗談のような答を言った。この言葉に特に間違いはない。当時、山は私の信仰であり宗教だった。

 10年かけて国内で岩や氷を登るにつれて自然に欲が出た。大きな壁に行きたいと切実に思った。折良く、友人のチェ・ミソンと意気投合した私は、アメリカでのクライミングを目指して準備を始めた。しかしビザの問題が足かせになって彼女と共に行くことは叶わなかった。ビッグウォールの夢は1999年、清華山岳会の先輩方とヨセミテ行きの飛行機に乗り実現した。1000mの巨大な壁は、私の予想よりも遙かに厳しかった。登攀が遅くなり、食糧と水が不足すると体力が急速に低下した。夜遅く、腰掛けられるテラスにたどり着いた。天の助けか、クラックに缶詰を見つけた。あまりにも空腹だった私たちはクラックから缶詰を全て取り出して全部食べた。
 翌朝、そこがトイレだったことがわかった。前日おいしく食べた缶詰の缶をじっくり見てみると、干からびた排泄物が付いていた。それでも大丈夫だった。ビッグウォールでのサバイバルはそんなものだった。

 男性メンバー3人と共にしたノーズ登攀は5日目、頂上で終止符を打った。しかし喜びではなく物足りなさの方が大きかった。三日分だけの食糧を準備した判断ミスが原因で経験した苦痛。準備を怠った者にビッグウォールがどれほど過酷なのか、骨にしみるほど感じたクライミングだった。

P3

2001年、自分を見つめ直したマルチ4遠征

 パキスタンヒマラヤのマルチ4遠征(隊長ソ・ギソク)に参加した。100日間にわたり5000~6000m級のピークを5座登頂する無謀な(?)計画を実現するためである。
 隊員は、食事さえ済ませればクライミングに出かけるソ・ギソク、イム・ソンムク、キム・チャンホ、チャン・キホン、チェ・ソクムン、イ・ビョンジュら、めざましいスピードで成長中のクライマーだった。
 女性メンバーは私だけだった。高所が初めての私は遠征序盤から高所順応に苦労し、顔がパンパンに腫れ、嘔吐した。
 
 しかし何より大変なのは、男性と一緒に前人未踏の岩壁を登らなければならないことだった。体力・技術、どれ一つとっても太刀打ちできなかった。荷物も沢山担げず、ペースも遅く、体力も不足しクライミングもうまくいかなかった。なぜ私はここに来たのか?弱気になる自分に向かい合うたびに自分に腹が立った。だが、兄たちは(訳者注・他男性隊員の敬称。血縁関係ではない。以下同様)その度に初めてならそんなもんだ、順応すれば良くなると慰めてくれた。

 遠征最後、私はヒンズークシュ山脈の未踏峰ムスタム(5620m)にソ・ギソク、イム・ソンムク兄とチームを組んで挑戦した。私たちは降り注ぐ雪崩と落石を避けて三日間登り、頂上直下に到達した。
 しかし、頂上を目前に私たちは下山を決定した。理由は私のためだ。体力が低下し、生理を終えて10日後に出血が再発したからだ。兄たちは青白い顔で震えている私を置いて登ることができなかったのだ。ギソク兄が「申し訳ない」と下降しようと言った。
 世界初登を目前に、私のために下山を余儀なくされたことが申し訳なかったし、耐えられないほど自分が女という事実に腹が立った。

 これまで私は「女性登山家」ではなく「登山家」でありたかった。
 下降し、複雑な想いが頭を離れなかった。前進キャンプに降りてきた私はテントの陰に隠れ、自責の念で声を上げて泣いた。悲しみが沈むとすぐに、女性だけチームを設けてアルパインスタイルの登山を目指せばどうだろうかという考えが浮かんだ。
 お互いをよりよく理解できる女性たちとビッグウォールを登れるならば、そこに意味があり美しいアルピニズムの実践だと考えた。

 初夏に始まった遠征は小麦が熟す頃、幕を閉じた。マルチ4遠征登山で、高所ビッグウォール・クライミングは技術も重要だが、これを支える強い精神力と体力がベースにあってこそということを悟った。

P4

2006~2008年 女性だけのチームで登ったアルプス、南米のビッグウォール

 2001年のマルチ4遠征を終えた私は、その年12月、クライマーのチェ・ソクムンと結婚した。2002年には息子のチェ・ポゴンが生まれた。
 育児のために山に行けない時間が長くなるにつれて、ストレスがますます激しくなった。眠っている子供が理由もなく憎くなり、母乳を与えている自分自身が嫌になった。毎日のように泣き、死にたくなった。
 鬱病にかかった私を見て一番驚いたのは、私自身と夫だった。
 ひとまずは生きるべきだ、との判断で、両親にポゴンを任せて私は母乳の搾乳機を持ち歩いて再びクライミングを始めた。自然に鬱病は改善し、以前の明るい姿に戻ることが出来た。

 以来、私は子供が眠っている時間を利用して運動を再開した。結婚前よりもさらに熱心に、より激しくトレーニングを重ねた。体力が付き、2001年に思い浮かんだ女性だけのチームによる遠征を企画する機会が訪れた。
 ビッグウォール・クライマーのキム・ジョンスク、チェ・ミソン、キム・トンエと共に、2006年アルプスの壁を登ることにした。私たちは一ヶ月かけてモンブラン・デュ・タキュル北壁、エギーユ・ディ・ミディ北壁、グランドジョラス北壁、モンブランの順に登った。お互いに登る実力も同じで、心も通い合い、男性と登るよりも様々な面で面白い遠征だった。登山の経験が多くなくて些細な問題で意見の衝突はあったものの、それは互いにロープを結ぶ瞬間、問題ではなかった。付いていく登山ではなく、お互いが遠征隊長になった私たちはベストを尽くして壁を登り、また登った。

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2006年、ヨーロッパアルプスに向かった「アジュマ(おばさん)遠征隊」左よりチェ・ミソン、キム・トンエ、キム・ジョンスク、そして出産・育児を乗り越え笑顔の戻ったイ・ミョンヒ(月刊MOUNTAIN 2006年4月号より)

 アルプスに続く私の挑戦は2008年のパタゴニアに繋がった。イ・ミョンソン、ハン・ミソンとパイネ中央峰を目指した。このピークは夫チェ・ソクムンが登頂した山だった。
 私たちが初めにクライミングを計画し、準備した時、このピークに女性だけのチームとして登頂するかどうかは関心外だった。女性だけのチームによる初登を狙ったクライミングが無かったからだ。
 パタゴニアの風は想像を超えた。天候の変化もあまりに急だった。28時間寝ないで行動したものの、私たちは頂上まで100mを残して強風に阻まれ下降した。

 数日後、再度クライミングを始めた私たちはクライミングのスピードに成否を賭けてパイネ中央峰の頂上に立った。安全に下降した私たちは次の目標であるアルゼンチンのセロトーレに移動した。登山期間は半月ほどしか残っていない私たちには、登る機会は一度だけだった。
 岩壁に取り付いた時に悪天が襲来した。私たちは五日間、壁に閉じこめられた。これ以上、登る術は無かった。この時、私はハン・ミソンとこの壁を再び登ることを固く約束した後、下山を決めた。

 パタゴニアのクライミングを通じて感じたことは、クライミング自体も難しいが壁の取り付きまで行くコースもクライミングに劣らないものだった。40kgの荷物を担いでベースキャンプに向かうとき、私たちは苦行者のようだった。壁へのアプローチもクライミングの一部であり、目標を成し遂げようとする人々のプロセスであり、努力であることを知った。パイネ中央峰を女性チームとして初めて登ったという事実は、帰国後に知らされた。

P5

2009年~2011年 クラッククライミングを再び学ぶ

 女性だからといって山の高さが低くなったり、簡単になったりはしない。登山は登る人がどのように登るかによって成功または失敗する。
 南米から帰国した私は軽量速攻登山で悩んだ。自然の危険要素が多い場合、それを避けるための最良な方法は、速度を担保することができるフリークライミングだった。登攀力の向上を目指した私の最初の目標は、雪岳山「赤壁」のエコ~独奏道をフリーで登ることだった。(訳者注:雪岳山「赤壁」とは雪岳山にある岩壁で海外遠征を目指すクライマーらが挑む中級以上の壁とされる。エコ道(5.11c)、独奏道(5.8/A2))

 このクライミングを着想したきっかけは、このルートをフリー化したソン・ジョンジュンさんだった。彼は私と共に赤壁を登り、十分完登することができると励ましてくれた。
 ソウンサンの「場合によっては難しい(5.13a/b)」を登った私は、その勢いに乗じて2009年9月、女性で初めて赤壁をフリーで登ることに成功した。トレーニングを始めて2年目の成果だった。私はこのクライミングを通じて、クライミングは自分自身に対する洞察であり、これ以外に目標を成し遂げる方法はないことを悟った。
 同時に、失敗が怖くて行動しなければ、どんな経験も達成感も得ることができないという事も知った。

 フリークライミングの向上のため、2010年にアメリカツアーに出かけた。ユタ州のインディアン・クリークとザイオン国立公園、ヨセミテの幾つかの岩場を廻り、私は再びクラッククライミングを学んだ。どのようなヒントもテクニックもかなわない困難なクラックを登り、私はさらに初心に戻った。
 インディアン・クリークの30mクラックにはボルトが一つも無かった。終了点にだけボルトがあった。ザイオン国立公園のルートは確保支点が最初から無かった。クライマーが支点を作らなければならない。自然保護のためのクライミング文化に衝撃を受けた。私の足りない点が明らかになり、今後どのような登山をするのか、もう一度考えてみた。

 アメリカから戻った私は2011年、アルプスファン(fun)遠征をハン・ミソン、チェ・ミソン、ソ・ファヨン、キム・ヨンミと共に計画した。パタゴニア遠征を控えてトレーニングのためでもあった。後輩達と共にアルプスの壁を登ることが出来たのは明らかに私にとって幸運だった。私は岩壁を登って共感したかったのだ。
 私たちはアルジャンティエール、エギーユ・デュ・ミディ南壁、グラン・キャプサン、ダン・ジュアンの順に登った。グラン・キャプサンを登ったときには37時間にわたり靴を履いたまま壁に取り付いていた。寒さ、空腹、困難、危険、このような苦難は私の夢が叶っていく過程の人だから喜んで迎えた。

P6

2012年、3度目の試みでフイッツロイ頂上へ

 パタゴニアは私に「待つ」という言葉をプレゼントした。韓国山岳会主催でハン・ミソン、チェ・ミソンとチームを組んだ私は4年ぶりにパタゴニアを訪れた、2008年強風でセロトーレに失敗したので、今度はぜひ登ってみたかったのだ。しかし私たちが到着する数日前にコンプレッサールートが破壊され、クライミングはほとんど不可能だった。 
 第二候補だったフイッツロイのクライミングを目指した。私たちの努力にかかわらず、壁の状態と天候が悪く、登頂に失敗した。

 3次登頂を試みる前に失敗を分析し、徹底的に登る準備をした。シュラフとテントを省き、羽毛服とビバーク装備だけにまとめて軽量化に努めた。スープ一本で一日を耐え凌いだ。1000mの垂直の壁に女3人だけだったが、孤独ではない。
 私たちは知っている。「生」の最も幸せな時間を共に過ごしていることを。
 空が開かれたクライミング4日目、とうとう頂上に立った私たちは歓喜した。人生の地平が広がったようだった。さらに熱く生きるべきだ、と生きる意思がこみあげてきた。

 それまで、私は一度も山を変えることなどできない。
 山は高さと困難さか変えられるような対象ではないのだ。
 変わらない岩壁を変化させる方法、それはただ私をより成長させる以外にない。
 クライミングの難しさは、登る困難よりも、惑う心を平静に保つことだ。揺らぐ心が変わらずに私を助けてくれたのは、友人のハン・ミソンとチェ・ミソンの2人の存在だ。もし2人がいなければ、私はフイッツロイの頂上に立てなかっただろう。

 遠征登山は強い人が集まったからといって強くなるということはない。弱い人が集まったからといって弱いチームになるということでもない。
 私はそれをパイネでのクライミングを通じて思い知らされた。登山で最も重要なのは、お互い励まし合い、勇気を与えてくれるパートナーであることを。

 彼女たちと登った壁が懐かしくなる、この頃だ。

P11
イ・ミョンヒ(40歳)

タイタン山岳会所属

競技指導者2級、生活体育指導者3級

経歴
1999年ヨセミテ、エルキャピタン・ノーズ
2001年カラコルム マルチ4遠征隊
2006年ヨーロッパアルプス
2008年パタゴニア パイネ中央峰女性チームとして初登、セロトーレにてクライミング
2009年アイガー北壁
2009年雪岳山赤壁エコ道~独奏道フリークライミング(女性初)
2009年ヨセミテ、エルキャピタン・ノーズ(16時間40分)、インディアン・クリーク
2011年ヨーロッパアルプス
2012年パタゴニア フイッツロイ登頂

入賞
2005年全国アイスクライミング選手権リード部門女子1位
2007年全国アイスクライミング選手権リード部門女子1位
2011年全国アイスクライミング選手権リード部門女子1位
2004~2007年エクストリームライダー・エイドクライミング大会女子リード部門1位

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以上記事引用おわり

 イ・ミョンヒさんに関しては出産・育児を乗り越えた2005年頃から韓国の山岳メディアでも幾度か取り上げられているのですが、当ブログでもイ・ミョンヒさんがパネラーだった故ゴ・ミスン追悼座談会の様子を収録しています。

韓国の高所クライマーの現在・未来 2009.9.27

 この時の座談会では、

 『気の合うパートナーとトランゴタワーのようなところを登攀したいです。 事実優れた山登りをしようとするなら女同士は難しいです。 どうしても男性のパートナーが良いですね。』

 と本音をもらしているのですが、2011年には再び女性同士のチームで海外のクライミングに挑んでいます。日本の「GIRI GIRI BOYS」のような通称で、韓国メディアでは「アジュマ(おばさん)遠征隊」というタイトルがよく用いられています。
 ご主人でアラスカで素晴らしいクライミングを展開しているチェ・ソクムン氏もこの「韓国山岳界の未来を問う」第三回に連載され、ご夫婦が次に目指すものは何なのか、注目です。

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