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もう書斎には行かない 8000m峰14座無酸素登頂 キム・チャンホ ロングインタビュー

 去る5月20日、カヌー、自転車、徒歩でアプローチの末、エベレストに無酸素登頂、8000m峰14座全てを無酸素で登頂した韓国のキム・チャンホ。遠征は韓国の若手クライマー、ソ・ソンホが登頂後に死亡するという痛ましい結果を迎えました。

 6月に入り、韓国の山岳メディアも特集記事を組み始めました。
 キム・チャンホ氏は緻密な資料分析と長年にわたる現地踏査をベースにクライミング能力が伴った「文武両道」のクライマーです。
 月刊「山」6月号が、エベレストのベースキャンプでのインタビューを掲載しました。
 西洋人しか興味がない日本の山岳メディアではおそらく知る機会もないと思われますので、以下に紹介します。

キム・チャンホ 8,000m級 14座無酸素登頂特集インタビュー 「旅と探険は自分に与えられた時間における放浪です」 by 月刊「山」2013年6月号

以下記事引用開始
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Kim1
キム・チャンホ8,000m級14座 無酸素登頂特集インタビュー
「旅と探険は、自身に与えられた時間における放浪です」
文・写真 ハン・ピルソク副局長

ヒマラヤの氷河の上で交わしたキム・チャンホ隊長とのロングインタビュー、永遠の夢

 キム・チャンホ隊長はソ・ソンホ、チョン・プルナ隊員らと共に3月14日、インド・ベンガル湾を出発してガンジス川をカヤックで進む大遠征を始めた。5日間、川を遡りコルカタ(旧カルカッタ)に到着するまで、平均4.5mに達する潮の干満の差で危険な状況が多かった。川の水が引く時には漁船はもちろん、巨大な商船がひっくり返るほどの脅威だった。

 距離158kmのカヤックを終えた遠征隊は、インド平原とネパール・タライ平原を横切り、893kmに達する長距離を自転車で移動、標高410mのツムリンタールでアン・チヨン、オ・ヨンフン、ソ・ソンホ隊員らと合流した。
 サルパパスを越え、クンブヒマールトレッキングとキャラバンの基点であるルクラに到着した後、ナムチェとパンボチェを経由して4月20日、 ベースキャンプ(5,350m)に到着した。徒歩(キャラバン)の距離だけでも156kmである。

 このような38日間にわたる遠征を経てベースキャンプに到着したキム・チャンホ隊長は非常に疲れていた。20年来の知り合いである記者が初めて見た、それこそ痩せこけた姿だった。ベースキャンプ入する二日前、ティンボチェ(4,300m)で激しい疲労で一夜横になって寝たから顔がより一層やつれていた。

 キム・チャンホ隊長とのインタビューは、最初の高所順応登攀が終わった4月29日午後、ベースキャンプのアイスフォール前で、そして5月8日コンディション調整のために降り立ったペリチェで行われた。高度障害と疲労を考慮して書面によるインタビューも要請した。


 今回の遠征は、主目的であるエベレスト登攀が始まる40日前から始まり、困難も多かったと思います。特にカヤックや自転車のような分野は慣れないスポーツではないですか?

 私のパソコンに保存されている数多くのフォルダに「遠征登攀」があります。 ここには過去に行った遠征登攀と探険に関する写真、寄稿した原稿、そして各遠征の書類が整理されています。 また、今後私がやりたい遠征と探険に関する計画が、それぞれ下位フォルダに分類されていて、普段思い出すたびに資料と情報をアップデートしています。各地域ごとに、その時期に適切な一つの遠征登攀フォルダを選択します。 結局、どんな遠征登攀も既にかなり以前から準備されているわけです。

 「From 0 to 8848」というスローガンを旗じるしにした韓国エベレスト-ローツェ遠征隊も同じことです。 6年前、2007年に私はエベレスト登頂を試みました。しかし共にベースキャンプで過ごした他の韓国隊隊員2人が墜落死しました。 墜落死したイ・ヒョンジョは私とともにナンガパルバット(8,125m)を横断し、オ・ヒジュンはガッシャーブルム1峰(8,068m)と2峰(8,035m)を共に登頂した後輩でした。

 その日、私たちの隊も最後のC4(7,980m)に滞在していました。 隊員たちは頂上へ向かって登攀中でした。私は事故の知らせを聞いて、登攀をあきらめて収容作業に参加した後、下りのキャラバン中に、次にエベレスト登頂を試みるならば、何かユニークなプログラムを組まなければならないと決心しました。例えば新ルート、エベレスト-ローツェ縦走登攀、そして今回行っている「海抜高度0mからエベレスト頂上8,848mまで」というプロジェクトです。

 私は遠征登山を準備するならば、国内でほぼ90%以上を入念に済ませて出国します。実際に現場で見えている姿は、遠征の一部に過ぎません。今回は普段やらない行為が含まれています。カヤックと自転車がそれです。国内でトレーニングしましたが、残念ながら不十分でした。
 最も気になった点は、海外で探検・登山活動を行うには、その国の法律の範囲内で行わなければなりません。ネパールのエベレスト登山の手順は熟知してましたが、インドでのカヤックと自転車の区間は、海洋法、河川法、道路交通法など幾つもの許可証の手続きを行う必要があり、それが疲れました。
 もう一点は、インドでカヤックを手配する過程で、最終的にカルカッタで製作することになっていましたが、現場に到着したのに完成しておらず、一日待たなければなりませんでした。

 最後に私が無酸素で登った高さは8611mのK2です。しかしエベレストはそれより約250m高くなります。8400m以上では50m毎に空気の酸素分圧が変化します。その未知の空間と高度で、私の身体がどのように変化するのかもわかりません。それが気になってエベレストに無酸素で挑戦したのです。


 14座の無酸素制覇を夢見るようになった時点はいつですか? その過程はどのようなもので、最も難しかった時はいつですか?

 ヒマラヤ登山は、記録を樹立したり、他人に見せようとする行為ではありません。
 2005年、最初の8,000m峰であるナンガパルバットのルパール壁を登り8000m峰に入門しました。それ以来、これまで私は14座を目指したというよりも、光州全南、釜山の登山家たち、そして全国の登山家たちと交流しながら、自然に14座最後のピークである、ここエベレストベースキャンプに座っている次第です。

 今まで私が知る韓国の登山家でも、最初から8,000m級14座を目指し、チャレンジ精神を燃やした人はいないでしょう。もしそうだと言うなら韓国の他の登山家たちが果たして信じるだろうか? 私がヒマラヤに通いながら夢見たものは、8,000m峰14座ではありません。さきほど述べたように、「人」です。 それらの苦難を克服しながら共にした思い出、友情を大事にし、そして彼らはなぜ山に行くのか知りたかった。 彼らと同じ空間の中で時間を費やしてこそ分かることなのです。

 今、地球上に未知と呼ばれる空間は無いと思います。 だから今、探検や登山はまだ限りない未知のままである私たちの内面に向かう必要があります。山で私は、自分自身の深いところに隠されたものを探し求めます。
 真の勇気は、挑戦して達成したエベレストの頂上にあるものではない。 自分の弱さに挑戦して、暴風雪の中でも一歩進むことができる勇気です。 だからこそ、世界最高峰エベレストを登頂するのもいいが、自分だけの頂上を探して行ってみようということです。

 8,000m級14座が自分にとっての「頂上」ではありません。私が登ろうとする頂上を探すまでが最も困難で厳しい道でした。多くの時間が必要でした。 パキスタンで一人1,700日を探査するうちに、私が夢見る頂上はまさに私自身の中にあるということを知りました。

 チャンホ隊長は取材途中にテントの中に入り、自分の日記を持って来た。 そしてカヤックの到達地点であるコルカタのバガットに到着した日に書いた日記を示した。去る3月18日である。

肩と腕が痛んでも休みなくパドルを漕がなければ、カヤックが後退する。飯もカヤックの上で食べた。蚊の襲来で寝床は不快だった。
 探検とクライミングは私の信念に対する信頼であり、それを行動に移して証明していくプロセスだ。思考と行動の間の、葛藤と矛盾をさまような。遠くの目標に向かって弓の弦を引き矢を放つ。結果に執着せず行動に専念しろ。私たちの遠征の目的は、標高0mからエベレスト8,848 mだ。しかし、もしかしたら私たちの目標は、頂上ではないかもしれない。 パドリング一回の、この瞬間がまさに私の、私たちの頂上だ。


エベレスト無酸素登頂に対する負担感はありませんか?

 長い時間を山で一緒に過ごし、苦難を乗り越え友情を分けた先輩・後輩30人余りが山から戻りませんでした。ヒマラヤはあまりにも巨大で、そこを登る人間は、あまりにも微々たる存在です。

 エベレストの頂上は標高0mに比べて気圧が3分1以下になります。動いているが死につつある、というのが正しいでしょう。 私たちの体は、このような過酷な環境で生き残るために、体の最も重要な部分は残しておいて、本能的に一つ一つ捨ててしまいます。
 氷点下30℃を下回る低温状態で酸素をまともに取り込めないということは、すぐに指を切断しなければならない状況を迎えることを意味することに不安を感じる時もあります。 私も人間です。 しかし、酸素を使わない状態で8,611mから8,848mの間を経験したいと思います。 登山家として持つ探検の本能が、まさにこれではないかと考えています。


最も難しかった山、最も記憶に残る山、また行きたい山はありますか?

 ナンガパルバットのルパール壁は、地球上で最も高い岩壁です。 2005年の遠征は107日間ベースキャンプに留まり登山を継続しました。 キャンプ1のテントは4回も破損しました。 そしてベースキャンプを出発、9日目に頂を越えて山の反対側ディアミール壁を下降しました。 故イ・ヒョンジョと私は生還できました。ルパール壁を初登した1970年のメスナー兄弟はそうではなかった。弟が死んだからです。 ナンガパルバットのルパール壁が一番難しい山でした。

 最も記憶に残る山はもちろん、ヒマラヤへの最初の「愛」といえるグレートトランゴタワーです。 1993年ソウル市立大学山岳会が企画した遠征隊は、15泊16日間、ポーターレッジを利用して1,500 m垂壁の大岩塔を登りました。 中間雪壁と小岩塔をリードしていた私はランニングビレイがない状態で、100m墜落しました。ロープは切れかけ、内芯が数本残った程度で、肋骨が2本折れました。 そのような状況でも、我々は再び登りました。

 イ・ケナム兄とイ・スヨンに救われましたが、私はトップに立ちました。そして私たちが登ろうとした地点まで行きました。 初めてのヒマラヤ登攀は、私に白い山に対する幻想と挫折、克服、そして20代の若い日々を全て捧げたクライミングでした。
 私はヒマラヤ登山だけは、単独登攀の経験を持つザイルパートナーを探します。 しかし我が国では単独登攀の経験を持つ者を探すのが困難です。まっ暗な夜、遠い絶壁に1人でぶらさがってみた人は、二人でいるということが真にどれほど良いものか、知るようになります。 パートナーが旨い食べ物だけ選んでも、狭いテント中で屁をこいても、夜通しイビキがうるさくても。
 また行きたい山はありますが、私が行ったことのない山の単独登攀をしてみたいです。


キム・チャンホ隊長にとって14座無酸素登頂は何を意味しますか。達成感?

 苦痛であっても、全て自分自身の力で山に登りたいのです。酸素を使えば自分自身をだましている気がして嫌でした。 それ以上でも、それ以下でもありません。


自分の登山の軌跡を通して感じた高度と難易度の、価値としての違いは何ですか?

 高レベルの難易度、それはすべての登山の基本的な要素です。 岩と氷のクライミングなどの専門性を持つクライミングを追求する大学山岳部出身である私は、先輩たちから自然にヒマラヤに接するようになりました。彼らの夢は、国内の低い山から高山に視線を向けていましたから。

 クライミングでの高難度の指向性は、本質的な部分です。 国内の岩壁登攀も、最初はワンピッチからマルチピッチに変わり、さらに国内の1000m級の山を登りながら高いヨーロッパアルプスやヒマラヤを登ろうとします。

 標高が山の "外形的な高さ"とすれば、難易度は人間が作り出した "創造的な高さ "だと思います。 そして高度と難易度が互いに組み合わさってこそ、良いクライミングということができます。
 8,000m級14座を登る以前、難易度の比重を置いた場合は、14座登頂は高さに、また、マルチピーク遠征、6,000m級4座単独登山、バツーラ2峰とヒムジュンなどは高さと難易度が調和したクライミングといえるでしょう。

キム隊長は登山の価値をどこに置いていますか?

 私は登山の価値を動機(Motivation)に大きな比重を置きます。「なぜその山に登ろうと思うのか」、「どのような方式で登るのか」です。

 だから、現地でザックを背負って登る行為よりも、自分が目標とした山に登る準備から来る心理的な不安、プレッシャーを克服する過程を、私は楽しんでいます。 今回、エベレスト南西壁の新ルートを開拓しに来ているカザフスタンのデニス・ウルブコの今の心情を、少しは推察することができます。登山家は、壁の下でザイルを結んで出発すれば、精神と行為は無我の境地に統一されるため、心の中に平静を感じます。
 頂上を征服するのではなく、自分の心を征服して静けさを維持し、結果に執着しない行為を追求することが究極の価値です。

 チャンホ隊長は8,000 m 14座完登レース中にも、バツーラ2峰(7,762 m)とヒムジュン(7,140 m)などのヒマラヤ未踏峰を初登頂することに成功しました。 すごい情熱だと思います。 世界初登頂に対する自負もまたすごいと思いますが。

 2001年のマルチピーク遠征隊、2003年の6000m級4座の単独登山、バツーラ2峰とヒムジュンの遠征登山は、世界初登頂という興味を呼び起こす対象の山でしたが、それよりも、どんな可能性を提示するクライミングだったのかと思います。 どんな可能性と表現する理由は、登山家としての私のすべての力を引き出してくれたからです。

 例えば、チョー・オユー(8,201 m)を北西面ノーマルルートから登る準備をするなら、私にとって大きく興味を呼び起こさないでしょう。 すでにアプローチと登山ルートで答えが出てますからね。 しかし未踏峰と新ルートは、一つの山に接する方式として、学術的かつ創造的である必要があります。 その一つのピークを登るために費やした時間は、すでに多くの事実が知られている山を登るよりも多くの経験を積むことができます。

 ですから、私は登る登山ルートに以前捨てられたテントの残骸やクラックにハーケンがあるのは好きではない。その瞬間、すでに気が抜けてしまいます。


まだ(新ルート)開拓登山への情熱が残っていますか。

 古代からヒマラヤの周りに住んでいた人間たちにとって、ヒマラヤの白い雪山は神秘的な領域でした。 だから、宗教的な聖山であり、畏敬の対象だったが、19世紀後半から登山の領域として位置づけられ世俗化しました。 誰もがヒマラヤという空間で、先住民と会って文化に触れることができるようになったのです。

 このように誰もが触れることのできるヒマラヤになりましたが、誰も行けなかった地域や山に行きたいと思います。やりたい登山をすることができ、見られなかった文化に接することができるようにしたい。


 チャンホ隊長は登山家ではなく、探検家として山岳界にデビューしたと思います。 2000年以降2008年まで8回にわたって約1700日間、パキスタンヒマラヤに遠征しました。その探査は、『月刊山』になんと38回に渡って紹介されています。 既に学生時代にグレートトランゴタワーのクライミングを通じて、パキスタンヒマラヤと縁を結んだことは知られています。パキスタンのヒマラヤ踏査と情熱、エピソードについて話して下さい。まだ踏査していない地域を探る計画はありますか。 キム隊長が考えているパキスタン踏査の意味は何ですか?

 グレートトランゴタワーとガッシャブルム4峰遠征後、20代の私の胸中に時間と資金が許せばカラコルム山脈をすべて訪れてみようという考えが定着しました。それは預金通帳の残高が増えた、年を取った後のことです。
 しかしこんな考えが浮かびました。「懐具合が暖かいとしても足に力も入らない年寄りになって、果して私の中にそんな情熱が燃えているだろうか 」今出発するのがいい、と考えが変わりました。

 当時の韓国においてカラコルムに関するデータは、遠征記以外はほとんどない状態でした。 だから、1年間部屋にこもりカラコルムに関する海外の資料を漁り、一人で出発しました。予算に余裕が無く地元のポーターを雇うことができず、1人で食べて寝て、撮影機材をバックパックに詰め込んで通っていました。

 1ヶ月で体重が20㎏以上減って倒れました。 問題は、重い荷物や食糧不足です。それ以来、食事の現地化に変更しました。山奥の村で手に入れた小麦粉で作ったスイトンを主食にしました。スイトンは便利です。食べる量を自由に調整することができますからね。水の量だけ調整すればいいんです。そして乾燥したヤク糞で火を焚いてミルクティーを飲みました。畑で芋掘りを手伝ってジャガイモを入手したり、羊飼い小屋で手伝いをしてチーズを得ました。だから自然に荷物の重量も解決しました。

 そんな6年が過ぎました。 春に出国して初冬に韓国に帰ってきました。 当時、重荷を背負って毎日定期的に通う間、人の心があまりにも小さな事に大きく揺れるということに気づきました。 例えば、ある山奥の村で子供からからかわれると、私は気分の良い日は通り過ぎていきますが、そうでない日はバックパックを下ろしてその子供につかみかかる私の姿を見ることができたでしょう。

 大変な日は、「なんで自分はこんな苦労をしているんだ」と誰かを非難したり、悪口を口にすることになります。 しかし、数ヶ月が経つと自然に心が穏やかになりました。 ヒンドゥークシュの氷河脇の草原に小さなテントを張り、ヤク糞で湧かしたマグカップを持って、星の光が降り注ぎます。
 「いいなあ。 私は自分で選択して、今この道を歩いている。 この瞬間、私の人生の最高の時間を過ごしている。」そんな心が自然に生じましたね。

 パキスタン踏査は全く私の個人的な満足のために行きました。しかし、2年目に『月刊山』にパキスタンのヒマラヤ踏査を連載することになりました。 踏査などという言葉も、実はこの時から使うようにしたのです。 とにかく私が行ったカラコルム、ヒンドゥークシュの写真と文が載ることで、登山家たちに山々を紹介する機会になったのです。 国内登山家がこの地域に進出することができたとすれば、そこに意味を求めたい。

 パキスタン踏査は、8000m14座を目前にした今振り返ってみると、私の若い日の最も大切な経験であり、思い出です。この踏査は途中でやめたいと思うほど苦痛でした。 峠を 越える日はいつも大変で、 奥歯 横の 肉を かんで血を舐めながら歩いた時もあります。アルパインクライミングも、これ以上に苦しくはありません。

 パキスタン踏査の後に、インド踏査を計画していました。しかしミレニアム(2000年)から地理的に近い中国ヒマラヤに対する韓国登山家たちの関心が高まり、また、遠征隊が進出に拍車をかけていた時期でした。 だから四川省、雲南省で3度にわたり踏査を行い「釜山山のフォーラム」に『中国横断山脈研究 』という50ページの研究論文を寄稿しました。 しかし、それからは頻繁に遠征登山が続き、踏査を継続できないでいます。チベットと新疆ウイグル自治区を二、三度見て回る計画を持っています。

チベット踏査を止めたそうですが、別の調査や探査の計画がありますか。

 私は垂直の旅(登山)と水平の旅(探査)が好きです。 登山や探検は旅だと思います。 今回の旅 "From 0 to 8848 'も海で生成された雲がインドの平原を通ってヒマラヤ山脈に雪を降らせ、その雪は再びガンジス川に溶けて海に流れます。このような自然の循環論理をたどっていくことも目的でした。

 これで年をとると、垂直の旅は自然に高さも低くなり、回数も減ることでしょう。 一方、水平方向の旅は続くでしょう。 チベット踏査が完了したら、インドやアフガニスタンに行きたいです。

 中国四川省と雲南省探査以降、こんな気もしました。 机上でGoogle Earthで地球を隅々まで見ることができるのに、動き回るのは時間の無駄ではないかという。しかし、私が荷物を背負って通うのは、見たい山を探して資料収集のためだけではない、ということを知ったんです。むしろ山の周りを歩くこと自体を楽しむことが大きくなります。 そこに住む人々に会い、山に会うということです。

 チャンホ隊長は「勉強する登山家」として広く知られる。 彼は最近の情報や山岳書で接した最先端の登山家だけでなく、探検時代の昔の登山家たちと話を交わし、彼らのような夢を見て翼を広げていく。 彼は学生時代、最も深く感銘を受けた山岳書として、故ギムジャンホ先生の「手の自由、足の自由、精神の自由」を挙げた。 これは、まさに登山とは、肉体と精神の自由を満喫することだと考えているからだ、という。

探索や遠征前の準備を徹底することが知られています。どのように事前準備を行っていますか。

 ある後輩が「兄さんはトレーニングもせず、なんでそんなに資料の分析に執着するんですか?」と言いました。 「私は山で死にたくない。死にたくなければ、沢山知らなければならない。『知っているだけに見えてくる』その格言を信じているからね。」と答えました。
 行こうとする山の本や資料を調べることを自分に課しています。昨年のヒムジュンのような山は、日本の萩原編集長(山と溪谷)、ドイツのウォルフガング・ヘチェル(Wolfgang Heichel、パキスタンヒマラヤ研究者)、アメリカのジョンハーリンⅢ世、イギリスのリンゼイ・グリフィンなど世界各国で交流しているヒマラヤの専門家に電子メールで連絡し、可能な限りの資料を収集しました。


パキスタン踏査のために読んだ本や地図の量はどのくらいですか?

 ドイツのウォルフガング・ヘチェルは、カラコルム研究論文を地道に発刊しています。 彼もパキスタンとカラコルムに関しては私に多くの助言を求めたりします。 私は眠れない日には、ヒマラヤの東ナムチェバルワから西のナンガパルバットまで2,500 km、カラコルム、ヒンドゥークシュ山脈のそれぞれのピークを順番に覚えながら、この山にはいくつのルートがあり、また、いくつの新ルート開拓の可能性があり、外国のどんなクライマーがこのルートに興味を持っているか事実を確認しながら眠りに就きます。
 私は登山家と呼ばれるだけの資質を持っているかということより、毎日どのような努力をしているか自分自身に問いかけます。


 パキスタンで購入した本の量はどのくらいですか。 また、どのような方法で購入したんでしょうか。

 パキスタンヒマラヤに関連する本は、古本屋やバザールのような路上で購入しました。 一冊一冊を見つけるたびに、その楽しさを比較することはできません。まるで宝物を見つけた気分です。
 パキスタンのヒマラヤとカラコルム、ヒンズークシに関連する地図は、入手が容易ではなかったし、パキスタン国立地理院発行の地図は正確ではありません。ですからパキスタン山岳会メンバーで遠征に参加した人々が保管していた地図を入手しました。 カラコルムに関連する地図は当時までポーランドのJery Walaが作成し、スイス山岳研究所から発行された地図が最も権威がありました。 これらの資料は、これまでも韓国の地方登山はもちろん大韓山岳連盟や韓国山岳会の会員も利用していますね。 ただ、彼らはよく知らないだけです。

 パキスタン踏査時には予算がありません。ビザを延長しにイスラマバードとラワルピンディに下りると、まず古本の地図を購入しました。 踏査費用はいつも不足していたんです。現地滞在費用のうち食費は一食にして韓国通貨に換算して200ウォンだけ使いました。チャパティ2枚とラッシー(発酵させたヨーグルト飲料)一杯の値です。

山岳書と地図を読む楽しさはどのようなものですか。

 多分、私は想像旅行がより好きなのかもしれません。 フランスの作家アラン・ド・ボドンの言うベッド旅行です。 これは、すぐに登山や踏査を実行に移す可能性がなくても、そこについての本や地図を見ながら心の中で想像力を伸ばすことです。 これらの旅行には、実際の空間と時間は重要ではありません。

現在の自宅に所有している本は、主にどのような内容でしょうか。

 昨年5月20日に結婚して家を引っ越すときに一度整理し、4月に私がインドを訪れたまま、妻は家を改築しました。 その時、もう一度、読んでいない本をまとめました。
 今現在のヒマラヤについて、全世界で発行された書籍、地図、そしてデータ出版物だけが残りました。 妻も私のこだわりのような行為を、いつも笑って理解してくれました。 今回のエベレスト登山を終えた後、新たに設けられた書斎がどんなものか期待してます。 眠れない日にそこに入ると、世界のいかなる場所でも瞬時に旅に出ることができますからね。


もし本を出版する場合は、どのような内容とタイトルの本を出すつもりですか。

 私は登山をするときも、自分の体験や経験も信じられないことが多いです。 私の潜在意識の中の本性や生存本能が私の理性を押した時ありましたから。

 周りの多くの方々からは、パキスタンの唯一の探査話や多くのヒマラヤを登った話を公開するのが良いという意見をいただいています。 その日は来るでしょう。 しかし最初に、私は韓国の登山家が容易に閲覧できるヒマラヤとヒンドゥークシュ、カラコルム、中国横断山脈などの資料集を出版したいと思います。
 これは、8000m峰14座を登ることよりもつらい作業になることが明らかです。 山を登る時には、天気が良くないとベースキャンプで休むことになりますが、これらの作業は、毎日努力しなければ空虚なエコーになりますからね。

ずっと前に設立されたカラコルムヒマラヤ研究所は、今どのような状況でしょうか。

 たぶんに実体のない、私の個人的な研究所です。 しかし、非常に効率の良い研究所ですよ。 私は一人だから管理や諸雑費がかかりませんしね。 韓国はもちろん、世界の多くの登山者とヒマラヤ研究者たちと交流しています。 資料提供はすべて無料でした。 一人一人が求めてくるデータ要求に答えるために徹夜で作業という手間と時間の投資が必要になります。 これらの作業に私は外国はともかくとしても、韓国の多くの遠征に参加しました。 遠征隊からは、良い成果を収めると連絡がありませんが、結果が良くなければ、データ提供者の責任にされたりしますしね。
 このような反応に対処する勇気が無いならば、提供しなければ良いだけです. しかし、このような作業は私自身が好きでやっています。


キム・チャンホ隊長は登山を始めて以来25年間、激しいクライミング活動を続けてきた。その間に結んだ縁も多い。特に、韓国道路公社クライミングチーム、釜山山岳連盟との縁は、彼の14座無酸素制覇達成に決定的な役割を果たした。

 学生時代、放浪していた頃、14座完登はじめ登山人生の中で、自分が登山家として成長するうえで精神的、経済的に貢献した登山家がいると思いますか。

 1988年にソウル市立大学山岳会に入会し、困難な登山を始めました。運良く1年生の時に日本の冬季北アルプスに遠征登山を、1993年にグレートトランゴタワー、1996年にガッシャブルム4峰東壁新ルートを登り、学校の名前を賭けて登ってきました。遠征登山に対する葛藤と疑問を経験した時期でした。

 しかし今振り返ってみると、経験は浅くとも、クライミングへの感性を唱えていたチョ・ドンヨン兄(行政学科85年度生)、クライミングの創造性を絶えず呼び起こしてくれたイ・ケナム兄(建築学科86年生)、そしてクライミングは、装備は十分でなく不足している中でも困難を乗り越えていくものと教えてくれたシン・テムン兄(経営学科86年生)が思い出されます。彼らの精神が、私がヒマラヤで活躍できるベースとなりました。

 そして、全国をキム・ビョンヨン(訳者注:キム・サッカ(1807年~1863年)朝鮮の放浪風刺詩人で、日本の種田山頭火のような存在)のように歩き回って探検に参加して仕えた慶南のジョ・ヒョンギュ隊長、イ・ビョンガプ隊長、全羅南道・光州のギェ・リョンデ院長、バク・サンス隊長、イ・ソンウォン隊長、そして釜山のホン・ボスン隊長など、これらの方々が遠征隊を率いた推進力と情熱、そして隊員を愛する心を学びました。

 何よりもベースキャンプを離れ、暴風雪のキャンプで早朝の寒さを乗り越え、重荷を背負い共に登った同僚、先輩、後輩たちと思い出を作りました。ある先輩は、自分はタバコを吸わないのに常にザックにタバコを入れて持ち歩き、後輩たちにわけてくれました。

 登山とは「同行」です。 相手に対して「何をしてはいけない」ではなく、壁を作らず、その人が何を好きかどうかが優先されます。 私はそのような多くの仲間に出会いました。全国どこであろうと、焼酎一本あれば私たちは 世界のどんな高くて険しい山も登ることが出来ます。仲間の愛に 酔って どこでも 行くことができると言うのが いいんです。 私は得意気に山を知るというものの、実際にはザイルを結んだ仲間達との友情を知っているということかもしれません。

 14座登頂に関しては、当然ホン・ボスン隊長と後輩のソ・ソンホです。 ホン隊長は御自身の話をすることを好まないので、後にしましょう。

 ソ・ソンホは私と一緒に8,000 m峰を11座登り、今回のエベレスト無酸素登頂のために一緒に来ています。 他に言葉は必要ありません。 ソンホは、私にとって実の弟です。ただ、血がつながっていないという事実以外は。 ここで一つ言っておきたい。ソンホは、世界的な登山家になる資質を持っています。

 昨年ヒムジュンを一緒に登ったアン・チヨンも同じですよ。
 しかし、国内では、彼らの能力を引き出し、素晴らしいクライミングをもたらすリーダーシップを持つ人は多くありません。 さらに嫉妬が多いですね。 これからは偉大な登山家よりも、偉大な登山家を生み出してリードする遠征隊長がより多く望まれます。

 パキスタンに隠しておいた女性に会いに行くという噂が出まわる間にも、周りで私を大事にくれた三人については説明しません。 彼らの深い心は、言葉では言い尽くせません。

 インドのベンガル湾から遠征を共にする、20年後輩のチョン・プルナをはじめ、後輩達に話したい事があります。 私は今回の出国前に、プルナに本を一冊プレゼントしました。 そこにこう書きました。

『私たちの真の頂上は、多分エベレストではありません。カヤックのパドリング一漕ぎ、自転車のペダル一回のその瞬間が、まさに私たちの真の頂上です。』

 頂上は遠く、そして凍っている頂点にあるのではなく、まさにこの瞬間、私たちの周りに存在します。自分が本当に暴風雪の中でも歩みを止めずに進むことができる独自の道を、自分自身の頂上を見つけることが重要です。


探検がチャンホ隊長自身に与える意味は何ですか?

 旅と探検は、自分に与えられた時間の中での放浪です。 放浪の道は自分の中に向かいます。 そして、 "私とは何者か"という問いを投げかけて答えを見出す過程です。 答えが見つからないことがあります。 なぜ山に登るのかと尋ねることと同じでしょう。


登山と探検を通して学んだことがあるとすれば?

 登山は、自分が作った虚像の山を登るようなものです。 結局、自分しか残りません。 間違って考えると、自分の硬い殻の中に残っている場合があります。 しかし登山と探検は、自分のこのような殻を破って芽生えさせることが必要です。 芽は、忍苦の冬を乗り越えます。 だから登山と探検は、自分には過酷に、仲間に対しては柔軟であることが必要です。 登山と探検は、世界の片隅から中心に向かって叫ぶ表現ですが、それは銃口の前でも許しを伝え、その人の幸せを祈る心を学ぶことであり、死の瀬戸際で人生の希望をささやくことです。


自分だけの登山哲学がありますか。

 神話の中の話によると山、または自然と人間はもともと兄弟でした。 自然に逆らわない登山と探検をしたいと思います。

国内外で尊敬するクライマーはいますか。 その理由は何ですか?

 外国の登山家では、イギリスのクリス·ボニントンです。 彼は自分を語りません。自分には厳しく、仲間に対しては肩を軽くたたいてくれる遠征隊長でした。 彼の柔和な老年の顔は、自分の人生すべてを示しています。

 国内の登山家は、私の友人ユン・チウォンをあげたいと思います。 最近、海兵隊の後輩だったという事実を知りましたが、彼は私と歳が同じでローツェ南壁を一緒に登りました。彼がソウル登村洞三叉路でアウトドアブランドの店長をしているときに私たちは家が近かったんです。 彼は私が一人でパキスタン踏査に出かける時、食事を済ましているか心配してくれ、夕方に訪ねてきては酒と飯を買ってくれました。彼の人柄です。
 そして2010年、彼は人間の無限のヒューマニズムというテーマを私たちに残して、マナスルの7,400 m地点で後輩のバク・ヘンスと一緒に消息を絶ちました。私は韓国ヒマラヤ進出50年史でチウォンを "最も偉大な登山家"と呼びたいです。高所順応に苦しむ後輩のために永眠まで共にした
 彼を尊敬しています。 弱い人間が死の瞬間に偉大さを示しました。


今後の踏査のための計画はありますか?

 パソコンの探検と登山のフォルダには、計画が非常に多いです。 私の年齢と経済状態に合った、適切な時期に行うでしょう。

何歳まで登山を続ける予定ですか?

 期限はありません。歳をとったら、妻と一緒に裏山に薬水(訳者注:日本でいう温泉・鉱泉のこと)でも汲みに行くでしょう。


結婚して1年もならないのに、長期遠征を理解してくれる奥様にしたい話は。

 私は愚か者です。私の妻もよく知っています。 さらに私はモンベルからいただく給与の額も知りません。たまに財務部に電話していくらになるのか尋ねてます。妻はどのくらい苦しいでしょうか。私は家長だというのに。
 妻は私に多くを望みません。「お酒は少しだけにしなさい」ということ以外は。 それでも私が使える一ヶ月の小遣い帳には、後輩たちにふるまう酒と食事代を必ず入れています。
 妻に言うことは、これしか思いつきません。

 「今回の遠征が終わって家に戻ったら、早朝にベッドから出ても、書斎には行かない」と。


NOTE

 記者とチャンホとの縁は20年目になる。
 チャンホが学生時代の1993年、グレートトランゴタワーに行ってきた時だった。登攀記を依頼したが、締め切りを過ぎても原稿が来なかった。
 腹も立ってソウル市立大山岳部に攻め込んだ。しかし話を聞きつけたのか、チャンホの姿は見えなかった。登山の評価が適切に下されていない状態で原稿を出すというのが彼には我慢ならなかったのだ。後で知った事実である。

 1,700日間にわたる彼のパキスタン踏査記は、『月刊山』に38回にわたり連載された。 連載当時、彼は毎月の『山』最高の悪徳筆者(悪徳筆者は、常に新しく誕生する)であった。 これも完成されていない原稿を絶対に出さないスタイルだからだった。 しかし、原稿が締め切り終盤に来てもよかった。 チャンホの原稿の校閲を行う時間は、記者にとって空想旅行の時間だったからだ。

 チャンホとは、アルプスのモンブラン·オートルート、パキスタンヒースパルパス、南米アコンカグアなどを一緒に登ってトレッキングもしている。 そのたびにチャンホは一行を快適かつ安全にコントロールした。 後輩が山に関しては専門家であった。ありのままを楽しんで探検するのが好きだった。 真夜中「私の山を登らなければならない」としながら、急に登りに出て、記者を驚かせた。

 2007年1月アコンカグア登山では、頂上への途上、先輩の一人が高度障害を訴えると喜んで登頂を後回しにして先輩の安全な下山を助けた。
 同年春、エベレスト登頂のために記者と一緒にサウス・コルにいる時だった。 先輩登山家の安全登山のために頂上に向けて固定ロープを設置して、サウスコルの最終キャンプに滞在しているとき、パク・ヨンソク遠征隊のオ・ヒジュン、イ・ヒョンジュ隊員の墜落事故のニュースが伝えられた。
 躊躇せざるを得なかった。 頂上まで10時間にも満たない距離にいたからだ。 当時、彼は欲を捨てた。 そして後輩二人の遺体が横たわっている第2キャンプに走って降りていった。
 チャンホは登頂よりも義理を重視する山男である。

 今回のエベレスト遠征でチャンホと初めて会ったのは、ナムチェバザール(3,440 m)だ。顔がやつれていた。2000年の最初のパキスタン遠征時に1ヶ月で20kg痩せた時の姿が思い浮かんだ。その後キャラバン三日目には、疲労と風邪で寝込んでベースキャンプに予定より一日遅れて到着した。 スケジュールに縛られた遠征なのでストレスが多かっただろう。 さらに大規模な遠征を隊長としてリードしたのも初めてだった。

 しかし驚くべきことに、彼はベースキャンプに到着後顔色が日々良くなった。 ベースキャンプ(5,350 m)から第2キャンプ(6,400 m)を3時間50分で登る凄い登攀力も示した。 隊員の扱いも洗練されスムーズだった。 キャラバンでは夜ごとに隊員たちが日々撮影した写真でコンテストを開いたり、休みの日には、隊員らと酒を飲み、山の話を交わしたりもした。 彼は智将あり徳将である。

 チャンホは14座のレース中にもバツーラ2峰とヒムジュンなどを初登頂した。彼の心の奥底に湧き上がる探検と挑戦への欲求は、放ったままにしないだろう。彼はエベレストに向かいながらも、悩んでいる。 今40代半ばの年齢にふさわしく、水平旅行に転換するのか、それとも欲望に沿って若き日の夢を追って、垂直の世界を追求するのかと。

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以上引用おわり

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