忘れられた英雄 Amir Mehdi
今年公開された映画『K2 初登頂の真実』によって、従来は山岳関係者しか知らなかったK2初登頂にまつわるスキャンダルが明らかにされました。
さて、従来の登山史で全く光があてられる事が無かった、あのワルテル・ボナッティと行動を共にした高所ポーター、アミール・メフディ(Amir Mehdi)の生涯がBBCによって報道されました。
Amir Mehdi: Left out to freeze on K2 and forgotten by BBC NEWS 2014.8.7
以下記事引用開始
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60年前、アミール・メフディはK2初登頂をめざす登山隊の最強のクライマーとして、自国の最高峰に登頂する最初のパキスタン人になりたかった。
だが彼はイタリア人の仲間に裏切られ、テント無しでビバークし、幸運にも生き延びることができた。
中国・新彊とパキスタン北部を結ぶカラコラムハイウェーの途上にある美しいフンザ谷に位置するHasanabad村。
私は、アミール・メフディ、フンザ・メフディの名でも知られる高所ポーターの先駆者の故郷と知り、この遠く離れた地域を旅することにした。
フンザ・ポーター、それはネパールのシェルパと同様、パキスタンにおける高所登山、K2、ナンガパルバット、ブロードピーク、ガシャーブルム、8000m峰14座のうち5座の登山において、今なお必要とされている。
しかし、アミール・メフディ(1954年、K2初登頂に成功したイタリア登山隊のメンバー)の名前は、今現在、忘れられ去られている。
「私の父親は、K2頂上にパキスタン国旗を立てる最初のパキスタン人になりたがっていました。」
アミール・メフディの息子、スルタン・アリ(62歳)が語る。
「けれども1954年、父は支援しようとした人々には失望させられました。」
アミール・メフディ (1994年) イタリア政府から授与されたメダルを着用している
その1年前、1953年には、メフディはオーストリアの登山家ヘルマン・ブールを支援したナンガパルバット(8,126m)でその強さを証明した。初登頂を果たしたブールは、単独でビバークを強いられ、ベースキャンプに戻るための支援を待っていた。メフディともう一人のポーターは、交代で彼を背負い、運んだのだ。
イタリア人達がK2登山支援のポーターを求め、フンザのミールにアプローチした際、メフディは何百人もの志望者から選ばれた。
彼は登山隊の成功に大きな貢献を果たし、2人のクライマー、アキレ・コンパニョーニとリノ・ラチェデリをイタリアの国民的英雄に変えた。
彼らの頂上アタックの前日、メフディは、優秀なイタリアのクライマー、ワルテル・ボナッティと8000mまで酸素ボンベの荷揚げを支援し、同時にコンパニョーニ、ラチェデリと合流するように指示された。
コンパニョーニは2009年、死の直前まで登山隊のラチェデリ、ボナッティと法廷で争うことになる。
「他の高所ポーターは拒絶しましたが、父は頂上に到達する機会を与えられたので指示に同意しました。」
ところが、彼らが指定のキャンプ地に到着した夜遅く、テントはどこにも無かったのだ。
コンパニョーニとラチェデリを捜索するため登り続けたものの、キャンプは彼らの手の届かない場所に移されていた。酸素ボンベを残し下山するために叫び続けたが、暗闇の中では無駄だった。
メフディとボナッティは、-50度の低温の中、氷のテラスで肩を寄せ合ってビバークを強いられた。二人とも死ぬ覚悟をしていたが、約8,100m、当時の世界最高所のオープンビバークを耐え抜き、彼らは生き延びた。
それは後に、ボナッティとメフディが登頂メンバーに加わることを妨害するため、コンパニョーニが意図的にキャンプ地を移したことが明らかになる。コンパニョーニは若く優秀だったボナッティに栄光を奪われることを恐れたのだった。
翌朝、酸素ボンベをデポしたメフディとボナッティは下降した。コンパニョーニとラチェデリはその酸素ボンベを回収、登頂に成功した。
イタリア人隊員と異なり、メフディは適切な高所登山靴を与えられず、軍用ブーツを履いていた。報道によれば、彼には小さすぎるサイズのブーツだった。必然的に彼は重度の凍傷を負い、ベースキャンプに戻った時には彼は歩くことができなかった。応急処置を受け、そこからラワルピンディの軍病院に移され、スカルドの病院に担架で運ばれた。
医師は壊疽を防ぐため、彼の全てのつま先を切断するしかなかった。彼はわずか8ヶ月後に退院させられた。
最終的にフンザの自宅に戻ったとき、メフディは自分のピッケルをしまい込んだ。もう再び見たいとは思わない、と家族に語っていた。
「それは父に苦痛、死ぬ程の寒さの中に取り残されたこと思い起こさせるようでした。」息子のスルタン·アリは回想する。
イタリア人クライマーは、その経験を本に書き、金を稼いだ一方で、メフディは再び山に登ることはなかった。
メフディの凍傷は外交問題にもなった。イタリア、パキスタン両国のメディアは怒りの論調で応酬した。イタリア人は、メフディを騙したと非難された。両国政府の関係者は論争を収めるために過熱気味だった。
当時のイタリア政府の官僚はコンパニョーニを保護することに熱心だった。
そして、スケープゴートが必要となった。それがボナッティだった。 イタリアとパキスタンで、ボナッティが無謀な危険を冒し、他のメンバーの前に自分自身が登頂を狙う企てがあったと報じられた。
メフディは彼の公式証言を提供するように依頼された。彼はギルギットにおもむき、パキスタン当局者の前で過酷な体験を語る3日間を過ごした。
息子スルタン・アリによれば、父はK2でいかに二人が騙されたか、ボナッティの意見を支持していたが、パキスタン当局者が父の署名・証拠を改ざんした可能性があるという。
結果的に彼の証言を解釈した人々は、ボナッティを非難することになった。
「私の父は純真な男です。山を登る方法は知っていますが、読み書きができませんでした。父の証言がボナッティの信用を傷つけるために「利用」された可能性があります」スルタン·アリは語る。
アミール・メフディは、過酷な体験によって苦難の人生を過ごすことになる。数年間、彼は移動もままならず、仕事を見つけることができなかったが、妻子を養うべく努力した。少しずつ、彼は杖で歩くことを学んだ。
イタリア政府は、大統領がCavaliere(イタリア版のナイトの称号)勲章を授与すると彼に通知、証明書を送った。
時折、メフディはイタリアから手紙と本を受け取った。だがメフディはそれらを読むことができなかったし、彼の生活苦に役には立たなかった。
まれに8,100m地点でのオープンビバークについて尋ねてくる外国の登山家が彼を訪問した。
「時々、父の目に涙が流れました。」会話の通訳を担った息子は思い出す。「父は祖国の名誉のために生命を危険にさらしました。でも、父は不公平に扱われたのです。」
多くの場合、メフディは自身の苦痛を自分の中にしまい込んだままだった。
1994年、彼が、初登頂40周年記念行事のため、イスラマバードでコンパニョーニ、ラチェデリと再会した。息子のスルタンも同行していたが、それは非常に感動的な再会だったと回想する。
「彼らはお互いの言葉は理解できませんでしたが、3人とも赤ん坊のように抱き合い、泣き続けていました。」
メフディは謝罪を求めることも、何かを求めることもしなかった。
イタリアにおける公式見解(それは遠征に関する事実を秘密にしていた)は、数十年間変わらなかった。ボナッティは公式見解を改めさせることに挑み、最善を尽くした。2004年、ラチェデリによる回顧録が出版され、イタリア山岳会の認識と公式見解が改められ、ボナッティのK2登山隊で果たした役割が再評価された。
それはメフディには遅すぎた。
彼は86歳のとき、1999年12月に亡くなった。
イタリア隊が世界で最も危険な山とされるK2初登頂を果たしてから23年が経った。
日本の登山隊のメンバーの一人がフンザ出身のアシュラフ・アマンだった。彼はメフディが果たそうとして果たせなかったK2に最初に登ったパキスタン人となった。
完全に自国民のみで結成されたパキスタンの登山隊が成功するには、さらに歳月を要した。
それはアミール・メフディが8100mで極寒のビバークを生き延びた60年後の今年、7月26日についに成し遂げられたのだ。
パキスタン各地で様々な祝賀行事が行われたが、そこでアミール・メフディの名前が語られることは、無い。
記事 Shahzeb Jillani
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以上引用おわり
1954年のイタリアK2登山隊は、当時「登頂は隊の成功」として登頂者の名前も非公表にしていた、あまり情報公開がなされていない登山隊でした。
次第にその内幕、主要メンバーによる頂上アタックメンバー争い、それを巡る50年以上にわたる法廷闘争等々、スキャンダルが公になっていきます。
その中でも、あまりスポットが当てられていなかったのがボナッティと行動を共にした高所ポーター、アミール・メフディでした。
今回の記事によれば、単なる高所ポーターではなく、「自国の最高峰に国民として登りたい」という確固たる意思を持ったクライマーでした。
しかし息子のスルタン・アリの証言にあるように、彼自身の必死のビバークが外交問題になりかけ、ボナッティをスケープゴートとする - もはや陰謀に近い - 法廷闘争に巻き込まれることになります。
彼の意思は1977年、第2登を果たした日本隊に参加したアシュラフ・アマンによって実現されます。
今回のBBCの記事は、パキスタンの高所ポーターは「日銭を稼ぐ人々」などではなく、パキスタン国民としての誇りを持ったクライマーが8000m初登頂時代から存在していたという貴重な証言といえるでしょう。
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