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ロシア女性ペア、インド・カシミールShafat fortressに遠征

 ロシア圏を代表するビッグウォール・クライマーであるマリナ・コプティバ(ウクライナ)とガリーナ・シビトーク(ロシア)のペアが9月からインド・カシミールにそびえるShafat fortress(5850m)を目指します。

Fortress
Shafat fotress(5850m)
赤い点線は、2007年にジョナサン・コップ、ミカ・ダッシュが開拓・初登頂に成功したコロラドルート(21ピッチ、VI, 5.11, M6, A1)。

Mari
マリナ・コプティバ(Marina Kopteva)

Chi
ガリーナ・シビトーク(Galina CHibitok)

当然ながら二人は「美しいルート」を求めて新ルート開拓、そして第2登をめざすとのこと。

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Russian women's team will try bigwall of Shafat fortress(5850m).
Marina Kopteva(Ukraine) and Galina CHibitok(Russia), they will try new and beatiful route.

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結 婚 式

カナダ・スコーミッシュの岩場で結婚式を挙げるクライマーの動画です。

「岩場にぶらさがるウェディングドレス姿の花嫁」ってシチュエーションの画像は、意外にも中国メディアでよく取り上げられるのですが、今回公開された動画は花嫁・花婿が し っ か り と ク ラ イ ミ ン グ し て 、なおかつ終了点で挙式しているというものです。
 ちなみに二人が登っているのは、Calculus Crack (5.8) とThe Squamish Buttress (5.10c)。

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Berghaus社 consumer panel 体験記

 今年3月下旬、イギリスのアウトドアポータルサイト grough にて、バーグハウス・イギリス本社が consumer panel を一般公募する報道を読み、早速応募。

  consumer panel とは、日本語訳も適訳がなかなか見つからない。
 あのALCでさえ、「製品・サービスに対する評価をまとめてもらうため、一般消費者を企業またはマーケティングの専門企業が組織して作る一種の評価委員会制度」 などと堅苦しい訳を掲載しているが、乱暴に訳せば、消費者モニターの一種であろう。

 Berghaus社製品のマーケティング、製品に対する評価を一般消費者からアンケート形式で募る、それが今回のBerghaus社の「consumer panel 」である。

 国道沿いのドライブイン定食メニューみたいに、ずらずらとスポンサー企業名を御自分のWEBに羅列しているガイドの先生方と異なり、私は特定企業からスポンサードされている訳では無い。
 最近、企業と良いつきあい方をしている知人をみて、「あ~、メーカーとこういう接し方があるんだなあ」と自分の方向性を思い直す次第。

 以前当ブログにも書いたように、私はバーグハウス社のザックを愛用しているので、不特定多数が参加できるconsumer panel でも結構、登山用品メーカーと関わってみたい。

3月下旬、Berghaus社指定のアンケートサイトに、自分の個人情報と普段の野外活動経歴を入力・送信。

6月中旬、忘れかけていた頃、下記メールがBerghaus社から届く。

 Ber1
 応募すれば誰もが受け取る類のメールであろう、とりあえずconsumer panelに登録されたこと、そして次のメールまで4~6週間待て、という放置プレイが続く。

 気になったので、「こんなメール受け取りました。御社製品愛用している日本人で、過酷な自然環境の日本の東北部で活動している山岳ガイドだけど、機会あれば消費者として製品に関する情報提供できますよ」と売り込みメールをBerghaus本社に送る。
 翌日には素早くBerghaus社カスタマーサービスから返事。「あなたはconsumer panelに登録されてますので、近日中に送られるメールを待て。」

時は流れて8月。
6週間以上経過して何の音沙汰無し。
気になっているのは私だけでないらしい。
イギリスで活動しているアウトドア・インストラクターの方がツイッターで「Berghaus社から何も音沙汰ねーぞ」と書き込んでいるのを読み、「あ~気になってんの俺だけじゃないんだー」。

8月上旬、Berghaus社からconsumer panel宛の「お題」メールが到着。
守秘義務は特に言われていませんが、念のため概要だけ述べると、

Berghaus社、同業他社2社あわせて3社の、とある衣料品パッケージの画像を提示され、パッケージのデザイン、素材や用途の表記に対する感想、抱いたイメージを択一式および記述式で回答するという内容。

登山用品メーカーは、こんな風にWEBアンケートでデータを収集して、商品のパッケージデザインを決める一助にするのか・・・と思いながら、辞書引き引き記述式回答を入力。

こうしてconsumer panel という夏休みの宿題はあっさり終わる。
これからは受け身ではなく、もうちょいと積極的に、登山用品にもマイペースで関わっていきたいと思います。

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今宵は、

火曜日から、しばらく多賀城市民。

あー、出張のときぐらいは素敵な年上のお姉様と夕食を、
Dinner

と、妄想しながら目の前の現実↓

Han

こうしてビジネスホテル暮らしは続く。

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雪結晶パスタ【Snow Flake Pasta】

P1
 山形県西川町の 玉谷製麺所 が東北芸術工科大学と共同開発した、「雪結晶パスタ」買ってみました。
 
 芸工大の街興しプロジェクトとかさ、あーはいはいってな感じでニュースみてたんだけど、この雪結晶パスタはズギューンと心とらえて離さないものを感じましたね。

 「snow flake pasta」で検索かけると、海外でも結構「雪結晶」パスタは製品化されてるようですけど、

Imgp1711
 これだけ見事な枝の張った雪結晶パスタは、そうそう見当たりません。
 ちなみに開発チームはパスタの金型開発から始まり、試作に一年間かけたとのこと。

 月山は19世紀、明治時代のいわゆる「お雇い外国人」としてイギリスから来日したジョン・ミルンが月山の「大雪城」あたりに残る雪渓をみて
 「日本にも氷河あるんじゃね?」と学術論文として海外に発信したのが、日本の氷河研究の始まり。

 小氷河の存在が認められてブイブイ言ってる剱岳を擁する富山県とか、雪氷学の雄・北大を擁する北海道とかじゃなくて、山形の月山が日本の氷河研究の出発点。
 その山麓・西川町の企業がこういう「雪結晶パスタ」開発したことに個人的に感じ入るなあ。

 で、カミさんに頼んで調理してもらいました。

P3
 「形が可愛い」と娘にはウケが良かったのですが・・・ホワイトソース仕立てにすると、結晶だかヒトデだか不明になる・・・(開発者はソースの絡みが良くなるとウリにしてますが)
 堅めに茹でてスープの具材にするのもいいかもしれません。

 遠路はるばる月山登りに来て、お土産に迷っている方、ぜひどうぞ。

 ネット通販もあります→ 玉谷製麺所 パスタ通販のページ

 agarey (Japanese and English-language edition description site) 

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フレネイ中央岩稜の悲劇が映画化【2014.8.17追記】

オールドクライマー(失礼)の先輩方には聞き逃せない情報。

 ワルテル・ボナッティ、ピエール・マゾーら当時一流のクライマー達7名が挑み、うち4名が死亡するという凄惨なクライミングが展開された、1961年のモンブラン・フレネイ中央柱状岩稜の悲劇が映画化されます。

“Bianco”, un film sulla tragedia del ’61 al Pilone Centrale del Freney by Montagna.tv2014.8.15

Movie
映画ディレクターの Daniele Vicari とプロデューサーの Francesco Virga

 イタリア・フランス合作の映画として制作、フレネイ中央岩稜の悲劇を描いた本『Freney '61』を原作に、『White』というタイトルで既に7月から撮影が開始されています。
 ボナッティら一流のクライマーが描かれるとあって気になる配役はまだ未定、2015年末の公開予定とのこと。
 
 このフレネイ中央岩稜の悲劇については『さらば白き氷壁』という邦題で既に映画化されていますが、さて新たな『White』はどのような映像で山を、そしてクライマー達の人間模様を描いてくれるのでしょうか。

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【2014.8.17追記】

盆で実家に戻り、自宅の書棚をひっかきまわしたところ、出てきました。

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1973年日本公開、フレネイ中央岩の悲劇を描いた映画『さらば白き氷壁』のパンフレット。
原題は『INFERNO AM MONT BLANC』、西ドイツで制作の映画ですが、ピエール・マゾーは本人が演じています。

S3
パンフレットで映画の背景となるモンブラン・フレネイ中央岩稜を解説しているのは、あの近藤等氏。さらに山岳映画史の概説を高橋定昌氏が執筆しています。

S2
パンフレット裏表紙は諸先輩方には懐かしい山道具の数々・・・
『BONAITI (ボナッティカラビナ)』という広告に、何人ものクライマーが「鉄人ボナッティのブランドだっ!」と思い込んだことでせう・・・ ※ワルテル・ボナッティの名前のスペルは「Bonatti」

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荷揚げ

 13、14日に盆の雑事を済ませ、15日は 朝日連峰・合同保全作業 の資材荷揚げに出動。

 崩壊や表土流出した登山道補修のため、朝日、飯豊の各山域では、毎年登山者有志により麻ネット等自然素材を用いて登山道補修作業が行われる。
 都合により作業当日は参加できないのだが、作業資材荷揚げでお手伝いしたい、というのがここ数年の私の夏の行事。

 朝日連峰北部・大鳥池への入り口である泡滝登山口にて、資材の麻ネットをパッキング。
 ここ数年、合同保全作業資材の荷揚専用ザックになりつつある、モンベルの100リットルザック。

P7
 泡滝登山口6時半発、11時にオツボ峰到着。
 立っていられない程の強風の中、子泣き爺三兄弟をデポし、樹林帯に逃げ込むためさっさと下山。

 稜線はあまりに見事なマツムシソウの大群落。
 暴風に近い強風で、花々も激しく揺れて私のデジカメでは撮影不能。
 ご覧になりたい方、穏やかな天候の時にぜひ朝日連峰へ。

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 強風の下、ミヤマコゴメグサが印象的でした。

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 山はごきげん斜め。白いカーテンをおろすように、雨粒が舞い降りてくるのが見えます。

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 強風でまともに高山植物もみられませんでしたが、樹林帯では清涼感のある青いエゾアジサイを眺めて下降。

P3
 大鳥池のほとりにて。
 山深い朝日連峰の中で、「ちゃぽ、ちゃぽ」という寄せる波の音を聴きながら歩く、不思議な感覚。
 ここでは、目に見える風景と共に音も楽しみましょう。

 荷揚げで全身汗みどろになり、時折ツンと自分の汗と体臭が鼻につく。
 山頂をめざす訳でもない、華やかな山岳雑誌の紹介記事とは無縁な、荷揚げは地味な作業です。

 というわけで、

P4
 荷揚げ後の行動食は、ちょいと豪華に「マンゴープリン・アラモード」。

【参考資料】

平成26年度 朝日連峰合同保全作業「hozen2014asahi.pdf」をダウンロード

平成26年度 飯豊連峰合同保全作業「hozen2014iide.pdf」をダウンロード

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『槍ヶ岳山頂』

Yari 川端誠著『槍ヶ岳山頂』を読む。
小学五年生の「ぼく」が「父さん」に連れられて燕岳から槍ヶ岳を2泊3日で縦走する山行の様子を描いた絵本である。
 燕岳の登山口から物語は始まり、燕山荘~燕岳~槍ヶ岳~槍ヶ岳山荘~上高地、そして松本発の特急に乗車したところで物語は終わる。
 絵本といっても馬鹿にしてはいけない。
 写実的な絵で山行は描かれ、淡々と登山の様子が描かれている。
 途中、水俣乗越を越えたあたりから雨になり、主人公の「ぼく」はくじけそうになるが、やがて現れた、そびえたつ槍ヶ岳が「ぼく」を奮い立たせてくれる。
 
 この絵本は、著者のお二人の息子さんがそれぞれ10歳になった時に連れて行った取材山行をもとに描かれている。
 小説家が書いた三流山岳小説と異なり、波乱に満ちた展開も、劇的な展開も無い。
 淡々と2泊3日のアルプス銀座の山行が描かれている。
 それゆえ、この絵本の内容は多くの登山者に共感をもって読まれるはずである。また山を知らない方にとっても、登山のつらさ、楽しさ、美しさが十二分に魅力をもって描かれている。

 この本には、山岳雑誌のガイド記事には無い魅力がある。
 子供だけでなく大人にも十分読むに値する内容である。
 たまにはこうした絵本も、いかがでしょうか。

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忘れられた英雄 Amir Mehdi

 今年公開された映画『K2 初登頂の真実』によって、従来は山岳関係者しか知らなかったK2初登頂にまつわるスキャンダルが明らかにされました。
 
 さて、従来の登山史で全く光があてられる事が無かった、あのワルテル・ボナッティと行動を共にした高所ポーター、アミール・メフディ(Amir Mehdi)の生涯がBBCによって報道されました。

Amir Mehdi: Left out to freeze on K2 and forgotten by BBC NEWS 2014.8.7

以下記事引用開始
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Pk2
 60年前、アミール・メフディはK2初登頂をめざす登山隊の最強のクライマーとして、自国の最高峰に登頂する最初のパキスタン人になりたかった。
 だが彼はイタリア人の仲間に裏切られ、テント無しでビバークし、幸運にも生き延びることができた。

 中国・新彊とパキスタン北部を結ぶカラコラムハイウェーの途上にある美しいフンザ谷に位置するHasanabad村。

 私は、アミール・メフディ、フンザ・メフディの名でも知られる高所ポーターの先駆者の故郷と知り、この遠く離れた地域を旅することにした。

 フンザ・ポーター、それはネパールのシェルパと同様、パキスタンにおける高所登山、K2、ナンガパルバット、ブロードピーク、ガシャーブルム、8000m峰14座のうち5座の登山において、今なお必要とされている。

 しかし、アミール・メフディ(1954年、K2初登頂に成功したイタリア登山隊のメンバー)の名前は、今現在、忘れられ去られている。

「私の父親は、K2頂上にパキスタン国旗を立てる最初のパキスタン人になりたがっていました。」
アミール・メフディの息子、スルタン・アリ(62歳)が語る。

「けれども1954年、父は支援しようとした人々には失望させられました。」

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アミール・メフディ (1994年) イタリア政府から授与されたメダルを着用している

 その1年前、1953年には、メフディはオーストリアの登山家ヘルマン・ブールを支援したナンガパルバット(8,126m)でその強さを証明した。初登頂を果たしたブールは、単独でビバークを強いられ、ベースキャンプに戻るための支援を待っていた。メフディともう一人のポーターは、交代で彼を背負い、運んだのだ。

 イタリア人達がK2登山支援のポーターを求め、フンザのミールにアプローチした際、メフディは何百人もの志望者から選ばれた。
 彼は登山隊の成功に大きな貢献を果たし、2人のクライマー、アキレ・コンパニョーニとリノ・ラチェデリをイタリアの国民的英雄に変えた。

 彼らの頂上アタックの前日、メフディは、優秀なイタリアのクライマー、ワルテル・ボナッティと8000mまで酸素ボンベの荷揚げを支援し、同時にコンパニョーニ、ラチェデリと合流するように指示された。

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アキレ・コンパニョーニ

 コンパニョーニは2009年、死の直前まで登山隊のラチェデリ、ボナッティと法廷で争うことになる。

 「他の高所ポーターは拒絶しましたが、父は頂上に到達する機会を与えられたので指示に同意しました。」

 ところが、彼らが指定のキャンプ地に到着した夜遅く、テントはどこにも無かったのだ。
 コンパニョーニとラチェデリを捜索するため登り続けたものの、キャンプは彼らの手の届かない場所に移されていた。酸素ボンベを残し下山するために叫び続けたが、暗闇の中では無駄だった。

 メフディとボナッティは、-50度の低温の中、氷のテラスで肩を寄せ合ってビバークを強いられた。二人とも死ぬ覚悟をしていたが、約8,100m、当時の世界最高所のオープンビバークを耐え抜き、彼らは生き延びた。

 それは後に、ボナッティとメフディが登頂メンバーに加わることを妨害するため、コンパニョーニが意図的にキャンプ地を移したことが明らかになる。コンパニョーニは若く優秀だったボナッティに栄光を奪われることを恐れたのだった。

 翌朝、酸素ボンベをデポしたメフディとボナッティは下降した。コンパニョーニとラチェデリはその酸素ボンベを回収、登頂に成功した。

 イタリア人隊員と異なり、メフディは適切な高所登山靴を与えられず、軍用ブーツを履いていた。報道によれば、彼には小さすぎるサイズのブーツだった。必然的に彼は重度の凍傷を負い、ベースキャンプに戻った時には彼は歩くことができなかった。応急処置を受け、そこからラワルピンディの軍病院に移され、スカルドの病院に担架で運ばれた。

 医師は壊疽を防ぐため、彼の全てのつま先を切断するしかなかった。彼はわずか8ヶ月後に退院させられた。

 最終的にフンザの自宅に戻ったとき、メフディは自分のピッケルをしまい込んだ。もう再び見たいとは思わない、と家族に語っていた。

「それは父に苦痛、死ぬ程の寒さの中に取り残されたこと思い起こさせるようでした。」息子のスルタン·アリは回想する。

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アミール・メフディのピッケルとスルタン·アリ

 イタリア人クライマーは、その経験を本に書き、金を稼いだ一方で、メフディは再び山に登ることはなかった。

 メフディの凍傷は外交問題にもなった。イタリア、パキスタン両国のメディアは怒りの論調で応酬した。イタリア人は、メフディを騙したと非難された。両国政府の関係者は論争を収めるために過熱気味だった。
 
 当時のイタリア政府の官僚はコンパニョーニを保護することに熱心だった。
 そして、スケープゴートが必要となった。それがボナッティだった。 イタリアとパキスタンで、ボナッティが無謀な危険を冒し、他のメンバーの前に自分自身が登頂を狙う企てがあったと報じられた。

 メフディは彼の公式証言を提供するように依頼された。彼はギルギットにおもむき、パキスタン当局者の前で過酷な体験を語る3日間を過ごした。
 息子スルタン・アリによれば、父はK2でいかに二人が騙されたか、ボナッティの意見を支持していたが、パキスタン当局者が父の署名・証拠を改ざんした可能性があるという。
 結果的に彼の証言を解釈した人々は、ボナッティを非難することになった。

「私の父は純真な男です。山を登る方法は知っていますが、読み書きができませんでした。父の証言がボナッティの信用を傷つけるために「利用」された可能性があります」スルタン·アリは語る。

 アミール・メフディは、過酷な体験によって苦難の人生を過ごすことになる。数年間、彼は移動もままならず、仕事を見つけることができなかったが、妻子を養うべく努力した。少しずつ、彼は杖で歩くことを学んだ。

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アミール・メフディのつま先

 イタリア政府は、大統領がCavaliere(イタリア版のナイトの称号)勲章を授与すると彼に通知、証明書を送った。

 時折、メフディはイタリアから手紙と本を受け取った。だがメフディはそれらを読むことができなかったし、彼の生活苦に役には立たなかった。
 まれに8,100m地点でのオープンビバークについて尋ねてくる外国の登山家が彼を訪問した。

「時々、父の目に涙が流れました。」会話の通訳を担った息子は思い出す。「父は祖国の名誉のために生命を危険にさらしました。でも、父は不公平に扱われたのです。」

 多くの場合、メフディは自身の苦痛を自分の中にしまい込んだままだった。

 1994年、彼が、初登頂40周年記念行事のため、イスラマバードでコンパニョーニ、ラチェデリと再会した。息子のスルタンも同行していたが、それは非常に感動的な再会だったと回想する。

「彼らはお互いの言葉は理解できませんでしたが、3人とも赤ん坊のように抱き合い、泣き続けていました。」

メフディは謝罪を求めることも、何かを求めることもしなかった。

P5
『Ascent of K2』 Ardito Desio編著

 イタリアにおける公式見解(それは遠征に関する事実を秘密にしていた)は、数十年間変わらなかった。ボナッティは公式見解を改めさせることに挑み、最善を尽くした。2004年、ラチェデリによる回顧録が出版され、イタリア山岳会の認識と公式見解が改められ、ボナッティのK2登山隊で果たした役割が再評価された。

 それはメフディには遅すぎた。
 彼は86歳のとき、1999年12月に亡くなった。

 イタリア隊が世界で最も危険な山とされるK2初登頂を果たしてから23年が経った。
 日本の登山隊のメンバーの一人がフンザ出身のアシュラフ・アマンだった。彼はメフディが果たそうとして果たせなかったK2に最初に登ったパキスタン人となった。

 完全に自国民のみで結成されたパキスタンの登山隊が成功するには、さらに歳月を要した。
 それはアミール・メフディが8100mで極寒のビバークを生き延びた60年後の今年、7月26日についに成し遂げられたのだ。

 パキスタン各地で様々な祝賀行事が行われたが、そこでアミール・メフディの名前が語られることは、無い。

記事 Shahzeb Jillani

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以上引用おわり

 1954年のイタリアK2登山隊は、当時「登頂は隊の成功」として登頂者の名前も非公表にしていた、あまり情報公開がなされていない登山隊でした。
 次第にその内幕、主要メンバーによる頂上アタックメンバー争い、それを巡る50年以上にわたる法廷闘争等々、スキャンダルが公になっていきます。

 その中でも、あまりスポットが当てられていなかったのがボナッティと行動を共にした高所ポーター、アミール・メフディでした。
 今回の記事によれば、単なる高所ポーターではなく、「自国の最高峰に国民として登りたい」という確固たる意思を持ったクライマーでした。

 しかし息子のスルタン・アリの証言にあるように、彼自身の必死のビバークが外交問題になりかけ、ボナッティをスケープゴートとする - もはや陰謀に近い - 法廷闘争に巻き込まれることになります。
 彼の意思は1977年、第2登を果たした日本隊に参加したアシュラフ・アマンによって実現されます。

 今回のBBCの記事は、パキスタンの高所ポーターは「日銭を稼ぐ人々」などではなく、パキスタン国民としての誇りを持ったクライマーが8000m初登頂時代から存在していたという貴重な証言といえるでしょう。

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韓国隊、未踏峰ガッシャブルム5峰を南東壁から初登 【 Gasherbrum V First ascent by Korean team】

 アン・チヨン隊長(2012年ピオレドールアジア受賞) 率いる韓国隊が、去る7月25日、未踏峰のガッシャブルムⅤ峰を南東壁からアルパインスタイルで初登頂に成功しました。

 アン・チヨン隊、パキスタンの未踏峰ガッシャブルムⅤ峰初登頂 by 月刊MOUNTAINウェブサイト2014.8.4

以下記事引用開始
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アン・チヨンチーム、パキスタン未踏峰ガッシャブルムⅤ峰初登頂
第2次アタックの最後に7月25日登頂、南東壁をアルパインスタイルで

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▲アン・チヨン隊長(左)とソン・ナグジョン隊員が7月25日、ガッシャブルムⅤ峰(7147m)初登頂に成功した。

[MOUNTAIN =グァク・ジョンヒェ記者] 
 韓国遠征隊がパキスタンカラコルムに未踏峰として残っていたガッシャブルムⅤ峰(7147m)に登頂した。アン・チヨン(韓国山岳会)さんを隊長とする遠征隊は、Eメールで 「アルパインスタイルでガッシャブルムⅤ峰南東壁を3日間かけて登った結果、7月25日頂上に立った」 というニュースを伝えてきた。
 アン・チヨン隊長、イ・ギグン、ソン・ナグジョン、チェ・ヒョンウ隊員ら4人で組まれた遠征隊は、当初G5峰北東壁を経てアルパインスタイルで登頂を試みる計画で6月13日に出国した。
 しかし、7月9日から14日にかけて試登した北東壁ルートは氷壁のコンデション不良、天候悪化などの要因により、約6400メートル地点まで登った後、退却せざるを得なかった。

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▲ガッシャブルムⅤ峰南東壁全景。遠征隊は当初は北東壁を登る計画だったが、壁の状態と天候不良により退却、南東壁を経て再挑戦し、初登頂に成功した。

 登山隊は苦心の末にベースキャンプを南東壁に移動した後、7月23日、アン・チヨン隊長とソン・ナグジョン隊員が二​​次アタックを試みるため出発。2人は同日、速いペースで1900mの壁を登った後、ビバークした。翌日も速攻でクライミングを続けようとしたものの、体力が落ちていたため再びビバーク地に戻り二日目の夜を過ごした。そして登山3日目の7月25日、ガッシャブルムⅤ峰に登頂、翌日26日ベースキャンプに無事帰還した。

P3
▲ビバーク地の上を登るアン・チヨン隊長

 ベースキャンプを撤収し、下山のキャラバンに出た遠征隊は8月1日、夜遅くスカルドに到着、8月4日現在イスラマバードで休憩をとっている。帰国は8月7日の夜9時20分である。

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以上記事引用終わり

【 Gasherbrum V First ascent by Korean team】

On 25 July 2014 An Chi-young(Piolet d'or Asia 2012 winner), Seong Nak Jong from Korea successfully climbed the virgin peak Gasherbrum V via south-east face in Pakistan's Karakorum. They will climb north-east face at first, but ice condition and weather was bad. They tried south-east face.

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ギ ア

 自然の家行事に参加する度、職員の皆さんやサポーター(ボランティアスタッフ)の皆さんの、アウトドア用具への関心の高さに自分の勉強不足を思い知らされる。

Imgp1596
 今回のキャンプで幾人ものメンバーが持ってきていたのが、このエアーランタン。(参考サイトは こちら )

 それから注目したのが、自然の家職員の工藤さんが持ち込んでいたALITEのチェア。

Imgp1601_2
 ALITEのチェア・・・工藤さんの身体で隠れてる・・・

 ALITEはアラスカ出身の韓国系アメリカ人KIM TAEが創業したアウトドア用品メーカー。
 中学生の頃、友人が着ていたアウトドアジャケットが欲しくて母親に購入をお願いしたところ、「なんで自分で作らないの?」と言われたのが、後にノースフェイスのデザイナーとなるKIM TAEの出発点。
 ノースフェイスのデザイナーをつとめ、後に独立してから独創的なチェアが人気になり、アメリカのメディアでもそのサクセスストーリーが取り上げられ、昨年よく読んでいたのだ。

参考サイト ALITEウェブサイト
 
 私などはネットの情報をチョコチョコいじくっているだけだが、工藤さんはギアを実際に購入して実際に使っておられる。
 そしてよく聞かれるのが、アウトドア活動を始めた皆さんからテントやシュラフの購入に関する相談。
 私などは古い人間なので、登山用テントといえばエスパースしか知らない恐竜並みの頭脳なのだが、幸い朝日少年自然の家サポーターにはトレイルハイカーの斉藤正史さんがいらっしゃるので、皆さん斉藤さんのよきアドバイスを受けている様子。
 うーん、もっとギアの知識を更新しておこう。

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さよならチャレンジキャンプ

フェアウェルパーティの翌朝、山形県朝日少年自然の家チャレンジキャンプ2014の最終日。

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毎年恒例、キャンプ横断幕への寄せ書き。

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 ブナ林歩きも子供達の心に残ってくれたようでほっとする。

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 いやいや私は性格極悪なんですけど。

部屋の掃除、荷物の撤収をすませ、参加者は体育館へ。
そこで別れのつどいを開催。

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今年も多くの保護者の皆様が集まって下さいました。
職員の服部さんが編集した、キャンプ全日程を記録した素敵なスライドショーを皆で鑑賞。

子供達の感想でこんなことがあった。

「洗濯を経験して、おかあさんの苦労がわかった」

野外活動といえば、自然の中で未知の体験をするとばかり考えていたが、野外活動によって自分たちの日常をふり返るきっかけにもなりうるのだ、と考えさせられる。

子供達の感想、所長の挨拶、各班付サポーターの挨拶、そしてキャンプソングを歌い、別れの集いが終わる。

 日程の長短問わず、キャンプや野外活動を通じ、子供達がいかに変容するのか。
 定量的・定性的にその変容度を調査した学術論文は、日本野外教育学会を通じていくらでも読むことができる。
 今の私は、論文による知識吸収だけでなく、実際に子供達と活動を共にすることでその変容度をこの目で確認したい。
 そのために、最終日の別れの集いまで同行することが、私には必要だ。

 迎えに来た保護者と一緒に、子供達は去って行った。
 職員の皆さんとともに、私たちサポーターも静かになった体育館を出る。
 
 今年もチャレンジキャンプが、終わる。

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オレンジジュース

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 最上川イカダ下りの後。
 私たちサポーターは用具の後片付けを行い、自然の家で入浴。
 それからチャレンジキャンプ最後の夜を飾る、フェアウェルパーティが開催される。

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 まだ西日も強い夕方、自然の家施設前の芝生に用意されたテーブルにオードブルとジュースのペットボトルが並ぶ。

 厨房のアイドル・デラちゃんから「テーブルのジュースは好みに応じて各テーブルで交換してくださいね」
 と説明を受ける。

 ここで、子供達のジュースを見つめる視線が

Gol

 ゴルゴ13なみに鋭くなっていることに気づく。
 思えば、今日はキャンプ開始4日め。
 この期間中、子供達は登山で配布される行動食以外、「お菓子」など甘い物を口にする機会は無い。
 子供達もだいぶ「甘み」に飢えていたことだろう。

 「本部」のテーブルには所長と私が座っていたのだが、一人の男の子が意を決したように近づいてきて、
 「ジュース交換していいですか?」
 と申し込んできた。
 彼のテーブルにはコーラとリンゴ味Qooのペットボトルがあるが、オレンジ味Qooが飲みたかったらしい。

 子供達にとってオレンジジュースの人気は不動である。
 喜んでオレンジ味Qooを持っていった男の子は、フェアウェルパーティで用意されているかき氷にドボドボとかけて食べていた。

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 チャレンジキャンプ中に誕生日を迎えた男の子を祝ってスイカ割り、そして花火。
 
 キャンプ最後の夜が過ぎていく。

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河よりも長くゆるやかに

8月2日、早朝。

P1
夜明け、須川から立ち上る川霧が周囲の耕作地を覆う。
本日から山形県朝日少年自然の家チャレンジキャンプ2014『ビバキャンプ!!40(フォーティ)サマー』に戦列復帰。
後半のメインイベントである、「最上川イカダ下り」のサポートにまわる。

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スタートは大江町ふれあい会館裏手の最上川岸辺。
サポートして下さる大江町カヌー愛好会の皆様との挨拶、子供達の期待も高まります。

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サポート隊でイカダを岸辺に進水させた後、私たち地上サポート班は車で「中郷」補助地点に向かう。

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最上川イカダ下りで課題になるのは、所々水深が浅くなりイカダを手で運ばなくてはならないこと。
子供達だけでは無理なので、私たち大人の手が必要となる。
ライフジャケットを着用して、浅瀬へと向かう。

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浅瀬を通過していくイカダ。

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水深があり流れのある箇所では余裕の子供達。

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次に向かった此の木橋では、橋上からの支援。
キャンプに参加している子供達のご父兄の方や自然の家職員OBの方も集まり、賑やか。

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橋上からロープで籠を下ろし、イカダの子供達へバナナの差し入れ。

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ゆるやかな最上川の流れに乗ってイカダが行く。

この後、昼食休憩のためにイカダ全班は寒河江SAエリアの公園に上陸。
昼食後、地上サポートのために向かった高瀬大橋下流部では意外な事実が判明。
このイカダ下りは職員の方が何度も川の下見を重ね、当日朝も一度確認してから催行を決定する。
午後からサポートに向かった高瀬大橋下流部は朝に比べて水かさが上がり、しかも流速が速い。
途中に水流の段差もあり、ちょっとしたラフティング状態。
私は無線係も兼ねていたので、川の状態をカヌーサポート班とボートサポート班に伝える。

地上サポート班は腰まで水に浸かり、最上川の水流に耐えながら、子供達が流される事態に備えて下流で待機。

結局、すべてのイカダがラフティングのような激しい流れを越えて無事通過。
川という自然の変化の激しさをあらためて実感した次第。

そしてゴールの中山町・せせらぎ公園に先回りし、子供達とイカダを収容。

下見・準備から昼食休憩場の準備、地上サポート、ボートによる水上サポート。本当に職員皆さんやボランティアスタッフの総力戦という行事。

収容したイカダの解体にとりかかる。
フロートを固定しているロープを外していると、一人の子供が私に近寄ってきた。

「これ、使って下さい。」

とラジオペンチを差し出してくれる。
キャンプ始めの時期は自分たちのことで精一杯だったのに、人を気遣う余裕がある。
キャンプを通じて、子供達が変わりつつあることを感じながら、私は「ありがとう」とペンチを受け取った。

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