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ドキュメンタリー番組『K2. Dotknąć nieba』

1986年、世界のトップクライマー13人が命を落とした山、K2。

それから約30年。
夢と野心に憑かれて死んだクライマーの子供達が、K2を訪れ、亡き父・母の想いをふり返る。
そんなドキュメンタリー番組『K2. Dotknąć nieba』 (K2 天空に触れて) がポーランドで製作されました。

„K2. Dotknąć nieba” – niedługo premiera filmu Elizy Kubarskiej by wspinanie.pl 2015.5.21

 1986年、K2のいわゆる「ブラックサマー」で亡くなった13名のうち、タデウシュ・ピオトロフスキー、ドブロスラワ・ミドウィッチ・ヴォルフ、ジュリー・チュリス。
 30年を経て、彼らの子供、ハニア・ピオトロフスカ、ルーカス・ヴォルフ、クリス・チュリスがK2山麓を訪れます。
 なぜクライマー達は全てを犠牲にしてK2に向かったのか。
 そんな大きなリスクを賭けるに値する行為なのか。

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『K2. Dotknąć nieba』より Photo by David Kaszlikowski / HBO
 
 自身もクライマーであり番組製作・監督であるエリザ・クバルスカがコメントしています。

「私は過去に英雄たちを映画に収めてきました。そのため、彼らの父や母は今も記録映像の中に生き続けています。子供達も今や大人になりました。 私は情熱の価値というものについて考えています。 このような登山は虚栄心を満たすための行為なのか、エゴイスティックな行為なのか。それとも他の何かなのか。その答えを見いだすことは容易なことではありません。」

 作品は6月にクラクフ映画祭はじめポーランド各地で公開予定。

 残された家族が問う、8000m峰登山の価値、そして死んでいった親達への想い。
 
 NHKの地球ドキュメンタリーあたりで放映してくれたら、会社休んででも視聴したいところです。

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Nanda Devi 1976 Indian-American Expedition

Nanda John Evans著『Nanda Devi: 1976 Indian-American Expedition』 を隙間時間を利用してなんとか読了。
 1976年、北インドの名峰ナンダ・デビに挑んだインド・アメリカ合同隊の記録。
 登山隊は困難な北西バットレスに新ルートを開拓、ジョン・ロスケリー、ルイス・ライハルト、ジム・ステイトの3名が登頂。
 
 ヒマラヤ登山史に詳しい方はご存じのように、この遠征は別の悲劇で知られることになる。
 この登山隊を企画・参加した登山家ウイリ・アンソールド(1963年エベレスト西稜初登者)と共に、その娘ナンダデビ・アンソールドが遠征に参加していたのだが、第4キャンプ(7300m)で高度障害により体調が悪化、そのまま帰らぬ人となってしまう。

 この山から名前を命名された女性ナンダデビ・アンソールドの訃報記事は、当時の『岩と雪』誌にもとりあげられていたことを記憶している。

 このJohn Evans著『Nanda Devi: 1976 Indian-American Expedition』 は私家版としてJohn Evansがいくつかの遠征記録を電子書籍としてとりまとめたものであり、ナンダデビ・アンソールドの最期の様子も記録として生々しく描かれている。
 この悲劇に関してはジョン・ロスケリーも自身の著書で詳細に記録している。

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ナンダデビ・アンソールド(左)、父ウイリ・アンソールド(1979年、レーニア山にて雪崩にて逝去)

 いったんナンダデビ・アンソールドの悲劇はさておくとして、安価なタイプのkindleで読んだがモノクロの画面でもナンダデビ北西バットレスの姿は美しい。
 同年、日本から日本山岳会ナンダデビ縦走隊が遠征、ナンダデビ登山史に花を添えるわけだが、諸先輩方がこの山に惹かれたのも、うなずける美しさである。

 著者John Evansによる遠征記録だが、このナンダデビの記録の他、

 1965年 カナダ・ローガン南稜(ハミングバードリッジ)
 1966~67南極大陸ビンソンマシフ遠征
 1971年エベレスト国際隊
 1974年パミール アメリカ·ソ連合同隊
 1981年エベレスト アメリカ医学研究遠征(アメリカン・メディカルルート)

 などが電子書籍として出版(一部は予定)されている。

 詳細はこちら→ http://www.johnevansclimbing.com/

 特に1974年の米ソ合同によるパミール遠征は、若きジェフ・ロウが第19回共産党大会峰にフレンチテクニックで氷壁を登っている姿が日本でも山岳雑誌で紹介されてましたなあ。
 今回電子書籍・私家版として出版されたシリーズですが、アメリカ登山史のみならず、パミール、ヒマラヤ登山史においても貴重な記録になることでしょう。

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帰郷

頭の痛い札幌出張を終え、再び7t車を駆って苫小牧へ。

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北海道出張の締めは、再びマルトマ食堂にて、ホッキカレーを食す。

 フェリーで夕食をとる。
 通常ならトラック運転手は「ドライバーズルーム」に泊まれるのだが、今の時期はトラック運転手が多く観光客は少ない時期、二等船室がドライバーズルームの代替としてあてがわれる。
 夕食後に寝床に横になり、目を覚ますと時計は午前4時。
 疲れているのだ。

 フェリーで二日かけて山形に戻り、翌日から早速別の業務。
 季節の移ろいなど感じるヒマも無い。

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 カミさんが小鉢で出してくれた、自宅庭で育った小さなイチゴに、ようやく季節を感じる夕餉。

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札幌市 楼蘭

午前中のうちに札幌市郊外の神威岳を登り終え、札幌中心部に移動。

中国茶専門店 楼蘭を訪れ、山行後のひとときを過ごす。

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 本日は武夷岩茶、「鉄羅漢」をチョイス。

 女性オーナーに入れ方を教わりながら、二煎めを入れてもらう。

 昔、台湾の茶房に行った際、店主が入れてくれた最初の一杯はメチャメチャ美味しかったんだけど、自分でいれる二杯目以降は渋みが出てどうにもこうにも。。。という経験がありまして。

 賑やかな休日の札幌の真ん中で、静かな時間を過ごしました。

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神威岳 (かむいだけ 札幌市 983m)

 札幌市郊外、定山渓近くに位置する神威岳(983m)を目指す。
 
 行程の前半は、百松沢林道を1時間ほど歩く。

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 先週の砥石山に続き、こちらもニリンソウが満開。

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 途中の池に生き物の姿を探す。
 今、山形の月山山麓ではアカガエルの卵がみられるのだが、こちらではもう手足の生えたオタマジャクシが元気に泳いでいる。北海道とはいえ、低山では初夏なのだ。

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 登山道に入り、目にとまるのが白いエンレイソウ、オオバナノエンレイソウ。北海道大学のシンボルマークにもなっているとか。

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 ドロドロの沢筋を降り、ロープをゴボウで登る所もあり。

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 尾根に入り、神威岳山頂が見えてくる。見事な台形のピーク。
 裏側が凹型になっていて、ジクザグの登山道を詰めていきます。頂上直下にまたまたフィックスをつかんで登るところあり。

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 林道を歩き始めて2時間半、山頂へ。
 新緑の白樺に囲まれた、平坦な山頂。
 ここから雪をかぶった余市岳や札幌岳など、札幌近郊の名山が望めました。

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 本日のおやつは、月寒あんぱん。月寒あんぱんに関しては、5年前に北海道出張の際にブログ記事にしていました
 地元のスーパーでは色んな種類があるんですね。本日は黒糖味をチョイス。
 月寒あんぱんパワーで下山します。

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 帰路は花を眺めながら。
 登山道上部を彩るフッキソウ。

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 極寒だった先週に比べ、気温は22度。
 日差しも暑いくらいでしたが、吹き抜ける風は涼しい山行でした。
 樹林帯の中で立ち止まり、コーヒーを飲みます。
 にぎやかなセミの声、野鳥の声に、初夏の訪れを感じました。

参考文献:北海道新聞社刊 梅沢俊、菅原靖彦共著『北海道 夏山ガイド1 道央の山々』

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札幌暮らし

札幌での出張暮らし。
激安スーパーで買う総菜での食生活で栄養偏りがち。

 すすきので知り合ったお姉ちゃんと今宵はサラダバーで、

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 と、妄想しながら目の前の現実↓

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 スーパーに買い物行く度、「あっ!エコバッグ忘れた!」 「また5円払ってレジ袋買うか・・・」と思うのだが、北海道のスーパー、どこの店に行っても、総菜コーナーの弁当を買うと

「弁当の袋はおつけしますか?」

 と言われて弁当が入るレジ袋似の小さなビニール袋をくれる。けっきょくレジ袋要らずで済む。

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 「いももち」って北海道限定ですかね? 美味しく食べてます。
 こちら札幌ではセブンイレブンでも売ってますね。
 嗚呼、また塩分過多の日々が続く。

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ディーン・ポッター死去

 アメリカのクライマー、ディーン・ポッター(Dean Potter)が5月16日夜、セミテ国立公園内でウイングスーツによるベースジャンプを試み、そのまま帰らぬ人となりました。43歳でした。

Deen

 2008年に受けたインタビューで、毎夜のように「枯れ木の上を、空を飛んでいく自分」の夢を見、それが死の予感だと感じていた、と答えています。
 彼はそれからベースジャンプを始めました。
 ただし強調しておきますが、決して自殺願望など微塵も無かったことは関係者が証言しています。

 近年はベースジャンプや高所でのスラックラインがメインだったようですが、なんといっても衝撃的なヨセミテでの一連のフリーソロが記憶に残ります。
 哀悼の意を表します。

Life is either a daring adventure or nothing. ( Helen Keller )

参考サイト: ディーン・ポッター、ベースジャンプで死亡 雪山大好きっ娘。+

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砥石山、そこは花の山

 札幌市郊外、砥石山(といしやま 826m)に中ノ沢コースから取り付く。

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 なんとシラネアオイが盛り。
 地元の登山者の方も「今が盛りなんだね~」と驚いている様子。

 経験不足かもしれないが、山形の低山でこれほどシラネアオイがみられる山は知らない。

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 ところどころで登山道を彩るヒトリシズカ

 とにかく風が冷たい。
 寒気が入っているせいだろう、青空は見えるのに、冷たい雨。
 暑がり&汗かきなので無雪期には滅多に着用しないアウターを着用。 

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 この砥石山、上から下までひたすらニリンソウ、ニリンソウ、ニリンソウ・・・

 小林峠からの登山道と合流するT4分岐を越え、花には乏しいが落ち着いた樹林帯を過ぎ、頂上目前でふたたびシラネアオイに幾つも出会う。まだ蕾みも多い。

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 登山口から1時間半ほどで山頂。
 ボトルに詰めたホットコーヒーがただただ美味い。

 少し遅れて、途中で道を譲ってくれた中高年女性10名ほどの団体さんが到着。
 「あれが天狗・・・」「あっちが手稲・・・」とにぎやかだ。
 静けさを求めて、樹木や花を観察しながら下降する。

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 新緑の山頂にて、頭上を見上げる。

 この砥石山、一昨年に北海道を訪れた時から着目していた山。この時はタイトな日程と残雪で諦めていた。
 道外の人間があまり訪れない、それでいて地元の方々に愛されている山、それが砥石山を選んだ理由だ。

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 砥石山・中ノ沢コースの樹林帯を行く

 20代の頃、北海道の山、知床や利尻・日高を訪れたが、いずれも冬、一人で訪れていた。
 「冬季」「単独」が私には欠かせないテーマだったのだが、会社勤めの身の年末年始休暇、それだけでは悪天に対処できず、ほとんど敗退だった。
 「花の咲く時期、また北海道の山に行きたい。」
20代の頃から数百万年が経過した今、こうして新緑と花に満ちた北海道の山を訪れることができた。

 自然には四季がある。
 ただ困難を求めていた年頃には気づかなかった山、北海道の魅力を、1000mにも満たない山に教わった山行でした。

参考文献:北海道新聞社刊 梅沢俊、菅原靖彦共著『北海道 夏山ガイド1 道央の山々』

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札幌出張のアフターファイブは、

今日も嵐のような現場が終わる。
宿に戻ってからは、

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エロには屈しない!(安部首相の記者会見風)

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現場仕事の後は、近くの秀岳荘にて装備のお勉強です。


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ヨギティー

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 頭の痛い現場仕事を終え、ヨギティー「チャイルイボス」で一息。
 明日も激務です。

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中国の王清華、中国人初の5.15a(9a+)に成功

 去る5月1日、中国のトップクライマーの一人である王清華(Wang-Qinghua)が陽朔において中国人初の5.15a(9a+)sとなる『飓风』(ハリケーン)に成功しました。
 4月26日に中国のクライミング全国大会に出場、リードクライミングで準優勝した直後、その勢いで陽朔の岩場を訪れ、今回の成功をおさめたものです。

王清华完攀5.15a线路!成为国内首位步入9a+的攀岩者 by 中国戸外網BBS

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『飓风』にトライ中の王清華

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前列左から二人目が王清華

 中国の王清華は1982年生まれ、2007年に中国のクライミングナショナルチームに加入。以降、中国国内のコンペを総なめにしてきました。
 2011年、中国の登山用品メーカーKailasが企画した日本クライミングツアーにて東京のPUMPなどのクライミングジム、外岩では小川山を訪れ、日本のクライミング界の著名人とも交流を得ました。

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 2011年、日本の寿司店にて、日本の文化にも親しんだ王清華

 寿司などの日本食にも親しみ、だいぶ日本には好印象を抱き、また自身のクライミングにとっても大きな影響を受けたようです。その証として、日本でのクライミング経験を上海や広州など大都市圏で講演して廻っていた様子が伺えます。

 2011年以降は陽朔においてクリス・シャーマが手がけたルート、未完のプロジェクトも含め再登することで実力を伸ばし、今回の『飓风』も4年の歳月をかけた成果でした。

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さすらいの作業員、北へ

7t車と共に、フェリーで揺られ揺られて北海道へ。

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生ホッキ丼 in マルトマ食堂

さすらいの現場作業員、しばらく札幌で生活です。

高速道から眺める残雪の樽前山、新緑の木々、車道脇を彩る桜、リンゴの花。
そんな風景をすりぬけて、世のため人のため明日から現場作業に邁進しますため、まだまだブログ更新テキトーになります。

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有意義な休日

5月5日。
世間様では連休真っ只中、私は会社の日直当番。

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日直のお仕事のあいまに、サボリにサボった原稿執筆。
会社の図書室になぜか置いてある、レビュファ本で気分転換。

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天上カフェ

連休前半、福島県某所・帰還困難地域で現場作業。
原発事故の現実をあらためて思い知る。

今年のGWは、都合により飛び石の一日ずつしか休日確保できない。

5月4日。
眺めのいいところでケーキでも食いたい。


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というわけで、秋田県・役内口から神室山に取り付く。
頂上目前、雪渓で冷やされた上昇気流がガスになり幻想的な中、ヤセ尾根をつめる。

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登山口から3時間半、山頂到着。
彼方には虎毛山。

プチッとパウンドケーキの封を切り、
キュッとコーヒー入ったボトルの蓋を開ければ、
はい、そこが天上カフェ。

GWの真っ最中にもかかわらず、誰もいない頂上で一休み。

さあ下りよう。

この時期、神室山から前神室山の稜線はミネザクラが花盛り。

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桜に彩られた稜線、そのむこうに白い鳥海山。

洋酒がプンプン薫るケーキを食べ、桜の中を歩いていく。
カフェというよりも、ここは1人花見を楽しんでいこう。

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【2015年5月4日 神室山登山情報】
2015年5月4日現在、神室山・役内口登山口は、おびただしい数の杉の倒木が林道をふさいでいます。
倒木が林道をふさいでいる箇所から登山口(パノラマコース・西の又コース分岐)まで徒歩10分ほどかかります。
マイカーでアプローチされる方はどうぞご注意下さい。

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僕の山は戦場だった モンブラン秘話

 ロシアの人類学者でジャーナリストでもあるコンスタンチン・バナンコフ氏が、かつてフランスのレジスタンス闘士だったリュシアン・ティヴィエルジュ氏からモンブランにまつわる「秘話」をインタビューしました。

 第二次大戦末期、ヒトラーがモンブラン山頂にナチスの鍵十字旗を掲げようと計画。
 そのために招集された、アイガー北壁初登者であるアンデルル・ヘックマイアー。
 ドイツ軍登山隊を待ち伏せする、フランス・イタリアのレジスタンス闘士。
 彼らの運命は。

Остановивший свастику by ALP-AGE
「スワスチカを止めろ」 by ALP-AGE コンスタンチン・バナンコフ

以下引用開始
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- 私は...子供たちにも、誰にも話しませんでした。
- それはなぜですか?
- 私たちの戦争・・・私たちの戦争だからですよ・・・

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かつてのレジスタンス闘士、リュシアン・ティヴィエルジュ(Lucien Thivierge)

 第二次世界大戦の前、私はフランス軍に従軍していました。フランスがドイツに降伏した後、政府軍は解体され、ドイツ人は前線での作業のためにフランス人を徴用し始めました。私は1920年代生まれでファシストから逃れるため、ドイツによるフランス占領当初から、山の中に逃げ込みました。

 あなたはフランスのレジスタンス、歴史的にも有名なドゴールのラジオ放送を聞いていましたか?

 もちろん!私たちはとても感銘を受け、誰もがフランスのために戦う必要があることを考えました。シャモニのレジスタンスと接触していましたが、ドイツのスパイに見つかる恐れがありました。そこで私たちは羊飼いが放棄した小屋を利用しました。この小屋は抵抗のシンボルとして「鉄の小屋」と呼ばれていました。

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 「鉄の小屋」には初めは武器もありませんでしたが、古い狩猟銃やファシストから捕獲した武器を使いました。またイギリスとアメリカからパラシュートで武器の供給を受けていました。
 けれど、中にはそんな連合軍の「人道支援」だけではありませんでした。レジスタンス部隊を勘違いして爆弾を落としてきました。リュシアンは負傷しましたが、ファシストの支配下にあったため病院に行くことは問題外で、自分で治療せざるをえませんでした。

 そして第二次世界大戦の戦史において注目すべき戦闘に参加することになります。
 1944年、ジャック·フィリップ·ルクレール指揮下のフランス軍はストラスブールを解放。
 ヒトラーは、特殊部隊「エーデルワイス」が1942年コーカサスのエルブルースに行ったと同様、モンブラン山頂にファシストの鍵十字旗を掲げる計画を立てました。この計画には象徴的な意味合いが含まれていました。

 任務を実行するため、優れた登山家としてアイガー北壁の初登者であるアンデルル・ヘックマイアーが招集されました。ヘックマイアーは独ソ戦の東部戦線から戻りバイエルン・アルプスにある特殊部隊の訓練キャンプに移されました。後日、彼はナチスとの関係を強く否定、モンブランに鍵十字旗を掲げる命令は断ったと証言しています。

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アンデルル・ヘックマイアー
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 1944年10月、シャモニのレジスタンス達はドイツ人がモンブランに登る特殊任務について察知しました。
 指揮官から指示を受け、ドイツ人パーティーに先回りして仲間達とトリノ小屋に集結しました。そして嵐が訪れました。

 トリノ小屋に集結したのはフランス人とイタリア人7名。
 天候は悪化、ドイツ人パーティーは悪天候の下、クールマイヨールを出発しました。この悪天候でドイツ人達が登頂できないことを確信していましたが、彼らはやってきました。
 ヘックマイアーが最初に小屋に押し入り、私たちは自動小銃を構えて戦闘が始まりました。
 なんとかドイツ兵の指揮官を撃つことができましたが、私たちは捕らえられ、敗北したのです。イタリアの友人シニョール・マッジョーレは英雄として戦死しました。

 私もいつ死んでもおかしくないと考えていました。ヘックマイアーは私の頭に銃を突きつけ、ヘルメットの弾痕を指さして何かを叫びました。私もこのように撃たれる、と警告したかったのでしょう。
 いつでも私を殺せる状況でしたが、ヘックマイアーは私の命をうばうことはしませんでした。
 指揮官を喪ったドイツ兵達は下山することになり、私たちが遺体を運び出しました。
 ヘックマイアーは戦闘の報告のためクールマイユールへと向かいました。

 私たちはドイツ兵に連行され、壁に立たされました。撃たれる、と思いました。
 この恐怖、自分の処刑を待つという恐怖は一生、私につきまとっています。
 下着姿で教会の壁に立たされていました。これが親衛隊やゲシュタポであれば、私たちの運命は決まっていたでしょう。けれど、そこにいたのは普通の兵士であったことが幸いしました。

 私たちは捕虜収容所に連行されました。そこでは毎日絞首刑が行われていました。
 私は軍服では無くセーターを着ていたため、職業軍人とはみなされず犯罪者として扱われました。
 与えられる食事は収容所の食事の半分だけでした。絞首刑に処される人間に食事を与えても無駄だ、というわけです。

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以上引用おわり

 この後、処刑寸前だったリュシアン・ティヴィエルジュは、幸運にも連合軍によって解放されることになります。
 戦後はアルプスのケーブルカー建設の現場作業員として、セメントを練ったりという肉体労働に30年以上従事する人生を送ります。

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戦争後、アルプスのケーブルカー建設に従事するリュシアン・ティヴィエルジュ

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レジスタンス闘士としての貢献により、レジオンドヌール勲章を授与されました。
レジスタンス活動当時の指揮官が、あのモーリス・ヘルツォーグだったとか。

 アンデルル・ヘックマイアー、リュシアン・ティヴィエルジュの2人は第二次世界大戦を生き延びました。
 戦後、ヘックマイアーはナチスとの関わりを否定し続け、晩年はシャモニの名誉市民にも選ばれました。
 リュシアン・ティヴィエルジュは慎ましく、前述のように建設作業員としての生活を送りました。市長のエリック・フルニエに推挙されレジオンドヌール勲章を受けることになります。
 今年90歳となるリュシアン、かなわなかった夢として山岳ガイドになりたかったと語っていますが、息子2人が山岳ガイドとして活躍しているそうです。

 元記事ではヒトラーがモンブランに鍵十字旗を立てようとした動機として「象徴的」「神秘的」な理由としています。
 補足しますが、第二次大戦末期の敗色濃いドイツ、おぼれる者はワラをもつかむと言いますが、戦局を逆転させるべくヒトラーはオカルトに傾倒していました。 レイライン(遺跡がある法則に則り直線上に並ぶこと)やロンギヌスの槍(キリストを刺したといわれる槍)にこだわったり、神秘的な「力」を求めて親衛隊をチベットに派遣したことはオカルト関係者にはよく知られています。モンブランに鍵十字の旗を立てようとしたのも、ナチスドイツの国威高揚だけでなく、こうした動きの一つでしょう。

 今まで家族にも語ることは無かった、というアンデルル・ヘックマイアー達との戦闘、その顛末。
 登山史に輝くクライマーの戦争当時の影の姿、というよりも戦争に翻弄された男達のエピソードでした。

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