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僕の山は戦場だった モンブラン秘話

 ロシアの人類学者でジャーナリストでもあるコンスタンチン・バナンコフ氏が、かつてフランスのレジスタンス闘士だったリュシアン・ティヴィエルジュ氏からモンブランにまつわる「秘話」をインタビューしました。

 第二次大戦末期、ヒトラーがモンブラン山頂にナチスの鍵十字旗を掲げようと計画。
 そのために招集された、アイガー北壁初登者であるアンデルル・ヘックマイアー。
 ドイツ軍登山隊を待ち伏せする、フランス・イタリアのレジスタンス闘士。
 彼らの運命は。

Остановивший свастику by ALP-AGE
「スワスチカを止めろ」 by ALP-AGE コンスタンチン・バナンコフ

以下引用開始
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- 私は...子供たちにも、誰にも話しませんでした。
- それはなぜですか?
- 私たちの戦争・・・私たちの戦争だからですよ・・・

P1
かつてのレジスタンス闘士、リュシアン・ティヴィエルジュ(Lucien Thivierge)

 第二次世界大戦の前、私はフランス軍に従軍していました。フランスがドイツに降伏した後、政府軍は解体され、ドイツ人は前線での作業のためにフランス人を徴用し始めました。私は1920年代生まれでファシストから逃れるため、ドイツによるフランス占領当初から、山の中に逃げ込みました。

 あなたはフランスのレジスタンス、歴史的にも有名なドゴールのラジオ放送を聞いていましたか?

 もちろん!私たちはとても感銘を受け、誰もがフランスのために戦う必要があることを考えました。シャモニのレジスタンスと接触していましたが、ドイツのスパイに見つかる恐れがありました。そこで私たちは羊飼いが放棄した小屋を利用しました。この小屋は抵抗のシンボルとして「鉄の小屋」と呼ばれていました。

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 「鉄の小屋」には初めは武器もありませんでしたが、古い狩猟銃やファシストから捕獲した武器を使いました。またイギリスとアメリカからパラシュートで武器の供給を受けていました。
 けれど、中にはそんな連合軍の「人道支援」だけではありませんでした。レジスタンス部隊を勘違いして爆弾を落としてきました。リュシアンは負傷しましたが、ファシストの支配下にあったため病院に行くことは問題外で、自分で治療せざるをえませんでした。

 そして第二次世界大戦の戦史において注目すべき戦闘に参加することになります。
 1944年、ジャック·フィリップ·ルクレール指揮下のフランス軍はストラスブールを解放。
 ヒトラーは、特殊部隊「エーデルワイス」が1942年コーカサスのエルブルースに行ったと同様、モンブラン山頂にファシストの鍵十字旗を掲げる計画を立てました。この計画には象徴的な意味合いが含まれていました。

 任務を実行するため、優れた登山家としてアイガー北壁の初登者であるアンデルル・ヘックマイアーが招集されました。ヘックマイアーは独ソ戦の東部戦線から戻りバイエルン・アルプスにある特殊部隊の訓練キャンプに移されました。後日、彼はナチスとの関係を強く否定、モンブランに鍵十字旗を掲げる命令は断ったと証言しています。

P5
アンデルル・ヘックマイアー
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 1944年10月、シャモニのレジスタンス達はドイツ人がモンブランに登る特殊任務について察知しました。
 指揮官から指示を受け、ドイツ人パーティーに先回りして仲間達とトリノ小屋に集結しました。そして嵐が訪れました。

 トリノ小屋に集結したのはフランス人とイタリア人7名。
 天候は悪化、ドイツ人パーティーは悪天候の下、クールマイヨールを出発しました。この悪天候でドイツ人達が登頂できないことを確信していましたが、彼らはやってきました。
 ヘックマイアーが最初に小屋に押し入り、私たちは自動小銃を構えて戦闘が始まりました。
 なんとかドイツ兵の指揮官を撃つことができましたが、私たちは捕らえられ、敗北したのです。イタリアの友人シニョール・マッジョーレは英雄として戦死しました。

 私もいつ死んでもおかしくないと考えていました。ヘックマイアーは私の頭に銃を突きつけ、ヘルメットの弾痕を指さして何かを叫びました。私もこのように撃たれる、と警告したかったのでしょう。
 いつでも私を殺せる状況でしたが、ヘックマイアーは私の命をうばうことはしませんでした。
 指揮官を喪ったドイツ兵達は下山することになり、私たちが遺体を運び出しました。
 ヘックマイアーは戦闘の報告のためクールマイユールへと向かいました。

 私たちはドイツ兵に連行され、壁に立たされました。撃たれる、と思いました。
 この恐怖、自分の処刑を待つという恐怖は一生、私につきまとっています。
 下着姿で教会の壁に立たされていました。これが親衛隊やゲシュタポであれば、私たちの運命は決まっていたでしょう。けれど、そこにいたのは普通の兵士であったことが幸いしました。

 私たちは捕虜収容所に連行されました。そこでは毎日絞首刑が行われていました。
 私は軍服では無くセーターを着ていたため、職業軍人とはみなされず犯罪者として扱われました。
 与えられる食事は収容所の食事の半分だけでした。絞首刑に処される人間に食事を与えても無駄だ、というわけです。

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以上引用おわり

 この後、処刑寸前だったリュシアン・ティヴィエルジュは、幸運にも連合軍によって解放されることになります。
 戦後はアルプスのケーブルカー建設の現場作業員として、セメントを練ったりという肉体労働に30年以上従事する人生を送ります。

P2
戦争後、アルプスのケーブルカー建設に従事するリュシアン・ティヴィエルジュ

P3
レジスタンス闘士としての貢献により、レジオンドヌール勲章を授与されました。
レジスタンス活動当時の指揮官が、あのモーリス・ヘルツォーグだったとか。

 アンデルル・ヘックマイアー、リュシアン・ティヴィエルジュの2人は第二次世界大戦を生き延びました。
 戦後、ヘックマイアーはナチスとの関わりを否定し続け、晩年はシャモニの名誉市民にも選ばれました。
 リュシアン・ティヴィエルジュは慎ましく、前述のように建設作業員としての生活を送りました。市長のエリック・フルニエに推挙されレジオンドヌール勲章を受けることになります。
 今年90歳となるリュシアン、かなわなかった夢として山岳ガイドになりたかったと語っていますが、息子2人が山岳ガイドとして活躍しているそうです。

 元記事ではヒトラーがモンブランに鍵十字旗を立てようとした動機として「象徴的」「神秘的」な理由としています。
 補足しますが、第二次大戦末期の敗色濃いドイツ、おぼれる者はワラをもつかむと言いますが、戦局を逆転させるべくヒトラーはオカルトに傾倒していました。 レイライン(遺跡がある法則に則り直線上に並ぶこと)やロンギヌスの槍(キリストを刺したといわれる槍)にこだわったり、神秘的な「力」を求めて親衛隊をチベットに派遣したことはオカルト関係者にはよく知られています。モンブランに鍵十字の旗を立てようとしたのも、ナチスドイツの国威高揚だけでなく、こうした動きの一つでしょう。

 今まで家族にも語ることは無かった、というアンデルル・ヘックマイアー達との戦闘、その顛末。
 登山史に輝くクライマーの戦争当時の影の姿、というよりも戦争に翻弄された男達のエピソードでした。

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