紫尾山 徐福伝説の山を行く
紫尾山(しびさん)1067mを目指す。
私が今住んでいる鹿児島県北部・北薩地域の最高峰。
紫尾(しび)という変わった山名の由来には諸説あるが、遙か昔、秦の学者・徐福が日本に渡り、冠の紫の紐を奉納したという説がある。
徐福とは、秦の始皇帝に「不老不死の薬があるので探しに行く」事を具申し、数千名の人間を連れて東方に船で旅立ち、そのまま『平原広沢』の地で王となりそのまま住み着いた、といわれる人物。
この徐福という人物に関しては日本各地に渡来説が残っているのだが、ここ九州・薩摩の地にも伝説が残っている。
本日はその山を目指す。
一週間にわたり雨が降り続いた鹿児島、本日は晴天の予報なのだが、山は厚い雲の中。
この紫尾山、山頂に各放送局の中継アンテナ施設が林立しており、西面から車道が山頂まで通じているのだが、そこは山屋、登山道の通じる東面、登尾口から取り付く。
千尋の滝上部を橋で渡る豪快なコースはいいのだが、濡れていて滑りやすく神経を使う。
密林のような広葉樹の樹林帯を行く。
木々は苔むして色彩に乏しく、モノクローム写真の中を歩いているようだ。
視界も効かず、ガスで薄暗い中、鳥の声が聞こえるのが慰めだ。
紫尾山頂上直下の上宮神社に近づく。
上宮神社付近はアカガシの巨木が並ぶ。
そもそも紫尾山は修験者が修行した霊山であり、上宮神社参拝、上宮メイ(参り)でも知られた山。
近隣の市町村の住民はこぞって山に登り参拝、直来を楽しみ、この日が男女の出会いの機会でもあったという。
頂上間近、放送局のアンテナ施設脇を通過。
周囲は九州では貴重なブナ林。
本日の行動食は、鹿児島銘菓「春駒」。
もともと「馬んまら」(馬のキン○マ)という名前だったのが、大正天皇に献上した際に名前を聞かれ、とっさに「春駒」と答えたというエピソードがある。
堅めの蒸し羊羹という感じで素直に食べられます。
鹿児島銘菓では「かるかん」に次ぐ人気菓子だとか。
徐福、という存在を知ったのは、小学生の頃。
少年向け漫画雑誌で、徐福をとりあげた単発読み切り漫画があったのだ。
あらすじは、こうである。
ワガママな始皇帝に「四神」の本物を持ってこい、と命じられた徐福。
四神とは、東西南北の方角をつかさどる霊獣、すなわち東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武をさす。
徐福は南アジアにおもむき、朱雀→クジャク、白虎→ホワイトタイガー、玄武→大型リクガメと巨大ニシキヘビを入手。しかし青竜は手に入らない。
徐福は始皇帝に対して、東の青竜は始皇帝ご自身です、といいくるめ、不老不死の薬があるらしいので探しに行くことを具申。
実は徐福は四神探索の旅の途中、恐竜の生き残りらしい「竜」を目撃していたのだが、暴君である始皇帝に愛想を尽かしていた徐福はあえてそのことは言わず、不老不死の薬探索と称して国外逃亡を図る、というストーリーだった。
そもそも歴史家の間では徐福の存在を疑問視する見方も多く、始皇帝に対して「不老不死の薬」の話をもちかけるなど詐欺師同然の扱いをされている。
もっとも、暴君・始皇帝に仕えるには詐欺師同然の優秀さが必要だったであろう。
むしろ、私にとってはなにゆえ薩摩のこの山に徐福伝説が根付いたのか、そちらの方に興味がある。
(この点に関しては地元の民俗学研究者が様々な方面から解釈されているのだが、本記事では割愛)
本日は最初から最後まで、ガスの中。
隆盛を誇った山岳信仰の気配もなく、誰ともすれ違うこともない、静かな山行でした。
参考文献:
山と溪谷社編著 『新版 九州百名山』 山と溪谷社 2002年
九州の山研究会編著『九州の山歩き 南部編』海鳥社 2011年
甲斐素純、他共著『九州の峠』 葦書房 1996年
| 固定リンク
「山岳ガイド日記」カテゴリの記事
- 八宝堂【山形県上山市】(2020.12.29)
- 設備投資 2020年11月(2020.11.18)
- 2020年を振り返って(2020.12.31)
- オボコンベ山(595m) 宮城県川崎町(2020.11.01)
- 名号峰、花崗岩の山(2020.09.20)
コメント