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アンビルトの女王とはいうけれど

日本で話題沸騰中の新国立問題。

Zahahadid
話題の種だった設計者ザハ・ハディッド女史。
通称『アンビルト(実際に建設されることのない)の女王』。
いやあ若かりし頃調査業務やってた現場作業員の私としてはドキドキする呼び名ですなあ。

でも、『アンビルト』と呼ばれるザハ・ハディッドの設計物件で、施工されている建築物を見つけました。

Mes
皆様ご存じ、メスナー爺。
嗚呼、今ではクライミングメットじゃなくて現場ヘルメットなのね・・・

Zaha1
イタリア領アルプス、標高2275mに建設のメスナー山岳博物館(もう何件めだ・・・)、ザハ・ハディッドによる設計です。

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山頂部をくりぬく大胆なデザイン、下部のバルコニーからはマルモラータ山群の氷河の大パノラマが一望できる構造とのこと。

Mess2
施工中の様子。いやいや現場作業員な私にはこちらの光景の方がワクワクしますな。

若かりし頃、設計会社にイジメあいや、お仕事頂戴したときには設計者を「先生」と呼ぶ習わしがありましたが、ヨーロッパでもそうなんかいな?

でも議員様でセレブなメスナー爺と世界的な建築家ザハ・ハディッド、意外な繋がりの報道でした。

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真夜中のコーヒー

 山形県朝日少年自然の家『チャレンジキャンプ2015』の登山講師として、30名の子供達、職員、サポーターの皆さんと共に月山の山頂に立つ。

 早朝は晴天だったが、本峰に一気に雲がかかり、月山山頂は濃いガスと風、子供達には上着や雨具を着用するよう指示。

 昨年は雷のため、姥ヶ岳の手前で引き返した。
 職員の皆さんも登山をなかなか諦めきれず逡巡していたところ、私が引き返すことを申し入れた。

 私の言動でいろいろと波風が立ったらしいことを周囲から伝え聞いたが、私にとって子供達の安全が全てである。
 そんな経緯もあり、今年のチャレンジキャンプ参加は遠慮しようとも思っていたが、再び月山登山引率の依頼をいただいた時は、ありがたく承った。

 「今年は昨年のリベンジですね」
 職員の方から話しかけられたとき、ああやはり月山登山はチャレンジキャンプの一つのヤマ場なんだな、と思う一方、悪天であれば合理的に対処する、と考える私には「リベンジ」や「雪辱」という気持ちは無い。
 
 もっとも登山講師といっても、主役はあくまでも子供達、そして職員の方々やサポーター(ボランティアスタッフ)の存在あってこその月山登山である。
 
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 温泉の入浴を終え、キャンプ場に戻っていく子供達。
 今年もこの光景を見ることができたのも、職員やサポーターの皆さん、子供達のがんばりのおかげだ。

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 月山登山の日の朝食は、毎年ハンバーガー。
 「トマトのへたはこうやって・・・」
 女の子がバリバリとリードする班もあれば、女の子は一切何もせず男子に任せきりという班もあり。
 現代社会の縮図か?

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 子供達のがんばりの源です。

月山から下山後は、ボンファイヤー。
今年も人手不足なので、私も登山講師から班付サポーターに変身して子供達の輪に入る。

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なついた小学4年の男の子が積極的に私の手をつかんで離さない。
どうも私はバーバリアンな高学年の野郎共よりも、おとなしい小学4年生に慕われるらしい。
別の子にも「タッキー今日帰るの~」とも言われてしまう。

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LEDのランタンを全て消してみる。
「ほら、明るいよ。月明かりって明るいんだね。」

私が付いた班の報告をミーティングで済ませてから、職員・スタッフの皆様に挨拶し、キャンプ場を退出する。
自宅に戻る頃は夜の12時前だろう。
月山山麓・西川町のセブンでアイスコーヒーとフレンチトーストを購入。

多くの子供達は元気に月山登山を終えたのだが、体力的に厳しかった子もいる。
私が担当した班では、夕食前に嘔吐した子が1名、夕食後にうずくまり動けなくなった子が1名。
普通の登山イベントと異なり、自宅から登山へ直行、というわけではない。
5泊6日の長期キャンプが始まり、見知らぬ他の学校の子との出会い・つきあい、慣れないキャンプ・寝袋生活、その3日目に月山登山だ。
子供達の疲労も激しい。まして大人のように自分の体調をセルフコントロールするのもおぼつかない彼らだ。
体調を崩した子供への対応で、私はあまり夕食も口にしていなかった。

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酒を飲まない私は、セブンのアイスコーヒーで月山登山の1人打ち上げ。
月山「登頂」は成功したものの、体調を崩す子供達。もっとよいペース配分は無かったのか。
苦いコーヒーを飲みながら、深夜の国道を自宅に向かった。

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カラコルムの未踏峰リンク・サール西峰陥つ

 カラコルムの未踏峰として1979年に立正大学体育会山岳部隊がトライ、その後も世紀を超えて欧米のクライマー達が挑み続けたパキスタンのリンクサール(7041m)の西峰がついに登られました。

Link Sar: Success on Fourth Year of Attempts by Climbing.com 2015.7.29

7月28日、アンディ・ハウスマンとジョナサン・グリフィスが7日間のクライミングの末、未踏の北西面から頂上に到達したものです。

Linksar
 赤のラインが登攀ルート、緑のラインが下降ルート

 ただし、前述リンクのclimbing誌ウェブサイト記事によれば 『(The main summit was a kilometer away across an extremely corniced ridge and remains unclimbed.) 』 と注釈がついておりますので、主峰は未踏のまま残されている模様。

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黒砂糖をめぐる人々

鹿児島、薩摩といえば、お菓子フリークな私としては「黒砂糖の土地」。

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鹿児島に赴任して最初に手を出したのは、「げたんは」。
「げたんは」とはその形状から「下駄の歯」が語源である。
小麦粉・卵で練った生地を焼いて黒砂糖の蜜にひたした素朴な菓子。
昭和12年開業の老舗「南海堂」のげたんは、気取ることも無く鹿児島のコンビニ「エブリワン」で売っている。

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ふくれ菓子。
小麦粉と黒糖を練った生地を蒸したもの。
鹿児島のスーパーで売っているが、もともとは手作りする家庭が多い。
おばちゃん達のお茶請け、という位置づけの菓子だ。
味付け・風味は当然その家庭ごとに異なる。

公立図書館で郷土料理の資料を読みあさると、たいてい「ふくれ菓子」が採り上げられているが、作り方も母から娘へ、特に教えるということはなく「見て覚えろ」 「母の作り方を自然に覚えた」という家庭が多い。
典型的日本人社会をみる思いがする。

鹿児島のスーパーでも黒砂糖はコーナー一面を占める。

さて、以前から記憶に残る、山形での黒砂糖のエピソードを紹介しよう。

薩摩の兵士が攻め込んできた戊辰戦争。
激戦とされる「越後戦」での出来事だ。

山形県・川西町に玉庭という集落がある。
戊辰戦争当時、玉庭の人々が「玉庭武士団」を結成、戊辰戦争に従軍した。
その中に14歳の兵士がいた。

越後戦の最中、戦傷者をいれた籠の中から、少年を呼ぶ声がするので近寄ったところ、全身血にまみれた兵士が 「お前にやる」 と何かを手渡した。

「何だ」と聞き返すと、兵士は少年の目をみて

「黒砂糖」

と言い残して死んだ。
死の間際に、少年兵に黒砂糖を渡した男。
彼にとって、黒砂糖はどんな価値をもつものだったのだろう。

少年の名前は小池熊吉、玉庭村(当時)初代村長となった人である。

日本の砂糖生産史を調べると、明治維新から戊辰戦争の頃はまさに日本各地で砂糖の増産が始まりかけた時代。
私個人の推測であるが、当時の情勢、東北の貧しい社会から、男が死の間際に渡した黒砂糖は敵方の薩摩産のものではないかと考えているが、真実を知る術は無いだろう。

 血で血を洗う戦場で、黒砂糖を手にする人々。
 そんな人々によって築かれた日本の現代、私たちは豊富な黒砂糖を、何不自由なく味わうことができる。


参考文献
 読売新聞社山形支局編著『山形の峠』 昭和53年
 鬼頭 宏執筆論文『日本における甘味社会の成立 : 前近代の砂糖供給』 上智經濟論集2008年3月号

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月山残雪情報【2015年7月27日現在】

 月山・姥沢からの登山コースにおきまして、ここ数年は姥ヶ岳中腹や牛首分岐から下に雪渓が8月まで残っておりましたが、2015年7月27日現在、登山ルート上の残雪は溶けて消失しています。

 姥沢から山頂をめざすコースにおいては、稜線、谷沿い(四谷川コースから牛首)いずれもアイゼン不要です。

 本日27日は山の上でも日差しや暑さに悩まされている登山者が多かったようです。
 熱中症にはどうぞ気をつけて。

 一部ツイッターで誤解がみられるようですが、天候が悪化すれば真夏でも低体温症の危険があります。
 登山に雨具防寒着は忘れずに。

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ミヤマリンドウ(月山山頂)

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旅の空

一ヶ月以上にわたる鹿児島勤務を終え、山形へ。

台風接近もあり、九州新幹線で北上、博多で「のぞみ」に乗り換え、東京で山形新幹線に乗り継ぐ日本列島縦断の旅(笑)

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博多で食糧を買いそびれ、東京駅で駅弁を買い、山形新幹線車中で遅い昼飯。

東京駅構内で星の数ほどある駅弁。
私は東京の駅弁は「深川めし」と決めている。
迷いは無い。
我が駅弁に一片の悔い無し。(by 北斗の拳)

以前、やはり仕事で江東区に一ヶ月以上住み込んだときのこと。
江東区をとりあげた某旅行ガイドブックに、「このあたりの食堂は土木作業員が通うため味付けが濃い」と半ば差別的な表現が用いられているのにビックリした一方、親しみを覚えたのも事実。
で、江東区といえば深川めしなのだ。

鹿児島の作業現場では昼食は290円の「のり弁」一筋だったので、900円の深川めしに幸福を感じる小市民な私でした。

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【訃報】 中国の王富洲氏、逝去

 長らく疑問視されていた1960年チョモランマ北面のサミッターであり、シシャパンマ峰(8027m)の初登者である中国の王富洲(Wang Fu zhou)氏が7月18日、北京にて亡くなりました。死因については詳細が報道されていませんが病死とのことで、以前から脳血栓を患い長らく療養中でした。80歳でした。

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1960年、チョモランマ北面「初登」時の王富洲氏。

1935年河南省生まれ、北京地質学院において石油開発を学ぶと同時に登山を始め、1950年代にレーニン峰、ムスターグアタで経験を積み、1960年に屈銀華らと共にチョモランマ北面、そして1964年にシシャパンマ峰の初登に成功します。
 その後は高所登山におもむくことはなく、中国登山協会会長など要職を務めていきました。

 かなり以前に当ブログでも王富洲氏についてとりあげました。

あの人は今 王富州 当ブログ2005.10.12

 前述の記事に書いたように、若かりし頃「中国登山」を経験した私は幸いにも王富洲氏にヒアリングする機会があったのですが、精力的な商売人、という印象が強かった次第でした。

 残念ながらその後、脳血栓に倒れ療養中でしたが、中国のチョモランマ峰再測量や北京虐殺五輪の時など、大きなイベントの際には中国登山界の重鎮としてメディアにコメントを求められる機会がありました。

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2013年、故郷の河南省にて学生を激励する王富洲氏

 中国登山史のネタになると私は毎回書いてますが、 「 国家が主導する登山隊によって、高所の登攀力に長けたチベット人クライマーがひたすらピークハントに利用された 」というのが私の中国という国家登山隊のイメージですが、1950~60年代の中国という閉ざされた国家、乏しい情報と粗末な装備で未踏の8000m峰を目指した王富洲氏。
 そのパイオニアとしての功績は否定できないでしょう。

 偉大な先人のご冥福をお祈り致します。

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開聞岳(924m)

鹿児島・指宿の秀峰、開聞岳(924m)に取り付く。

完全な円錐形で知られる開聞岳、今日は中腹から上部は灰色の雲で覆われている。
事前の気象情報では雨雲が通過するはずだったが、幸いガスっているだけだ。

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 登り始め、さほど高温とは思わなかったが湿度が高いのだろう。歩いて5分もしないうちに腕や顔面から汗がしたたり落ちる。
 あまりの発汗量に体調をセルフチェックしながら、しかしいつ天候が崩れてもおかしくないのでペースは落とさず登り続ける。

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5合目の展望台にたどりつくと、一瞬だけ視界が開けた。長崎鼻方面を望む。
登山中、下界が望めたのは結局このときだけだった。

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花には乏しかったが、頂上直下の登山道をユリの花が彩る。

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山頂へ。
あいかわらずの湿度だが、弱い風が心地よい。
ボトルに詰めたアイスコーヒーを飲み干す。

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下山途中、ふと足を止める。
下の方、山の中腹から発電機のような音が聞こえる。
あまりにも多数のセミが大合唱しているのだ。

視界も効かないガスの中の登山だが、この充実感は、ブログでの画像ではお伝えできない。

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※水濡れと光量不足で画像ぶれてます

開聞岳の2~3合目は火山噴出物の溝の中を行く。
石ころの一つ一つが、火山の歴史を物語る。
今は緑多い、湿潤な森だ。

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下山後、「JR日本最南端の駅」として観光客が集う西大山駅ホームにて。
開聞岳はずっとガスの中。

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ふだん山バッジなど興味無いのだが、なぜか購入。

山頂の風の心地よさは、身体で感じてきた。
美しい山容は、今回は絵ハガキと山バッジに思い出として残すことにしよう。

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【悲報】 ダックス、破産申請

某SNSで知りましたが、ザックメーカーのダックスが7月13日に破産申請を行ったようです。

TSR速報(大型倒産情報・注目企業動向) (株)ダックス 東京商工リサーチ

 高校山岳部で最初に買ったザックが、ダックスの『Mt.アスガード』というフロントジッパーの65リットルザック。
 
 それからいろいろなザックを使いながら、ガイド活動を続けて選んだのがやはりダックスのピラー。

 チャラチャラゴテゴテしたグレ何とかやオス何とかと違い、質実剛健なデザインが好みでした。
 まことに残念な報道です。

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高千穂峰(たかちほのみね 1574m)

今日、山を見た。
明日、山に登ろう。

そう語ったのは誰だったか。

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6月21日、韓国岳山頂から望む高千穂峰(奥のピーク)

三週間前、韓国岳山頂から眺めた高千穂峰の美しさ。
どうしても登ってみたいと思い、再び霧島連山を訪れる。

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天候は台風の影響を受けて雨。
幾つか気象情報を集め、風雨が強くなる前に速攻で登ることにする。

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雨とガスで厳粛さが増す(ような気がする)高千穂河原を抜け、樹林帯も丈が低くなってくる。

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森林限界を越えると、道は火山礫の砂利の登り。
まさに「一歩登って二歩下がる」状態。
あれ?
一歩登って二歩下がると後退するよな?
水前寺清子の歌って「三歩進んで二歩」だっけ?
などと、風雨の霊峰でくだらないことを考えながら、ひたすら忍耐と脚力で登り切り馬の背へ。

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火口の縁を歩く「馬の背越」、ガスの中ひたすら前進。

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頂上直下も踏ん張りが効かない砂利登り。

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坂本龍馬が引っこ抜いたといわれる「天ノ逆鉾」が立つ山頂へ。
到着時刻の記録を書き留め、すぐに下山。

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高千穂峰山頂部を形成するスコリアの堆積層、見事なまでの朱色を眺めながら下山。
そんなスコリアの堆積層の岩肌にも、植物が根を生やしている。
もっと気候が穏やかで栄養に満ちた環境はあるだろうに、なぜにこんなところに根を生やすのだろうか。

花も植物も乏しい、火山礫の山。
雨と風で殺風景ですらある光景に、霊峰の威厳を感じました(すくなくとも私は)。

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往路とはコースを変え、復路は高千穂河原の天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりん ひもろぎさいじょう)を通るコースにします。樹林帯に入ると鳥の声。気温が高くなれば、この森もまたセミの声に満ちるのでしょう。

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もともと霧島神宮があった場所ですが、霧島の噴火の度に焼失、高千穂峰の登山口である高千穂河原はその社殿跡地になります。

 今関わっている現場仕事の完遂、今後予定している夏山登山の成功、家族の健康、ガイド仲間の安全、etcetc・・・欲張りなお願いを込めた参拝を済ませ、駐車場の車へと向かいました。

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熊本県水俣市 鶴の湯温泉

矢筈岳から下山、県道を北上する。

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熊本県水俣市 招川内(まんば)集落にて。
見事な棚田、見事な石垣。

さらに進んで、

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鶴の湯温泉を訪れる。
いい感じにのんびりした温泉地です。

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鶴の湯温泉、 喜久屋旅館にお世話になります。
日帰り入浴8時から、大人200円。

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ほんのりした裸電球の明かりの下、のんびりしました。
単純硫黄泉ですがそれほど硫黄臭くありません。
(以前、買ったばかりのノースフェイスTシャツを硫黄泉の某温泉地で硫黄臭くして以来、山帰りはできるだけ硫黄泉は避けるか硫黄泉専用(笑)Tシャツ用意していきます)

しずかな温泉地・鶴の湯温泉、登山目的でなくてもオススメです。

参考サイト:水俣市ウェブサイト 鶴の湯温泉

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矢筈岳 (鹿児島・熊本県 687m)

鹿児島は連日の雨、雨、雨。
日曜の今日も雨。

日々の現場作業の疲労、天候不順を勘案し、今住んでいる街から近い低山「矢筈岳」やはずだけ、687mを目指す。

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幾つかある登山ルートから、本日は矢筈峠側からアプローチ。
雨具を着用して林道を詰める。
林道の入り口には「西南戦争激戦の地」という看板。
今、私が歩いている山の静けさは、まさに『兵どもが夢の跡』。

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地元の方々に愛されているのだろう、手作りの看板があちこちに。
看板にうながされて見てみると、そこには目指す矢筈岳(左)と女岳(右)。

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林道途中から登山道に入り、沢筋に入る。
「頂上え右左」
「右も左も可」

あ゛あ゛~、どっちやねん!!

よく地形を観察し、踏み跡の明瞭な右を進む。
三週間近く雨続きの鹿児島、沢筋は流水が激しかったはず。
流水跡と踏み跡を注意深く観察しながら進む。

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稜線を進むと見栄えのする古木があり、

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勾配のある樹林帯を登り進み、

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林道に停めた車から歩き出して約50分、矢筈岳の山頂へ。
大きな岩に刻まれたのは、「寛政の三奇人」といわれた幕末の志士・高山彦九郎の詠んだ歌。

『草も木もなびかさんとや梓弓 矢筈が岳に登る楽し』

この歌を詠んだ翌年の寛政5年、高山彦九郎は自刃する。
687mの低山とはいえ、高山彦九郎が登った当時は現在の北アルプスなどよりもさらにアプローチが大変だったはず。
私は詩歌に詳しくは無いが、「登る楽し」とは、本当に山歩きを楽しんでいる者でなければ詠めない歌ではないでろうか。

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地元の子供達にも登られている様子。記念プレートがにぎやかです。

本来なら八代海も見えるとのことでしたが、本日は雨。
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雲海から顔をだすピークの数々、鹿児島・熊本県境には他にも魅力的な山々があるようです。

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地元の方が取り付けた看板の誘い文句に誘惑され、隣の女岳(615m)のピークも踏みます。
女岳山頂は樹林に囲まれ展望はありませんが、女岳頂上直下から望む矢筈岳に心奪われました。

矢筈岳の矢筈とは、弓矢の矢の末端、弓の弦を受ける部分を指します。
山の形状が似ていることが山名の由来になっているようです。
鹿児島周辺の山の資料を調べると、「矢筈岳」というピークが他にも幾つもあります。
古い火山で見事な形状から、古人が命名したのでしょう。

花には恵まれませんでしたが、
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ネムノキの落とし物を眺めながら、林道を戻りました。

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7月4日は芋焼酎の日

7月4日は芋焼酎の日。

え?
知りませんでした?
由来は、

Ore

私が好きな映画『大脱走』の中でも好きな場面。
第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所。
捕虜となった連合軍各国の軍人が大量集団脱走の計画を進める中、アメリカ軍の捕虜たちが「7月4日」のために芋焼酎を造り、完成した「酒」を皆に配る場面があります。

 初めて『大脱走』を見た時は「おじさん達何作ってんのかな~」程度に思ってたのですが、今思えば、捕虜収容所の限られた物資の中で「芋焼酎」作るバイタリティやいかに・・・

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 鹿児島に暮らし始めて約三週間。
 時には飲みたい夜もある。
 ここは鹿児島、芋焼酎の土地。

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LOOK UP

今回、まるまる二日間スマホ無しの生活を送り、あらためてスマホのメリット・デメリットを感じる。

以前からガラケーに戻すべきか考えていたし、SNSに懐疑的になり、スマホからfacebookは削除していた。

そんな私がさらに考えさせられたのは、次の動画を拝見してから。

 私がスマホを使うのは、

 カーナビのアプリで山行計画の移動時間を知る。
 目覚まし時計(仕事から帰ったあと、5~10分単位で仮眠をとる機会が多い)

 そしてなんと言っても、出張や外出の多い私にとって、現地の公立図書館の蔵書検索ウェブサイトにアクセスできるのが大きなメリットだ。
 手のひらサイズで、何千何万という蔵書・論文を検索できる端末が手元にあるのだ。

 私と違って仕事がバリバリできる取引先の人からも
 「スマホは便利ですよ。この便利さはなかなか元には戻せないですよ」
 と言われる。

 スマホ無しの生活を送り、結局iPhoneに戻った私。
 「道具に使われる」のがとにかく嫌だったので、auショップとアップルのサービスセンターをたらい回しにされようと冷静を保っていたのだが、あの二日間の喪失感の無さ。
 iPhoneを使い始めたときにブログにも書いたけど、やはりスマホはあくまでも道具として使い続けていこう。

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iPhone狂騒曲

6月29日
 今日も激務の現場仕事から帰る。
 宿で洗濯を終え、洗濯槽からツナギを取り出すと、ゴロッという音と共に何かが落ちる。
 拾ってみると、それはiPhone。

 iPhoneをポケットに入れたまま、40分近く洗濯していたのだ。
 どう考えても私のiPhone、

Go

 実はいろいろ訳あって、以前からスマホを持つことに懐疑的だった私。
 不思議と喪失感は無いのだが、仕事で頻繁に連絡をとりあうこともあり、手をこまねいてはいられない。
 もう夜なので、近所のauショップは既に閉まっている。
 全ては明日から。

6月30日。
 今日も激務の現場仕事を終え、近所の鹿児島県某市のauショップへ。
 アップル社製品はauショップでは修理受付できないこと。
 直接修理受付できる最も近隣のショップは、鹿児島市のビックカメラ。(私は現在、鹿児島市から車で2時間かかる街に住んでいる)
 アップル社の修理依頼専用電話番号。
 などが書かれた紙を渡されて 終 了 。

 電話がないので、近所のNTT施設の公衆電話からアップルの修理受付センターに電話。
 
 この後、iPhoneの追跡システム(落としたり忘れたりしたときのために追跡できるシステム)がオンになっているらしく、これを解除しないと修理受付できないという。
 これはauショップでやってもらえますよ、といわれ、電話を切って再度auショップへ。

 auショップの頭の硬そうなおじさんスタッフから、ここではお客様のiPhoneの内容にはアクセスできませんの一点張り。しかもアップル社に修理申し込みしてない限り代用品の提供もできないという。
 ショップの電話を借り、再度アップル社のサービスセンターに電話。
 らちがあかないので、アップルのスタッフとauのスタッフとで話しあってもらうが、私のiPhone操作を巡ってバトルになる。(笑)
 嗚呼ケンカはやめて~(河合奈保子風)

 アップルのサービスセンター受付が終わる19時目前、宿に戻り、急ぎ自分のPCからicloudにアクセス、同時に宿の電話からアップルサービスセンターに電話して追跡システム解除の方法を教えてもらい、操作。
 同時に、修理発送の手続き。

 iPhoneは修理というより最初から新品と取り替えという対応。
 問題は、クロネコヤマトの配達人に壊れたiPhoneを渡さなければならないシステムらしいこと。
 こちらは出張中の身、宿のフロントの、特に気が利きそうなお姉さん狙って事情を話し、壊れたiPhoneを預け、ヤマト運輸の配達人に渡してもらうことを依頼。
 なおこのときiPhoneのsimカードは抜いて手元に保管しておくこと(壊れたiPhoneはsimカードを抜いて発送)が必要。

 同日夜、アップルサービスセンターからメール。
 電話では2~3日で代わりのiPhoneを発送するということだったが、メールには7月14日発送とある。
 はあ!?
 
7月2日
 リストラ寸前不良社員なので、そんなに仕事で電話しないけど、さすがに10日以上携帯持ってないといろいろ不具合がある。
 auショップで代用機の手配。
 
 日をおいて、あらためてメールを確認すると、10営業日以内に壊れたiPhone届かないと機器交換台72800円也と書いてある。
 怒りより何より、とにかく確認のためアップルのサービスセンターに電話。

「こちらのメールのシステムの不具合です。代替品は今羽田空港にあります。」

 ・・・メールの書き間違いな。これがアップル社テイストな。

7月3日
 宿に帰ると、アップル社から交換のiPhoneが届いていた。
 昨日ようやく手配したばかりの代用機を返却に、またまたauショップへ。
 auの代用機の返却条件として、新しく届いたiPhoeとsimカードのセッティングはショップでやることになる。
 あの役人のようなおっさんスタッフはさておき、お姉さんスタッフは皆さん丁寧でございました。

 この日は凄いクレーマーの嵐らしく、私と前後してヤクザ風のおにいさんがauショップスタッフにえらく突っ込んでいる。くわばらくわばら桑原和男。

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ようやく戻ったiPhone。
バックアップ回復を図ったものの、電話帳はなぜか戻らない。
まあそんなに仕事でも私生活でも交友関係は広くないので、手入力で十分な私。
少しずつ、また元に戻していきます。

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 今回まるまる二日間、携帯不携帯で過ごしていたのだが、こんな時に限ってカミさんが必死に電話していたらしい。携帯が二日間まったくつながらず、心配していたという。
 そんなときのために宿の連絡先を自宅のカレンダーに書き込んでいるのだが・・・
 おかしかったのは、普段はぶっきらぼうで学校でも問題児の息子が
 「おとうさん事故にあったんじゃないの」
 と心配していたらしい。

 ときおり自暴自棄になる私だけど、心配してくれる家族がいることに少しほっとする。

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