四度目の正直
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白木山から下山した後、JR広島駅に移動。
広島で乗り換え、JR海田市駅へ。
この駅から登れる里山、日浦山(ひのうらやま345m)をめざす。
寺の急峻な階段を上り詰めると、墓地がひろがる。
墓の間をすりぬけながら登山道にアプローチ。
登山道も、始めは八十八箇所霊場の石仏に囲まれながらの登高。
やがて気持ちの良いマサ(風化花崗岩)の道へ。
幾つもの木の階段、ちょっとした岩場を乗り越え、1時間ほどで山頂へ。
標高345mという高さのわりに、周囲360度近くぐるりと眺められる展望の良い山頂。
山頂広場は意外にも、地元のグループらしい若者達でにぎわっていた。
その脇に場所を確保し、下界の眺めを楽しみながら行動食を口にし、コーヒータイム。
視界はすぐれないが、広島湾方面をのぞむ。
以前に登った広島の里山、牛田山を登った時に思ったが、広島の山の魅力は、なんといっても「海が眺められる」ことではないだろうか。
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日曜。
広島市第2位の山、白木山(889m)をめざす。
以前、2013年3月末に登って以来、2度目の登山となる。
始発の芸備線に乗り、JR白木山に到着。
6時20分、日の出まであと20分という薄暗い時間。
急登を一歩一歩進む。
山頂が近くなると、あちこちに残雪がみえてくる。
西日本の山とはいえ、まだ春浅い。
山頂直下の小屋に置いてある中華鍋には、びっしり氷が張っている。
霜柱の登山道を踏みつけながら、綺麗な芝で覆われた山頂へ。
まもなく、単独行の女性登山者がやってきた。
彼女はちょっと険しい表情で山頂神社に向かう。
その間、冷たい風が吹いているので私はアウターを取り出し着用。
背後から、神社の前で柏手を打つ音が聞こえる。
ザックからコーヒーを取り出していると、さきほどの女性が、穏やかな表情で
「ここに福寿草咲いてますよ。まだ蕾だけど。」
と、わざわざ教えて下さった。
そして彼女は颯爽と下山していく。
見ず知らずの私に、わざわざ福寿草の事を知らせてくれたことに感激。
以前登ったときも、地元の女性登山者からアセビの花の事を教えていただいた。
リピーターの多い、白木山ならではである。
しかし今回は、どういう事情かはわからぬが、山頂のアセビの群落は伐採が進んでいた。
その様子を眺めていると、背後から朝日が射してきた。
ガスガスで何も見えない廻りが青空に代わる。
うっすらと、太陽と雲海が目の前にひろがる。
私は善人でもないし性格も極悪なのだが、ガスが晴れて太陽の光を浴びたことに、自然と「ありがとう」という言葉が思い浮かぶ。
広島周辺には魅力的な里山・低山がいくらでもある。
今回、再び白木山を訪れたのは、あるガイドブックがきっかけだ。
安佐北区市民部区政振興課が出版した『安佐北区ハイキングガイド あさきた里山いちばん』という本がある。
その中で見開き2ページを使い、白木山のシルエット写真が掲載され、こんなコピーが記載されている。
『理由もなく登ってみたい山でした。』
安佐南区在住の女性の寄稿文である。
理由も無く登ってみたい山。
その一言がなぜか非常に心に残った。
今、登山が盛んになり、日本アルプスや八ヶ岳等々の「ブランド」に左右される人もいれば「百名山」、「二百名山」というタイトルにこだわる方もいる。
その中で、「理由もなく登ってみたい山」。
そんな山が身近にあるなんて、登山者として幸福なことではないだろうか。
理由もなく登ってみたい、それこそハイキングやクライミングといったカテゴライズを超えた、登山の原点ではないでろうか。
ガスが晴れ、幻想的な雲海。見知らぬ他人に福寿草を教えてくれる登山者。
私にとって白木山は、登って後悔しない山である。
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アレックス・チコン(スペイン)、アリ・サドパラ(パキスタン)、シモーヌ・モロー、タマラ・ルンガー(イタリア)の4名パーティーがナンガパルバット頂上にアタックをかけ、冬季初登に成功した模様です。
【2月26日20:50追記】
2016年2月26日現地時間15時40分、アレックス・チコン(スペイン)、アリ・サドパラ(パキスタン)、シモーヌ・モロー(イタリア)の3名がナンガパルバット冬季初登に成功しました。
紅一点のタマラ・ルンガーは原因は現時点で不明ですが頂上直下で登頂は断念とのこと。
4人は既に下降を開始、C4で夜を過ごし明日BCに帰着予定とのこと。
Winter 2016 | First Winter Ascent of Nanga Parbat! by Altitude Pakistan 2016.2.26
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この話題、なぜか日本のマスコミではあまり取り上げられてないのですが。
オーストラリアのアウトドアウェアメーカー、リップカール(Rip Curl)の製品が北朝鮮で生産されていた事が判明、英語圏メディアでは話題になっています。
北朝鮮・平壌市近郊、平城地区の工場でリップカールのウェアを縫製する女性作業員
日本のメディアではあまり話題になっていませんが、ウォールストリート・ジャーナル日本語版が記事にしています。事の顛末はこちらの記事が参考になるでしょう。
社説】中国製は「北朝鮮製」 隠されたサプライチェーン by ウォールストリート・ジャーナル日本語版2016.2.23
今回の騒動は、北朝鮮を訪れた旅行者がたまたま工場でリップカール社製品の生産現場を目撃、写真を撮影したことが発端です。
リップカール社の主張によれば、生産委託した業者が「勝手に」北朝鮮の会社に下請けに出していた。そんな話なんもきいてないもーん。という事情らしいです。
でもこれって、中国に生産委託しているメーカー全部可能性有りって事だよね?
有色人種やイスラム教徒を差別しまくってるわりに人権意識がお高い欧米のマスコミは、わずかな食糧引き替えクーポンが給与の代わりという奴隷制度に近い労働環境、そして世界最悪ともいえる搾取国家・北朝鮮をアウトドアウェア生産という形で支援してしまったことを問題視しています。
拉致問題を抱え凶悪テロ国家・北朝鮮と険悪な関係にある日本と違い、人権問題に意識が高い割に欧米社会は北朝鮮に寛容な面がありますね。
韓国の山岳雑誌でもとりあげられましたが、韓国人にとって聖なる地理的概念ともいえる『白頭大幹』(白頭山から智異山をつなぐ、朝鮮半島を貫く山脈の名)、これを踏査するためニュージーランド人ロジャー・シェパード氏などは北朝鮮に入国、現地の山をバリバリ歩き回り、ガイドブックを出版しています。
また昨年末には、キム・ジョンウンの肝いりで北朝鮮スポーツ界の国際化が叫ばれ、その一環として北朝鮮のスキーリゾートに欧米のプロスノーボーダー3名が招待、それに対してボーダーのコミュニティではやはり北朝鮮の人権問題を理由に「訪問をとりやめるべきだ」と意見が表明されていました。
もっとも、年末から今年にかけての核兵器騒ぎで吹っ飛んでしまったようですが。
主張が事実とすれば、今回話題の主になったリップカール社も孫請け会社がたまたま北朝鮮の会社ということでとんだとばっちりだった訳ですが、外貨を稼ぐためならなんでもやるテロ国家、アウトドアギアも例外ではないということでしょう。
また日本の大手メディアは盛んに中朝関係の悪化を叫んでいますが、現実はまだまた根強い関係にあるということを、今回の騒動は如実に示しています。
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私あまり酒は飲まないんですが、ビール党クライマーの皆さん、こちらどうぞ。
7 Climbing-Themed Beers by Climbing誌
『Offwidth』とか、『Midnight Lightning』とか、好きな人にはたまんねーだろーな。
そのぶん、日本酒は山の名前が充実してますかな。
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前々から「野外フェス」とかいうセックスとドラッグの乱痴気騒ぎについて書きましたが。
それに対して、「ゴミ袋になるテント」が開発されたりしました。
テントがゴミ袋に変身!Glad Tent 2013.05.12
そして今度は、野外フェス用に開発された、リサイクルによるテント。原材料は段ボールだそうな。
Dutch start-up Kartent design tents for cardboard camping by Domain.com 2016.02.20
オランダのメーカーが開発した段ボールテント、内部は幅150cm長さ220cmの2人用、熱がこもるのを防ぐベンチレーター兼窓がついてます。
なにせ段ボール製なので、本体にフェスのスポンサーの広告等々印刷可能なのも売りの一つ。
耐久性は、雨天でも三日間は耐えうる耐久性があるそうです。
既にオランダでの映画祭で使用された実績があるとのこと。
メーカーではさらに大型のテントを開発中です。
製造メーカーのウェブサイトはこちら→ Kartent
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Alpinist誌はじめ各国クライミングサイトでとりあげられていますが、ピオレドール2016における第8回ワルテル・ボナッティ賞(生涯功労賞)に、ポーランドのヴォイテク・クルティカが選ばれた模様です。
2014年に撮影されたヴォイテク・クルティカ近影(Wojciech Kurtyka, 1947~)
山屋な皆様には今更クルティカの経歴を説明するまでもありませんね。
当ブログが前々から主張していたように、第8回目にしてようやく、生涯功労賞という形で東欧のクライマーにスポットがあてられました。
ポーランドのヒマラヤ登山の一時代を築いた故アンジェイ・ザワダ、故イェジ・ククチカ、来期は冬季K2を狙うクシストフ・ビエリツキなどなど、世界の登攀史の一翼を担ってきた東欧、ポーランドのクライマーはここに書き綴りきれません。
今回ヴォイテク・クルティカ氏が選ばれた事は、ピオレドールというイベントで東欧の登山界にも正当な評価が下されたこととして歓迎したいと思います。
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世界最大級のスポーツ用品見本市、ISPO。
今年のISPO2016では、様々な最新アウトドア・クライミング用品が登場しています。
スペインのクライミングサイトDesnivelも注目したのは、ビブラム(Vibram)が開発した氷上でも滑らないソール「Vibram Arctic Grip」です。
Vídeo: Vibram presenta una suela para caminar sobre el hielo by Desnivel 2016.2.5
ビブラム社が開発した氷上でも滑らないソール、「Arctic Grip」
その威力はこちらのデモ動画をどうぞ↓
幾つものサイトを調べたのですが・・・その仕組みは従来と異なる特殊なゴム化合物でできたソールとしかわかりません(笑)
水の凝固点もしくは、すべりやすくなる氷の融解点0度になると、ソールに含まれているゴムチップが変色する仕組みにもなっています。
このソール、シューズメーカーのウルヴァリンやメレル等に来季の秋冬製品から採用されるとか。
既にカーリングのシューズに利用されているそうです。
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被災地での仕事を終えた翌日、山形県朝日少年自然の家のプログラム「巨大イグルーの中、あったかいんだからぁ♪」にスタッフ参加。
毎年1月に開催される「チューブすべり」は暖冬による少雪で中止。
朝、自然の家に向かう途上、周囲の積雪の少なさに「これでイグルー作れるのか!?」と心配になる。
少雪の心配は杞憂に終わる。
積雪はザラメ雪で固まりにくいが、なんとかブロック状に固め、参加者の子供達、保護者の方も懸命にイグルー作り。
イグルー作りというプログラム、以前経験したときは子供達が途中で飽きてしまい、大人が必死に作る・・・という流れになってしまったのだが、今回は子供達も集中力が途切れず、楽しんでくれた模様。
その陰には、私は参加できなかったイグルー作り試作や企画段階で尽力された自然の家所員の方々、サポーター(ボランティアスタッフ)皆さんの努力がある。
同じ月山朝日ガイド協会会員で、スタッフ参加の細谷さんが雪で作るテーブルの水平を出し始める。
みんなして背後から
「おぉっー職人技が・・・」と感心する。
子供達にとっては、ノコギリ(スノーソー)で雪を「切る」という行為がなかなか新鮮だったようです。
雪のブロックを作ったり、組み立てたり。
「あんた働かないとお汁粉食べられないわよ!」
と男の子に激をとばす女の子。
嗚呼、現代社会の縮図が子供達の中に・・・。
今回のプログラムは通常と異なりサポーター主体による企画。
社会教育指導員で、先日の山形雪フェスでイグルー製作に関わった沖津雅秀さん、ロングトレイルの第一人者斎藤正史さんがイグルー作りを監修。
私が担当する1班では、マロこと栗村くんがイグルー内部に入って懸命に仕上げてくれました。
内部から眺めたイグルーの天井。
暗黒な雪洞と違い、ブロックの隙間から漏れる光がなんとなく私は好きです。
漫画に出てくる餅のように、プーッとふくれてくれます。
今は電子レンジやオーブントースターで焼くのが主流かな。
網で焼くのは風情が違いますね。
自然の家職員の工藤さん達が炭火を起こしてくださっている間、炭が燃える匂いに
「あっいい匂いがする!」
と子供達は敏感に反応しました。
実際、自分で餅を焼くのは初めて、という子供達も何人かいたようです。
『子供達の遊び心が大人達を刺激して、大人の遊び心が子供達を刺激して・・・お互いの遊び心が刺激される』
本日のスタッフ反省会での、細谷さんの名言でした。
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この街を訪れるのは、もう何度目か。
土建業の仕事で宮城県某被災地へ。
現場作業後は、ここを訪れるときは必ず買う高政の蒲鉾をパクつきながら、ビジホで書類整理。
2月10日。
強烈な二つ玉低気圧の通過で、屋外は突風。
立っていられないくらいの強風下、作業を進める。
気温は2度だが、体感温度はもっと低いだろう。
昼、食事と休憩を兼ねて近くのコンビニに行く。
その駐車場で、2人のイスラム教徒がこの寒い中、地面に何も敷かず、イスラムのお祈りを続けていた。
防寒着も身につけず、イスラム教の民族衣装姿で、2人はひたすらに祈っている。
災害ボランティアのエピソードで、こんな話がある。
被災家屋の片付けに来たボランティアが埋もれた神棚を見つけたので、住人にそのことを知らせた。
住人いわく、
「捨ててもいいよ。神様なんていないんだから。」
あれから5年。
神様がいないといわれる土地で、イスラム教徒の彼らは懸命に祈り続けている。
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ガリンダ・カルテンブルナー(GERLINDE KALTENBRUNNER ゲルリンデ・カールセンブラウナー)、カリン・シュタインバッハ共著『MOUNTAINS IN MY HEART』を読む。
この本はオーストリア人女性登山家であるガリンダ・カルテンブルナーが8000m峰14座無酸素登頂を果たすまでの道程を、カリン・シュタインバッハによる70時間以上におよぶインタビューをベースに、ガリンダの自叙伝という形式でまとめられた本である。
ガリンダの高所登山の出発点は、1994年のブロードピーク遠征。当時の遠征はいわば「古き良き時代」の遠征隊で、面倒な登山許可取得から隊費捻出のため登山隊Tシャツを売るという活動をこなしながらの登山である。
この登山ではガリンダは前衛峰(8027m)が最高到達点なのだが、「8000m」を超えた喜びに満ちた登山となった。
そう、ガリンダの高所登山の始まりは「死の地帯」への恐れはみじんも無く、「楽しさ」と「喜び」に満ちあふれている。
読み進めるうちに、ガリンダの盟友である竹内洋岳君に想いを巡らせた。
私は竹内君とは初期の8000m峰2座の登山を共にしただけであり、幾つもの困難な峰、困難なルートを共にしたガリンダと竹内君が過ごした充実した時間と人間関係には遠く及ばない。
彼女が記している8000m峰登山の喜びを読んでいると、竹内君が初めての8000m峰登山の報告書に書いた「あぁ面白かった、またやりたいなぁ」という一節が思い浮かんだのだ。
当時は登山隊の中で竹内君は最年少、それゆえの苦しさ・悔しさ・疑問はあったはずである。
しかしこの本を読んでいて、8000m峰を登る喜び、その感性、なるほど2人は気が合ったんだろうなあ、と考えさせられた。
2001年のマカルー遠征。
登頂を果たしたガリンダは下山途上、頂上直下で、「高度障害のため、もう頂上しか眼中に無い」クライマーを説得できず、頂上に向かう彼を見送ることになる。そして彼はそのまま行方不明となってしまう。
この出来事は彼女に大きな衝撃を与えることとなる。
日本語の某ウェブサイトではガリンダは看護師であり人の死に慣れているかのように表記されているが、そうではない。医療関係者ゆえ、山で人が死にゆくのを止められなかった事に深くショックを受けている。
この本は、ガリンダ・カルテンブルナーという1人の女性の喜怒哀楽がよく描かれている。
高所登山の喜び、そしてクライマーが死んでいく哀しみ。
そしてガリンダはよく「怒り」もする。
印象深いのは2003年のナンガ・パルバット遠征の記録である。
この遠征ではシモーヌ・モロー隊はじめ、デニス・ウルブコを含むカザフ隊と一緒に登山活動を展開することになる。
ガリンダはカザフ隊からクライマーと認知されず、BCを訪れたトレッカーと勘違いされてしまう。
さらにデニス・ウルブコの余計な一言がガリンダの怒りを爆発させることになる。
「ごめんごめん、あまり気にしないでくれ。カザフ人にとって女性は家で料理してるもんで、登山するなんて思いもしないんだ」
翌日からガリンダは先頭切ってルート工作に活躍することになる。
そこでルート工作に使うロープを切るため、渋るウルブコからナイフを借りるガリンダ。
彼女はバネ仕掛けの折りたたみナイフを力任せに開こうとしてバキッと壊してしまう(笑)
ウルブコは「これだよ!もう女にナイフなんか貸さない!」とロシア語で叫ぶ。
しばらく後、弁償として彼女はスイスアーミーナイフをお返しとして持っていくが、そのときウルブコは歯の詰め物が取れてしまい、ヨダレが口から漏れ出す程に歯の具合が悪化。
そこは看護師であるガリンダ、シモーヌ・モローの現・奥様で当時彼女だったバーバラが未使用の生理用品(タンポン)を細工してウルブコの歯に詰める治療を施してあげる。
ガリンダの活躍は止まらない。
ナンガ・パルバットのサミットプッシュが続き、カザフ隊隊員も頂上に向かう。
下山でヨレヨレになったカザフ隊員をフォローすべくガリンダはザックを背負うことを申し出るが「死んでも女性にザックを背負わせられない」と断られてしまう。
隊員に無理な行動を強いるカザフ隊隊長にガリンダの怒りが爆発。
渋る隊員に「ちょっとあんたの隊長と話しさせなさい!」と迫り、ウルブコ経由でカザフ隊隊長と直談判。ガリンダ達がカザフ隊隊員をフォローし、無事下山させる。
この一連の活躍で、ガリンダはウルブコからK2登山隊への誘いを受ける。そして「シンデレラ・キャタピラー」という名称も。
このナンガパルバットのエピソードで注目すべきは、当初トレッカーと勘違いされていた女性登山家がK2登山隊に誘われる、というサクセスストーリーではない。
先頭切ってのルート工作。折りたたみナイフを巡るやりとり。歯の治療。カザフ隊隊員への献身的なサポート。
積み木を一つ一つ重ねていくように、大小様々なやりとりを重ねながら、次第に周囲の信頼を得て、人間関係を構築していく。
その様子が抜群に興味深い。
痛快なストーリーを紹介していくと、そのままこの本の内容を綴ることになりかねないのでここまでとしよう。
繰り返すが、この本にはガリンダ・カルテンブルナーという高所登山家、1人の女性の「喜怒哀楽」にあふれている。
大人数の登山隊に参加するスタイルから、自分で登りたい山を選択しルートやタクティクスを決断していくクライマーへと変貌する姿。
登山団体が組織する登山隊の参加から、個人同士が組んで8000m峰に向かう姿。
1990年代後半から2000年代にかけ、ヒマラヤの高所登山のスタイルがダイナミックに変わる時代を彼女の姿は象徴しているといえよう。
長々と綴ってきたが、同書で私が最も印象に残ったのは8000m峰登山の章ではない。
ガリンダがまだ専業登山家になる前、看護師として病院に勤務していた頃のエピソードだ。
病院で知り合った職場の同僚がやはり山屋で、病室でベッドメイキングをしながら山の話をしていた、という記述がある。
静かな病室で、ベッドメイキングをしながら、彼女達はどんな山の話を、どんなヒマラヤの話をしていたのだろう。
密室ともいえる病室の中で、ガリンダ・カルテンブルナーはヒマラヤの夢を育んでいったのだ。
勤労にいそしむ我ら凡人登山者も、大いに刺激を受けるエピソードではないか。
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数々の雪崩啓発本の著作で知られる雪崩・地すべり研究センターの池田慎二氏が業務中の事故で亡くなられました。
雪崩調査研究員、業務中に滑落死 by 毎日新聞2016.2.5
私は一度だけ雪崩発生現場の調査に同行したのみですが、雪崩だけではなく雪氷防災の調査業務に活躍、まだまだ将来が期待される若さでした。
謹んでご冥福をお祈り致します。
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スイスのウーリー・ステックが先日来日したのは、既に山屋な皆さんにはご承知のとおりですが、今回はマウンテンハードウェアの販促で韓国も訪問、各種イベントで注目を浴びていたようです。
早速、韓国の月刊MOUNTAIN誌に興味深いインタビューが掲載されました。
スピードクライミングの意義、トレーニングの秘訣、その中で語られる意外にも「楽しむ」ことにウェイトを置いた主義主張が印象的です。
最高のクライマーでないとしても、まだクライミングを愛する by 月刊MOUNTAIN 2016.02.02
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「最高のクライマーでないとしても、クライミングを愛するだろう」 世界的な登山家ウーリー・ステック訪韓、今春シシャパンマ未踏の岩壁の計画が明らかに 文ミン・エンジュ
世界的なスピードクライマーであり登山家のウーリー・ステックが韓国を訪れた。
ウーリー・ステックは、私たちの時代を一歩先行く「前衛」を象徴する名前である。アルプス3大北壁のソロクライミング・スピード記録を立てた彼は、その後も継続して時間を短縮、昨年11月にはアイガー北壁を2時間22分で登る驚異的な記録を残した。
ヒマラヤでの活躍もすごい。2008年サイモン・アッターマンテンとテンカンポチェ北壁に新ルートを開拓してピオレドールを受賞した。2012年にはアンナプルナ南壁を単独登攀して2度目のピオレドール賞を獲得した。
昨年にはアルプスの4000メートル峰を登頂する「82サミットプロジェクト」を完登予定日より18日早い62日後にすべて登頂した。 尖鋭的なスピードクライマーであり、優れたアルピニスト、ウーリー・ステックに会い、クライミングにかける情熱と今後の計画を聞いてみた。
韓国訪問を歓迎いたします。よく「スイスマシーン」と言われていますが、誰がそのように言い始めたのですか?その通称はどう思われますか?
以前に私の映像を製作していた映像会社が付けてくれたニックネームです。私としてはそう呼ばれることは好きではありません。実際、変なニックネームだと思ってます。私は機械じゃありませんよ(笑)
遠征登山の対象と目的は、どのようにして決めていますか?
頭の中にはいろいろなアイデアがあり、何かを選択する理由は、それぞれ異なります。時には、ただ登ることができるから登るということもあります。何より、遠征を実現するには良いパートナーを見つける必要があります。それが目標の選定が非常に難しい理由ですね。ただ今後は8000m峰を登ることに力を注ぎます。最近の私の関心はそちらに集中しています。
ソロクライミングとパートナーがいるクライミングと、どちらが好きですか?
これらの2つのクライミングは完全に異なっているので、どちらか一方を好きだと言うのは難しい。実際にはパートナーの有無は、プロジェクトの性質に依存します。多くのプロジェクトの場合、パートナーと一緒に登ること自体が不可能です。アイガーのスピードクライミングのような場合はソロクライミングがはるかに有利です。逆にパートナーがいてこそ可能なプロジェクトもあります。私はクライミングの方法に基づいて柔軟に決定します。
主に一緒に登山するパートナーはいますか?
8000m峰を一緒に登るほど強力なパートナーを見つけるのは非常に難しい。ドイツのダーフィット・ゲットラーがいますが、多くの場合、私は試みたいプロジェクトについて意欲に満ちた人を見つけることもあります。私はそれぞれのプロジェクトに最適なパートナーを選ぼうとします。
最も忘れられない登山やクライミングは?
唯一の登山・クライミングを挙げることはできない。すべての山行が充実しているからです。もちろん、アイガー北壁を最初に登った時のように、特別な瞬間も訪れます。初めて8000m峰を登った時も同じです。
その「特別さ」は「新しさ」から来ます。 私の考えでは、本当の特別な瞬間は、「どこかを最初に登ったた時」に生まれます。そのような感覚は、すでにその山に慣れた後は感じるのは難しい。もちろん、2回目の登山もいいのですが、すでに経験しているので冒険と不確実性の領域は減りますね。
アンナプルナ南壁単独登攀という素晴らしい挑戦をすることになった動機は何ですか?
私は2007年にアンナプルナで落石に遭い、2008年には遭難者を救助するために登らなかった。その後も多くの人々がアンナプルナに登りましたが、誰も私が試したルートは登っていませんでした。それが私の頭の中に深く印象に残り、そのルートを上りたい情熱が消えませんでした。だから2013年にドン・ボウイと一緒に登りに行ったのです。当初は単独登攀をするつもりは全くありませんでした。
ところが、氷河の下に到着したとき、ドン・ボウイが体調がすぐれず登山は難しいと言って下山しました。今日8000m峰で、本当に大変なルートは、いくらも残っていない。ジャンクリストフ・ラファイユとピエール・ベジャンが初めて試みたアンナプルナ南壁もその一つであり、私は必ずそのルートを試してみたかったんです。だからなんとか一人で登る方法を見つけることにしました。そして、そうしたんです。
アンナプルナ南壁単独登攀を計画していたのではなく、現場で即座に決定したというのは驚くべきことです。
うまく説明することは難しいですね。もちろん、リスクが大きくなったのは事実です。しかし私はソロクライミングを熟知しており、何よりも私は一人で登る能力があることを知っています。だから、パートナーが去っても、まったくいないとしても、私はまだ登山を続けることができます。
このようなことは私の故郷のアイガー北壁でも行いました。私のパートナーが体調不良で登れないと言ったときに、私は「じゃあ、後で!」と言い残して、単独でクライミングを続けました。私たちは、その後、レストランで再会しました。もちろん、これは非常に危険なゲームであり、いつもそうしている訳ではありません。
ヒマラヤに戻る計画や、具体的にクライミングを構想している他の山はありますか?
この春にシシャパンマ南壁を登る計画があります。
シシャパンマの未踏ルートですか?
そうです。まだ一度も頂上まで登られていない、南壁の素敵なルートを登ろうと考えています。私はまだ8000m峰を夢見ています。シシャパンマは私が長い間あこがれ続けてきた、大きな挑戦になると思います。
引き続きアイガーの速度記録を短縮しています。スピードクライミング自体があなたの目標なのか、それともより大きなクライミングのためのトレーニングの一環ですか?
スピードの短縮には、特別な意味を置いていません。わずか6分早くなったことに何の価値があるんでしょう?。ただしアイガーを速く登ることは本当に良いトレーニングですし、私は常に新しいものを発見しています。記録更新は、後から続く結果にすぎません。
私の場合は、最後の記録の価値は、2時間22分で更新したことではなく、私は160程度の低い心拍数を維持しながら、スピードクライミングが可能なことを発見したことです。それは昨年のアイガーから得られた結果です。また、私たちの家から車で20分しかかからないということも、私がアイガー北壁によく通う理由の一つです。
それはあなたの8000m峰登山にも役立つでしょうか?
もちろんです。これは非常に有効なトレーニングです。スピードクライミングをする前に、私はキリアン・ジョルネとアイガー北壁を登りました。私たちは、グリンデルワルドから登り始めました。それは1800mを走って登攀開始地点に取り付くことを意味します。登山が終わった次は再びそれ同じ高度差を降りてくる野蛮なものです。本当に長い一日でした。総行程28kmを一気に移動することは8000m峰登山のための非常に良いトレーニングです。
また、このようなトレーニングは8000m峰に接する態度を変化させる大きな助けになります。人々は山一つを登るためにあまりにも多くの時間をかけて非常に多くのキャンプを設置します。私の考えでは、すべての8000m峰はベースキャンプから一日で登ることが可能だと思います。
スピードを意識した登山をすると、危険度は高くありませんか?
登山中の危険性が増加するのは事実です。しかし最近、私は非常に安全に登っています。記録のために一定のリスクを甘受した昔とは違います。おもしろいのは、安全に十分に配慮しながらも、私はまだ速いという事実です。
アルプス4000m峰82座を登ることに成功しました。このプロジェクトを試みた特別な理由はありますか? 一定期間内に4000m峰すべてを登るというのは、どのような意味がありますか?
特別な理由というよりも、ただ登山がしたかったんです。途方もないアルピニズムではなく、毎日外に出て登山をして、楽しい時間を過ごすことが目的でした。シンプルだが素敵なプロジェクトですし、私にとっては最高の経験の一つです。
速度の短縮のためにアルプス82座登山を再びやってみる考えはありますか?
全くありません。今回のプロジェクトでは、62日もかかりましたし、パートナーを待つのに無駄な時間を除けば、総行程55日から50日程度かかりました。再びやってみれば、記録は短縮できるでしょう。天気がよければ、より早く終わることもあると思います。しかし、それは今回の登山の目的ではありません。私には、このプロジェクトを介して友人と一緒に登った登山がより重要なんです。記録にはあまり興味はありません。
遠征登山中に天候待ちをする時は、何をしていますか?
ああ、私はその時間が本当に嫌いなんです。待つことはできないですね。何かを読んだり映画を見ることもありますが、率直に言って本当に耐え難いです。それでも最近は、遠征の計画を立てるが少しうまくなりました。まずクーンブ谷に行って高所順応、天候に関係無く、ロッジに泊まって毎日トレーニングをすることもできる。クーンブ谷の天気を確認して、登山計画を立て、以前のように悪天候で二ヶ月もベースキャンプに閉じ込められなくてもいいですし。
どこでインスピレーションを得ていますか?
その時その時で違いますが、時には本で読んだクライミングの歴史からインスピレーションを得ることもあります。アンナプルナ南壁の場合、私はそのルートが最初に試みられた時の記録を完読しました。登山の歴史と自然の魅力が組み合わされた結果のようです。山はいつも私を魅了させてくれます。そこには、私は本当に好きな、素晴らしい美しさがあります。
木工が得意と聞きました。どんなものを作ったんですか?
住宅を建築しました。最後に作ったのは、私たちの家です。とても多くの時間を注ぎ込んだ私の自慢ですよ。
個人的な生活と登山とのバランスはどのように維持していますか?
「登山家」は実質、大変な仕事です。私の個人的な私生活は重要だと考えますが、プロの登山家は、一種の公認であり、遠征や旅にも数多く行かなければなりません。例えるならば、私は2つの世界に住んでいるわけです。時には、その中でバランスをとる事が難しいこともあります。
将来のアルパインクライマーにトレーニングのヒントをいただけませんか?
状況に応じて異なりますが、トレイルランニングは登山にとってすぐれたトレーニングです。私はトレイルランニングと室内の人工壁を並行することが非常に効率的だと思います。
しかし、成功するトレーニングのためには、何よりも、そのトレーニングを好きにならなければなりません。もし、その時間を楽しめずにトレーニングのためのトレーニングをすると、良い結果を期待するのは難しいですね。成功するトレーニングのためには、自分が楽しく続けることができるよう見いだす必要があります。あなた自身を成長させ山で強くなる秘訣です。
長期的な登山の目標は何ですか?
重要なのは、最終的にはそのプロセスにあると思います。私の登山は、これまで着実に成長してきたが、いつかはこれ以上進まない瞬間が来ます。遅く、弱くなる過程を喜んで受け入れ、クライミングの別の意味を発見することができたら良いでしょう。おそらく10年以内に、私の登山は、記録よりも冒険の要素がより重要になるでしょう。
私の目標は、その変化の過程の中で、登山の楽しさを失わないことです。
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※当ブログでは名前 Ueli Steck を「ウェリ・シュテック」と表記してきましたが、編集者森山憲一様のブログ記事にならい以後「ウーリー・ステック」と表記します。
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