« River of No Return | トップページ | 大賀ハス »

花笠の夏

小学6年の息子が通う小学校の学年親子行事で、山形の「花笠まつり」に出場することになった。

カミさんは娘の時に出場したし、長期出張で家を空けて息子と過ごす時間も少ないので、私が息子と共に出場することにする。

父兄・子供合同の練習期間は7月22日、23日、26日、30日、8月2日、4日の6回。
この6回で花笠踊りをマスターしなければならない。
短期間でまったく知らない芸事をマスターしなければならない、「芸能人 かくし芸大会」みたいな世界である。

Img_2281_2
7月22日、練習初回。
百人近く参加する「父兄」といいつつ、ほぼ皆さん「母親」の女性たち。
父親参加は私を含め10人前後。
女性たちに囲まれてウハウハというより、完全アウェイ状態。

花笠踊りのエキスパート「昇龍舞連(しょうりゅうぶれん)」の皆さんを講師に、体育館で踊りの練習が始まる。

息子の通う小学校で踊る踊り方は、「寺内(てらうち)流」、「上町(かんまち)流」、「飛び波」の三つを合わせたタイプ。
自主練習のための動画がこちら↓

動画の踊りは 寺内 → 上町 → 飛び波。

22日、23日は土日なのでなんとか参加できたが、なかなか覚えられません。
お母さん方も「わからない。。。」と言いつつ、懸命に練習している。

Img_2283
練習の帰り道、歩きながら「友達の○○君来てた?」と息子と話しながら帰宅。
このブログを書き始めた頃にはまだ生まれていなかった息子。
いつまで息子とこうしていられるのだろうか。

26日は平日。
練習時間は19時~21時。
あいにく酒田市で仕事をしているため、会社に戻るのが19時過ぎ、後片付けやらなにやらで練習に駆けつけられるのが20時半。
残り30分でも練習に駆けつける。
しかし他のお母さん方との踊りのレベルの差がますます開いてく。

練習のおわり、PTA学年部長担当のお母さんの挨拶で、
「どうしても踊りがうまくできないという人のために、「大うちわ」という役割もありますので・・・」
という一言を耳にする。

Kurotowa_4554_2
その一言を聞いた瞬間の私の心象風景↑

練習終わったあと、PTA役員のお母さんのところに行き、
「すみません、建設会社勤務で練習になかなか出られないので、大うちわ専属でやらせてほしいんですが・・」
と交渉。

実は「大うちわ」をやる人がいなくてPTAでも困っていたので、すんなり私の申請が通る。
あーこれで踊り間違いを気にせずに済む。

この大うちわ、隊列や見物のお客さんめがけて巨大なうちわでひたすらあおぐ、という役。
実際に持ってみると、「これお母さん方に持たせるの無理でしょ」というくらい巨大で重いうちわ。

8月に入り、踊りの日程が決まる。
8月6日、第一集団の6番め。
この日は山形県朝日少年自然の家の「最上川」イカダ下り」の手伝いをする日。
日程をギリギリ調整して、自然の家職員のJさんには午前中だけの参加としてお願いする。
最上川イカダ下りの手伝いから急ぎ帰宅し、一時間ほどで食事と休憩をすませて花笠踊りに出場することになる。

8月2日、隊列を組んでの練習。
私は大うちわを手にして、隊列に風を送る役。
昇龍舞連の会長さんから、「大うちわ、たまにお客さんにむけてあおぐと喜ばれるんですよ。」などなど、直接アドバイスをいただく。

8月4日、大事な最終練習日。
この日は朝日少年自然の家の月山登山引率のため、欠席。
練習する息子に立ち会っていたカミさんから情報収集。

そして8月6日。
午前中は少年自然の家の最上川イカダ下りのサポートに集中。
子供たちの昼食休憩をサポートしたところで、職員の方々に挨拶し退出。
帰宅して急ぎシャワーを浴び、花笠踊りの恰好に着替え、いざ出陣。

体育館の出発式では、「休憩時の給水時間が2分半しかない。このときを逃したら熱中症になる危険が高い。かならず給水するよう、踊り手は給水係にアピールすること」
と、かなりしつこく言われる。
最終練習の8月6日はわざわざ給水係の練習までやったらしい。
私はぶっつけ本番となる。どうなることやら。

大型バス3台に分乗し、スタート地点に近い山形市民会館に乗り込む。ここがパレード出場者の控室となる。

Img_2301
市民会館は踊り手でいっぱい。

Img_2306
そして定刻。市民会館から徒歩で移動し、山形市の七日町大通りにスタンバイ。
ここから1.2kmの距離を踊りながら移動。

なにぶん自分は「大うちわ」なんで、あまり緊張せず本番開始を迎える。
この日は涼しい強風。
大うちわの存在意義もあまりなさそうな日。

M1_2
花笠踊りパレードで「大うちわ」をふるう筆者

本番の花笠踊りパレードが始まり、中間地点あたりで最初の休憩。
給水係のお母さんが凄い勢いで走ってきて、担当エリアの踊り手に飲み物を配る。
配るはず・・・なのだが、なぜかしゃがみこんだまま、何も渡される気配がない。
駆けつけてみると、ドリンク類が完全凍結していて、まったく飲めない状態になってましたw

不幸中の幸い、この日は涼しい強風が吹いていたので、水分補給なしでもなんとかこなせる状態。
休憩時間はまたたくまに過ぎ、次の踊りが続く。

進めば進むほど、沿道の観客が多くなる。
私も景気づけに子供たちにむけて大うちわであおぎながら、ゴール地点の山形旧県庁に到着。

そこで記念撮影後、再びバスに乗り小学校に戻り、解散。
役員の皆さま、参加された保護者の皆さま、子供たち、本当にお疲れ様でした。

------------------------------------

正直、私は山形の花笠踊りにはあまり思い入れは無い。
無いというよりも、あまり好きではない。
今回参加したのは、「息子と一緒の時間を過ごしたい」ただそれだけだった。

花笠踊りに強い思い入れをお持ちの方々の「思い」を否定するつもりはまったくないのですが、山形新聞社というローカルメディアが自治体と癒着して作り上げた観光イベントに「祭り」としての魅力はさほど感じない、ということです。

とはいえ、今回実際に参加してみてわかったのは、花笠踊りって「眺める」よりは「参加する」方が楽しいもんだなあということ。

花笠祭りは「東北四大祭り」と言われ、人によっては「東北三大祭りを無理やり「四大祭り」にしたてあげた」という。
実際のところはどうなのだろうか。
息子の学年行事に関わったついでに現在の「花笠踊り」の歴史を調べてみる。

昭和38年に開催された「蔵王夏まつり」に端を発する花笠パレードが、現在の「花笠祭り」の原型である。
そもそも「東北三大祭り」とは、当時の国鉄が誘客企画として考案したフレーズだった。
昭和39年、花笠パレードの可能性に賭けた実行委員会が国鉄東北支社山形出張所を訪ね、「どんな手続きをすれば「四大まつり」に採用してくれるか」打診したのが嚆矢と思われる。

国鉄側は東北支社に話を廻し、さらに上層の秋田鉄道管理局に話が廻る。
そこで出た回答が「急な話で今年や来年ですぐ「四大まつり」とするわけにいかない。国鉄が関係する以上、一日だけの祭りでは意味がない。少なくとも三日開催してもらいたい」という回答が返ってくる。
今現在の「花笠まつり」が三日間開催される由来はここにあるらしい。
実行委員会の方では、うまく成功すれば「四大祭り」として認められる、と前向きに考え、さらに当時の東京オリンピック選手村慰問団もからめて花笠祭りの開催を継続。
昭和40年の第3回花笠まつりから、「東北四大まつり」が「認知」されたとのこと。

ちなみに当時、関係者が宮城県庁・仙台市役所に挨拶に行ったところ、「四大まつりとは何事か、三大まつりの「七夕」だから仙台に観光客が泊まる。四大まつりで花笠などとなれば観光客の泊りは全部山形になってしまう、とんでもない話だ」と猛反発を受けたという。
現在では、山形自動車道・各種交通網の発達により、山形での宿泊数が減っているのだが。

「四大まつり」という呼称を嘲笑するのは容易だ。
しかしその呼称の陰に、幾人もの人々の労苦があることも知られていいのではないだろうか。

参考文献 山形花笠まつり30年史刊行委員会 編 『紅の里に笠が舞う 山形花笠まつり30年のあゆみ』

|

« River of No Return | トップページ | 大賀ハス »

民俗・風土」カテゴリの記事

育児」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/21370/65653962

この記事へのトラックバック一覧です: 花笠の夏:

« River of No Return | トップページ | 大賀ハス »