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故・池田拓氏と出会う時

鳥海山から下山後、どうしても寄りたい場所があった。
酒田市の「眺海の森」に立ち寄る。

銅像といえば、日本では代議士の爺などスノビズムの象徴なのだが、そこには若くして亡くなった、ある若者の銅像が立っている。

I1
故・池田拓氏の銅像。
数珠を手にして、私は銅像と対峙する。

池田拓。
山形・庄内を代表する岳人、池田昭二氏のご子息である。
1988年から3年かけて、北米大陸の徒歩横断、南米大陸の徒歩縦断を果たす。
帰国後、鳥海山に計画されているリゾートスキー場建設反対・自然保護活動に傾倒。
アメリカで森林生態学を学ぶべく、資金稼ぎの建設現場で事故に遭い、1992年逝去。享年26歳。

I3
彼の足跡を印した石碑も設置されている。

I2
銅像制作はやはり庄内出身の彫刻家・石黒光二氏。
ザックのロゴ「MILLET」もそのままに、写実的な彫刻で池田拓氏が再現されている。

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それは私が2度目の8000m峰遠征に敗退し、目標もなく過ごしていた頃の話だ。
私宛に一通の郵便物が届いた。

差し出し人は東北では有名な無明舎出版。
内容は、故・池田拓氏の冒険の手記 『南北アメリカ徒歩縦横断日記』 出版のお知らせだった。

不審に思った。
なぜ池田拓氏の手記の出版案内が、私のもとに届くのだろうか。
8000m峰遠征で地元・山形新聞社や山形放送に好意的な記事でとりあげていただいたとはいえ、私は諸般の事情で山形県山岳連盟はじめ社会人山岳会とは一切関係を持たない、いわば「外様(とざま)」の人間だった。

あまりにも不審に思ったので、無明舎出版に電話をかけ、なぜ私に出版案内が届いたのか直接たずねてみた。
無明舎出版担当者のご返事は、「池田昭二氏のご意向です」という。

庄内を代表する岳人として池田昭二氏のお名前は知っていたが、私は面識は無い。
ここで池田氏に直接連絡をとるべきだったのだが、人間のできてない私はそれを怠り、年月が過ぎ、2011年、池田昭二氏も逝去された。もはや、その真意を知る術は無い。

池田拓氏が不慮の事故で逝去したのが26歳。
私が8000m峰の頂きに立とうともがき苦しみ、敗退して帰国したのが26歳。
池田氏はそんな26歳の若造だった私に、何か伝えたかったのだろうか。

そして今日、ようやく私は池田拓氏の銅像と対面することができた。

彼が生きていれば、自然保護活動家として活躍が期待された、と知る人はいう。
一方、私は8000m峰から帰国してダム建設現場を経験し、アウトドアライターのおぼっちゃん共と違い、ダム・道路建設は「社会資本の整備」と考えている。
池田拓氏が生きていれば、一緒に酒を酌み交わすよりも、会議場で殴り合う間柄になっていただろう、と私は思っている。

彼が建設現場で亡くなった、というのも、現場作業に生きる私には痛ましい事実である。
同世代で「夢」を語れる人間は、地方都市の山形には残念ながら少数だ。
殴り合う仲であろうと、もし生きていてくれれば、その少ない人間になっていてくれたのではないか。

夕暮れ、銅像を離れ、車に乗り込む。
私は感傷的な人間ではない。
帰路の車中、スマホに録音した古今亭志ん朝の落語を聴きながら、遠い自宅を目指した。

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