山岳ジャーナリスト Bernadette McDonald女史の新刊『Art of Freedom』を読む。ポーランドの岳人ヴォイテク・クルティカの伝記である。
ヴォイテク・クルティカといえば、日本では断片的なインタビュー記事がたまに掲載された程度で、あとはニコラス・オコネル著『ビヨンド・リスク』がまとまったインタビューを掲載している程度であろうか。
クルティカといえば、そのスマートな「アルパインスタイル」、ラインを重視したより困難な高所登山が高く評価されているが、この本には「人間、ヴォイテク・クルティカ」がよく記録されている。
読んでいて気がついたことだが、ヴォイテクにとっては「アルパインスタイル」はごく自然な登山スタイルにすぎなかった。日本の70~80年代、やたらと「海外ではアルパインスタイル」と、欧米崇拝はなはだしい先鋭登山家および池田某老人にリードされた日本登山界であるが、そういった「他者の評価」など全く気にすることは無い。
あたりまえだ、なぜなら彼らには「アルパインスタイル」がごく自然な、当然な登山形態だったのだから。
アレックス・マッキンタイアらと組んだダウラギリ東壁の記録は、まさにシンプルイズベストともいうべき、素晴らしい描写である。
そして読み進むうちに、そのシンプルなアルパインスタイルの陰にある地味な活動やエピソードも明らかになる。
生卵300個と格闘するヴォイテク・クルティカ
1983年、クルティカとククチカはガッシャブルム2峰南東稜をめざしパキスタンに入る。
クルティカは食糧係として1人1日卵2個×メンバー2人×登山期間60日プラス予備=生卵300個の購入する。
ククチカは「はぁ?!ポーランドから持ってきた旨いハム缶あるだろ!なんで卵そんなに要るんだよ」 (当ブログ流意訳)とあきれ顔。
そしてより新鮮な卵を選ぶために、リエゾンオフィサーから「ミスター・ボイティク、エッグテストをご存じですか?」
と、新鮮な卵の見分け方を教えてもらう。
それは卵を水の中に入れ、水中に沈んだ卵は新鮮な良い卵、という方法だ。
卵300個購入に不満なククチカは協力してくれない。
クルティカはたった1人、生卵300個を水中に出し入れし、新鮮な卵をより分けていく。
日本人クライマーから「哲学的」 「求道的」 とあがめ奉られているヴォイテク・クルティカが、1人で生卵300個を相手に格闘する。
とかくクライミングの成果ばかりが強調されがちなアルパインスタイルのクライミングの陰に、こんな地味な行動があったのだ。

1984年マナスルにて、ルートの雪崩の危険性について議論するイェジ・ククチカとヴォイテク・クルティカ 撮影アルトゥール・ハイゼル
クルティカとククチカは食糧で結構モメる。
登山も終了、余ったハムをクルティカが鳥に投げ与えていると、
「おめーなにやってんだよー、食い物粗末にすんじゃねーよ」とククチカが文句を言う。
「ハムとっといても悪くなるだけだし、ポーターもリエゾンもパキスタン人でハム食わねーし、しょうがねーべ」
(当ブログ流意訳)
そして決定的なのは、メスナーに対抗意識を燃やして新ルート・冬季登頂であくまでも「登頂」をめざすククチカ。それに対して登攀「ライン」を重視するクルティカ。ブロードピーク三山縦走直前も、登攀ルートを巡って議論になった2人。袂を分かつのは当然だったといえよう。
山田昇らとの合同登山の事
1986年の山田昇らとの日ポ合同隊として挑んだトランゴタワーに関しても、一章を割いて詳しく描かれている。
ご存じの方もあろうかと思うが、この遠征では山田昇氏ら日本人クライマーがルートの困難さを理由に断念したことが知られている。
本書においても、山田昇氏が「このルートは我々にはハードすぎる」と断念を正直に申し出る姿が包み隠さず記録されている。
ボイティク・クルティカは登山当初から、キャンプ地選定において日本人達が雪崩や落石のリスクがあると思われる場所を選び、意見具申をしつつも「saving face」(メンツを立てる)を理解し、いたずらに自己主張することなく、素直に従っている。
クライミングの断念を申し込まれたクルティカは、最初は冗談かと思ったという。あくまでも登りたいクルティカは吉田憲司氏に一緒に登らないかと誘うが、合同隊であること、全員で行動を共にすべきという理由から断られる。
この登山断念に対し、ボイティク・クルティカは
「誰かに過ちをたずねられれば、日本人達との関係を上手く構築できなかった私にある」と謙虚な言葉を書き記している。
事実、ベースに下山後も冗談を言い合いながら過ごしていたという。
このトランゴ遠征をとらえて、丸山直樹なるライターが山田昇氏に関して「岩の実力は上手くなかった」というような非常に不愉快な表現で山岳雑誌に書いているのを読んだが、同行したパートナーであるボイティク・クルティカは日本人メンバーに対してあくまでも温かく接している。
最も困難な壁といわれるガッシャブルム4峰西壁を共に登り、サードマン現象まで一緒に体験したロベルト・シャウアーなどすぐに袂を分かったクルティカだが、日本人にはなぜか温かい。
その理由を探ろうと何度も何度も本書を読み返したが、ついに理解できなかった。どなたかボイティク・クルティカにインタビューしてください。

1986年、トランゴタワーで山田昇氏とともに
故・谷口けい女史の言葉
本書で特筆すべきは、ボイティク・クルティカの「登山観」を示すために、故・谷口けい女史の言葉(Alpinist誌から引用したもの)が本書4箇所にわたり引用されていることである。
そのうちの一つは章の冒頭を飾る。引用しよう。
I love to draw beautiful lines as simply and silently as possible...
- Kei Taniguchi, "Being with the Mountain"
古今東西、とくに欧米にはアルパインスタイルのスーパースターともいえるクライマーがキラ星のように存在しているはずなのだが、著者 Bernadette McDonald女史はクルティカの心情・山に対する姿勢を表現するために谷口けい女史の言葉を選んだ。
まぎれもなく谷口けい女史の再評価であり、あらためて故人の不慮の死が悔やまれる。
人生の後半を迎えて
本書は若いアルパインクライマーだけでなく、むしろオールドクライマーの皆様にお勧めしたい。
年を取りヒマラヤでの活躍から身を引いたボイティク・クルティカは、スポート・クライマーとして困難なフリーソロを果たすなどするが、本書後半では少しずつ家庭人としておさまっていく姿が描かれている。

愛娘Agnes とともに
娘いわく「仕事(自営の貿易業)の出張なのか、遠征登山なのか、出かければわからなかった」と言い、息子は「遠征登山の帰りはイキイキしてたのですぐわかる」と言う。男と女の違いなのか?
ボイティク・クルティカは家庭では躾にうるさい親であり、娘はことあるごとに反抗していたという。
アルパインスタイルは経験してなくても、この部分は共感する読者は多いのではないか(笑)

家庭ではガーデニングを趣味とするボイティク・クルティカ。
娘のAgnesいわく、「自然に対する愛情は父親譲り」という。この部分だけでも見習いたいものです。
登山のパートナーを死なせなかったことを誇りとするボイティク・クルティカですが、私生活では2度離婚し結婚生活は破綻しています。世界各国の登山家から最高のクライマーと称されるクルティカも、女性に関し(以下省略)
本書は、渋っていたピオレドール生涯功労賞を受諾するまでが描かれています。
山岳雑誌や山岳本でその登山哲学を知ることは出来ますが、「人間としてのボイティク・クルティカ」を知りたい方、アルパインスタイルで素晴らしい業績を重ねてきた真の登山家の生き方を知りたい方、ぜひ本書をどうぞ。
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