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追悼 生亀知侑先生

Koutou
11月15日。
山形県立山形南高元教諭、山形県山岳連盟顧問の生亀知侑(いけがめ ともゆき)先生の訃報が、後輩から届く。

 私は山形南高校山岳部から登山を始めたが、体力の無い私は周囲に対して非常にネガティブな思いを抱くことになる。
 あえて書くが、生亀先生は尊敬の対象ではなく、むしろ反発と憎しみに近い感情を抱いていた。

 高校山岳部在籍当時、体力もなく、合宿でも常にバテていた私は、生亀先生にとって取るに足らぬ存在だったのだ。

 先生が先頭に立って国体・インターハイ登山競技出場の同期生を率いてランニングに出ている間、相手にもされなかった私はバーベルの重りや古テントを詰めたザックを背負い、学校近所の千歳山に1人で登っていた。近くの女子高運動部の生徒に嘲笑されながら。

 それにもめげず、なんとか食らいつこうと、生亀先生が提案した休日返上のトレーニングに参加してみた。社会人のランニング愛好会に混じり、山岳部同期の仲間と共に羽前山辺駅から山形市内の霞城公園までランニングするというトレーニングだったが、私はやはり皆に追いつくこともできず、大恥をかくことになる。

 山岳部同期や先輩に相手にされていなかった私は、非常にネガティブな思いを抱くことになる。
 「いつかこの俺が、OBも顧問も誰も成し遂げてない8000m峰に立つ。」、と。

 そのネガティブな思いを解消してくれたのは、立正大学体育会山岳部でやり直した「登山」なのだが、その顛末はここでは割愛する。

 そんな訳で、山岳部の顧問と生徒という関係でありながら、ついに私は先生に対して尊敬の念も親しみも感じることは一切無かった。故人に対して甚だ失礼ではあるが、はっきり書く。一切、である。

 生亀先生は社会科の教師であり、私は現代社会を学んだ。
 先生の授業は教科書とも受験とも関係の無い左翼がかった話に終始するため、一応進学校だった山形南高の生徒には不評であった。
 だが、私の考え方に影響を与えた、授業中の一言を今でも覚えている。

「本当の冒険家っていうのはね、山響を創設した村川千秋みたいなのを言うんだよ」

 村川千秋とは、やはり山形南高出身、山形はもとより東北初となるプロオーケストラ「山形交響楽団」を1972年に設立したオーケストラ指揮者である。
 音楽に詳しくない方でも、閉鎖的な地方都市・山形で、東北初となる交響楽団を設立するということの困難さはご理解いただけるだろう。

 先生の訃報を受け、高校山岳部の同期であり、日本山岳ガイド協会認定ガイドである吉田岳君とコンタクトをとった。
 私と吉田君の共通認識は、「高校時代に雪山登山を体験できたのはよかったね」ということだった。

 高校時代に雪山登山の基礎を学べた、というのは、他ならぬ生亀先生の存在のおかげである。
 当時は既に文部省から「高校生は冬山・岩登り禁止」の通達が出ていたはずなのだが、先生はかまわず私たちを本格的な冬山に連れ出してくれた。

 ストック2本を用いての深雪のラッセル、交代制で深夜に起床しカマボコテントの除雪。
 大学山岳部に通じる冬山での生活技術も、先生から学んだ。
 「冒険」という概念に関して、社会的意義を意識するようになったのも、先生の影響である。
 思い出したようにマラソン大会に出場するのも、実は先生のトレーニング方法の影響でもある。

 そうなのだ。
 かつて相手にもされずネガティブな感情を抱いていた私ではあるが、現在の私のベースになった体験には、先生の存在があったのだ。

 吉田君からの短い携帯メールを幾度も読み返し、それから私は弔電手配を始めた。

 不肖の生徒ながら、生亀知侑先生のご冥福をお祈り致します。

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