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あの鐘を鳴らすのはあなた

月山山開きは毎年、曜日に関係無く7月1日。

山開きを翌日に控え、荒天で登山者も少ない月山へ。

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月山・姥沢口、リフトを降りたところには今年から「令和の鐘」が新設されました。

雪渓の状態を確認すべく入山しましたが、稜線は風ビュービューなので本日は姥ヶ岳で退却。

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たまに月山の花の時期を尋ねられますが、個人的意見として山開きの前後が百花繚乱の装いだと思ってます。

風雨の中、今日はハクサンチドリ、ウズラバハクサンチドリの鮮やかな紫が見事でした。

2019年6月30日現在、姥ヶ岳の雪渓はたっぷり残っています。雪上歩行に慣れていない方はためらわずアイゼンを使用することをお勧めします。

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私は山で涙を流さない クシストフ・ビエリツキ

2019年ピオレドール、生涯功労賞「ワルテル・ボナッテ賞」にポーランドのクシストフ・ビエリツキ (Krzysztof Wielicki) が選ばれました。

これに先立ち、ポーランドの大手ポータルサイトOnetにDariusz Faron記者の 『私は死ななかった』と題する、クシストフ・ビエリツキの半生をふり返るインタビュー記事が掲載されました。

Nigdy nie szedłem po śmierć by onet 2019.3.15

以下引用開始

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ドンブローヴァ・グルニチャ、ポゴリア。

 数ヶ月もすれば、水着に日焼け止め、タオルを身にまとった観光客が都会から押し寄せるでしょう。しかし今は時間が止まったかのようです。湖は凍り、森の上には赤れんが造りの家々が並んでいます。その中に、広い庭園のある美しいモダンな家があります。

 クシストフ・ビエリツキが中に案内してくれます。

 中に入ると、印象的なリビングルームがあります。一方の棚には山岳文学(クシストフの著書)、もう一方にはミステリー小説。壁に掛けられた世界地図(おそらくマナスルかK2と思われる)。

 一見したところ、伝説のヒマラヤニストに招かれたとは想像も出来ないでしょう。最近、ロシアの登山家がここを訪れた際にもクシストフは聞かれました「ロープやピッケルはないんですか」ありません。ビエリツキがその登山の功績で得たメダルの類いを捜そうとしても無駄です。カタジナ(夫人)は彼に言いました:「ただ壁があるだけですよ。」そこで彼は屋根裏部屋に連れて行かれました。

 窓の外の美しい太陽と湖まで、ほんの数分。クシストフはライトブルーのジャケットを着用し、少し歩くことを勧めました。

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 80年代初頭、ニューヨークで射殺されたジョン・レノンのために世界中が哀悼の意を表していました。 チェスワフ・ミウォシュ(訳者注:共産主義体制下ポーランドの反体制派の詩人)がノーベル賞を受賞しました。ポーランドは灰色の時代でした。ラジオからはコラ(訳者注:女性ロックシンガーでポーランド・ロックのカリスマ的存在)の曲が流れていました。

 クシストフ・ビエリツキとレシェック・チヒが、エベレストの冬季登頂に成功しました。それは世界で初めての、冬の世界最高峰登頂でした。ビエリツキにとってそれは自由を意味していました。スポーツパスポートを使えば、鉄のカーテンを往来することができたのです。妻は遠征に出かける前に言いました「あなたにはチャンスがあるのよ、行ってらっしゃい」。翌年にはカラコルムで成功を収め、他の8000m座を目指すようになります。やがて彼は、支払うべき代償がいかに高いものか、気づかされることになります。

- 私は家族と別れました。幾度も私は数ヶ月間、家を空けていました。家族はそのような状況にどれだけ耐えられることでしょう。私には山がありましたが、家族を失いつつあることに気付きませんでした。家族よりも山が重要でした。

娘と人生の話題について触れるとき、彼女は時々尋ねます。

- お父さん、そのときどこにいたの?。

 現在、彼は人生を別の観点から見ています。彼には10歳の息子がおり、もう危険なことはしないと話しています。遠征に赴く前には、得るものと失うもの考えます。遠征隊に参加する機会はますます減りつつあります。

 ビエリツキ家の玄関には目印があります。郵便受けとゴールポストです。クシストフの息子はサッカーをしています。週4回の練習、土曜日の練習試合、日曜日の公式試合。息子はレヴァンドフスキ(訳者注:ポーランドのサッカー選手)のような有名選手になって高級車を運転すると父に語ります。彼はまた別の人生プランを持っています。もしサッカー選手にならなければ、ユーチューバーになりたがっています。クシストフは、何やら沢山の「いいね」を集める仲間たちという位しか、ユーチューバーのことがわかっていません。

- 私は息子が成長するのをみつめてきました。彼が世界にどのように興味を持っているか、どのように変化しているか・・・私にとって最も悲しいことは(おそらくそれは適切な表現ではありませんが)娘と息子の思春期のことです。以前、子供たちが何年生か尋ねられたとき、私は答えることができませんでした。私は言いました「5年生か、6年生かな」より長い遠征に出かけたとき、娘たちは私の首にぶら下がっていて大泣きしました。どうすればいいかわかりませんでした。私の目にも涙が流れました。結局、私はこの苦痛を軽減する方法を思いつきました。夜中に出発したんです。朝、子供たちは母親に尋ねました。

- お父さんはどこ?

- 遠征に行ったのよ。

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 ビエリツキは決して山で泣いたことがないと主張する。山岳協会会長と一緒にセリーナ・ククチカの家に行き、イエジ・ククチカの死を告げるとき、彼は涙を流しそうになりました。しかし彼らは何も言う必要はありませんでした。セリーナはすでに全てを知っていました。多くの涙が流れました。ククチカの息子マチェクは、学校から帰ってきて何が起こったのか知りました。彼はランドセルを床に投つけ、部屋に閉じこもりました。

 ビエリツキは別の話をします。ワンダ・ルトキエビッチの行方不明を伝えるため、アンジェイ・ザワダ達と母親を訪ねました。彼らは何も言えなかった。母親が彼らを見た時、言いました。

「わかってます、わかってますよ・・・ワンダは修道院にいるんです」

 脳が悲劇的な知らせから自衛するのでしょう。ワンダの母親はほんの一瞬で物語を作り上げ、彼女はワンダの生存を信じていたのです。

 登山家達の死に際して、私たちの誰かがドアをノックして、家族に知らせるのは伝統でした。時代は変わりました。現在では家族がテレビのニュース速報のテロップで悲劇を知る可能性があります。

(中略)

 ビエリツキは長い間、2013年の冬季ブロードピーク遠征でのマチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキの死について語ることはありませんでした。彼によれば、当時はこんな状況でした。

アルトゥール・ハイゼルが隊を率いる予定でしたが、彼は予想外にもクシストフに電話してきました。

- 私はもう十分やったんだ、行ってくれませんか。

- 行くよ。

 ハイゼルは(アダム)ビエリツキ、マレク、コワルスキの3人の名前のカードを彼に渡しました。クシストフは一人欠けていると考えました。1988年、単独でマチェイ・ベルベカがいわゆる前衛峰に到達したことを思い出したのです。彼は電話しました。

- マチェイ、登頂するチャンスがあるぞ。行くかい?

- 私はもういいよ。別の所に行く予定があるんだ。

しかし3週間後、ベルベカは電話をかけ直した。

- 私は行くよ。

カラコルム。
 ビエリツキはあたかも悪い予感を打ち消すかのように、神経質にテントの周りを歩き続けました。何かがおかしい。4人が山頂に向かい、ビエリツキは彼らに早めに出発するように勧めたが、どういうわけか彼らはそうしなかった。

 アダムとマレクが山頂に立ち、降りる途中、彼らはベルベカとコワルスキと遭遇します。しかしビエリツキはそのことをまだ知りません。アタックチームは自分達で判断します。ビエリツキはアダムの事を懸念していました。なぜ何時間も無線に出ないのか?

最後に、ベルベカの声が無線で聞こえました。ビエリツキはすぐに尋ねます:

- アダムはどこだ?

- 彼らはすでに降りた。

- すぐそこから下りないと死ぬぞ!

 数時間後、他の2人は頂上から下降しました。トマシュ・コワルスキが無線に出ました。彼の声には恐れもパニックもない。彼は助けを求めることもない。まるでレストランに座っているかのように話します。

 クシストフはトマシュにすべてうまくいくだろうと言いますが、しかし、彼はそれを自分で信じていませんでした。彼はトマシュが決して戻らないことを知っていました。彼にはもう希望がありませんでした。

 トマシュはクシストフに、すべて上手くいっていると伝え、自分でそう信じています。しかし、彼の体は既に低体温状態にあり、脳は本来の機能を果たしていませんでした。

- トマシュ、どうしている?

- 何もしていません...私は進みます...

- マチェイを見かけたか?

- どこかで...私は思う...それは...

- 手袋はあるか?

- 一つ(沈黙)。もう一つは無くなった。

 遠征後、コワルスキの家族は遠征隊隊長としてクシストフ・ビエリツキが任務を果たさなかったとポーランド山岳協会に訴えました。

 ビエリツキは答えます。 - いかなる論争にも加わるつもりはない。彼らには起こったことを評価する権利があります。私は息子を失った両親の痛みを、想像することしかできません。

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ブロードピーク遠征から帰国後、報告会にて

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 最近、クシストフは2018年1月にナンガパルバットで亡くなったトマシュ・マツキェビッチの夫人であるアンナ・ソルスカのインタビューを読んだ。その内容は、救助活動前にk2登山隊からヘリを飛ばせたのではないかというもので、クシストフは申し訳なく思っています。しかしビエリツキがソルスカと会うならば、彼にはそのようなヘリは無かったと言うことになるでしょう。

 私たちのコミュニティでは、トマシュは疎遠な存在でした。私達と山岳協会でトレーニングを共にしました。様々なトレーニングの後、信じられないほど頑固で強く、私は彼の頑健さに感心しました。 ナンガパルバットは彼にとって「聖杯」だったのです。(訳者注:原文ではGraalem 、アーサー王伝説に出てくる財宝である聖杯を意味する) 私は彼の行動を見守っていましたが、彼とエリザベスがうまく高度順化できず山頂を目指したときに少し不安に思いました。

 奇跡的にパキスタン大使館協力の下、救助隊を組織することに成功した。陸軍は6000m以上の高度は飛べないと言ってきたので、トマシュを収容する方法はありませんでした。仕方なかったのです。

 アンナ・ソルスカ夫人は、私は隊員を危険にさらすことはできず、救助隊を送ることができなかったことを知らなければなりません。私は送りたくは無かった。私は誰か救助活動に行きたいか皆に尋ね、ほとんどの隊員が手を挙げた。そのとき初めて、私は誰かを任命する機会があることを知りました。

 キンスホーファールートの通称「鷹の巣」まで、エリザベートだけで下降するのは不可能です。これが実現できたのは、女性はよりよく順応し、より精神的な強さがあったからでしょう。

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 私は山の中でもう戻れないだろうという状況になったことはありません。1988年ローツェ遠征中には最も重要な経験をしました。整形外科に処方されたコルセットを着用して登っていましたが、低体温症になりかけ、時折、意識を失うかのような感覚を覚えました。下りる度に、ひどい激痛が走りました。

 同僚が双眼鏡で私を見ており、彼らは私がゆっくり歩いているのを見ました。私に向かって小さな黒い点が第2キャンプから出発したのが見えました。誰かが私の方へやって来るという事実は私に大きな力を与え、そしてついにテントにたどりつきました。

 私のキャリアの中で後悔は何もありません。私が繰り返さないことが一つ、あります。ナンガパルバット遠征です。私は一人で、山を完全に知っているわけではありませんでした。私を待つことになっていた遠征隊は登山を終えて帰国していました。私は前に進むべき「シンボル」を探していました。そして私は見つけました。 美しい太陽が輝いていたんです。

 6200 mで、私は大きな危機を迎えました。私の顎にできた潰瘍はとても痛く鎮痛剤を飲みました。それから私は昏睡状態に陥り、幻覚が始まりました。私は過去の自分を見ました、私の子供の頃からの情景が目の前で点滅しました。その後、今までの人生が幻覚として見え、24時間が経過しました。

 私がナンガ・パルバットから戻ってこなければ、皆に狂人呼ばわりされるでしょう。そして彼らは正しいでしょう。

 しかし、私は戻ってきました。
(訳者注:クシストフ・ビエリツキは1996年、8000m峰14座めとしてナンガパルバットに単独登頂を果たしている)

 おかしいと思われるでしょうが、サンダル履きでガッシャブルム近くのベースキャンプにたどり着いたことを覚えています。あなたがこのタイプの履物で氷河の上を行くことができるか、誰もが疑問に思うでしょうが、保証しますよ。可能です。とにかく、私たちはさまざまなことに賭けていました - 誰もが水なしで、食料なしで山頂に立てるか...私たちは様々な愚かな考えを持っていました。

 今日、人々は何も拒否することはできません。世界はこの点で絶望的です。誰もがいろいろな物を持っている必要があります、それはなぜかは、わかりません。私は何かで、ベルリンには人が必要とするよりも7倍以上の商品があると読んだことがあります。

私は息子との会話を覚えています。息子に言いました:

- 私が10歳の頃、家には電気が無かったんだよ。

- テレビをどうやって視たの?

- テレビなんか無かったよ。

- どうやって生きてたの?

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1950年代に撮影された、ビエリツキ一家


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 先のK2冬季遠征の間、私は世界が変わったことを感じました。私は山で数千枚の写真を撮影しました。その中で、1枚も「自撮り」を撮っていません。私の時代だったら、誰かが「自撮り」を始めたら、同僚は脳に酸素を取り込まなければと思うでしょう。 (「おい、大丈夫か?」)。

最近私はラジオでジャーナリストのWaglewski氏と対談しました。彼は尋ねました

- あなたは本当に携帯電話を持っていないんですか?

- はい。私にとってそれが何だというんでしょう。 グジェゴシュ・マルコフスキ(Grzegorz Markowski 訳者注:ポーランドの著名歌手)も持っていないと聞きました。そのために私たちは会うことができません、約束する方法がないからです。

 私たちがソーシャルメディアですることといえば、ナルシズムに関連したものです。我々は自分の人生を自画自賛します。幸せになるために、料理の写真や海岸にいることや、女の子と別れたことを知る必要はありません。

 しかし、もちろん文明の発達に反対するわけではありません。登山隊の隊員がインスタグラムに写真を、ある者は写真をFacebookに、ある者はライブ中継していても、私はまったく気にしません。それは私の世界ではないということです。

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 メディアはK2登山隊への期待を膨らませました。 「我々だけがそこに立ちいることができる」、「国家登山隊」、「ポーランド人のためのK2」。選ばれた国は山に勝利する。すべてが国民的なものです。まもなく、窓の外の茂みや家の前の塀まで国民的なものになるでしょう。

 私はいまだにデニス・ウルブコと友情を保っています。私に知らせずに彼は一人で山頂を目指しました。私は緊張を和らげ、デニスを守ろうとしましたが、不信感がありました。私は彼に言いました。

- 聞いて下さい、あなたが望むなら、何でもインタビューの中で話しなさい。しかし遠征の後で、今ではない。それは登山隊に悪い影響を与えるんだ。

 しかし彼は聞かず、ソーシャルメディアで私たちの活動を批判しました。子供達も本当に怒っていました。質問がありました。なぜ彼は自分自身でポーランドの市民権を持ちながら「ポーランド人」を批判するのですか? 私はこんな声を聞きました。

- 私がフランスの登山隊のために参加したならば、フランスについてそのようなことを書くことはないだろう。

 次回のK2遠征を控えて、組織上の問題は資金調達であると言われています。そうではありません。私たちは容易に資金を調達できるでしょう。最大の問題は、私たちが十分に強力なポーランド人を集められるかどうかです。いくつもの課題があります。

 1つの選択肢はチームを分けることです。 昨年、私は登山隊を2つのグループに分けることは倫理的ではないと思っていました。今は、登山隊を分割することが唯一の希望と考えています。

 私がまた隊長になるかどうかはわかりません。申し出があれば、私はおそらく拒否しないでしょう。けれど・・・知るよしもありません、k2を登るには弱すぎる登山隊を、私は率いたくはありません。

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 ビエリツキは長年の経験から、登山隊を管理するのは簡単だと主張しています。誰もが彼の意見に賛同しているわけではありません。

 ニューズウィーク誌の記事で、クライマーの一人は匿名で語っています。クシストフはグジェゴシ・ラトー(Grzegorz Lato 訳者注:ポーランドのサッカー選手出身の政治家)に似ています。素晴らしい選手であり、PZPN(ポーランドサッカー協会)のボスです。あまりにも自分の願望にフォーカスを当てすぎている、と。

 ビエリツキはこの記事について大声で笑った。彼によれば、それは昔のことだといいます。隊長として登山隊を率い始めたとき、彼自身の登山タクティクスを実行しました。アンナプルナに10人で遠征した際には、まず第一に彼が山頂に立たなければなりませんでした。他の9人は「それから」でした。

 しかしそれは変化しました。彼が語るように、隊長は隊員以上に精神的負担も大きいものです。彼はすでに自分やるべきことに専念しています。

 しばらく前のこと、長く面白い幸せな人生を送る方法を思いつきましたが、もう先は長くありません。幾つかのアイデアは実行中です。年をとっても、彼は湖の岸辺で長い時間を過ごすつもりはありません。古い探検を思い出すことも、古い写真帳を閲覧することもしません。本当の想いは窓の外にあると常に主張しているので、テレビの前で冬の夜を過ごすことはないでしょう。十分な体力がある限り、山に行くでしょう。彼にとっては、それが幸せなのです。

 妻はクシストフと一緒に映画館に行くのが難しいと不平を言います。彼のせいではありません。ビエリツキは微笑みながら言います。

- 眠くならない映画を監督する奴がいない。それだけです。

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以上引用おわり

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5~6月お仕事日記

ブログ更新サボリにサボって早6月。

5月×日

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会社から退出時、夕暮れの空にでかい虹。

現場仕事も、ガイド仕事も、安全に進みますように。

 

5月×日

 慣れない決済書類を書き続けた工事機械の修理もようやく終わり、宮城県の某メーカーに引き取りに行く。

 昇進して出張に出してもらえなくなった親方、久々のトラック運転でイキイキとハンドルを握る。

 機械も無事収容、帰路は私がトラックを運転していると、親方が宮城県秋保のスーパー「さいち」でおはぎを買うという。

 トラックは進入できない細い道にあるとのことで、私は広い車道で待機。親方に買い物を一緒に頼む。

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「さいち」のおはぎ、実家の老母、ウチの娘、カミさんにも大好評で6個あっという間に無くなる。美味しいおはぎでした。

 

6月×日

 ガイド資格取得してまもなく買った、全皮革製のハンワグの登山靴。既にソールも一度張り替えているが、踵の縫製がほつれ始めた。

 お世話になっている登山用品店マウンテンゴリラに相談すると、修理は可能だという。

 靴コーナーに並んでいる現代の登山靴を眺め、これを良い機会と考え直して今時の登山靴を購入。条件は「飯豊・朝日を荷物背負って歩ける靴。」

 で、選んだのは、

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スカルパ社の登山靴。ローバー、ハンワグと履き続け、今回はスカルパを相棒に選択。現場作業だけにくすぶってないで、これ履いてバリバリ歩くよ。

 

6月×日

父の日。

カミさんからは、

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夕食時に私だけ西瓜が食卓に出される。安上がりだけど、私の弱点を上手く突かれました。

 

6月×日

 庄内で震度6の大地震があっても、天変地異があっても、現場仕事は予定どおり。

 福島県の約30万の人口を持つ某市が今日の現場。

 民家密集地のど真ん中に雑木林がある。昼飯時、林のそばに駐車したトラックに近づくと、無数の桑の実が落ちていた。

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 これだけの街中なのに、誰も桑の実に気がついていない様子。

 誰の目にも触れずに、沢山の美味しい桑の実が成り、朽ちていく。

 

6月×日

 土曜日。みんな休暇を取っており、今日は私の一人作業。

 米沢市に行く途中、山形では知られた たいようパン の直売所に寄り道。

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コッペパンの王道、ピーナッツコッペを買う。200円と割高だが、喰ってわかるパンの香ばしさとピーナツバターのボリューム。満足満足。

3時の一服のためにスイートポテトも購入。仕事してカロリー消費します。

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金比羅樽流し 山形県中山町 川向地区 2019

金比羅信仰。

香川県琴平町「金刀比羅宮」を敬う信仰として水上安全祈願から江戸時代以降は諸願成就の神様となり、全国各地に「請」が組織され参拝が行われた。

この信仰が北前船で日本海、最上川を経由して山形県内各地へと伝わったのが「樽流し」の風習である。

しかし山形県内でもその風習は次々と途絶し、今現在は山形県中山町 川向地区に残るのみとなった。以前から見学したいと思いつつなかなか機会が得られなかったのだが、令和元年の6月1日、ようやく見学できる機会を得た。

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樽流し祭礼を控えた、中山町川向地区の「金比羅山」石碑。

石碑には大正三年と刻まれている。樽流し行事に関する資料は、大正三年の古文書が最古のものでそれより古いものは残されていない。山形県内の金比羅山石碑の年号が寛政年間(1789~1800)に集中していることから、それ以降に始まった行事と推測されている。

行事は朝9時から、長崎地区の天台寺門宗光秀院住職(地元の人は法印と呼ぶ)の法螺貝と読経、関係者の玉串奉納と続く。

それから樽、注連縄を持ち出して目前を流れる最上川に流される。

この行事は請の方も高齢のお二人だけとなり、途絶が懸念されたが、「樽流保存会」が結成され、中山町町長、山形県観光課課長も参列する行事になっていた。

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請の関係者、町長、県の課長も参列する行事とはいえ、ときおり農作業や地元の方の車が通る度、通行スペースを空けなければならない。ドライバーは祭事には全く関心が無いそぶりで通過していく。

人々の関心が薄れていく中で、樽流し行事を継続させていった地元関係者皆様の努力に頭が下がる思い。

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流される樽。かつては近隣の長崎地区の樽職人がいたのだが亡くなってしまい、今は山形市内の樽屋から3500円で購入したものを毎年使い回ししている。

 本来は中に酒を入れ、川に流す。下流で拾った人は中の酒を飲み、また酒をつぎ足して流してやるという。文献によっては、つぎ足すなどということもせずそのまま流すことが多かったと記録されている。

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文献では、復活した樽流し行事では樽がなかなか入手できないため、下流で網で樽を回収すると記録されているが、現在は樽にシャックル(U字型の金具)をとりつけ、ロープで結び、カヌーで樽を曳航する形式で行事が進められる。樽が流れる演出である。地元の方の話によれば、樽を流す場所は昔は水流があったのだが、今は水の流れが緩やかすぎて樽が流れていかないのだという。

 樽と注連縄を流す様子を動画に記録しました。↓

 

樽と注連縄を流し終えた後、石碑の前の捧げ物をみてみました。

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米と塩、御神酒とスルメです。スルメは千切って「御護符で皆に配れや」と関係者の方が指示していました。仏教では禁葷食のネギがささげられていることが印象に残ります。こちら中山町は山形で有名な「芋煮会」発祥の地と呼ばれ、ネギも地元の産品なので捧げられているのでしょう。

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奉納金を持参してお伺いしたところ、このような手ぬぐいを頂きました。樽曳航のカヌーにも貼られていた手ぬぐいです。川の流れと樽をシンプルに表現したデザインが秀逸です。また芳名帳に記入したところ、後日丁寧な御礼のハガキを頂きました。関係者皆様のご健康と行事の継続をお祈りいたします。

参考文献:山形県教育委員会編『山形県の民俗芸能』1995、野口一雄著『山形県の金毘羅信仰』2004、川向金比羅請中・中山町川向金比羅樽流保存会作成パンフレット『中山町川向金比羅樽流し』2019

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初夏キャンプとブナの森探検 2019 第2日目

初夏キャンプとブナの森探検、2日目。

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キャンプ場の朝。早めに起きて、出会った所員やスタッフの皆さんに昨夜のスタッフミーティング欠席で平謝り。

本日の朝食はパスタ。

所員の工藤さんが作り方を説明、

「パスタはこう、きゅっとひねって手を離すとパラッと鍋にひろがりますね」

と説明すると、小学生の女の子たちの表情もニッコリする。ああ、女の子たちはやっぱり料理好きなんだなあと感じる。

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お楽しみのパスタを入れる瞬間。残念ながら表情まで公開できませんが、みんな楽しそう。

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初めて出会ったお友達と慣れない手つきで作るサラダ。

朝食後はテント撤収。

さあ手伝いだ!と私も張り切って参加者のテント撤収を手伝う。が・・・

何気なくテントのペグを抜いていると、そばで見ていた小学校低学年の女の子が「私も抜きたかった・・・」とつぶやく。

私にとっては何気ない撤収作業も、興味津々な子供達にとっては楽しそうな「遊び」なのだった。反省。

 

テント撤収後はバスに乗り、皆で月山山麓、山形県自然博物園を訪問。ここでブナ林ガイドに引率され、ブナの森を歩きます。

Dsc00668ブナの原生林に入ります。

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 昨日までは無かったクロサンショウウオの卵にみんな興味津々。

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ブナの倒木の頭上には「ギャップ」と呼ばれる空間。

差し込む日光を頼りに、様々な植物の生存競争が繰り広げられます。この空間が緑で埋まる頃には、私はもう生きていません。

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新緑のブナ林を歩いた後、好天の下、博物園で昼食の弁当をいただく。

親子参加の皆様、子供達、所員やスタッフの皆様、おつかれさまでした。

楽しいキャンプは終わった。帰宅後、シャワーを浴びてから実家の老母の様子を確認。

それから自宅に戻り、パソコンとスマホを机に並べて明日の仕事のプランニング。明日は大型トラックで山形から東京都内を日帰り往復しなければならない。首都高を走るか、圏央道と環八を走るか詳細検討。明日からまた現場作業員の日々です。

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初夏キャンプとブナの森探検 2019 第1日目

山形県朝日少年自然の家企画「初夏キャンプとブナの森探検」に久々のフル参加。

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朝日少年自然の家敷地内のキャンプ場にて、参加者にテント設営を説明する山口さん

 所員の山口さんからテント設営レクチャーを受けた後、参加者たちのテント設営を手伝う。

 私「このポールをそのスリーブに差し込んで・・・」

 参加者「ポール???」

 親子参加のお母様方も、子供達もキャンプ初心者。

 「この棒を、その布地がトンネルみたいになったところに差し込んで下さい」

 普段何気なく使っているキャンプ・テント用語も、わかりやすく置き換えて伝える。

第1日目の夕食は野外炊爨として、

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薪を使ってカレーを作ります。

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米もカレーも、焚き火で調理。男の子達は面白がってガンガン焚き火を燃やして強火になります。

親子参加でお父様お母様が付き添いの班は焚き火も任せられる一方、小学生の女の子だけの班がいるので、私はこちらをフォロー。

問題は鍋で米、御飯を炊くこと。作り方は所員の工藤さんがきちんと事前に説明してくれたのだが、いざやってみると水加減など不安になるらしい。

登山をやっているということで「大滝さん、これくらいでいいですかね」といろんな人から水加減を聞かれる。

私、たしかに学生の山岳部時代は生米をコッヘルで炊いてましたが、最近はめんどくさいのでアルファ米(お湯に浸すと炊いた御飯同様になる加工米)しか使ってませーん。

とは弱音も吐けず、昔の記憶を頼りに各班の米炊きの様子をみる。

面白がって薪をガンガンくべる男の子たちと違い、女の子たちはおっかなびっくりなので、焚き火の調節から米の入った鍋の様子見まで私が面倒をみる。

参加者皆さん、米の炊きあがり、どのタイミングで鍋を下ろしたらいいか迷うようだ。「はじめちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いても蓋とるな」と言われるが、ある程度水蒸気が出なくなったら私は蓋をとって様子を見る。それから匂い。焦げ臭い匂いになる前に火から下ろす。

別の班のお父様から「もう鍋を下ろしてもいいでしょうか」と訪ねられる。中を見ると『蟹の穴』もできてばっちり。下ろして蒸らすことを指示。

さて女の子たちの班に戻る。水加減が少なかったのか、鍋から水蒸気が出ない。一度蓋をとるが、米につやがありすぎ(まだ水分多め)なので「まだもう少しだよ」と答える。

それを2、3回繰り返しただろうか。女の子たちも待ちきれない様子で、後ろを振り向くと、

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↑これくらいの鋭い視線が女の子6人分、私に集中している。やべえ、この鍋の米の炊きあがり絶対失敗できねえ!

中をみても「蟹の穴」はできてない。私の経験と勘を頼りに鍋をおろし、味見させてもらう。

少し堅めだけど、中の米は芯もなく完成状態。「できあがりだよー」と、もうしゃもじを持って待ち構えている女の子達に引き渡す。

炊事場を巡回して再び女の子達の班をみてみると、所の次長が「女の子達の御飯、全然焦げてない」とびっくりしている。「やっぱり女の子だから水加減上手だねー」火加減を見続けたことは知らないふりして、私も一緒に誉めてあげる。

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所員・スタッフ用の夕食。柏倉さんに美味しく作ってもらいました。

順調に夕食作り・食事もおわり自由時間。

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私物を取りに自然の家駐車場に行くと、夕暮れの蔵王連峰があまりにも美しい。

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夕暮れのキャンプ場。私のねぐらは一番奥、エスパースマキシムミニ。

夜はお楽しみ、盛大なキャンプファイヤー。

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自然の家で提供してくれたのが、スモア。マシュマロを焼いてクラッカーと板チョコで挟んで食べるお菓子だ。

キャンプファイヤーも終わり、テントに戻って一休み・・・とシュラフに横になったのがまずかった。

今週の仕事の疲れか、そのまま眠り込んでしまった。スタッフミーティングが22時から開始だったのだが、目が覚めて時計を見るともう23時。

後で伺った話では、一緒に参加していたキャンプ協会の石井さんも気を遣って下さって私を起こさなかったとのこと。

「みなさんすみませーん」と思いつつ、シュラフの中で再び眠り込む。

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