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私は山で涙を流さない クシストフ・ビエリツキ

2019年ピオレドール、生涯功労賞「ワルテル・ボナッテ賞」にポーランドのクシストフ・ビエリツキ (Krzysztof Wielicki) が選ばれました。

これに先立ち、ポーランドの大手ポータルサイトOnetにDariusz Faron記者の 『私は死ななかった』と題する、クシストフ・ビエリツキの半生をふり返るインタビュー記事が掲載されました。

Nigdy nie szedłem po śmierć by onet 2019.3.15

以下引用開始

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ドンブローヴァ・グルニチャ、ポゴリア。

 数ヶ月もすれば、水着に日焼け止め、タオルを身にまとった観光客が都会から押し寄せるでしょう。しかし今は時間が止まったかのようです。湖は凍り、森の上には赤れんが造りの家々が並んでいます。その中に、広い庭園のある美しいモダンな家があります。

 クシストフ・ビエリツキが中に案内してくれます。

 中に入ると、印象的なリビングルームがあります。一方の棚には山岳文学(クシストフの著書)、もう一方にはミステリー小説。壁に掛けられた世界地図(おそらくマナスルかK2と思われる)。

 一見したところ、伝説のヒマラヤニストに招かれたとは想像も出来ないでしょう。最近、ロシアの登山家がここを訪れた際にもクシストフは聞かれました「ロープやピッケルはないんですか」ありません。ビエリツキがその登山の功績で得たメダルの類いを捜そうとしても無駄です。カタジナ(夫人)は彼に言いました:「ただ壁があるだけですよ。」そこで彼は屋根裏部屋に連れて行かれました。

 窓の外の美しい太陽と湖まで、ほんの数分。クシストフはライトブルーのジャケットを着用し、少し歩くことを勧めました。

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 80年代初頭、ニューヨークで射殺されたジョン・レノンのために世界中が哀悼の意を表していました。 チェスワフ・ミウォシュ(訳者注:共産主義体制下ポーランドの反体制派の詩人)がノーベル賞を受賞しました。ポーランドは灰色の時代でした。ラジオからはコラ(訳者注:女性ロックシンガーでポーランド・ロックのカリスマ的存在)の曲が流れていました。

 クシストフ・ビエリツキとレシェック・チヒが、エベレストの冬季登頂に成功しました。それは世界で初めての、冬の世界最高峰登頂でした。ビエリツキにとってそれは自由を意味していました。スポーツパスポートを使えば、鉄のカーテンを往来することができたのです。妻は遠征に出かける前に言いました「あなたにはチャンスがあるのよ、行ってらっしゃい」。翌年にはカラコルムで成功を収め、他の8000m座を目指すようになります。やがて彼は、支払うべき代償がいかに高いものか、気づかされることになります。

- 私は家族と別れました。幾度も私は数ヶ月間、家を空けていました。家族はそのような状況にどれだけ耐えられることでしょう。私には山がありましたが、家族を失いつつあることに気付きませんでした。家族よりも山が重要でした。

娘と人生の話題について触れるとき、彼女は時々尋ねます。

- お父さん、そのときどこにいたの?。

 現在、彼は人生を別の観点から見ています。彼には10歳の息子がおり、もう危険なことはしないと話しています。遠征に赴く前には、得るものと失うもの考えます。遠征隊に参加する機会はますます減りつつあります。

 ビエリツキ家の玄関には目印があります。郵便受けとゴールポストです。クシストフの息子はサッカーをしています。週4回の練習、土曜日の練習試合、日曜日の公式試合。息子はレヴァンドフスキ(訳者注:ポーランドのサッカー選手)のような有名選手になって高級車を運転すると父に語ります。彼はまた別の人生プランを持っています。もしサッカー選手にならなければ、ユーチューバーになりたがっています。クシストフは、何やら沢山の「いいね」を集める仲間たちという位しか、ユーチューバーのことがわかっていません。

- 私は息子が成長するのをみつめてきました。彼が世界にどのように興味を持っているか、どのように変化しているか・・・私にとって最も悲しいことは(おそらくそれは適切な表現ではありませんが)娘と息子の思春期のことです。以前、子供たちが何年生か尋ねられたとき、私は答えることができませんでした。私は言いました「5年生か、6年生かな」より長い遠征に出かけたとき、娘たちは私の首にぶら下がっていて大泣きしました。どうすればいいかわかりませんでした。私の目にも涙が流れました。結局、私はこの苦痛を軽減する方法を思いつきました。夜中に出発したんです。朝、子供たちは母親に尋ねました。

- お父さんはどこ?

- 遠征に行ったのよ。

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 ビエリツキは決して山で泣いたことがないと主張する。山岳協会会長と一緒にセリーナ・ククチカの家に行き、イエジ・ククチカの死を告げるとき、彼は涙を流しそうになりました。しかし彼らは何も言う必要はありませんでした。セリーナはすでに全てを知っていました。多くの涙が流れました。ククチカの息子マチェクは、学校から帰ってきて何が起こったのか知りました。彼はランドセルを床に投つけ、部屋に閉じこもりました。

 ビエリツキは別の話をします。ワンダ・ルトキエビッチの行方不明を伝えるため、アンジェイ・ザワダ達と母親を訪ねました。彼らは何も言えなかった。母親が彼らを見た時、言いました。

「わかってます、わかってますよ・・・ワンダは修道院にいるんです」

 脳が悲劇的な知らせから自衛するのでしょう。ワンダの母親はほんの一瞬で物語を作り上げ、彼女はワンダの生存を信じていたのです。

 登山家達の死に際して、私たちの誰かがドアをノックして、家族に知らせるのは伝統でした。時代は変わりました。現在では家族がテレビのニュース速報のテロップで悲劇を知る可能性があります。

(中略)

 ビエリツキは長い間、2013年の冬季ブロードピーク遠征でのマチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキの死について語ることはありませんでした。彼によれば、当時はこんな状況でした。

アルトゥール・ハイゼルが隊を率いる予定でしたが、彼は予想外にもクシストフに電話してきました。

- 私はもう十分やったんだ、行ってくれませんか。

- 行くよ。

 ハイゼルは(アダム)ビエリツキ、マレク、コワルスキの3人の名前のカードを彼に渡しました。クシストフは一人欠けていると考えました。1988年、単独でマチェイ・ベルベカがいわゆる前衛峰に到達したことを思い出したのです。彼は電話しました。

- マチェイ、登頂するチャンスがあるぞ。行くかい?

- 私はもういいよ。別の所に行く予定があるんだ。

しかし3週間後、ベルベカは電話をかけ直した。

- 私は行くよ。

カラコルム。
 ビエリツキはあたかも悪い予感を打ち消すかのように、神経質にテントの周りを歩き続けました。何かがおかしい。4人が山頂に向かい、ビエリツキは彼らに早めに出発するように勧めたが、どういうわけか彼らはそうしなかった。

 アダムとマレクが山頂に立ち、降りる途中、彼らはベルベカとコワルスキと遭遇します。しかしビエリツキはそのことをまだ知りません。アタックチームは自分達で判断します。ビエリツキはアダムの事を懸念していました。なぜ何時間も無線に出ないのか?

最後に、ベルベカの声が無線で聞こえました。ビエリツキはすぐに尋ねます:

- アダムはどこだ?

- 彼らはすでに降りた。

- すぐそこから下りないと死ぬぞ!

 数時間後、他の2人は頂上から下降しました。トマシュ・コワルスキが無線に出ました。彼の声には恐れもパニックもない。彼は助けを求めることもない。まるでレストランに座っているかのように話します。

 クシストフはトマシュにすべてうまくいくだろうと言いますが、しかし、彼はそれを自分で信じていませんでした。彼はトマシュが決して戻らないことを知っていました。彼にはもう希望がありませんでした。

 トマシュはクシストフに、すべて上手くいっていると伝え、自分でそう信じています。しかし、彼の体は既に低体温状態にあり、脳は本来の機能を果たしていませんでした。

- トマシュ、どうしている?

- 何もしていません...私は進みます...

- マチェイを見かけたか?

- どこかで...私は思う...それは...

- 手袋はあるか?

- 一つ(沈黙)。もう一つは無くなった。

 遠征後、コワルスキの家族は遠征隊隊長としてクシストフ・ビエリツキが任務を果たさなかったとポーランド山岳協会に訴えました。

 ビエリツキは答えます。 - いかなる論争にも加わるつもりはない。彼らには起こったことを評価する権利があります。私は息子を失った両親の痛みを、想像することしかできません。

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ブロードピーク遠征から帰国後、報告会にて

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 最近、クシストフは2018年1月にナンガパルバットで亡くなったトマシュ・マツキェビッチの夫人であるアンナ・ソルスカのインタビューを読んだ。その内容は、救助活動前にk2登山隊からヘリを飛ばせたのではないかというもので、クシストフは申し訳なく思っています。しかしビエリツキがソルスカと会うならば、彼にはそのようなヘリは無かったと言うことになるでしょう。

 私たちのコミュニティでは、トマシュは疎遠な存在でした。私達と山岳協会でトレーニングを共にしました。様々なトレーニングの後、信じられないほど頑固で強く、私は彼の頑健さに感心しました。 ナンガパルバットは彼にとって「聖杯」だったのです。(訳者注:原文ではGraalem 、アーサー王伝説に出てくる財宝である聖杯を意味する) 私は彼の行動を見守っていましたが、彼とエリザベスがうまく高度順化できず山頂を目指したときに少し不安に思いました。

 奇跡的にパキスタン大使館協力の下、救助隊を組織することに成功した。陸軍は6000m以上の高度は飛べないと言ってきたので、トマシュを収容する方法はありませんでした。仕方なかったのです。

 アンナ・ソルスカ夫人は、私は隊員を危険にさらすことはできず、救助隊を送ることができなかったことを知らなければなりません。私は送りたくは無かった。私は誰か救助活動に行きたいか皆に尋ね、ほとんどの隊員が手を挙げた。そのとき初めて、私は誰かを任命する機会があることを知りました。

 キンスホーファールートの通称「鷹の巣」まで、エリザベートだけで下降するのは不可能です。これが実現できたのは、女性はよりよく順応し、より精神的な強さがあったからでしょう。

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 私は山の中でもう戻れないだろうという状況になったことはありません。1988年ローツェ遠征中には最も重要な経験をしました。整形外科に処方されたコルセットを着用して登っていましたが、低体温症になりかけ、時折、意識を失うかのような感覚を覚えました。下りる度に、ひどい激痛が走りました。

 同僚が双眼鏡で私を見ており、彼らは私がゆっくり歩いているのを見ました。私に向かって小さな黒い点が第2キャンプから出発したのが見えました。誰かが私の方へやって来るという事実は私に大きな力を与え、そしてついにテントにたどりつきました。

 私のキャリアの中で後悔は何もありません。私が繰り返さないことが一つ、あります。ナンガパルバット遠征です。私は一人で、山を完全に知っているわけではありませんでした。私を待つことになっていた遠征隊は登山を終えて帰国していました。私は前に進むべき「シンボル」を探していました。そして私は見つけました。 美しい太陽が輝いていたんです。

 6200 mで、私は大きな危機を迎えました。私の顎にできた潰瘍はとても痛く鎮痛剤を飲みました。それから私は昏睡状態に陥り、幻覚が始まりました。私は過去の自分を見ました、私の子供の頃からの情景が目の前で点滅しました。その後、今までの人生が幻覚として見え、24時間が経過しました。

 私がナンガ・パルバットから戻ってこなければ、皆に狂人呼ばわりされるでしょう。そして彼らは正しいでしょう。

 しかし、私は戻ってきました。
(訳者注:クシストフ・ビエリツキは1996年、8000m峰14座めとしてナンガパルバットに単独登頂を果たしている)

 おかしいと思われるでしょうが、サンダル履きでガッシャブルム近くのベースキャンプにたどり着いたことを覚えています。あなたがこのタイプの履物で氷河の上を行くことができるか、誰もが疑問に思うでしょうが、保証しますよ。可能です。とにかく、私たちはさまざまなことに賭けていました - 誰もが水なしで、食料なしで山頂に立てるか...私たちは様々な愚かな考えを持っていました。

 今日、人々は何も拒否することはできません。世界はこの点で絶望的です。誰もがいろいろな物を持っている必要があります、それはなぜかは、わかりません。私は何かで、ベルリンには人が必要とするよりも7倍以上の商品があると読んだことがあります。

私は息子との会話を覚えています。息子に言いました:

- 私が10歳の頃、家には電気が無かったんだよ。

- テレビをどうやって視たの?

- テレビなんか無かったよ。

- どうやって生きてたの?

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1950年代に撮影された、ビエリツキ一家


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 先のK2冬季遠征の間、私は世界が変わったことを感じました。私は山で数千枚の写真を撮影しました。その中で、1枚も「自撮り」を撮っていません。私の時代だったら、誰かが「自撮り」を始めたら、同僚は脳に酸素を取り込まなければと思うでしょう。 (「おい、大丈夫か?」)。

最近私はラジオでジャーナリストのWaglewski氏と対談しました。彼は尋ねました

- あなたは本当に携帯電話を持っていないんですか?

- はい。私にとってそれが何だというんでしょう。 グジェゴシュ・マルコフスキ(Grzegorz Markowski 訳者注:ポーランドの著名歌手)も持っていないと聞きました。そのために私たちは会うことができません、約束する方法がないからです。

 私たちがソーシャルメディアですることといえば、ナルシズムに関連したものです。我々は自分の人生を自画自賛します。幸せになるために、料理の写真や海岸にいることや、女の子と別れたことを知る必要はありません。

 しかし、もちろん文明の発達に反対するわけではありません。登山隊の隊員がインスタグラムに写真を、ある者は写真をFacebookに、ある者はライブ中継していても、私はまったく気にしません。それは私の世界ではないということです。

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 メディアはK2登山隊への期待を膨らませました。 「我々だけがそこに立ちいることができる」、「国家登山隊」、「ポーランド人のためのK2」。選ばれた国は山に勝利する。すべてが国民的なものです。まもなく、窓の外の茂みや家の前の塀まで国民的なものになるでしょう。

 私はいまだにデニス・ウルブコと友情を保っています。私に知らせずに彼は一人で山頂を目指しました。私は緊張を和らげ、デニスを守ろうとしましたが、不信感がありました。私は彼に言いました。

- 聞いて下さい、あなたが望むなら、何でもインタビューの中で話しなさい。しかし遠征の後で、今ではない。それは登山隊に悪い影響を与えるんだ。

 しかし彼は聞かず、ソーシャルメディアで私たちの活動を批判しました。子供達も本当に怒っていました。質問がありました。なぜ彼は自分自身でポーランドの市民権を持ちながら「ポーランド人」を批判するのですか? 私はこんな声を聞きました。

- 私がフランスの登山隊のために参加したならば、フランスについてそのようなことを書くことはないだろう。

 次回のK2遠征を控えて、組織上の問題は資金調達であると言われています。そうではありません。私たちは容易に資金を調達できるでしょう。最大の問題は、私たちが十分に強力なポーランド人を集められるかどうかです。いくつもの課題があります。

 1つの選択肢はチームを分けることです。 昨年、私は登山隊を2つのグループに分けることは倫理的ではないと思っていました。今は、登山隊を分割することが唯一の希望と考えています。

 私がまた隊長になるかどうかはわかりません。申し出があれば、私はおそらく拒否しないでしょう。けれど・・・知るよしもありません、k2を登るには弱すぎる登山隊を、私は率いたくはありません。

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 ビエリツキは長年の経験から、登山隊を管理するのは簡単だと主張しています。誰もが彼の意見に賛同しているわけではありません。

 ニューズウィーク誌の記事で、クライマーの一人は匿名で語っています。クシストフはグジェゴシ・ラトー(Grzegorz Lato 訳者注:ポーランドのサッカー選手出身の政治家)に似ています。素晴らしい選手であり、PZPN(ポーランドサッカー協会)のボスです。あまりにも自分の願望にフォーカスを当てすぎている、と。

 ビエリツキはこの記事について大声で笑った。彼によれば、それは昔のことだといいます。隊長として登山隊を率い始めたとき、彼自身の登山タクティクスを実行しました。アンナプルナに10人で遠征した際には、まず第一に彼が山頂に立たなければなりませんでした。他の9人は「それから」でした。

 しかしそれは変化しました。彼が語るように、隊長は隊員以上に精神的負担も大きいものです。彼はすでに自分やるべきことに専念しています。

 しばらく前のこと、長く面白い幸せな人生を送る方法を思いつきましたが、もう先は長くありません。幾つかのアイデアは実行中です。年をとっても、彼は湖の岸辺で長い時間を過ごすつもりはありません。古い探検を思い出すことも、古い写真帳を閲覧することもしません。本当の想いは窓の外にあると常に主張しているので、テレビの前で冬の夜を過ごすことはないでしょう。十分な体力がある限り、山に行くでしょう。彼にとっては、それが幸せなのです。

 妻はクシストフと一緒に映画館に行くのが難しいと不平を言います。彼のせいではありません。ビエリツキは微笑みながら言います。

- 眠くならない映画を監督する奴がいない。それだけです。

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以上引用おわり

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