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レニングラード包囲戦 クライマー秘話

第二次世界大戦、ソ連に侵攻したドイツ軍は約900日にわたりレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)を包囲。

いわゆるレニングラード攻防戦において、重要な役割を果たした登山家達のエピソードが公開されました。

«Невидимый» Ленинград: как подвиг альпинистов помог спасти город от фашистов by Tvzvezda 2019.5.7

以下引用開始

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「見えない」レニングラード:登山家達がナチスから街を救った偉業

リナ・ダヴィドワ、タチアナ・パヴリコワ

 包囲戦の初日、ドイツ軍はレニングラードに6,000発の焼夷弾を投下した。信じられないほど正確に、密集地帯が爆撃された。その原因は、レニングラードの黄金の支配者-尖塔、ドームが敵の目標物として役立っていたのだ。登山家達は、それらを隠すように命令された。

P1_20200315230701©写真:Russian Look、Globallokopress、alpklubspb.ru

 1942年8月、有名なエーデルワイス山岳部隊(訳者注:ナチスドイツの山岳兵部隊)の兵士たちは、重大な目標であるバクー油田に接近しました。山岳部隊はエルブルス山脈の西にある最も重要な峠に迫り、アブハジアとグルジア(現・ジョージア)占領に理想的な位置にあった。このままでは、ヒトラー率いるナチスドイツ軍はバクー油田攻撃を開始することになる。

 ソ連にとってバクー油田を失うことは、敗戦を意味する。1942年8月、党本部は中央コーカサス山脈の峠を解放するために山岳狙撃部隊を編成し始めました。彼らは、各地から名狙撃手である登山家達を集めなければなりませんでした。伝説的な軍人・登山家であるミハイル・ボブロフが特別な役割を果たしました。

 1937年、15歳のミハイル・ボブロフはスキー回転競技少年の部において、レニングラード選手権を獲得した。1940年には青少年大会で同じタイトルを獲得。このため彼は、登山キャンプ参加の資格を得て、初めてエルブルス地方を訪れ、山に恋をした。
 彼は登山訓練を受け、インストラクターとして短期間働いた。両親は息子の山に対する情熱を真剣には受け止めず、工場で機械工として就職すべきだと主張していた。1941年6月に戦争が勃発、ミハイルと彼の同僚は保留されていたが、ボランティアとしてとにかく最前線に行くことを志願した。

 1941年7月1日、特殊部隊を募集していた将校の前で、ボブロフは近所の知人から学んでいたドイツ語、体力と知識を示し、2日後には若いアスリートはオフタ川の中心部に到着、破壊工作員として訓練が始まった。

 (中略)

 ボブロフと彼の仲間はドイツ軍の道を忍び寄り、国境に向かって移動した。そこにはレニングラード支援者によって作られた要塞があった。若いミハイルはドイツ軍の動きを監視し、情報を軍に送信した。より経験豊富な破壊工作員がドイツ軍にゲリラ戦を仕掛けた。ある夜、ミハイルは機関銃の音で目が覚めた。ドイツ軍は要塞に侵入し、検問を突破していたのだ。銃撃戦が始まった。113人の兵士のうち、生き残ったのは10人ほどだった。彼らは東へ行き、ノヴゴロドを通ってレニングラードに戻った。

 大規模な敗退の後、指揮官は数人の小グループで敵の最前線後方に破壊工作員を送り込み始めた。ボブロフも数回にわたり最前線を越えた。ある日、彼の部隊が作戦から戻ってきた。ソ連軍の陣地に帰着すると、兵士たちは安堵のため息をついた。しかし突然、彼らは砲撃を受け始めた。軍と特殊部隊との連携不足が原因だった。ボブロフはミハイロフスキー城で目を覚ました。戦争中は野戦病院になっていたのである。

 ある日、登山家のアロイス・ゼンバが騒々しく部屋に入ってきた。ゼンバはいわく、「国家記念物保護監督官が、国家機密の任務のために登山家を集めている」

 1941年8月30日、第18国防軍が侵攻、レニングラードと全国各地を結ぶ最後の鉄道線を切断した。9月8日、敵はシュリッセリブルク市を占領し、レニングラードとの通信が途絶した。この日から、北部の首都の包囲戦が始まる。

 包囲戦初日、ドイツ軍はレニングラードに6000発の焼夷弾を投下した。ドイツ空軍機は極めて高い精度で都市機能部を爆撃した。やがて情報がもたらされた。レニングラードの黄金の支配者が敵軍のガイドとして役立ったのだ。光きらめく尖塔、ドームが、敵の大砲にとっては優れた「案内者」だった。

P2_20200315230901©alpklubspb.ru


 それらはすぐに隠されなければならなかった。登山家達が集められました。オルガ・フィルソワ、アリア・プリゴジェバ、アロイス・ゼンバ、ミハイル・ボブロフ。

 登山家が聖イサアク大聖堂に登ることは難しいことではなかった。10日以内に灰色のドームと大聖堂の鐘楼がレニングラードの空から「消失」した。海軍本部がある黄金の尖塔は、覆い隠すことが非常に困難であることが判明した。彼らは重さ0.5トンの巨大なキャンバスカバーを縫い付けた。しかし、構造物にフックを用いることなく、上部に固定することはそれほど簡単ではなかった。アロイスは戦闘で腕を負傷しており、ミハイルはひどい脳震盪からまだ回復しきっていなかった。オルガ・フィルソワが解決策を見つけた。防空気球(訳者注:低空飛行の敵機を防ぐための飛行船・風船)の使用を提案したのだ。

P3_20200315230901©alpklubspb.ru

 気球のキャンバス地と共にオルガ達も上へと持ち上げられた。彼女たちはキャンバスの全ての合わせ目を縫い合わせる必要があった。彼女が作業を始めるとすぐ、ドイツの戦闘機が雲の後ろから飛び出し、尖塔に機銃掃射を浴びせた。弾丸はオルガの隣の布地を貫いた。しかし彼女たちは作業を終わらせた。海軍本部の尖塔はレニングラードの空と同化し、ドイツ軍はランドマークを失った。1941年10月中旬まで、彼らはミハイロフスキー城の尖塔でも同様の作業を行った。

 登山家達がペトル・パウェル大聖堂の偽装作業を始めた頃、寒さが到来した。気温は下がり強風のため、ミハイルは7回ほど登っただけだった。寒い時期には偽装用の油絵の具がうまく付着せず、凍りついて層状に落ちるため、何層も塗り直さなければならなかった。

P4_20200315231001©alpklubspb.ru

 3月までにペトル・パウェル大聖堂の尖塔とドームの偽装作業が完了した。主なランドマークは敵にとって失われた。爆撃は少なくなり、それほど狙われなくなった。市内にはまだ目立つ構造物が残っていたが、登山家達は力尽きていた。1941年11月、ミハイロフスキー城の尖塔に16時間連続してぶら下がっていたアレクサンダー・プリゴジェフは、腎臓を損傷した。オルガ・フィルソワとアロイズ・ゼンバは壊血病に苦しんでいた。ミハイル・ボブロフは受けた負傷がほとんど回復しなかった(1942年2月に母親は餓死、父親は少し遅れて死去)。そして作業は中断された。登山家達は夏までに、ミハイル・ボブロフとオルガ・フィルソワの2人だけが生き残っていた。ミハイルは工場に戻り、海軍の大砲のメンテナンスに着任した。

 (中略)

 戦後、ボブロフは軍事文化研究所を卒業し、指導を始めました。1982年以降、ボブロフはレンフィルム映画スタジオでスタントコンサルタントとして働き、1994年からサンクトペテルブルク人道大学労働組合(大学)の体育学部で教鞭をとり、彼の生涯を通じてエルブルスに10回登り、78歳で北極を訪れました。そのためギネス記録に掲載された彼は、2018年8月に95歳で亡くなりました。

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以上引用おわり

 ナチスドイツによるレニングラード包囲は完全に物資を断つ非人道的なもので、同都市内ではカニバリズムが横行するほどに悲惨な状況になっていました。

 後半(中略)としている箇所には、そんな凄惨な包囲戦を生き抜いたミハイル・ボブロフが登山の師と偶然モスクワで出会い、再び山岳部隊の士官としてコーカサス戦線に従軍、ナチスドイツを撃退するまでが記載されています。

 ロシアのクライミングサイトや登山関係サイトでは、ごく普通に大祖国戦争(第二次大戦の独ソ戦を指す)や退役軍人クライミングコンペなどの話題が出てきます。祖国防衛の英雄として。

 かたや太平洋戦争当時、日本軍に協力したとされる山岳関係者や文化人は「戦後は沈黙を守った」と日本勤労者山岳連盟関係者らによっていいように糾弾されていますが、同じ軍関係者としての勝者と敗者の違いをまざまざと感じさせられます。

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