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御大日尊御開帳 山形県真室川町西川地区

山形県真室川町。

源義経一行が頼朝の軍勢に追われる逃避行において、泊めてもらった家に掛け軸を置いて行ったという伝説がある。

それから約800年、今も年に一度、御開帳として掛け軸 - 大日尊 - の絵が人々に公開される。

その日は旧暦の9月15日。御大日尊の御開帳として、古くから人々が参拝してきた行事を見学させていただいた。

 

山形県の北部、真室川町でも奥に位置する集落、西川地区の斎藤宅を訪れる。

参考資料の写真では、例年ならば幟旗が立っているのだが、みあたらない。やはりコロナの影響で中止だろうか・・・そんなことを思いながら斎藤宅を訪れると、「今年はコロナウイルスで人を呼んでないんですが、御開帳はやります。どうぞ上がってください。」と温かく迎えてくださった。

まずは御大日尊の祀られている奥の間に案内される。

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民家の奥の間に、御大日様を祀るための部屋があった。

蝋燭を1本いただき、火を灯して上座に供え、手を合わせる。

それから茶の間に通されると、参拝者らしい先客が三人。今年は私も含めて四名の参拝者らしい。

御開帳はきっかり昼12時から始まるという。

それまでは地元の方らしい三人、斎藤家の関係者であるお二人も交え、山菜の話から御開帳行事の話まで、貴重な地元の話題を伺う。

12時5分前、斎藤家のお二人は準備ということで奥の間に入っていった。

12時、斎藤家の奥様から

「御開帳始まりますよ」と声をかけていただき、ふたたび奥の間に移動。

斎藤家関係者の男性お二人が上座に登り、掛け軸を広げる。

参拝者は細く切った半紙を口にくわえ、手をあわせる。

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御開帳直後の様子(神聖な儀式のため、御大日様そのものの撮影は禁止です)

 手前に湯を入れた鍋が置かれ、湯気が立ち上る中、巻物が広げられ、再び巻き戻される。

 ほんの数分もかからず、御開帳は終わる。

 沈黙の中、皆手を合わせる。

 

 儀式の後、文献資料で調べた中から疑問だったことを尋ねる。口に半紙をくわえるのは、御大日様の様子について言葉にしないように、という意味合いがあるという。

 私は余所者なので、直会は遠慮するつもりだったのだが「ぜひ御神酒を」ということで、盛大な昼食を皆様と共にすることになった。

 今年はコロナ禍だが、800年続いた行事を絶やすわけにはいかないと話合った、と今年催行した理由を伺う。

 私含めて一般の参拝者4名、斎藤家の男性2名、女性3名。盛大な寿司、女性の皆様手作りの真室川の「ごっつぉ」が沢山。

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山盛りのゼンマイ料理に目を奪われる。

「例年ならば、私達も裃姿で御開帳するんですよ」

「いつもだと、もっとテーブル広げて大勢で食事するんですけど・・」

緊張しながら御馳走をいただいていたので写真撮影できませんでしたが、紫の菊の花を細切りの大根と共にあえた酢の物、鮮やかな黄色の沢庵。見た目も味も、素晴らしい。

 文献では、御開帳の後に鮭汁を食す風習があるとされていたが、今目の前に大きなホタテと舞茸を入れた汁椀がある。

 伺った話では、昔は御開帳の日は小学校も休みだったという。

 約800年続く行事もさることながら、地元の方々との語らいに、文献ではわからない生の「山の生活」を伺うことができました。

 真室川町・西川地区、斎藤家関係者の皆様に深く感謝申し上げます。

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アダム・オンドラは何を食べているのか

世界でも名だたるトップクライマーである、チェコのアダム・オンドラ。

彼の食生活の一端が、チェコのスポーツ紙で明かされました。

以下引用開始
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クライマー、オンドラの食事:中国からのインスピレーションとアルコールの危険性
6330094_ アダムオンドラは世界でも最高のクライマーの一人です。彼は4回にわたり世界チャンピオンに輝き、カナダ最難の「Disbelief 」を初登、ヨセミテのドーンウォールを記録的な速さで完登しました。彼によれば、伝統的な中国医学に基づいた食事が、信じられないほどのパフォーマンスを発揮するのに役立っています。

 アダム・オンドラにとって体を作り、最良の成果を達成するためには、適切な栄養が非常に重要です。 「トレーニングそれ自体が数パーセントしか左右せず、その数パーセントでさえ、食事に左右される」と彼は言います。何年にもわたり食事法を試した後、彼はついに伝統的な中国医学に出会いました。彼のメニューは現在どのようになっていますか?

あなたは様々な食事療法を試みるのが好きだと知られています。歳月と共にどのように変化しましたか?

 私の食事内容は、ここ数年で大きく変わりました。子供の頃は食事にかなり問題を抱えていました。両親は私にタンパク質を摂取させることができませんでした。私が肉や乳製品が好きではなかったからです。野菜や果物に対して好き嫌いを示したことはありません。 16歳の時から栄養学に興味を持ち、「実験」を始めました。極端なことはしませんでしたが、例えば生の食べ物を試しました。しかしすぐに、それは私の体質に合わないことに気づきました。現在、私の食事は伝統的な漢方に基づいています。つまり、私の体質に合うように食事を摂っています。

それはどういう意味ですか?

 中国医学によると、6つの要素があります。「風・寒・湿・熱・暑・燥」です。あなたの体質がどんなタイプかに応じて、食べるべきです。私は「冷たい」体質です。それが、私がとる食材のほとんどが冬季間に調理される理由です。私はナッツ類、チェコのザワークラウトのみ生で摂取します。そうでない場合は、韓国産キムチを用意しています。」

この食べ方のメリットは何ですか?

 伝統的な中国医学に基づき食べることは、私にとって本当に体質に合っていることがわかりました、十分なエネルギーを保ち、気分が良いんです。冬に熱処理された食物を多く消費しているという事実は、私の「冷たい」体質に「熱」の快適な感覚を与えます。食品と適切なスパイスを組み合わせ、特定の乳製品を省くことも重要です。

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クライマー、アダム・オンドラは伝統的な中国医学の原則に従って食べる

自分の食事を自分で管理しているんですか?

 ここ数年は、伝統的な中国医学の専門家であるPavel Víchと協力しています。私も自分で学び、5つの要素(訳者注: 漢方の「陰陽五行説」と思われる)に従い食べることについて、スロバキアの専門家であるPetr Planietaに栄養のことを相談しました。 Tomáš Soukup博士の支援を受け、メニューを微調整しました。それは今でも伝統的な中国医学の考え方に沿っていますが、代謝をさらに促進するために、炭水化物とタンパク質の比率のバランスを取り、「何を」「いつ」食べるかを明確にしました。

数日かけて大岩壁を登っているときも、この食事法ですか?

 たとえば、吊り下げられたポーターレッジで寝るような大岩壁でこの食事法を続けることは難しいでしょう。でもそんなことはめったにありません。正直、私が壁で一夜を過ごしたのは、3年前のドーンウォールが最後でした。その場合、持ち運びが非常に簡単な乾燥食品を食べることになります。車の中なら、自分のキッチンがなくても、いつもの食事をとることができます。家よりも料理が好きなんです。

あなたのパフォーマンスにとって、食事はどれほど重要ですか?

 私は果物、野菜、豆類、穀物、高品質の肉など、本物の食材を調理します。食事をパフォーマンスの重要な部分として認識してますし、最高のパフォーマンスを発揮するために岩場に行きます。だからこそ、慣れ親しんでいるものを食べることが重要です。そうすることで、自分のパフォーマンスを可能な限りサポートすることができます。運動それ自体によって、ほんの数パーセントを左右することが起こり、さらにそれらの数パーセントは食事に左右されるかもしれません。残念ながら私たちの食生活や生活は人工物質、添加物などにまみれています。「本物の」食べ物は何でも健康につながると思います。

あなたはいつも自分の食事を調理しているんですか?

 それを楽しんでいますが、かなり時間がかかります。でも、それが理にかなっていることもわかっています。

アルコールの方はいかがですか?競技後の一杯としてビールを飲んだりすることはありますか?

 私はバランスの取れた食事の一部として、アルコールを摂取しています。基本的に同じことです。主に水、ミネラルウォーター、朝は特別な黒プーアール茶を飲みます。ただし、コーヒーや他のカフェイン入り飲料は避けています。甘い飲み物は一切飲みません。私も年に数回はアルコールを口にしますが、多くの場合それはワインです。真剣にトレーニングに励んでいるときは、ビールやワインが1杯でも、その後の体調に悪影響を与える可能性があります。ですから、ハードトレーニング期間中はアルコールは全く飲みません。
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以上引用おわり

というわけで、東欧・チェコのアダム・オンドラの食事の秘密は中国医学にあり、でした。

今やコロナウイルス第二波でクライミングジム閉鎖はもとより、国全体で感染者数がヨーロッパでも最悪と言われるチェコ。アダム・オンドラの食事法がうまくいきますように。

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ヤマガタダイカイギュウと化石掘り 2020

山形県朝日少年自然の家企画事業『ヤマガタダイカイギュウと化石掘り』にボランティアスタッフ参加。

今年も募集開始約30分で満杯になる人気ぶり。

自然の家に行き、集まった参加者を覗くと、あれ?

今年はコロナの影響で所バスに乗れる人数が制限されるため、例年のような親子参加ではなく、子供たちだけの参加に限定とのこと。

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今年は裏方に徹し、私達男性ボランティアスタッフはダイカイギュウ発掘現場に寄らず、化石採掘地に直行、道具の準備。

今年も山形県立博物館の小林先生にお世話になる。

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珪化木の標本に、子供たちも興味津々。

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 雨混じりの天候でしたが、子供たちの探求心が勝りました。

 私が担当した班は高学年の子にまじり小学3年の子が一人。

 3年生の子はなかなか化石が見つからず「先生、先生」「どうしたら化石見つかるの」と甘えてくるので、速攻で4cm程のシラトリガイの化石がチラ見えしている石を掘り出し、譲ってあげる。

 しばらくシラトリガイの化石と格闘していた男の子、小林先生からシラトリガイの仲間はまだ現代も生息していることを教えられ、

「僕、絶滅した生き物の化石掘りたいんです ! 」と言う。

 残り10分と時間が迫っていたため、男の子のリクエストには答えられなかったが、最後に掘り出したウニの一部らしき化石、実は魚の背骨らしいと教えられて満足の様子。

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「別れの集い」にて、小林先生のお話を聴講。もう定年を迎えたが毎日が楽しい。それは楽しいことを見出しているから。皆さんもいろんなことを経験して楽しいことを見つけてほしい。その他、示唆に富むお話をいただきました。

 所のスタッフ反省会を終え、会社・工場に直行、明日の作業道具の確認と段取り。それから実母のための買物と実母訪問。

 めまぐるしい休日を終えて、また明日から仕事です。

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庄内の胡麻豆腐

庄内の郷土料理、胡麻豆腐の調理法を学びに鶴岡へ。

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 鶴岡市藤島地区(旧・藤島町)の たわらや が本日の教室。

 講師は庄内食文化フードコーディネーターの伊藤先生。羽黒山の宿坊・多聞館で教わったそうだ。

 

 胡麻豆腐はもともと江戸時代初期、明から隠元禅師によって伝えられた中国をルーツとする精進料理。

 ここ庄内では、出羽三山・羽黒山の山伏達の精進料理として知られる。

 日本全国をみわたせば、山形(出羽三山)、福井(永平寺の精進料理)、滋賀(法事の精進料理)、和歌山(高野山の精進料理)、山口(法事の精進料理)、佐賀(法事の精進料理)などが挙げられる(注)。各地方ごとに調理法・特に味噌だれ、醤油だれなど調味料も様々だ。

 会場に集まったのは12人、私以外は全て女性。意外にも高齢の女性が多い。3班のグループに分かれ、実習開始。

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 風味を大事にするため既製品の胡麻ペーストは使わず、胡麻をすり鉢で擦る。伊藤先生から配布されたレシピでは、擦り時間約2時間とある。伊藤先生いわく、宿坊では胡麻擦りは「ばば(婆)ちゃんの仕事」だそうだ。私が力任せに擦る一方、他の女性の方は手慣れた手つきで力むことなく擦る。本日は時間短縮のため、ある程度擦ったらミキサーに。

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ミキサーで約7分、胡麻をさらに擦る。ペースト状になったものを裏ごしし、残りかすはまたミキサーに。

ストップウォッチ付時計を付けているのは私だけだったので、料理に慣れない私がようやく役に立つ時w

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 本日は2品作るのだが、初めの黒胡麻豆腐は胡麻、片栗粉(葛粉の代用)、水だけのシンプルな材料。

 伊藤先生いわく、調理最大のポイントは「火入れ」。料理したことがある方ならおわかりでしょうが、片栗粉を溶いた液体に火を通すと、突然固まり始める瞬間がある。そこに注意しながら、ひたすらかき混ぜることが肝要とのこと。

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 固まり始めると、胡麻ペーストがもっちりしてきて凄い抵抗力。「ここは力のある男性に・・」ということで私がしばらくグルグルかきまわすが、かすかに焦げる香りを感じる。やべえ。

 先生に代わってもらったところ、私を上回る凄いペースでかき回す。画像でも先生の手がブレてますw

  固まったところで水で濡らしたトレイに入れ、冷え固まるのを待つ。

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黒胡麻豆腐は、黄な粉と黒蜜で試食してみました。

皆で試食しながら、庄内の料理談義。

ツイッターやネット界隈では「庄内の胡麻豆腐は甘い餡かけが伝統」と言われているが、参加者の方からは「東京や他県から来た親戚には甘い餡かけないで、って言われるのよ~」「うちもよ~」と、本音トークを聴く。

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教室の2品めは、貴重な吉野の本葛を使い、白胡麻と昆布出汁、わずかな塩で作ってみたもの。

画像の品は、白胡麻のミキサー時間が短すぎたため、胡麻の皮が残っており、舌触りが今一つ。

しかし、昆布出汁と塩のおかげで最初に作った黒胡麻豆腐より口当たりは良いように感じます。庄内では味噌汁の具にするとか。私は自宅に持ち帰り、ワサビ醤油で食べました。

羽黒山の宿坊・多聞館で教わった伊藤先生いわく、調理法、分量や火入れの時間を聞いても「だいたい」とか「ちょっと」とか、そんな答えしか返ってこなかったとか。庄内の女性の皆さんは身体で覚えているんでしょうね。

レシピ集に記録されている数字は、伊藤先生が数値化した貴重なものでした。

すり鉢で2時間も掛けて胡麻を擦る。伊藤先生いわく「山伏や修行僧の修行の一環」だそうですが、食事の下準備に一日のそれだけの時間を割くということに、「食べる」という行為の価値観の相違ということにまで思いを馳せました。

 

(注)参考文献 新潟県立大学名誉教授 佐藤恵美子執筆論文『ゴマ豆腐の文化と調整条件に関する科学』日本調理科学会誌vol.50 No.5

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秋日記 2020年9~10月

9月×日

勤務先で在宅ワーク用に光回線整備・ネット関連機器購入用の手当が出ることになった。

通達が回ってきたときの、私の心象風景 ↓

C6冬 用 登 山 靴 の 購 入 費 に あ て よ う。

直後、総務部から「購入物品の画像と領収書を提出のこと」と連絡が入る。

・・・今年もアウター買い替えは諦めよう・・・

というわけで、

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OAチェアを購入。ばりばりブログの更・・・もとい、社業に励みたいと思います。

 

9月×日

 休日はなんだかんだと所用のため下界で過ごす日々。

 本日のランチは、

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山形市嶋地区のベーグル屋「TENN」を訪問。

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オリ(左)とマロンベーグル(右)を購入。

オリは硬パンにベーコンを仕込んだパン。マロンベーグルは中にマロンクリーム入り。ベーグルといえば何も入ってないパンをイメージしていたので意外。塩気の効いたオリと一緒に美味しいです。

 

9月×日

 本日のランチは、

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食パンとサンドイッチの店パルシェを訪問。

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エビカツサンド(税込302円)を食す。食パンの店だからなのかどうか、カツを挟む食パンが薄いような気がするが、美味しく食べる。

 

10月×日

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老母の住む実家近く、稲荷神社のナラの木が伐採されていた。

私が幼い頃には既に大木で、何らかの事情で伐採されたのだろう。

生まれ育った街も、少しずつ変わっていく。

 

10月×日

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 勤務先の茸の達人から、マツタケをいただく。

 朝鮮民主主義人民共和国でも中華人民共和国でもない、純国産品です。

 貧乏な我が家、カミさんと二人してどう食べるか頭を悩ませる。

 

10月×日

 本日のランチは、

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東根市の「山ベーグル」訪問。

 15時に訪れたところ、めぼしいベーグルは既に売り切れ。

 ボリューミーなベーグルサンドは残っていたが、あいにく昼食たっぷり摂った日だったので、

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フレンチトーストとドリップコーヒーを購入。

 店の前のベンチに座り、コクのあるコーヒーを飲みながら、ベーグルで作った甘いフレンチトーストを食す。

 車道を挟んだ向こう側は、東根市の里山、大森山。

 少しずつ紅葉が始まった大森山を眺めながら、コーヒーを飲む日曜の午後。

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東西統一を越えたクライマー

10月3日、東西ドイツ統一から30年。

ドイツの左派日刊紙『タズ』の昨年の記事ですが、『エルベの砂岩』開拓者として知られるBernd Arnold(ベルント・アルノルト)をとりあげてみます。

Über Grenzen gehen by Taz.de 2019.7.29

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限界を越えて

 ベルント・アルノルトは、世界最高のクライマーの1人です。アメリカからもクライマーが訪ねてきました。ベルリンの壁が崩壊してから30年 ー GDRスポーツ特集。

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ベルント・アルノルトは空を見上げます。 彼はハンチング、丸メガネ、鮮やかなスカーフを着用します。
アーノルドは今もクライミングを続けていますが、最近では孫娘と一緒に登っています。写真:dpa

 東ドイツ国務院議長ヴァルター・ウルブリヒトが作ったスローガン「どこでも誰でも、週に数回のスポーツ」は、東ドイツの高度に偽装されたドーピングまみれの競技スポーツ、「トレーニングスーツの外交官」だけでなく、「アウトドアスポーツ」愛好家のための隠れ蓑でもありました。多くの人々がこのスローガンを高く評価しました。イデオロギーと壁に囲まれた社会主義の日常生活から逃れる、数多くの創造的な個人主義者のモットーでした。

 72歳ながら、ベルント・アルノルトはまだ現役です。おそらく旧東ドイツで最も有名なクライマーであり、60年以上にわたり岩場で活躍しました。多くの山友のように、彼はドイツ社会主義統一党政権下で、岩場で個人の自由を楽しみました。

 彼は、今日まで住んでいるエルベ砂岩山脈のホーンスタインで生まれ、ロッククライミングを学びました。子供の頃、遊び心から砂岩にとりつき、後に現在まで続く「人生の情熱」となりました。エルベ砂岩山脈には900以上もの初登ルートを作りました。

 南チロルのラインホルト・メスナーはかつて彼を次のように称賛しました。「ベルント・アルノルトは間違いなく世界最高のクライマーの1人です。」1970年代から80年代にかけて、アルノルトはザクセンでのクライミングの難易度を上げ続けました。

 サクソンスイスはフリークライミングの発祥地です。アルノルトは1999年に出版した著書「Zwischen Schneckenhaus und Dom (カタツムリの殻と大聖堂)」で次のように記しています。『狭い砂岩の岩場を知りつくしていたので、これまでのところ、日常生活にはうまく対応し、逆境を乗り越えることができました。』

 よく見かける彼の裸足でのクライミングも伝説的です。痛みに鈍感な場合は、それが利点にもなります。素足で岩をより良く感じることができるからです。もちろん、敏感な足ならば、そんなことはできません。しかし現在のクライミングシューズのラバーソールは、自分の素肌よりもはるかに優れた摩擦を持っていることも明らかです。

P2_20201004000001 ドレスデンの学生で熱狂的なクライマーであるリンダは、次のように述べています。「若い世代の私たちにとっては、ベルントは思想的にも偉大な指導者です。個人的には、彼が裸足でハイレベルなルートを登るのはとても印象的です。もちろん、ギスベルト・ルートヴィヒ(Gisbert Ludewig)のような優れた同世代の方もいます。」

 アルノルドは未だ健在です。孫娘のヨハンナと一緒に地元の岩を登るツアーに参加していました。彼は4人の孫をとても誇りに思っています。もちろん、大自然の中でクライミングを通じてスポーツを彼女達に教えました。

「ここエルベ砂岩山脈からチェコ共和国のボヘミアまで、このような美しい自然がどこにありますか。限られた地域でも、多様な風景を体験できます。」アルノルトにとって、登山は「常に人生の学校であり、自己発見の方法でした」。

 旧東ドイツ時代、アルプス山域からだけでなく、アメリカからもクライマーがエルベ砂岩山脈に来訪、アルノルドと競い合いました。最初の一人は1972年、フランス人ジャン・クロード・トロワイエでした。クルト・アルベルトとウォルフガング・ギュリッヒが後に西ドイツから来ました。彼らは、当時東部地域の山に登ることしか許されていなかったベルント・アルノルトや仲間の優秀なクライマーに、最新のロープ、登攀用具など優れた装備を持ちこみました。

 一方、東ドイツ当局が拒否したため、彼は西側諸国のクライマーの無数ともいえる招待に応えることができませんでした。それは彼を非常に苛立たせ、州首長だったエーリッヒ・ホーネッカー(訳者注:後の東ドイツ書記長)に抗議の手紙を書いたほどです。多数のシュタージ文書(訳者注: 東ドイツ秘密警察の機密文書)が示すように、個人主義者が集う東ドイツのクライマー達は疑惑を持たれて監視下にありました。

 当時、小さな印刷業を営んでいたアルノルトは、クラブに所属する競技アスリートのような公的な支援無しにトレーニングを行い、自分達でウエイトトレーニングを行うための装置を作りました。

 1984年。北朝鮮の国家主席であり飛行機が嫌いなキム・イルソンは鉄道で東ドイツを訪れ、車窓からスイスサクソンで幾人ものクライマーを目にしました。1985年、アルノルトを含む東ドイツからの登山代表団が北朝鮮に招待されました。そこで彼らは「金剛山脈」で最も困難なクライミングを行うことができました。

 1986年、アルノルトは驚くべきことに、オリンポス山山麓で開催さ​​れた世界平和評議会のイベントに出席するため、ギリシャ旅行が許可され、メテオラでのクライミングを果たします。1987年、ミュンヘンでウォルフガング・ギュリッヒとハインツ・ザックによる著書のプレゼンテーションを行い、そこで彼はラインホルト・メスナー、1950年代にザクソンから西側に亡命したアルピニストのディートリッヒ・ハッセ(Dietrich Hasse)とハインツ・ローター・シュトゥッテと面会できました。

 そして1988年、41歳でクライマーとしての絶頂期、架空の叔父の記念日を口実に西側に招待された際、滞在期間を利用してクルト・アルベルトら含むパキスタン・カラコラムの大規模な登山隊に参加しました。

 しかし、アルノルトは登頂に成功後、クレバスに落下しました。出血を伴う骨盤骨折を負い、急性腎不全も併発、生命の危機に陥りました。幸運にも救助されドイツに帰還、ミュンヘンの病院に入院し、そこで彼は何週間も過ごすことになりました。回復後、彼は妻のクリスティンと娘の待つ東ドイツに戻りました。「ええ、山仲間の多大な支援のおかげで、死の淵から這い上がったんだ」と彼は人生で最も困難な局面を振り返ります。

 アルノルトはクライミング生活の中で様々な危機を生き延びてきました。数年前から、彼はより意識してクライミングしています。肩、肘、骨盤や脊椎の骨折、2018年の背中の手術、その後遺症は行動範囲を制限します。アルノルトも年をとったのです。

 ベルリンの壁が崩壊し、それに伴い無限の自由がもたらされてから数年後、アルノルトは数多くの山の夢を実現しました。アルプスからパタゴニアにいたるまで。

 1989年以降、印刷業を閉め、ホーンシュタインとバードシャンダウに2つの登山用品店を設立、現在もクライミングの専門家、地元の岩場のツアーガイドとして、「選ばれた形」で旅を続けています。「参加者は東側と西側の人々が半々」多くの人との出会い、多くの友情を大事にしています。

 ドレスデンで毎年開催される「Bergsichten」フェスティバル(訳者注 : 山岳アウトドア映画祭)で、2017年11月にアルノルトは、クライミングに関して個人的に望むことを尋ねられた際、「サクソンのクライミングが、始まった頃のままであってほしい。それが私のルーツだから。」と語った。

 一方で、「変化から自分を閉ざすことはできず、それに向き合わなければならないのは当然のことです。変化が起きることは多くの人にとって困難であるとしても、変化に直面することは必要になるでしょう。しかし、他の人が登る機会を否定するのは エゴ です。」 彼はサクソン登山連盟(SBB)は「良い方向に進んでいる」と評価する。(中略)

 アルノルトは、本紙に対して壁の崩壊を「素晴らしい贈り物、そして何よりも、取り戻された自由の一部として旅行する自由がある」と話します。ただし「遠い目的地に移動するには、それなりの資金も必要」という制限が追加されました。1990年の再統一後、幾度も悩まされた彼はクライミングルートに「ドイツー吸収されたドイツ」と名付けました。アーノルドは今日まで批判的な精神を保っています。

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 東西ドイツ統一といいながら西ドイツに事実上吸収された形の東ドイツ。記事最後のアルノルトが名付けたルート名は『Deutsch-deutsche Vereinnahmung 』なのですが、意訳してみました。

 冷戦の狭間でキム・イルソン率いる北朝鮮に招待されるなど、数奇な運命をたどってきたベルント・アルノルト。国境地帯が舞台となるヒマラヤ登山のように政治に翻弄されるクライミングもあれば、政治体制に関わりなく、したたかにクライミング生活をおくるクライマーの人生がありました。

 統一から30年経過した今日、旧西ドイツ・東ドイツ市民の経済格差が埋まらない現状を、今日付の日経は大々的に報じています。

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