2月18日、パキスタン・スカルドで行われた記者会見において、冬季K2登頂を目指したまま行方不明になった3名のクライマーについて、「死亡宣告」がなされた。
欧米人クライマー偏重の日本の山岳メディアが決してとりあげることのない、パキスタンのアリ・サドパラについて、アメリカのAlpinist誌が秀逸なインタビュー記事を掲載している。私自身の記憶のためにも、以下に引用したい。
Muhammad Ali of Sadpara by Alpinist 2019.5.2
-----------------------------
Amanda Padoan執筆記事
2016年2月、パキスタンの登山家、ムハンマド・アリは、-62度の風の中でナンガパルバット冬季初登頂を果たした。これは冬季8000m峰に残る大きな課題の1つだった。しかし、この登山は彼のサバイバルの一つに過ぎない。彼にとって最初のサバイバルは、幼少時代だった。
彼の11人兄弟のうち、8人は生き延びることができなかった。パキスタン北部、彼の出身地であるサドパラ村では、出生時または病気による幼児の死亡が普通の出来事だった。喪失感は彼の母親フィザを悩ませた。彼女の最後の子供であるアリが1976年に生まれたとき、彼女は何としてでも彼を生かすことを決心し、6歳まで彼を母乳で育てた。それまで、彼女は彼が危険な目に合わないようにと願っていた。

サドパラ村の風景
アリは「母の母乳が私を山に登るために十分な強さに育てた」と語る。そして、すぐに彼は「登山」に関わることになる。サドパラ村の誰も、その努力を「登山」とは呼ばない。アリにとって、それは単なる仕事だった。少年の頃、彼は高山の牧草地への道をたどり、世話をするヤギよりも速く急なモレーンを駆け上がった。はるか下のサドパラの村は、岩山に溶け込み、濁ったターコイズブルーの湖のそばに集落が存在している。上部には緑豊かな放牧地が広がり、広大な高原が野花で覆われてた。アリはそこで冬のための飼料を刈り取り、40kgの草を束ねて背負い、村に運んだ。夏の間、彼はこの4000メートルの高地を何十回も登り返した。
山々は彼にとって第二の故郷のように感じたが、その脅威を過小評価することはなかった。子供の頃、アリはあらゆる災害を目撃した。サドパラ村の上部には、厚い氷河のセラックとモレーンが雪溶け水を貯めていた。アリが9歳の時、この天然ダムが決壊した。下の湖の水位は一瞬で上昇し、洪水が村を襲い、壁を壊し、ポプラを根こそぎ倒し、すべての牛を溺死させた。水が引いた頃、アリの両親は植林を行い再建を試みた。サドパラ村は、夏と冬、そして祈りの季節を周期的なリズムで繰り返し、歳月が流れていた。
19歳、アリは結婚の時期がきていると感じた。風習により、若い女性ファティマに近づくことは妨げられ、自分から彼女を誘うことができなかった。彼の叔父が結婚の提案をもちかけ、ファティマの両親はそれを受け入れた。結婚はアリに不安な幸福をもたらし、妻を養うためのプレッシャーを感じていた。さらに、生まれたばかりの息子、サジッドも養わなければならない。彼は再び山に向かった。外国の登山隊のポーターは、転職可能な最高の仕事だった。カラコルム山脈のベースキャンプに25kgの荷物を運ぶだけで、1日3ドル相当を稼げるのだ。K2、ブロードピーク、ガッシャブルムは見慣れた光景だが、まだ登頂をイメージすることはなかった。アリは、帰り道に運ぶ荷物、つまり収入を2倍にするチャンスを夢見ていた。ラッキーな数人だけが、その仕事にありつけた。
彼が能力を得るには時間を要し、他人には明確に見えるものを理解するのに時間を要した。少しずつ、アリは「良い荷物」と「悪い荷物」を見分けることを学んだ。遠征隊のリーダーが荷物を分配した際、なぜ誰も灯油を持ちたがらないのか不思議に思った。たぶん、何人かはタバコを吸うし、荷物に引火するのを恐れたのだろう。アリにとって、残された灯油缶は小さくコンパクトな荷物に見えた。へこみや漏れがないかチェックし、大丈夫だったので背負い籠に追加した。その後、何時間にもわたって背負い籠の中で液体が揺れ、道でバランスを崩した後、経験豊富なポーターがなぜ燃料を避けるかに気が付いた。
ほとんどのポーター同様、アリはビーチサンダルと粗末な道具で険しいバルトロ氷河を横断した。仕事の2日目、彼はサングラスを落とした。ポーターでもある叔父のハッサンは、落としたサングラスを見つけポケットにしまった。10代の若者は、雪原に到達するまで、落としたものに気が付かなかった。眩しさが彼の目を焼き、アリは彼の背負い籠を探しまくった。ハッサンは彼を見つめ、必死になっているアリに忠告とともにサングラスを渡した。「山での小さなミスは、大きくなる。今回の事はお前の視力を駄目にしたかもしれないぞ。」
以来、アリは定期的に彼の貧弱なギアを再確認し、一歩一歩が不安定に感じられる風景の中でも、何事にもチャンスを逃さないようにした。「インシャアラー」とアリは唱えながら、何が起こっても神の意志だと確信した。しかし彼は、神の加護が人間の不注意や無謀にまで及ぶのかと疑問にも思った。正常な人々が山頂を目指す姿、すなわち象徴的な行為や情熱の一形態としての山に登る、という考えは、彼の心を揺さぶった。アリにとって山頂とは、反対側に行くために到達する場所に過ぎなかった。それでも彼は、氷河のリスクを読み取ることに長けた、テクニカルクライマーへと成長した。さらに高所に行かないと稼げないので、さらにリスクを取るようになったのた。
パキスタン軍のトラックがサドパラ村を訪問してポーターを募集した際、アリはそのチャンスに抗えなかった。当時、パキスタンとインドは、中国への戦略的回廊であるシアチェン氷河をめぐり、長年にわたり紛争を続けていた。アリは世界最高所の戦場に向かった。夜、彼は氷壁を登り、遠く離れた峠で待つ兵士に物資を運び、暗闇が「結婚式の爆竹のように執拗に」思われる砲撃から守ることを祈った。繰り返し、彼は小さなミスがどれほど大きくなるかを見てきた。何人かのポーターがタバコに火をつけた。このかすかな光が彼らの思惑を裏切った。数分以内に、迫撃砲弾がキャンプを襲い、2人の男性が中にいたはずのテントが倒壊した。ほんの数ヤード離れていたアリは、彼らが死んでいくのを聞いていた。
商業登山は、犠牲者がいないわけではないが、戦場よりはましだ。安全な世界を提供しているように見えた。「シアチェンの後、私はもう何も恐れていませんでした。クライミングでは、生と死の2つの結果があり、どちらの可能性も受け入れる勇気を見いだす必要があります。」
母フィザは、家にいてジャガイモを栽培するようにとアリを説得した。
「しかし、探検する魅力的な山があります」と彼は言った。「外国人が山を登るためにお金を使いたいのなら、なぜ私は助けてはいけないのか?」
2006年から2015年まで、遠征隊員として、アリはナンガパルバットとガッシャーブルムI峰、II峰の登山に参加した。アリはK2で8350mに到達し、ボトルネックを乗り越えたが、彼の野心は、キャンプ設営、フィックスロープ、彼らが管理できる範囲内でガイドするクライアントのニーズに縛られていた。
彼らの安全に気を取られ、自分のことはほとんど考えていなかった。
そして2012年、サドパラ出身の高所登山家が冬季ガッシャーブルムI峰で行方不明になった。ニサール・フセインはアリの幼少期からの友人で、彼の死は地域社会に大きな打撃を与えた。ニサールは妻、息子、二人の娘を残した。今では3人の子供の父親となったアリは、自分の人生は他人のものであることを理解している。アリは、妻のファティマが静かに恐ろしさを表現するのを聞いていた。「アリ!」彼の母親は、より大きな声で言った。「この仕事は危険すぎる」
しかし、彼は登山をやめようとは思わなかった。登山は農業にはない爽快感を与えてくれたのだ。登山は特に冬季を得意としていた「ヨーロッパ人は凍えることはないんだよ」と彼は母フィザに言った。「テント、手袋、ダウンスーツが支給されるんだ」
「冬は冬なんだよ」と彼女は答えた。
2015年1月。
アリは不在の言い訳を思い付き、ナンガパルバットの冬季初登頂を試みるために出発した。嘘をついたことは彼を悩ませた。しかし、アリは病弱な母親が心配することを恐れていた。
結果として、心配する材料はたくさんあった。気温はマイナス47度前後で推移し、山頂から約300メートル下では強風が吹き荒れ、彼は方向感覚を失った。「私のメンタルの中の「地図」が消えてしまった」とアリは回想する。「夏にナンガパルバットを2回登頂し、地形を知っていると思っていたが、冬に見た光景と記憶が一致しないんだ。」

2015年1月、ナンガパルバット山頂直下から下山直後のアリ・サドパラ(左から2人め)
アリの混乱が脳浮腫の発症かもしれないと恐れた2人の外国人登山家、アレックス・チコンとダニエル・ナルディに伴われて下山した。一週間後、アリは家族に彼の不在を説明するつもりで家に帰った。しかし、彼がサドパラに到着したとき、母親が呼吸するにも苦労している事に気づいた。フィザがどこに出かけたのかを疑い、彼女はもう決して彼を手放さなかった。アリは最後の数ヶ月間、彼女を看病し、何も告白することはしなかった。
もしチコンとナルディが新たな試みをしなかったら、彼は冬の登攀を完全に諦めていたかもしれない。頂上付近でアリの記憶が途切れたとき、彼は2人を失望させたかのように感じた。アリは彼らに何の借りがあるというのだろうか。彼らとの雇用関係は曖昧だった。フェアな手段で登るプロの登山家にとって、高所ポーターを雇うのは妥協の産物だ。アリの役割は無給の「対等なパートナー」だった。しかし実際には、彼はしばしばルートをリードし、彼は労働によって彼のギアの費用を稼ぎ、他の人が辞めれば、彼も辞めることが期待されていた。
多くのハイレベルな遠征隊と同様に、2016年の歴史的なナンガパルバット冬季登攀に緊張が高まった。チコンとナルディは、タマラ・ルンガーとシモーネ・モロと合流した。しかし、ナルディと彼らとの関係はすぐに悪化し、ナルディは帰国を決心した。問題は、アリのダウンスーツはナルディの所有だったことだ。
風速は時速45km、気温はマイナス34度。山頂を目指すには、アリのウェアは十分暖かいものではなかった。アリの強さに感銘を受けたモロは、自分の服を貸与することを申し出た。モロは予備のダウンスーツを含む、スポンサーのギアを大量に持ちこんでいた。それはアリにぴったりだった。
2月26日のサミットの日、アリは借りたスーツを着て、山頂直下でモロが到着するまで待ち、最後の3メートルを一緒に登り、双子の蜂のような写真を撮った。モロは、パキスタンの登山家がパキスタンの山で歴史を作るのを目撃することに喜びを感じた。「エベレストにテンジンがいたように、ナンガパルバットにアリがいる。」と彼は言った。アリはその瞬間を淡々と語る。明け方、彼は7100mのテントを出て、山頂の台地に向かって岩の迷路をナビゲートした。「日の出の暖かさに勇気をもらった」と彼は言う。

シモーネ・モロと共に冬季ナンガバルバット初登を果たしたアリ・サドパラ(左)
その後は有名人に囲まれ、アリは他のサミッターと共に祝うため、スペインとポーランドに飛んだ。しかし、ヨーロッパの仲間達とは異なり、アリのスポンサー獲得は実現しなかった。彼はその理由を口には出さない。小麦の脱穀、ジャガイモの収穫、牛の世話、壁の修繕、屋根の葺き替え、子供たちの教育、自分の仕事は山ほどある、とサドパラ村に戻ったアリは言う。
他の人生が良い、と彼は言う。それは、彼が何者かになりたかったことを思わせる。
夢について尋ねられたとき、アリは2つの夢を打ち明けた。
妻のために、ミシンが欲しい。
自分のために、K2の冬季登頂を果たしたい。
------------------------------------------------
人類初のK2冬季登頂。
それと同じくらいの大事な夢が、奥様にミシンを買ってあげる事。

アリ・サドパラ、永遠に。
最近のコメント