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さよなら、リトル・カリム

2022年4月4日、パキスタン・ラワルピンディでパキスタン人クライマーが肝臓ガンのために亡くなった。

モハマド・カリム(1950 or 1951~2022)、通称「リトル・カリム」。

その痛快かつ冒険にあふれた人生を綴った良記事を、パキスタンの日刊紙DAWNから引用します。

Adventure: The incredible tales of Little Karim  by DAWN 2014.6.12
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冒険 リトル・カリムの驚くべき物語

オバイド・ウル・レーマン・アバシ執筆記事 2014年6月22日

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リトル・カリムと筆者

 1978年、イギリスの著名登山家クリス・ボニントンは、K2登頂を目指す登山隊のポーター約200人を選抜していた。スカルド出身のモハマド・カリムという、背が低く笑顔の素敵な男性が、ボニントンに何度も声をかけた。しかし、ボニントンは何度もこう言った。「君は小さすぎるから、メンバーにはなれない」。
 
 カリムは気落ちしながらも、どうしても選ばれたい。ボニントンの周囲に忍び寄り、素早く大男の足の間に頭を入れ、身長2mのイギリス人を肩に担ぎ、広いグラウンドを走りまわったのである。集まったポーターたちは大笑いしたが、ボニントンはこのパフォーマンスに感心した。そしてカリムは念願かない、K2遠征隊に参加することになったのである。

 これはスカルドの高所ポーター、モハマド・カリム(通称リトル・カリム)の物語である。65歳のカリムは、カラコルムの山々を登る著名な登山家たちをサポートしながらも、どこかつかみどころがなく、謙虚な性格で、人生が与えてくれた冒険の機会に感謝している。

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リトル・カリム

 何度も会う約束をしたのだが、いつもすれ違ってしまい、惜しいところで逃してしまう。数週間前、共通の友人からリトル・カリムがスカルドにいて、彼の村フーシェに向かうところだと知らされた。幸いにも私たちは彼に連絡を取ることができ、ランチに招待することができた。30分後、リトル・カリムとその息子は、私たちのテーブルにやってきた。

 カラコルム山脈のクレバスには、勇気、美徳、損失、絶望などの物語が鳴り響いている。そのことを誰よりもよく知っている男がいる。
 なぜ、彼は他のカリムではなく「リトル」カリムなのですか、と私は率直に尋ねた。

 リトル・カリムは独特の高笑いを返した。

「1979年、フランス隊がK2に挑戦したときのことです。カリムと呼ばれるたびに3人が反応しました。同名のカリムが3人いたんです」と笑う。「この問題を解決するため、隊長は私たちにビッグ(大)、ミディアム(中)、リトル(小)と名付けたんです。」

 リトル・カリムは、スカルドの緑豊かな谷間にあるフーシェという人里離れた村で生まれた。村の周りには雄大なカラコルム山脈がそびえ、彼は幼い頃からその魔力に魅せられていた。

「バルチスタンでは家族毎に牧草地が決められていて、それを守り、世話しなければなりません。私の家族はゴンドゴロ地区の高い場所を割り当てられていました。両親はこの谷の羊飼いで、ゴンドゴロの高い牧草地に初めて行ったのは、まだ6歳でした」

 1960年代半ばに育ったカリムは、フーシェを通過する登山家はいなかったと記憶している。幼いカリムは、村の友人たちと丘に登ったり、村の周りを長い間ハイキングしたりする遊びをしていたが、親には不興を買った。

「親に怒られながらね。でもこの遊びは私に恍惚感と自由を与えてくれた。この遊びが大好きで、そこから離れることができなかった。当時から、偉大なガイドと高所ポーターになりたいと思っていました」

 ある日のこと、村に続く、いつもは人気のない登山道に、新たな訪問者が現れた。

「今でこそポピュラーなゴンドゴロ峠を越えるルートも、当時は知られていませんでした。ある夏、私たちが遊んでいると、登山者の一団が氷河を下りてきました。向こうから下りてくる人を見たことがなかったので、興奮して駆け寄り、温かく迎えました」

「バルティ語以外の言葉は知りません。でも小さな男の子が駆け寄り歓迎する姿に登山者たちは好感を持ったようです。5歳児に見えたのか、キャンディやビスケットを一握りずつくれた。それが、登山家という特殊なアスリートとの最初の出会いでした」。

 カリムが実際に登山隊の一員となるには、10年以上の歳月が必要だった。1976年、カリムは友人と共に、多くの登山隊がポーターを雇うスカルドへ向かった。

「10代だったけど、まだ10歳くらいに見えたよ」と、伝統的なお茶を飲みながらリトル・カリムは言う。「でも、誰も相手にしてくれませんでした。皆、私を "小さな男の子 "だと言って拒絶したんです。25キロの荷物を運べるかどうか、信用されなかったんです」と笑いながら言う。

「どの登山隊にも選ばれず、落ち込みました。諦めかけていた時、スイス隊から、使える人材がいないとのことで引き抜かれましたが、重い荷物を運べるかどうかは疑っていたようです」。

 高所ポーターに選ばれたことと、生まれて初めてお金を稼ぐことができたことに興奮したカリムは、この登山が自分にとってキャリアアップにつながるとは予想だにしなかった。

 スカルドのシガー谷にあるユノまでトラクターで登り、そこから先は徒歩で移動した。
「2日目、チョンゴ村の近くで一休みして、川を渡って向こう岸に行くことになりました。川を渡るには、その川にかかる木の橋を渡るしかないと思ったんです」。

「橋にまたがり、手を引いて渡り、他の人を待ちました。みんな私のサインを理解し、指示通りに動いてくれました。金髪の若い女性が橋を渡ろうとして川に落ちました」

 その頃には、レストランの従業員も加わっていた。リトル・カリムの武勇伝と美徳の物語は、私たちを魅了した。ウェイターが椅子を引いてくれた。皆、この語り部に注目している。

「若い女性が必死で助けを求めて泣いていました。溺れるというような叫び声と、耳をつんざくような川の音が、なんとも恐ろしい。みんな唖然としていましたが、私はこのような災難に遭うことは覚悟していました。一刻の猶予も許されず、飛び込んで女性を引きずり出しました。驚いたことに、スイス隊は誰も彼女を助けようとはしなかったんです」とカリムは続ける。

「その夜、リエゾンオフィサーが私を褒めて、夕食に招待してくれたんです。特に私が助けた若い女性は、私に抱きつき、命を救ってくれたことに感謝してくれました。それで翌日の私の荷物は他のポーターに配られ、私は助けた女性の荷物だけを持つことになったんです。この譲歩と彼らの愛情を、私はキャラバン中ずっと楽しんでいました」。

彼の英雄的な行動により、カリムは初めて登山隊と一緒に7000m級の山頂に登ることができた。

 しかし、それ以後の挑戦は本人も認めるように、身長の高さもあり、大変なものだった。多くの登山隊に認められたものの、遠征隊は当初、カリムを同行させることをためらい、代わりに背が高く体格の良い高所ポーターを常に好んだ。しかし、その度にリトル・カリムは、反対意見が間違っていることを証明してきた。

「ボニントンさんとは頂上まで行けず、6600m地点で断念せざるを得ませんでした。でもイギリス人と登ったことは幸運の兆しだったようです。その後すぐに成功への扉がすべて開かれました」と、リトル・カリムはカップを手に取り、お茶をもう一口飲んだ。

特にフランス人は、モハマッド・カリム・バルティと素晴らしい関係を築いた。

 1985年、フランスのドキュメンタリー映画作家ローラン・シュヴァリエが「リトル・カリム」という映画を監督し、フランスはじめヨーロッパ各地で多くの賞賛を得た。監督は1997年に2度目、今度は「Mr.Karim」という映画でカリムを撮影し、さらに3度にわたり同じテーマの映画でカリムを撮影した。リトル・カリムはその後、フランスの映画賞の審査委員長に選ばれたが、これはパキスタン、特にギルギット・バルチスタンにとって名誉なことである。

 同じく1985年、フランス人のジャン・マルク・ボアバンの登山隊が、ガッシャブルム2峰の山頂からボアバンのハンググライダー飛行のために到着していた。リトル・カリムは、25kgのグライダーを標高8,035メートルの頂上まで運ぶために選ばれた。「重いグライダーを肩に担いでいたら、フランス人のカメラマンが面白半分に私を撮影し始めたんです。帰国後にテレビ放映したところ、フランス中の人が私の技量に驚きました」と、彼は誇らしげに語った。

 この時、リトル・カリムはヨーロッパの登山界ではかなり有名になっていたが、ボアバン隊での成功で一躍有名になった。「フランス人は私をスーパーマンとして扱い始め、大きな尊敬と名誉を与えてくれました。」

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高所で行動中のリトル・カリム

 もちろん、リトル・カリムがスーパーマンであるという評判は、理由がないわけではない。

 ある時、ブロードピークの第3キャンプで、若い女性クライマーが体調を崩した。カリムはベースキャンプに滞在中で、ベースから彼女のために薬を持って出動した。3時間弱で登頂し、彼女の命を救った。

 そして1986年、ブロードピークから下山中、スペイン人クライマーがギブアップしたときのことだ。7700m地点で体力が切れて座り込んでしまい「もう歩けない」と仲間に告げたのだ。涙を流しながらリトル・カリムに「自分を置いていってくれ、先に行ってくれ」と懇願した。

「皆はそのスペイン人を置いて、700m下った。彼も死を覚悟していた。でもその時、私は殺人を犯していると思ったのです。彼はその高さでは生きていけないのです」とリトル・カリムは振り返る。

 リトル・カリムは、スペイン人を救出するために戻った。カリムは、ハーネスとウェアで簡易ソリを作り、スペイン人クライマーを第3キャンプまで運んだ。倒れたクライマーはテントで一晩休んで、たっぷりと食事をとり、元の世界に戻っていった。「完全に回復したとき、そのスペイン人は私に抱きつき、涙が止まりませんでした。その時のことは今でも覚えていますよ」。

 リトル・カリムも、登山中の事故で一緒に登った多くの人が亡くなっているが、彼は幸運にも生きている。クレバスに落ちたとき、3度ほど死と隣り合わせになった。最も深いところでは35mまで落ちたが、そのたびに無事に引き上げられた。眼下には暗く恐ろしい世界が広がっており、そこから未知の冥界から悪魔がうなり声を上げているような、不気味な氷河の音が聞こえてきたという。

 60代前半のリトル・カリムは、故郷のフーシェ村で小さな食料品店を営んでいる。1999年から2000年にかけて黄疸が出たため、7000m以上の山への登山は制限された。「戻ってから医師から7000m以上の高所には行かないようにと言われました。でも、それはカラコルムを登れないという意味ではなく、特定の高度以上には行けないという意味だったのです」

 リトル・カリムは、地元の子供たちのために学校を建て、教育を施し、登山家になるための訓練を行うなど、村のために少しでも役に立とうとした。しかし、彼のアイデアは地域社会からはほとんど支持されなかった。「私は今でも、自分の住む地域を発展させたいという夢を持ち続けています。道路を整備し、学校と青少年のための訓練学校をつくり、地元の人たちに働く機会を与えるべきだ」と彼は主張する。

 一方、スカルドゥ周辺の旅行会社は、観光客や登山家を誘致するために、リトル・カリムの名前や写真をウェブサイトに使っている。しかし、リトル・カリムはそのことを何も知らず、彼の名前や写真の使用料も受け取っていない。

 彼は、山の空気を吸うことだけを考えているのだ。

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 リトル・カリムと日本隊との接点は、なんといっても1981年の早稲田大学隊によるK2西稜初登、大谷映芳氏、ナジール・サビール氏の登頂を支援したことが挙げられるでしょう。

 1980年代、日本の「先鋭」と呼ばれるクライマー達が「8000m峰では他人を助けてはならないし自分が窮地に陥っても助ける必要はない」と啖呵を切っていましたし、私もそう教わってきました。

 その一方、リトル・カリムが身をもって示した「ヒューマニズム」。

 記事の執筆者Obaid Ur Rehman Abbasi氏が締めくくる、『彼は、山の空気を吸うことだけを考えているのだ。』

 メディアに売り込むのが巧い「アルピニスト」がもてはやされ、パキスタン人クライマーは山岳メディアにも一切取り上げられない風潮の中で、1人の「人生の登山家」が世を去ったといえましょう。

 偉大な先達の死に哀悼の意を表します。

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