酒仙の墓

山形は酒どころ、らしい。

らしい、というのは、私は普段は晩酌もしないし、飲むのは会社と山仲間の飲み会だけなので、日本酒は詳しくはない。

以前別件で山形の石碑を調べていたところ、山形には「酒仙」と呼ばれる人の墓があることを知った。

コロナ禍で各地の民俗行事・年中行事が中止になっている今、「酒仙」の墓を訪れてみる。

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山形市・正覚寺の酒仙像

 山形市の古い市街地の奥に位置する正覚寺の「酒仙」の墓は、個人の墓石の隣に建てられている。

 高さ30cmほどだが、左手に酒樽を抱え、右手に盃を持った、堂々たる石像である。寛政4年(1792年)作。

 もう顔面は欠けていてよくわからないが、文献では「大笑い」している像とのこと。

 風化してよくわからないが、辞世が刻まれている。

 『一世を計てみれば樽の酒、酔ふも醒るも夢のゆめなり』

 資料には個人名が記されているが、ここでは伏せておく。この墓に埋葬された方は大百姓で、大の酒好きで知られ、ある時雷が激しく皆が震えている際にも一人悠然と盃を傾けていたという。

 

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山形市・妙見字地区の「酒仙の墓」

 山形市の妙見字地区の杉林にひっそりと建つ「酒仙の墓」は、法印定胤 という修験者(家は豪農)の墓である。

 これまた大の酒好きで「酒に明け酒に暮れる」生活を送っていたとのことで、その死後に弟子たちが建立したものだといわれる。

 この法印定胤の家も前述の墓主と同じく、子々孫々も酒豪だったため家が傾き、廃絶してしまったという。 

 

 私が参考にしたのは、民俗研究者として知られる武田好吉氏の資料(※)なのだが、氏の調査によれば山形県内において「酒仙」といわれる方の、ユーモラスなデザインの墓は14箇所確認されている。中でも、前記のような盃と徳利を重ねたデザインの墓が最も多い。

 製作年代も寛政年間から弘化年間(1792~1847)に集中しており、江戸時代の中でも比較的に平穏で、交通も信仰も盛んな時期であること、そして何より「建てる人」「建てられる人」「僧侶」の三者が共に「酒を肯定して」こそ、建てられたものだと武田氏は指摘している。

 亡くなった山仲間で「散骨」で葬られた方もいるし、最近は山形でも「樹木葬」などテレビCMが流れ、故人をしのぶ在り方は様々だ。

 昔の人々が故人を象徴する強烈なデザインを墓石に刻んでいた事実は、古来からの「酒と人」の結びつきを知るうえで実に興味深い。

 

※参考文献 山形の酒を語る会『酒仙の墓』昭和46年3月刊

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やさら流し 山形県遊佐町 樽川地区 令和2年4月4日

山形県飽海郡遊佐町には、月遅れの節供の行事として藁人形を川に流し「災厄送り」とする行事「やさら流し」が伝承されている。


「やさら」とは八皿とも弥皿とも書く。樽川地区では八皿と書く。由来・起源は明らかではない。ヤマタノオロチ退治に用いられた八つの酒樽になぞらえた、八種類の料理を備えるから、など諸説ある。


 月山から下山してそのまま樽川地区を訪れる。17時45分、集落中央部の三差路に皆さん藁人形を持って集合されていた。


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樽川地区は全戸数17戸。皆顔見知りだ。


この日は遊佐町広報担当の方、山形新聞の記者、荘内日報の記者、そして私が撮影機材を抱えて集まっており、女性の方からは「これから着替えてこようか」との言葉が出て笑いを誘う。


 伝統行事はどこでもそうだが、集まった住民の方は年配の方が中心。


 平成16年発行の山形県教育委員会による行事調査報告書では多くの子供たちの姿が写真として掲載されているのだが・・・住民の方からも、


「外孫でも連れてくるといいっけか?」と声が聞こえる。


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 樽川地区の「やさら流し」で用いられる藁人形。背丈は30cmほど、赤い椿が頭上に飾られる。背中には御馳走の入った「わらつと」を背負う。


 各家庭で藁人形を作り、お膳やお神酒を捧げられてから行事に持ち出されるのだ。


 18時少し前、「はじめましょうか」とゆるく行事は始まる。


 鐘と太鼓の拍子と共に、皆さん声をそろえて


『やっさらにんぎょう おくんぜ どこまでおくんぜ さんどがしま(佐渡島)までおくんぜ』と唱えながら集落を歩き、近くの洗沢川へ行く。


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 最後にあらためて唱え歌を歌い、一斉に藁人形を川に放る。災厄を川へ、海へと流すのだ。


 おりしもコロナウイルスが猛威を振るう日本。


 近くの平津地区では大きな藁人形を作り、若衆がお神酒を飲みながら藁人形を担ぎ出す行事なのだが、今年は神事のみだと伺った。


 帰路、歩きながら世話役の方から樽川地区の成り立ち、やさら行事のことなど色々伺う。


 樽川地区では、現在2~3歳の子供しかいないとのこと。


 それでも、年配の方を中心に途切れずに「やさら流し」が継続されてきたことは、地区の方々の平安な生活を願う「祈り」の賜物だろう。


 樽川地区の子供たちが大きくなる頃、どんな世の中になっているのだろうか。


 この日記録した動画はこちらです↓



コロナウイルス蔓延が問題となっている中、部外者の見学を快く迎えてくださった樽川地区の皆様のご健康をお祈りいたします。

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【山形の手仕事】由右エ門ほうき を作る

2月2日、鶴岡アートフォーラム主催による「由右エ門ほうきを作ろう」に参加。

庄内町・古関地区の米農家に伝わるほうき作りは、売るためではない、自分たちの生活で使うために作り続けられてきたほうき。

その特徴は、女性や老人が使いやすいように軽く細い持ち手が特徴。

このほうき作りを受け継いできた川井由右エ門氏は昨年夏に残念ながら逝去、その意志を受け継いで「由右エ門ほうき伝承の会」が発足、庄内を中心に各地で制作体験会を開いている。

今回は参加者17名、男性は私含め2名という状況で、女性の皆様にまじり、ほうき作りに挑戦。

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会場の庄内町・余目第四公民館にて。用いる糸の色ごとにグループ分け。私はもちろん情熱の赤を選択。

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材料となる「ほうきび」のきびを3束、配布されます。

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「ほうきび」はもちろん地元産の地産地消。黒い実をまくとほうきび実りますよ、と教えられる。

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力をこめて、綺麗に糸を巻いていく。

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ヤットコのような器具、ヌンチャクのような木製具で「ほうきび」を挟みます。

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 三本の「ほうきび」を2センチ間隔で、巻き結びで縛っていき、まとまったところで木製の心棒を叩き込みます。叩き込んでいるのは私たちの班の先生、斉藤さん。

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なんとなく「ほうき」の形になりました。ここからが遠く遙かな道でした・・・

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 時間と手間、器用さを要する「金糸の縫い付け」。バッテン形になるように、長さ20cm位の太い針でタコ糸を縫い付けていきます。この工程から、圧倒的に針仕事に慣れた女性の皆様に引き離される(笑)

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体験会は13時から始まり、17時に終わる予定でしたが、もう時間切れ。保存会の女性の方から柄頭の布袋を縫い付けていただきました。

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最後に太い針で柄を貫いてヒモを取り付け、ようやく完成。

 なんだかんだと、工程の8割くらいは保存会の皆様に手を掛けていただきました。

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完成した私の「由右エ門ほうき」 

 

 冬の農閑期の手仕事として伝わる「由右エ門ほうき」。

 作ってみた感想は、補強を兼ねた装飾(こごでは三本のほうきびをまとめる金糸の縫い付け)に先人たちはこんなにも力を注いできたのか、という思いです。

 補強材の竹や心棒を叩き込む力強さ、針仕事特有の繊細さ、両方が要求されます。先人達の力強さと器用さを痛感させられた体験会でした。

 鶴岡アートフォーラムならびに由右エ門ほうき伝承の会皆様には、貴重な体験をさせていただき深く感謝申し上げます。

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さんげさんげ 祈りの夜

12月7日、山形県 鮭川村の庭月観音で行われる年中行事「さんげさんげ」に参加。

「さんげさんげ」とは出羽三山信仰に由来し、唱え文句の「さんげさんげ」は「懺悔懺悔六根清浄」に由来する。

地元住民が集い、「さんげさんげ」と読経を唱え、翌年の家内安全・五穀豊穣を祈願する年越し行事である。

現在は山形県の最上地方、鮭川、真室川、新庄、大蔵村に残る行事である。

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庭月観音 祭壇には、前もって祈願依頼された方々の蝋燭が幾本も灯されている。

18時30分、ご住職の吹く法螺貝で始まり、読経開始。

この日集まったのは親子連れ二組、おばあさんと孫らしい女子高校生、私含め11人。

祭壇脇には地元関係者らしき男性3名が並ぶ。

初めに般若心経を読経、それから「懺悔文(ざんげもん)」と呼ばれる「さんげさんげ」独特の経を皆で読む。

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幼稚園年長か小学1年生くらいか・・・のお友達同士。この子たちが大きくなる頃には、この行事は残っているだろうか。

懺悔文は、

『懺悔懺悔六根罪性、御住連八大金剛童子一時礼拝』(さんげさんげろっこんざいしょ、おしめにはちだいこんごうどうじのいちじらいはい)

「さんげさんげろっこんざいしょ」の文句の後は「天照大神」「愛染明王」など様々に言葉が入れ替わる。

「羽黒三者権現」「補陀落三所の権現」などの言葉もみられ、そもそもは山岳修験の行事であることがうかがえる。

ご住職のお話では、もともと庭月観音は羽黒山系の寺院とのこと。庄内の「モリの山供養」のように本来の行事が仏教寺院の行事へと変化・受け継がれたものだろう。

読経は19時過ぎに終わり、それから前もって申し込みしていた方々のご祈祷、名前が読み上げられる。

もっと年配の住民が参加する行事と思っていたが、今日は若い親子連れが参加しており、それゆえ地元の方々の厚い信仰心がうかがえる。

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ご住職の短い法話の後は、子供達お楽しみ、御護符のみかんが撒かれ、皆で楽しく拾い集める。

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近年、映画化でも知られた「むかさり絵馬」

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行事後、寺院で用意したおもちゃの「あてくじ」を楽しむ子供達。ご住職のお話では、単に子供達のためのくじではなく、かつて「さんげさんげ」行事が盛んだった頃、露店も出店していた頃の名残だという。

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私がゲットした御護符のみかんとお餅。今年は山仲間の死、自分の車両事故、様々ありました。

「神頼み」を嘲笑するほど私は無神論者ではなく、何かにすがりたくなる時もある。

仕事仲間、ガイド仲間、家族、ブログをご覧の皆様の安全、欲張りにも沢山の祈願をさせていただきました。

「さんげさんげ」は、本来は2~3日かけて行者姿で「お籠もり」をして祈願する宗教行事。いつか機会を得て、こちらも見学してみたい。

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後ろを振り向いてはならない。 真室川町 病追い(やまいぼい)

11月9日夜、山形県 真室川町 ふるさと伝承館へ。

真室川町平枝地区で現在も続けられる伝統行事『病追い(やまいぼい)』を見学させていただく。

家の中に「病」が入らないように、家の中の「病」を追い払うために、餅をつき、餅を入れた藁人形を集落外れの水田に置いてくるという伝統行事です。

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 真室川町教育委員会を通じて地元区長様にもご紹介いただき、行事が始まる18時に訪れてみると、大人たちによる餅の杵つきが始まる。

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大人たちの手であらかた「こね」「杵つき」が終わってから、子供達による餅つき。

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つきあがった餅は藁つとに入れ、藁人形に背負わせる。

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 藁人形は2体作られ、子供達が持つ。

 この集落の子供達が行列を作り、一度集落の端まで移動。

 それから番楽の演奏と共に夜の集落を練り歩きます。さすが番楽の盛んな地区、先ほどの餅つきで「腰が痛い・・・」「明日筋肉痛だな・・・」とつぶやいていた若いお父さん方も、行列ではキリッとした表情でお囃子の横笛・太鼓を鳴らしていて格好いい。

 カメラが不調のため完全に収録できなかったが、餅つきから行列が練り歩くまでを動画に記録しました。

  夜の闇の中、刈り取り後の水田に棒を立て、藁人形を固定します。

 皆が「ほーっほーっ」と叫び、誰かが「ああ、これで病が飛んでった」とつぶやきました。

 それから大人達が子供達に

 「戻るぞー、絶対 う し ろ ふ り む く な よ ー!

 そうです、藁人形をたてた後は後ろを振り向かずに戻らなければならないという禁忌があるのです。私は見学のため、行列の最後を歩いていましたが、皆一斉に振り向かず、ふるさと伝承館にもどっていきます。

 「病」という「悪いモノ」を集落の外に追い出し、絶対に振り向かずに戻ってくるという習わしに、黄泉の国を訪れたイザナギの神話を連想させられます。

 地元の方に伺うと、藁人形はそのまま朽ちるに任せて放置しておくとのこと。基本的に「病」を封じ込めた藁人形なのであまり縁起の良いものではないらしく、地元の慣習を知らない新任の若い先生が、歩くスキーの授業で藁人形の立つ水田に近寄りそうになり、みんなが慌てて止めた、なんてエピソードもお話してくださいました。

 今回の行事、餅つきで用いた餅米は5升。行列が戻ってからは地区皆さんの直来となり、私は行列の見学にとどめさせていただき、退出。

 古い伝統行事が地区総出で大事にされている姿に感銘を受けた夜でした。

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さよなら、古寺鉱泉・朝陽館

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今シーズン限りで営業を終える古寺鉱泉・朝陽館に泊まる。営業最後の年のためか、週末はツアー等で予約いっぱいのところ、空いている日曜宿泊で予約成功。明日は古寺鉱泉から会社に出勤である。

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2階の部屋に案内され、宿帳に名前と住所を記入。ご主人から、

「あれ、山形市の○○に住んでるの?おれ近くの△△出身なんだけど」

同じ学区の出身ということで話が盛り上がる。

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同じ学区出身ということで?にこやかに宿の説明をしていただく。窓に置いてある布テープは「カメムシ君」(ご主人談)対策。カメムシがでてきたら、手に触れないようにしてテープに貼り付け、備え付けの袋に入れる。

「まず入浴して汗流しましょう!」

ご主人に勧められ、入浴。

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源泉は7.3℃の含二酸化炭素ーナトリウム・カルシウムー塩化物・炭酸水素泉冷鉱泉。それを沸かしたお湯が幾人もの登山者を癒やしてきた。

一風呂浴びて、夕食までの2時間、のんびり過ごす。

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窓からの光景。古寺川の流れる音。

初めて朝陽館に泊まったのはだいぶ以前、ツアー登山がまだ盛んだった頃。

大朝日岳の日帰りツアーから下山し、朝陽館の前に到着した時のこと。登頂できて涙を流すお客様をみて、山岳ガイドという仕事の素晴らしさを知った。

宿泊しなかったものの、ガイド山行で前を通り過ぎる時、これから山頂を目指す緊張感、下山した時の安堵感。

昭和12年築造の朝陽館にいつも見守られてきた。

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1階廊下の様子

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2階の階段から玄関を望む

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黒光りする木造の階段、手すり

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2階廊下の様子

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部屋を仕切る戸は障子です

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アルミサッシの内側、元の木戸の鍵はネジ式

「ちょっと早いですが・・・」

と、ご主人の声がかかり、1階の広間で夕食。

本日の宿泊客は私の他に、ご高齢の夫婦とトレイルランやっているという元気そうな息子さんの親子一組。

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ご主人から料理の説明。左下から時計回りに、山ウドの煮付け、大根の山葡萄漬、ワラビおひたし、だし(山盛の中に豆腐)、キクラゲのポン酢あえ、ゼンマイ煮付け、ブナハリタケ煮付け、岩魚塩焼、キノコ味噌汁(すんませんキノコ名前忘れた)、御飯は山形のブランド米つや姫。

 お隣の親子連れは横浜からいらっしゃったとのことで感激しきり。山形県人の私にとってはなじみの食材だが、県外から訪れる山岳部の先輩後輩、お客様には、こういう料理食べさせたかったなあ・・・と後悔の思い。

 夕食を食べていると、女将さんがわざわざ私のところにやってきて、

「大滝さん、山形市から来て十分帰れるのに、お泊まりになるのは、営業最後とかお聞きになったからですか?」

と核心を突かれる質問をいただく。

月山山頂小屋ではガイドとして御厚意をありがたく戴いているが、普段はあまり「山岳ガイド」という身分を振り回したくない。今回も普通の登山者として泊まっていたのだが、話の成り行きで昔ガイド山行でお世話になったことを話す。

女将さん「ガイドですってー!」

ご主人「なんだよー、それ早く言えよー!」

それからはガイド業、ツアー登山を巡る旅行業、朝陽館の今後、新設される登山センターの話で盛り上がる。ご主人の話から、横浜からいらっしゃった親子の方のお話から、いろんなお話。

朝陽館の夕食には、人との出会いがありました。

夕食後は部屋に戻る。

朝陽館の電話は衛星通信電話だ。電波の届かない楽天モバイルのwifiルーター、ガラケー、iphoneはポーチにしまう。気象情報を得るためのラジオも入りが悪い。普段はiphoneに録音しているエピック音楽を聴くのだが、それもここではやめる。

古寺川の水音、かすかに薪を焚く香り。通信手段から閉ざされた、静かな山の宿で、現代メディアの評論書を熟読。

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自家発電が止まる夜間、階段をほんのり照らすランプ

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しっかり睡眠をとった翌朝、布団をたたみ、ご主人らが朝飯の用意をする前に宿を退出。

さあ、これから会社。今週も現場作業に頑張ろう。

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早朝の玄関。さよなら、古寺鉱泉・朝陽館。

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岩谷十八夜観音例祭

8月18日、山形県中山町の山奥に位置する、岩谷十八夜観音の例祭を訪れる。

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 この観音堂は眼の病を治す観音堂で知られると共に、山形一帯にかつて存在した『オナカマ』の総本山としても知られる。オナカマとは、いわゆるイタコ、口寄せなどとも呼ばれる、霊を呼ぶ巫女のことだ。

 私の実家の祖母・・・ここでは詳細は省くが、直接の血縁ではない・・・が、かつてオナカマだった。「祖母」は私が生まれる前に他界したので詳細はもうわからない。

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観音堂裏のガラスケースには、オナカマ達が使った儀式の道具が展示されている。なにか小動物の頭骨を用いた数珠にミステリアスなものを感じる。

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私が到着した時には、もう地元の方で境内はいっぱい。

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火渡り儀式の前に、観音堂のご住職が弓で破魔矢を射る。縁起物の矢を手に入れようと、見学者達が我先にと落下する矢に集まる。

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護摩談に火が付けられ、ご住職が炭をならし、塩をまき、参拝者が歩きやすいようにさらに材木を敷く。

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そして、つめかけた多くの参拝者が火の上を渡っていく。

破魔矢の儀式から火渡りまでを動画で記録しました。↓

 

私も撮影を終えてから、火渡りの列に混じり渡ってきました。

ここの例祭を訪れるのは今回が2度目。ガイド資格をいただいた頃、中山町の里山を調べているうちにたまたま訪れた行事で、その頃は今のように民俗学にはさほど関心がない時期でした。

今回は、家族のこと、会社の仲間、ガイド仲間の安全、ブログ読者様の安全まで欲張りに願掛けしてきました。

火渡りを終えて帰り際、「大滝さん?」と声を掛けられる。

ふりむくと、先日の某登山用品店様主催のガイド山行で御一緒した顧客のお二人。

「今日は山じゃないんですか?」

 「あ、今日は民俗行事優先です!」

ガイドとして不特定多数の方々と山に行っていると、思わぬところで声をかけられる機会がある。普段の行動も気をつけよう、いやそんなに悪いことしてないけど。

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金比羅樽流し 山形県中山町 川向地区 2019

金比羅信仰。

香川県琴平町「金刀比羅宮」を敬う信仰として水上安全祈願から江戸時代以降は諸願成就の神様となり、全国各地に「請」が組織され参拝が行われた。

この信仰が北前船で日本海、最上川を経由して山形県内各地へと伝わったのが「樽流し」の風習である。

しかし山形県内でもその風習は次々と途絶し、今現在は山形県中山町 川向地区に残るのみとなった。以前から見学したいと思いつつなかなか機会が得られなかったのだが、令和元年の6月1日、ようやく見学できる機会を得た。

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樽流し祭礼を控えた、中山町川向地区の「金比羅山」石碑。

石碑には大正三年と刻まれている。樽流し行事に関する資料は、大正三年の古文書が最古のものでそれより古いものは残されていない。山形県内の金比羅山石碑の年号が寛政年間(1789~1800)に集中していることから、それ以降に始まった行事と推測されている。

行事は朝9時から、長崎地区の天台寺門宗光秀院住職(地元の人は法印と呼ぶ)の法螺貝と読経、関係者の玉串奉納と続く。

それから樽、注連縄を持ち出して目前を流れる最上川に流される。

この行事は請の方も高齢のお二人だけとなり、途絶が懸念されたが、「樽流保存会」が結成され、中山町町長、山形県観光課課長も参列する行事になっていた。

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請の関係者、町長、県の課長も参列する行事とはいえ、ときおり農作業や地元の方の車が通る度、通行スペースを空けなければならない。ドライバーは祭事には全く関心が無いそぶりで通過していく。

人々の関心が薄れていく中で、樽流し行事を継続させていった地元関係者皆様の努力に頭が下がる思い。

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流される樽。かつては近隣の長崎地区の樽職人がいたのだが亡くなってしまい、今は山形市内の樽屋から3500円で購入したものを毎年使い回ししている。

 本来は中に酒を入れ、川に流す。下流で拾った人は中の酒を飲み、また酒をつぎ足して流してやるという。文献によっては、つぎ足すなどということもせずそのまま流すことが多かったと記録されている。

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文献では、復活した樽流し行事では樽がなかなか入手できないため、下流で網で樽を回収すると記録されているが、現在は樽にシャックル(U字型の金具)をとりつけ、ロープで結び、カヌーで樽を曳航する形式で行事が進められる。樽が流れる演出である。地元の方の話によれば、樽を流す場所は昔は水流があったのだが、今は水の流れが緩やかすぎて樽が流れていかないのだという。

 樽と注連縄を流す様子を動画に記録しました。↓

 

樽と注連縄を流し終えた後、石碑の前の捧げ物をみてみました。

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米と塩、御神酒とスルメです。スルメは千切って「御護符で皆に配れや」と関係者の方が指示していました。仏教では禁葷食のネギがささげられていることが印象に残ります。こちら中山町は山形で有名な「芋煮会」発祥の地と呼ばれ、ネギも地元の産品なので捧げられているのでしょう。

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奉納金を持参してお伺いしたところ、このような手ぬぐいを頂きました。樽曳航のカヌーにも貼られていた手ぬぐいです。川の流れと樽をシンプルに表現したデザインが秀逸です。また芳名帳に記入したところ、後日丁寧な御礼のハガキを頂きました。関係者皆様のご健康と行事の継続をお祈りいたします。

参考文献:山形県教育委員会編『山形県の民俗芸能』1995、野口一雄著『山形県の金毘羅信仰』2004、川向金比羅請中・中山町川向金比羅樽流保存会作成パンフレット『中山町川向金比羅樽流し』2019

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両所田植踊 山形県西村山郡河北町 両所神社

5月3日、山形県河北町 両所地区で開催される両所田植踊を見学。

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 歴史上、河北町でも初期に開拓されたという両所集落上部に位置する両所神社。例大祭ということで地元の方が開く露店も出る賑わい。

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 奉納田植踊・芸能祭という形でステージも設けられ、地元歌手の鈴木加奈子さんの歌謡曲や地元有志の方の大黒舞、舞踊などが披露され、最後に両所田植踊が披露される。

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 両所田植踊の特徴は、踊り手は爺(左)、婆(右)、ひょっとこの3人が面を被り踊る点にある。他の田植踊りのような「早乙女」は登場しない。その歴史は約250年前までさかのぼる。

 両所出身の山田熊次郎という人物が日和田(現・寒河江市)の石屋に弟子入りしていた。関西から来た旅芸人が石屋に宿泊した折、宿泊の御礼にと田植踊りを教えていった事がルーツといわれる。学術的には宮城県系の舞いとされ、用いられる面(弥十郎面)は春の訪れで覚醒した田の神が、泥田の中から這い上がる様を表すとされている。

 以来、両所田植踊は少しずつ変化していった。当初の演奏は三味線も含まれていたが、演奏が難しいとのことで廃れた。両所大黒舞、両所八木節が併せて披露されていたが途絶した。

 地元の方の懸念を受け、高度経済成長期末期の昭和49年には両所田植踊保存会が結成された。しかし青年層の人間は集まらず、その継続は地元の小学生に委ねられ、現在に至る。中学生が望ましかったらしいが、「部活と勉強で忙しい」という現実的な理由で小学生が引き継いだ。

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 第3の踊り手、両所田植踊の特徴でもある「ひょっとこ」の存在が大きい。ステージを抜け出し、観客にちょっかいを出し、笑いを誘う。一部の観客だけでなく、観客全体を廻っていくのだ。

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 ぶっちゃけ、「○○神楽」など古典芸能は見ていて眠たくなるときがある。

 しかしこの両所田植踊は「ひょっとこ」の存在で、踊り手と観衆との一体感が素晴らしい。見学者は高齢の方が多いが、孫・ひ孫のような踊り手にちょっかいを出されて皆笑顔だ。

 記録動画ではプライバシー保護のため撮影しなかったが、田植踊が終わった後、囃し手、踊り手の自己紹介がある。踊り手の子供達は自己紹介の時に「おじいさんは○○、お父さんは△△です」と祖父、父の名前も明かす。

 観衆はほぼ地元の方々の小さい祭典、誰も彼も顔見知りなのだろう。祖父や父の名前を聞くとあちこちから「ああ~」とか、「似てるずね~」と声が聞こえる。

 田植踊りだけでなく、他の歌謡ショーや舞踊の披露でも、地元の人がおひねりをステージに置いていく。背後の観衆の間では「お久しぶりです~」 「あの人、○○と同級生なんだど」など、地方のムラ社会でよくある会話が弾む。

 長い5月連休の中日での開催、子供達を見守る保護者や祭典を催す氏子の皆さんの苦労は大変なものだろう。両所田植踊も、山形の民俗関係の文献で特筆されているわけでもない、小さな集落の小さな祭典だ。

 私も山形県内の郷土芸能を数多く見ている訳ではないし、甲乙をつける筋のものでないことは承知の上であえて言おう。

 河北町の両所田植踊の雰囲気の素晴らしさは、郷土芸能の理想の1つではないか、と。

 地元の方による、地元の方のための祭典。人々が田植踊をはじめとする祭典を通じて親交を深め、笑って過ごす時間。ユネスコなんとかや世界遺産何とかに選定されることが重要ではなく、そこに暮らす人々が神々を敬い、近隣の人と楽しく過ごす行事は大小かかわらず、私の心に残る。そんな行事をこれからも追い求めたい。

両所田植踊の一部、ひょっとこが笑いに包まれながらステージに再登場する部分を動画にアップしました。


参考文献:河北中学校郷土研究部編『両所田植踊 地域の民俗芸能を訪ねて』1992、河北郷土史研究会『河北の歴史と文化』第8号 2012

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山の神を迎える人々

2月24日、山形県鶴岡市 戸沢地区。

戸沢地区で行われる、山の神を迎える神事 「山の神迎え」を見学させていただく。
集落に2箇所ある山の神の社(やしろ)の大木に、藁で作った巨大なノサ(御幣)を掛けるという行事である。

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会場は戸沢自治公民館の体育館。
バスケのゴールに荒縄で吊した藁束から、御幣の「綱ぶち」が行われる。

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幾本もの綱が伸ばされていく。
戸沢集落の青年8名、指導役1名で作業が進められる。

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昔は女人禁制だったが、現在は女性が御神酒の接待役にまわる。
御神酒を口にしながら、作業は進む。

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伸ばした綱を巻き上げてまとめ、床に下ろして仕上げ。
「結び目はこうで・・・」
「正面はこっちで・・・」
と、指導役の方の指導に従い、男性達が藁をない、まとめていく。
今年は集落内で不幸があり、参加人数も少ないとのこと。

13時半頃に始まった「綱ぶち」、ノサ(御幣)2つが完成したのは15時55分だった。

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ノサ(御幣)を担ぐ役2名、まさかりを担ぐ役2名が講堂で正座し、御神酒を授かる。

それから皆は公民館2階の和室に設けられた「神域」に入り、神事が始まる。
拝礼、謡、御神酒、そして

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担ぎ役の4名は顔に米のシトギ(水に浸した米を砕いて粉にして固めたもの)を塗りつける。

これら神事が終わった後、皆が部屋を出ようとしたところで、指導役の方から
「結界切れよ!」
と声が飛ぶ。
和室にはしめ縄が張ってあり、それを切ってから外に出よ、ということらしい。
神事では皆さん整然と謡を唱え、結界を築いている。
きわめて厳粛に神事が進められ、伝統が守られていることを感じる。

外に出て、担ぎ役は二手に分かれて集落を練り歩く。
「こちらの方が見学にはいいと思いますよ」
と、私に移動距離の短い組を進めていただき、ついていく。

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大声で『オヤマカセーッ』と唱えながら、山の神の社をめざす。

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お社の中で、あらためて拝礼、謡を唱える。
そして、お社に隣接した大木にハシゴがかけられる。

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綱を担ぐ役の方は大変そうだが、無事に今年のノサが大木に掛けられた。
正面は近隣の菅野代集落の方に向けるという。
昔はよじ登り、木のてっぺんに掛けるほどよいとされていたそうだが、今は「ハシゴで登れるところまででいいぞ」とされているようだ。

この後、民家を廻り自治公民館に戻って直会となる。余所者の私は大木にノサを掛けたところを見届けて退出させていただいた。

ノサ(御幣)の綱ぶちから大木のノサ掛けまでを動画に収録しました。

帰路、鶴岡市内を車で走っていると、雄大な月山・東面が夕陽でほんのり紅く染まり始めていた。
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紅く染まり始めた月山の、人間を寄せ付けないような美しさ。
山の神を迎える人々の信仰心を、改めて強く感じた瞬間だった。

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