Art of Freedom

Art_of_freedom 山岳ジャーナリスト Bernadette McDonald女史の新刊『Art of Freedom』を読む。ポーランドの岳人ヴォイテク・クルティカの伝記である。

 ヴォイテク・クルティカといえば、日本では断片的なインタビュー記事がたまに掲載された程度で、あとはニコラス・オコネル著『ビヨンド・リスク』がまとまったインタビューを掲載している程度であろうか。

 クルティカといえば、そのスマートな「アルパインスタイル」、ラインを重視したより困難な高所登山が高く評価されているが、この本には「人間、ヴォイテク・クルティカ」がよく記録されている。

 読んでいて気がついたことだが、ヴォイテクにとっては「アルパインスタイル」はごく自然な登山スタイルにすぎなかった。日本の70~80年代、やたらと「海外ではアルパインスタイル」と、欧米崇拝はなはだしい先鋭登山家および池田某老人にリードされた日本登山界であるが、そういった「他者の評価」など全く気にすることは無い。
 あたりまえだ、なぜなら彼らには「アルパインスタイル」がごく自然な、当然な登山形態だったのだから。

 アレックス・マッキンタイアらと組んだダウラギリ東壁の記録は、まさにシンプルイズベストともいうべき、素晴らしい描写である。
 そして読み進むうちに、そのシンプルなアルパインスタイルの陰にある地味な活動やエピソードも明らかになる。

生卵300個と格闘するヴォイテク・クルティカ

1983年、クルティカとククチカはガッシャブルム2峰南東稜をめざしパキスタンに入る。
クルティカは食糧係として1人1日卵2個×メンバー2人×登山期間60日プラス予備=生卵300個の購入する。
ククチカは「はぁ?!ポーランドから持ってきた旨いハム缶あるだろ!なんで卵そんなに要るんだよ」 (当ブログ流意訳)とあきれ顔。
そしてより新鮮な卵を選ぶために、リエゾンオフィサーから「ミスター・ボイティク、エッグテストをご存じですか?」
と、新鮮な卵の見分け方を教えてもらう。
それは卵を水の中に入れ、水中に沈んだ卵は新鮮な良い卵、という方法だ。

卵300個購入に不満なククチカは協力してくれない。
クルティカはたった1人、生卵300個を水中に出し入れし、新鮮な卵をより分けていく。

日本人クライマーから「哲学的」 「求道的」 とあがめ奉られているヴォイテク・クルティカが、1人で生卵300個を相手に格闘する。
とかくクライミングの成果ばかりが強調されがちなアルパインスタイルのクライミングの陰に、こんな地味な行動があったのだ。

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1984年マナスルにて、ルートの雪崩の危険性について議論するイェジ・ククチカとヴォイテク・クルティカ 撮影アルトゥール・ハイゼル

クルティカとククチカは食糧で結構モメる。
登山も終了、余ったハムをクルティカが鳥に投げ与えていると、
「おめーなにやってんだよー、食い物粗末にすんじゃねーよ」とククチカが文句を言う。
「ハムとっといても悪くなるだけだし、ポーターもリエゾンもパキスタン人でハム食わねーし、しょうがねーべ」
(当ブログ流意訳)
そして決定的なのは、メスナーに対抗意識を燃やして新ルート・冬季登頂であくまでも「登頂」をめざすククチカ。それに対して登攀「ライン」を重視するクルティカ。ブロードピーク三山縦走直前も、登攀ルートを巡って議論になった2人。袂を分かつのは当然だったといえよう。

山田昇らとの合同登山の事
1986年の山田昇らとの日ポ合同隊として挑んだトランゴタワーに関しても、一章を割いて詳しく描かれている。
ご存じの方もあろうかと思うが、この遠征では山田昇氏ら日本人クライマーがルートの困難さを理由に断念したことが知られている。
本書においても、山田昇氏が「このルートは我々にはハードすぎる」と断念を正直に申し出る姿が包み隠さず記録されている。
ボイティク・クルティカは登山当初から、キャンプ地選定において日本人達が雪崩や落石のリスクがあると思われる場所を選び、意見具申をしつつも「saving face」(メンツを立てる)を理解し、いたずらに自己主張することなく、素直に従っている。
クライミングの断念を申し込まれたクルティカは、最初は冗談かと思ったという。あくまでも登りたいクルティカは吉田憲司氏に一緒に登らないかと誘うが、合同隊であること、全員で行動を共にすべきという理由から断られる。
この登山断念に対し、ボイティク・クルティカは
「誰かに過ちをたずねられれば、日本人達との関係を上手く構築できなかった私にある」と謙虚な言葉を書き記している。
事実、ベースに下山後も冗談を言い合いながら過ごしていたという。

このトランゴ遠征をとらえて、丸山直樹なるライターが山田昇氏に関して「岩の実力は上手くなかった」というような非常に不愉快な表現で山岳雑誌に書いているのを読んだが、同行したパートナーであるボイティク・クルティカは日本人メンバーに対してあくまでも温かく接している。
最も困難な壁といわれるガッシャブルム4峰西壁を共に登り、サードマン現象まで一緒に体験したロベルト・シャウアーなどすぐに袂を分かったクルティカだが、日本人にはなぜか温かい。
その理由を探ろうと何度も何度も本書を読み返したが、ついに理解できなかった。どなたかボイティク・クルティカにインタビューしてください。

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1986年、トランゴタワーで山田昇氏とともに

故・谷口けい女史の言葉
本書で特筆すべきは、ボイティク・クルティカの「登山観」を示すために、故・谷口けい女史の言葉(Alpinist誌から引用したもの)が本書4箇所にわたり引用されていることである。
そのうちの一つは章の冒頭を飾る。引用しよう。

I love to draw beautiful lines as simply and silently as possible...
- Kei Taniguchi, "Being with the Mountain"

古今東西、とくに欧米にはアルパインスタイルのスーパースターともいえるクライマーがキラ星のように存在しているはずなのだが、著者 Bernadette McDonald女史はクルティカの心情・山に対する姿勢を表現するために谷口けい女史の言葉を選んだ。
まぎれもなく谷口けい女史の再評価であり、あらためて故人の不慮の死が悔やまれる。

人生の後半を迎えて

本書は若いアルパインクライマーだけでなく、むしろオールドクライマーの皆様にお勧めしたい。
年を取りヒマラヤでの活躍から身を引いたボイティク・クルティカは、スポート・クライマーとして困難なフリーソロを果たすなどするが、本書後半では少しずつ家庭人としておさまっていく姿が描かれている。

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愛娘Agnes とともに

娘いわく「仕事(自営の貿易業)の出張なのか、遠征登山なのか、出かければわからなかった」と言い、息子は「遠征登山の帰りはイキイキしてたのですぐわかる」と言う。男と女の違いなのか?
ボイティク・クルティカは家庭では躾にうるさい親であり、娘はことあるごとに反抗していたという。
アルパインスタイルは経験してなくても、この部分は共感する読者は多いのではないか(笑)

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家庭ではガーデニングを趣味とするボイティク・クルティカ。
娘のAgnesいわく、「自然に対する愛情は父親譲り」という。この部分だけでも見習いたいものです。

登山のパートナーを死なせなかったことを誇りとするボイティク・クルティカですが、私生活では2度離婚し結婚生活は破綻しています。世界各国の登山家から最高のクライマーと称されるクルティカも、女性に関し(以下省略)

本書は、渋っていたピオレドール生涯功労賞を受諾するまでが描かれています。
山岳雑誌や山岳本でその登山哲学を知ることは出来ますが、「人間としてのボイティク・クルティカ」を知りたい方、アルパインスタイルで素晴らしい業績を重ねてきた真の登山家の生き方を知りたい方、ぜひ本書をどうぞ。

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Wild Country : The man who made Friends

Wild_2 Mark Vallance著 『 Wild Country : The man who made Friends 』 (ワイルドカントリー フレンズを世に送り出した男) を読む。
 クライミングのカミングデバイス、「フレンズ」開発者といえば、レイ・ジャーディンを思い起こす方がほとんとであろう。
 この本はフレンズを「商品」として創り、ワイルドカントリー社を創業したマーク・バランス氏の自伝である。

 バランス氏の生い立ちから語られるのだが、なんといっても注目されるのはフレンズが製品化されるまでのストーリーであろう。
 クライマーな皆様はご存じのとおり、フレンズそのものを開発したのはアメリカ人クライマーであるレイ・ジャーディン氏であるが、それを製品化し、商品として世に送り出すため奔走したのがイギリス出身でやはりバリバリのクライマーであったマーク・バランス氏である。
 
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山岳博物館に保存されている、レイ・ジャーディン氏によるフレンズ初期の試作品(本書掲載写真)

 バランス氏が初めて試作品を手にし、クライミングに用いたのが1975年、場所はヨセミテのワシントンコラム。
 知られているエピソードどおり、試作品は周囲のクライマーたちには秘密にされ、青い袋に入れて持ち運ばれ、「フレンズ」と呼ばれていた・・・という経緯はあっさりと記述されている。
 本書によれば、レイ・ジャーディン氏は「フレンズ」以前に「グラバーズ」(grabbers、つかむやつ、ひったくり の意)と呼んでいたことが紹介されている。
 この呼び名に対してバランス氏は「あんまりイケてない」と不評だったようです。
 何かのはずみで、もしかしたら「フレンズ」は商品名「グラバーズ」になっていたのかもしれません。

 ジャーディン氏が開発した「フレンズ」、これを製品として生産し、流通させるため、ジャーディン氏とともにバランス氏の奮闘が始まります。
 デザインの改良、それに伴うスプリング、カム、本体の材料となるアルミ合金の選定、調達、金属を加工する技術者探し、会社「ワイルドカントリー」創設、それにともなう法人税etc、etc・・・・

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ワイルドカントリー社創業に際して書き込まれた、会社のクリティカル・パス。(本書掲載画像) 拡大してみられないのが残念・・・

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新工場設立時の記念写真、前列中央の男性がマーク・バランス氏。
中列、左から6人目、濃いスーツ姿の男性は名クライマーであるジェリー・モファット氏。

 こうして世に送り出された「フレンズ」がクライマーに受け入れられ、さらにキャメロットなど類似製品が続いたことはクライマーの皆様ご存じのとおり。本書には、ギアマニアならたまらないエピソードが満載である。
 営業活動を兼ねて日本山岳会の招聘で来日した際のエピソードも、詳しく書かれている。
 来日時に日本側の同行者として、バランス氏にとって深く印象に残っているのが坂下直枝氏。冬季アンナプルナに単独で挑んだクライマー、そして「綺麗な英語を話しユーモアに長けた人物」として評価されている。やっぱり英語とユーモアって大切なんですね。
 バランス氏は坂下氏らと谷川岳でクライミングを楽しむ・・・はずだったのだが、そこで転落事故に遭遇。坂下氏の活躍で遭難者は搬送されるが、バランス氏は谷川岳の遭難碑、あの600名以上の名前が連なる石碑を、驚きをもって描いている。

 バランス氏はビジネスを軌道に乗せた後、自分の夢絶ちがたく、ラッセルブライスら率いる商業公募隊に参加してヒマルチュリ、シシャパンマ、ブロードピークなどに遠征。

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ヒマルチュリを登高中のマーク・バランス氏

そしてクライミングは人工壁全盛の時代を迎え、人工壁に関するビジネスを手掛けるようになる。
イギリスでは1961年に既に人工壁の先駆けとなる壁が作られていたことが明らかにされている。

クライマーとして世界中の壁、チベット、ネパール、カラコルムの山を登り、ビジネスをこなすバランス氏。
そんな氏を病魔が襲う。パーキンソン病である。
パーキンソン病が進行しながらも、イギリス中を巡るサイクリングに熱中するなどアウトドアに活躍する氏。
しかし病は進行する。
少しずつクライミングにも限界を感じ、そんな自分を受け入れ、「人工壁を登った後、早めにパブで一杯やる」という氏。
そして2012年、ワイルドカントリー社のサレワへの買収。

マーク・バランス氏は最終章において、「夢」の存在を熱く語る。
パーキンソン病にむしばまれても、夢が幻のようになろうとも、クライミングの如く重力に逆らうように諦めない。

読み進んでいる間、私は本書はギアマニアにお勧めの本だと思っていた。
読了後はまったく違う感想を抱いた。

我々が普段用いているギアが、いかなる情熱の下に産み出されてきたのか。
登山、クライミング、そして仕事。そのバランスをとって生きていくことの困難さ、そのやりがい。
本書はマーク・バランスというクライマー、ビジネスマンの自伝という形で、クライミング(登山)のある人生の素晴らしさを教えてくれる。

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UP AND ABOUT

事実は小説より奇なり。

1930年代のイギリス。
若い女性が占い師に未来を占ってもらった。
占い師は語った。
『輝くボタンが付いた服を着た男性と結婚して、3人の子供を授かるだろう。 長男はとても高い所、世界を見渡すような高いところで災難に遭うだろう。』

女性はやがて、光るボタンの制服を着た警察官と結婚した。
3人の子供を授かり、長男は成長し、やがて登山家になった。
登山家は1975年、世界最高峰エベレストの南西壁を初登攀し、夕暮れの頂上に立ち、南峰でシュラフも酸素ボンベも無しのビバークを迫られることになる。
まさに、世界を見渡すような、高いところで。
その登山家の名前は、ダグ・スコット。

『UP AND ABOUT』。
イギリスの登山家、ダグ・スコットの自伝である。

Up 既に『ビッグウォール・クライミング』や『ヒマラヤン・クライマー』などの名著を書いたダグ・スコットだが、自らの出自を書くのはこの書が初めてということで、イギリスのクライミングサイトでも話題になった同書。

 几帳面な性格らしく、その生い立ちから詳細に記されている。

 自伝を読んであらためて思うのは、アルパインスタイルの確立者として日本では知られるダグ・スコットは、そもそもはビッグウォール・クライマーだということだ。
 休暇の範囲で通える手頃な山域として北アフリカ・モロッコのアトラス山脈に通い続け、次第にヨーロッパ各地の岩壁に挑むようになり、やがてアメリカ・ヨセミテに渡る。
 
 時代はまさにロイヤル・ロビンスやウォーレン・ハーディングがバリバリ活躍していた頃。

 ロイヤル・ロビンスが、イギリス人クライマー達がプロテクションとして使う工業用ナットに興味を示す。「これなんだい?」
 ドン・ウィランスが答える。「今、イギリスでこれが流行っているんだ」

 クライミングギア・ナッツが製品化される前の一場面である。
 ナッツ等のギアに関する話だけではない、ヨセミテのビッグウォールクライミング黎明期の雰囲気が活き活きと描かれている。
 ダグ・スコットは世界各地をまわり、各地の山や岩壁で経験を積んでいく。
 その出発点は、幼少の頃から地理・歴史の教師に多大な影響を受けたことに始まる。
 本書の各所に各国の社会背景や歴史事情がちりばめられていることからも、そのことがうかがえる。

 日本の山屋ならかなり多くの人が読んでいるだろう名著『ビヨンド・リスク』。
 その中でダグ・スコットは日本人のヒマラヤ登山をかなり辛辣に批判しているので、私は正直あまりいい印象を抱いていなかった。
 しかしそれは大きな誤解であることがわかる。
 本書を読んで特に印象に残るのは、日本および日本人との交流の場面である。

 1967年、ダグはヒンズークシュのコー・イ・バンダカー(6812m)南壁を登攀した際、同時期に入山していた日本の中央大学山岳部隊に親切に接してもらう。
 それが縁で、ダグはイギリスの自宅に中央大学山岳部隊の隊長「イタクラ」教授を招く。
 
 しかし時は1960年代、ダグの近所には、太平洋戦争時にシンガポールの捕虜収容所で日本軍から虐待を受けた元軍人が住んでいた。
 その元軍人から「なんでジャップがお前の家にいるんだ?」
 と詰め寄られる。
 ダグは冷静に、アフガニスタンでいかに親切にしてもらったかを語る。
 単なる登山家ではなく、国際人としての見識をわきまえた人物、それがダグ・スコットである。

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1967年、ヒンズークシュにて中央大学山岳部「イタクラ」教授との交流

 この自伝は「伝説」のバインターブラック峰遠征は収録されておらず、エベレスト南西壁登攀成功までが描かれているのだが、エベレストに関する記録、特に日本山岳会隊の南西壁の記録はクライマーの人名まで事細かに記されている。
 自身の南西壁遠征にあたり日本隊の記録は相当研究していたはずだが、立教大学ナンダコット遠征から始まる日本登山史の概要まで記されており、エベレストにとどまらず日本の登山界に相当の関心があったのだろう。

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第6キャンプを出発、エベレスト南西壁を登り頂上を目指すドゥーガル・ハストン

 本書の圧巻はなんといっても1975年のエベレスト南西壁遠征である。
 ハミッシュ・マッキネスはじめ猛者ぞろいの遠征隊。
 微妙な人間関係の中でクリス・ボニントンがリーダーシップを発揮、そしてダグ・スコット、ドゥーガル・ハストンが頂上をめざす。

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1975年、エベレスト南西壁遠征時のダグ・スコット

 日本でダグ・スコットを尊敬するクライマーは多い。
 だがそれは、岩雪あたりのクライミング記録を目にしただけの結果ではないだろうか。(私もそうでした)

 そんな皆さんにはぜひダグ・スコット自伝『UP AND ABOUT』を読んで欲しい。
 クライミング・遠征記録にはでてこない、ダグ・スコットのあらたな魅力「人間像」が明らかになるだろう。
 ダグ・スコットを知らない若い世代にもぜひ読んで欲しい。
 ヒマラヤにおけるアルパインスタイルを確立した、「真の登山家」の姿を知ることになるだろう。

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Как мы провели этим летом

8月×日
 福島の帰宅困難地域にほど近い山中でお仕事。
 背負子に機材を積み、藪の中で数十匹の蚊に襲われつつ、除染土のフレコンの写真撮影して偉そうに語るだけのアウトドアライター氏と違い、福島の明日のために汗を流してのお仕事。

 帰りはもう日没。
 親方が「もう帰り遅いし、福島で晩飯喰っていきたいなー」と言う。
 そこで福島駅前の『西華』へ。

 前にも幾度か来た店、なんか盛りがいいような記憶があったんですが、3人とも結構腹へってたので 何も考えず 西華定食大盛りを注文。

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 全員『え゛え゛~!!』

 1名は完食、親方と私は御飯半分喰ったところで「ごめんなさーい。」

 笑顔のご主人に聞いたら、御飯は「三合メシ」でした。
 三合メシなんて、立正大学体育会山岳部の現役部員だった時に一度完食した経験しかございません。
 お代わりする猛者もいるとか。

 「年齢をわきまえる」という言葉を肝に銘じた夜でした。


8月28日
 某山へ。

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 紅葉の気配はまだありませんが、空気の冷たさはもう秋の気配でした。

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イワショウブ

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私の好きなヤマハハコがあちこちに咲いてました。

8月29日
 二ヶ月前から、8月29日から31日まで、会社の夏季休暇制度を利用して休暇を確保。

 この三日間、東京外国語大学で開催される『ウルドゥー語初級Ⅰフォローアップ講座』に参加すべく、盆休みも最低限の休暇にして日程を調整。
 ウルドゥー語(インド、パキスタンで用いられている言語)を学べる機会なんて、東北に住んでいる限り百万年待ち続けていても機会は巡ってこないだろう。
 東京に行くしかないのだ。
 ウルドゥー語受講をひかえ、動画サイトで子供向けのウルドゥー語学習動画を探し、簡単なアルファベットや数詞の予習を少しずつ続ける。

 月末に急な仕事が入りそうになり、「俺行きます」と手を上げて志願したところ、親方から「お前は休みとれ!」と上げた手をパシッとはたかれる。
 周囲からも御協力いただき、確保した休暇だったのだが・・・・

Tenki
 台風10号がいきなり方向転換。
 休暇の翌日は既に現場作業の予定が入っている。
 台風で帰れなくなった、というのは絶対に避けなければならない。東京外国語大学のウェブサイトでは、29日から開催されるオープンキャンパスは台風を理由に中止を決めている。
 台風襲来のタイミングで上京すると、交通機関がマヒしておそらく帰れなくなると予想。
 そう判断した私は受講のキャンセルを決断。
 授業も宿泊も、全てキャンセル。

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 手元に残ったのは、購入したばかりのウルドゥー語教科書。
 ぼつぼつ、独習することにします。

8月29日
 ウルドゥー語講座はキャンセルしたものの、ある資格試験をひかえているので、自宅にいても勉強する時間は惜しい。
 そんなおり、自宅炊飯器の内鍋コーティングがボロボロになっていることに気がつく。
 貧乏な我が家、カミさんはなかなか買い換えなかったらしい。
 泣く泣く、以前にスマホを買い換えた時のキャッシュパック、タブレットを買うべく貯めておいた電子マネー1万円分を放出。
 普段、休日は勝手に過ごさせてもらっているので、少しは家庭に還元しよう。
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8月30日
 台風接近。
 自宅で試験勉強。
 老母が住む実家の警備員として、日中に幾度か実家を往復。
 ところどころ窓のカギかけ忘れもあり、母の「老い」を実感する。
 幸い、山形は夕方遅くには穏やかな天候になる。
 
 尊敬する岳人は、北陸で染め物作業を手掛け、地元の盆踊り行事に参加した様子。
 いい夏過ごしているなあ。

 今回の台風10号で被害に遭われた地域の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

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休日日記 2016GW

世間様では5月連休。

5月×日
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娘の作ったお菓子をいただく。
「麩」で作ったフレンチトーストもどきをチョコでコーティングしたもの。

5月×日
 亡父が遺した敷地の草刈り前哨戦。
 だいぶほったらかしにしていたので、まさにジャングル状態。
 そこで目に付いたのが、

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あちこち大量に茂っている、カラスノエンドウ。

 人より1.5倍くらいは長く登山をやっていながら、しかも月山でブナ林ガイドやっていながら 「え?コシアブラってどれ?」程度の知識しかござんせん。
 最近関心を持っているのが、「食べられる野草」。
 カラスノエンドウ、全体も喰えるらしいのですが、伸びきって堅そうだったので、サヤを取りまくる。
 おりからの低気圧と前線通過で風雨が強くなる前に退散。

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 収穫した、ひとにぎり程度のカラスノエンドウのサヤ。

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 ゴミやサヤに付いてる余計な部分、ナメクジに喰われた奴ははじきます。
 農家出身のくせに食べ物にはえらい保守的なカミさん、ちょうど子供連れて実家に行っているので私一人台所でやり放題です。

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 迷わずバターと塩で炒めものに。元の風味を失わないよう、胡椒は少しだけ。
 あー、でもバターは香りが強すぎたかな。
 シャキシャキで野草特有の癖もなく、美味しく食べました。
 器は、野草から取った材料なので土色の皿に盛りつけてみました。

 野草料理の本って、最近のアウトドアブームを反映してか、結構ありますね。
 でも料理法って、野草特有のえぐみ臭みをとるためにテンプラとかが多いようです。

 (料理法はなんか決まってるよなあ・・・)
 と思っている時に一種のカルチャーショックだったのが、京都の有名な旅館「美山荘」の三代目ご主人・中東吉次氏(1993年没)の著書『京 花背 摘草料理』。↓
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 よくある山野草料理の本とは一線を画し、そのへんに生えている草の料理が会席料理風に、しかも器も吟味されて掲載されています。
 この本では、カラスノエンドウは「湯葉と椎茸の炊き合わせ」、「車海老との酢の物」、「花かつおとの浸し物」の三種が紹介されています。
 え、この草がこんな雅な一皿に・・・と読んでいるだけでも楽しい本です。
 平成元年発行の古い本なので、公立図書館などでみかけたらぜひご覧下さい。

5月×日
 本日も読書三昧。
 県外ナンバーの車で登山口は渋滞、登山者であふれている時期の山には近づきません。

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 私、結構熟女好きですが、何か。

5月×日
 父の敷地の草取り第2回戦。
 カミさんと息子も引き連れ、草取り。
 私はノコギリと剪定ばさみを手にジャングル伐採。

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 しぶとく生え残っていたネギが、花をつけていました。

 読書三昧に庭いじり、公立図書館にこもって山と民俗伝統行事の情報収集。
 ただそれだけの、静かな連休。

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『MOUNTAINS IN MY HEART』 ~先鋭登山家の喜怒哀楽~

Gerlinde ガリンダ・カルテンブルナー(GERLINDE KALTENBRUNNER ゲルリンデ・カールセンブラウナー)、カリン・シュタインバッハ共著『MOUNTAINS IN MY HEART』を読む。
この本はオーストリア人女性登山家であるガリンダ・カルテンブルナーが8000m峰14座無酸素登頂を果たすまでの道程を、カリン・シュタインバッハによる70時間以上におよぶインタビューをベースに、ガリンダの自叙伝という形式でまとめられた本である。

 ガリンダの高所登山の出発点は、1994年のブロードピーク遠征。当時の遠征はいわば「古き良き時代」の遠征隊で、面倒な登山許可取得から隊費捻出のため登山隊Tシャツを売るという活動をこなしながらの登山である。
 この登山ではガリンダは前衛峰(8027m)が最高到達点なのだが、「8000m」を超えた喜びに満ちた登山となった。

 そう、ガリンダの高所登山の始まりは「死の地帯」への恐れはみじんも無く、「楽しさ」と「喜び」に満ちあふれている。
 読み進めるうちに、ガリンダの盟友である竹内洋岳君に想いを巡らせた。
 私は竹内君とは初期の8000m峰2座の登山を共にしただけであり、幾つもの困難な峰、困難なルートを共にしたガリンダと竹内君が過ごした充実した時間と人間関係には遠く及ばない。

 彼女が記している8000m峰登山の喜びを読んでいると、竹内君が初めての8000m峰登山の報告書に書いた「あぁ面白かった、またやりたいなぁ」という一節が思い浮かんだのだ。
 当時は登山隊の中で竹内君は最年少、それゆえの苦しさ・悔しさ・疑問はあったはずである。
 しかしこの本を読んでいて、8000m峰を登る喜び、その感性、なるほど2人は気が合ったんだろうなあ、と考えさせられた。

 2001年のマカルー遠征。
 登頂を果たしたガリンダは下山途上、頂上直下で、「高度障害のため、もう頂上しか眼中に無い」クライマーを説得できず、頂上に向かう彼を見送ることになる。そして彼はそのまま行方不明となってしまう。
 この出来事は彼女に大きな衝撃を与えることとなる。
 日本語の某ウェブサイトではガリンダは看護師であり人の死に慣れているかのように表記されているが、そうではない。医療関係者ゆえ、山で人が死にゆくのを止められなかった事に深くショックを受けている。

 この本は、ガリンダ・カルテンブルナーという1人の女性の喜怒哀楽がよく描かれている。
 高所登山の喜び、そしてクライマーが死んでいく哀しみ。
 そしてガリンダはよく「怒り」もする。

 印象深いのは2003年のナンガ・パルバット遠征の記録である。
 この遠征ではシモーヌ・モロー隊はじめ、デニス・ウルブコを含むカザフ隊と一緒に登山活動を展開することになる。
 ガリンダはカザフ隊からクライマーと認知されず、BCを訪れたトレッカーと勘違いされてしまう。
 さらにデニス・ウルブコの余計な一言がガリンダの怒りを爆発させることになる。
 「ごめんごめん、あまり気にしないでくれ。カザフ人にとって女性は家で料理してるもんで、登山するなんて思いもしないんだ」
 翌日からガリンダは先頭切ってルート工作に活躍することになる。
 そこでルート工作に使うロープを切るため、渋るウルブコからナイフを借りるガリンダ。
 彼女はバネ仕掛けの折りたたみナイフを力任せに開こうとしてバキッと壊してしまう(笑)
 ウルブコは「これだよ!もう女にナイフなんか貸さない!」とロシア語で叫ぶ。

 しばらく後、弁償として彼女はスイスアーミーナイフをお返しとして持っていくが、そのときウルブコは歯の詰め物が取れてしまい、ヨダレが口から漏れ出す程に歯の具合が悪化。
 そこは看護師であるガリンダ、シモーヌ・モローの現・奥様で当時彼女だったバーバラが未使用の生理用品(タンポン)を細工してウルブコの歯に詰める治療を施してあげる。

 ガリンダの活躍は止まらない。
 ナンガ・パルバットのサミットプッシュが続き、カザフ隊隊員も頂上に向かう。
 下山でヨレヨレになったカザフ隊員をフォローすべくガリンダはザックを背負うことを申し出るが「死んでも女性にザックを背負わせられない」と断られてしまう。
 隊員に無理な行動を強いるカザフ隊隊長にガリンダの怒りが爆発。
 渋る隊員に「ちょっとあんたの隊長と話しさせなさい!」と迫り、ウルブコ経由でカザフ隊隊長と直談判。ガリンダ達がカザフ隊隊員をフォローし、無事下山させる。
 この一連の活躍で、ガリンダはウルブコからK2登山隊への誘いを受ける。そして「シンデレラ・キャタピラー」という名称も。

 このナンガパルバットのエピソードで注目すべきは、当初トレッカーと勘違いされていた女性登山家がK2登山隊に誘われる、というサクセスストーリーではない。
 先頭切ってのルート工作。折りたたみナイフを巡るやりとり。歯の治療。カザフ隊隊員への献身的なサポート。
 積み木を一つ一つ重ねていくように、大小様々なやりとりを重ねながら、次第に周囲の信頼を得て、人間関係を構築していく。
 その様子が抜群に興味深い。

 痛快なストーリーを紹介していくと、そのままこの本の内容を綴ることになりかねないのでここまでとしよう。
 繰り返すが、この本にはガリンダ・カルテンブルナーという高所登山家、1人の女性の「喜怒哀楽」にあふれている。
 大人数の登山隊に参加するスタイルから、自分で登りたい山を選択しルートやタクティクスを決断していくクライマーへと変貌する姿。
 登山団体が組織する登山隊の参加から、個人同士が組んで8000m峰に向かう姿。
 1990年代後半から2000年代にかけ、ヒマラヤの高所登山のスタイルがダイナミックに変わる時代を彼女の姿は象徴しているといえよう。

 長々と綴ってきたが、同書で私が最も印象に残ったのは8000m峰登山の章ではない。
 ガリンダがまだ専業登山家になる前、看護師として病院に勤務していた頃のエピソードだ。
 病院で知り合った職場の同僚がやはり山屋で、病室でベッドメイキングをしながら山の話をしていた、という記述がある。
 静かな病室で、ベッドメイキングをしながら、彼女達はどんな山の話を、どんなヒマラヤの話をしていたのだろう。

 密室ともいえる病室の中で、ガリンダ・カルテンブルナーはヒマラヤの夢を育んでいったのだ。
 勤労にいそしむ我ら凡人登山者も、大いに刺激を受けるエピソードではないか。

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Bernadette McDonald著 『 ALPINE WARRIORS 』

Hyo 壮大な、叙事詩である。
 Bernadette McDonald著 『 ALPINE WARRIORS 』 を読了。
 同書は、第二次世界大戦後からユーゴ内戦を経て現在に至るまで、ヒマラヤ登山を中心に据えたユーゴスラビア(新生スロベニア)の登山史をまとめた本である。

 過去に幾つもの高所クライマーの本をまとめているBernadette McDonald女史は、トマジ・フマルの伝記『TOMAZ HUMAL』を執筆するに伴い、西ヨーロッパ・アメリカでも知られざる優秀なクライマーを産みだした旧ユーゴスラビアに関心を持ち、それが本書執筆のきっかけとなったと後記に記している。

 ユーゴスラビアは当時のソ連とも一線を画す独自の社会主義路線を歩む国家であり、国内に険しいユリアン・アルプスを擁し、そこからヒマラヤを目指す多数の優秀なクライマーを輩出した。
 ユーゴ初のヒマラヤ登山として企画されたのは、日本が初登頂を狙っていたのと同年1956年のマナスル。しかしマナスル計画は政府からの援助がカットされ挫折、1960年、インドのナンダデビの許可を取得、しかし手続き上の問題で登山隊はトリスル7120mをめざし、登頂に成功する。
 そしてユーゴスラビアのヒマラヤ登山「黄金世代」が始まる。 

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帰国したトリスル登山隊を迎える、熱狂のリュブリャーナ市民

 同書の特徴として、ユーゴスラビアが産んだ名クライマー、ナイツ・ザプロトニク(Nejc Zaplotnik 1952~1983)とその著書『POT』の文章が本書全般にちりばめられている。

 ナイツ・ザプロトニク。
 日本ではあまりなじみのないクライマーであろう。(私は幸いにもある書籍をきっかけに名前だけは知っていた)
 旧ユーゴの登山関係者では知らぬ者はいない、そしてその著書『POT』 (スロベニア語で道、峠を意味する) は著者Bernadette McDonaldが取材した、あらゆるクライマーが所持していた本であった。
 著者は本書を執筆するため、スロベニア語版しか無かった『POT』をわざわざ翻訳者に英訳してもらう手間をかけ、所々にその文章を引用し、クライマー達の心情とその生涯を描いている。

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 ナイツ・ザプロトニク(Nejc Zaplotnik 1952~1983)、その著書『POT』
 スロベニアの偉大なクライマー、アンドレイ・シュトレムフェリをして、「私の登山人生は二つに分けられる。ナイツ・ザプロトニクの死ぬ前と死んだ後だ。」と言わしめた。

 1960年代半ばには既にローツェ南壁を目指す構想を持っていた彼らは、次の目標としてマカルー南壁を目指す。

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 1975年、ユーゴ隊が成功したマカルー南壁とそのライン

 1975年、ユーゴ隊はマカルー南壁に成功。
 同年、ガッシャブルム1峰の未踏の南西稜に成功。
 1979年、ロー・ラからのエベレスト西稜完全トレースに成功。

 優秀なクライマーと「1人が頂上に立てば、それは登山隊の成功」という組織力で次々と8000m峰に挑み続けるユーゴ登山隊。
 そこに暗雲漂うのが、誰もが知るトモ・チェセンのローツェ南壁登攀である。

 本書のトモ・チェセンに関する記述の多くは、Nicholas O'Connell著『Beyond Risk』のインタビューと重なっており、ほぼ同じ内容である。
 トモ・チェセンのローツェ南壁『疑惑』に関しては、当ブログをお読みでそれなりに山をやっている方には今更説明を要すまい。

 本書で注目されたいのは、トモ・チェセンに対するマルコ・プレゼリのコメントである。
 プレゼリは一連の疑惑に対して力強く 「I believe him.」 と言い切る。

 「(疑惑に対して)皆、写真写真というが、写真などフォトショップでどうにでもできるだろ。それは彼の問題で私の知ったことでは無い。」
 「それが真実だとは私は言わない。私は信じている、と言うんだ。アルピニズムの根幹を成す「信頼」を信じているんだ。何が真実かは彼が背負うべき問題で、私の問題ではない。」
 
 と、コメントの最後はあいかわらず突き放した言い方のプレゼリ節全開である。
 ローツェ南壁疑惑といえば日本では池田常道氏のフィルターを通した「見解」が漂っているわけだが、アルピニズムの根底を支える「信頼」を打ち出して「believe」と言い切るマルコ・プレゼリの見解も深く印象に残る。

 さて、世界各国の登山界を揺るがしたローツェ南壁「疑惑」を受け、ユーゴ登山協会はじめ、既得権を得ていた、それまでの「黄金時代」を支えていたクライマー達も批判の矢面に立たされる。

 「8000m、8000mってうるせーよ、アルピニズムの課題は他にもたくさんあるだろクソ爺!」
 (↑あくまで当ブログ流表現ですが、新旧世代のクライマー間で激しいやりとりがあったのは事実)

 と、新世代として台頭してきたのが皆様ご存じ、マルコ・プレゼリ。
 マルコ・プレゼリ氏に関しては来日経験もあり、そのお人柄も交流あるアルパインクライマーのセンセイ方には知られているので割愛する。

 ローツェ南壁疑惑で揺れる90年代初めから、ユーゴスラビアは不幸な内戦状態に陥っていく。
 そんな中、クライマー達はある者は兵士として、山岳地で兵士を導くガイドとして、ある者は難民として巻き込まれていく。
 戦乱の中でも、ユーゴのベテランクライマーであるビキ・グロシェリはアンナプルナ南壁登攀を計画。
 難民として避難中の岳友を探しだし、南壁に誘う言葉に考えさせられる。

 「おい、戦争のまっただ中より、アンナプルナの方が安全だろ?」

 民族浄化と称する凄惨な婦女子への暴行、虐殺が横行する日常を生き延び、クライミングに生きがいを見いだした者もいる。

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スラビコ・スベティチッチ(slavko svetičič 1958~1995)

 徹底したソロクライマー、生涯にわたり1200ものルートをフリー、エイド、アイス、冬夏問わず単独登攀を続けたスラビコ・スベティチッチ。 日本ではあまり知られていないソロクライマーは、世界各地で驚異的なソロクライムを成し遂げるが、1995年、ガッシャブルムⅣ峰西壁に単独で取り付き、行方不明となる。後日、韓国隊により壁の中で遺体が発見される。

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トマジ・フマル(Tomaž Humar 1969~2009)

 そして、やはり戦乱の中を生き延びてクライミングに身を投じたトマジ・フマル。
 著者Bernadette McDonaldは既に前著で彼をとりあげているだけに、本書後半にてトマジ・フマルが置かれた境遇を詳しく述べている。
 ダウラギリ南壁単独登攀で一躍スーパースターとなった彼だが、登攀の模様を中継したりとメディアに魂を売り渡したと批判され、2005年、ナンガパルバット峰ルパール壁での遭難・救出劇によって「サーカス」とまで嘲笑されることになる。
 失望の中、スポンサーも離れ、離婚して家庭も破綻したトマジ・フマルはアンナプルナ東峰南壁ソロなどの記録を残しながらも、2009年にランタンリルンに単独で取り付き、つきあっていた彼女に「さよなら」を、ベースのコックに「もう終わりだよ」と衛星電話で伝え、生涯を終える。

 Bernadette McDonald著『Freedom Climbers』と同様、本書の最終章は登場したクライマー達、またはその遺族達のその後についても丁寧に取材され記述されている。
 新生スロベニアではマルコ・プレゼリが若きクライマー達を育てる側になり、ハグシュ北壁でピオレドールを受賞、プレゼリもピオレドールのような賞に少し寛容になったと書かれている(笑)

 前著『Freedom Climbers』では、ナチス・ドイツやソ連に国土を蹂躙されたポーランドの岳人達の活躍が描かれていたが、本書では政治的には真逆に国家が分裂、凄惨な内戦を経験した旧ユーゴスラビア、後のスロベニア、クロアチアの岳人達が描かれている。

 かつての日本と同様、「1人が登頂すれば、それは隊全体の成功であり栄誉」と明言するユーゴスラビア初期のヒマラヤニスト達。
 やがて時が進み、「自分が頂きに立ってこその成功」(トマジ・フマル)という世代への変化、8000m峰登頂からより困難な岩壁へ、単独登攀その他クライミングスタイル重視へ、というクライミングの流れ。

 人口2000万人ほどの旧ユーゴスラビア、ヨーロッパの小国がいかにして優秀なクライマーを輩出し、ヒマラヤ登山大国となったのか。
 内戦という政治の混乱に翻弄されながらも、自らの夢、自らが信奉するアルピニズムを信じて行動する男達の、熱い、長い物語が本書にある。
 なお本書は2015年バンフ・マウンテンブックスコンペティション・登山史部門でグランプリ受賞。

参考資料: 柴 宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』岩波新書1996
参考関連サイト:
 TOMAZ HUMAR 当ブログ2011.07.16
 FREEDOM CLIMBERS 当ブログ2012.07.06

マルコ・プレゼリ講演会 「灰とダイヤモンド」 雪山大好きっ娘。2.0 2007年11月7日記事

 ユーゴスラビア隊が手掛けたトリスル峰西壁ユーゴスラビアルートに関して、仙台山岳会が1981年に第2登に成功しており、当時の記録は仙台市在住の登山家・坂野様により公開されております。
 トリスルⅠ峰西壁(7120m)登頂 ウェブサイト東北アルパインスキー日誌

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Nanda Devi 1976 Indian-American Expedition

Nanda John Evans著『Nanda Devi: 1976 Indian-American Expedition』 を隙間時間を利用してなんとか読了。
 1976年、北インドの名峰ナンダ・デビに挑んだインド・アメリカ合同隊の記録。
 登山隊は困難な北西バットレスに新ルートを開拓、ジョン・ロスケリー、ルイス・ライハルト、ジム・ステイトの3名が登頂。
 
 ヒマラヤ登山史に詳しい方はご存じのように、この遠征は別の悲劇で知られることになる。
 この登山隊を企画・参加した登山家ウイリ・アンソールド(1963年エベレスト西稜初登者)と共に、その娘ナンダデビ・アンソールドが遠征に参加していたのだが、第4キャンプ(7300m)で高度障害により体調が悪化、そのまま帰らぬ人となってしまう。

 この山から名前を命名された女性ナンダデビ・アンソールドの訃報記事は、当時の『岩と雪』誌にもとりあげられていたことを記憶している。

 このJohn Evans著『Nanda Devi: 1976 Indian-American Expedition』 は私家版としてJohn Evansがいくつかの遠征記録を電子書籍としてとりまとめたものであり、ナンダデビ・アンソールドの最期の様子も記録として生々しく描かれている。
 この悲劇に関してはジョン・ロスケリーも自身の著書で詳細に記録している。

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ナンダデビ・アンソールド(左)、父ウイリ・アンソールド(1979年、レーニア山にて雪崩にて逝去)

 いったんナンダデビ・アンソールドの悲劇はさておくとして、安価なタイプのkindleで読んだがモノクロの画面でもナンダデビ北西バットレスの姿は美しい。
 同年、日本から日本山岳会ナンダデビ縦走隊が遠征、ナンダデビ登山史に花を添えるわけだが、諸先輩方がこの山に惹かれたのも、うなずける美しさである。

 著者John Evansによる遠征記録だが、このナンダデビの記録の他、

 1965年 カナダ・ローガン南稜(ハミングバードリッジ)
 1966~67南極大陸ビンソンマシフ遠征
 1971年エベレスト国際隊
 1974年パミール アメリカ·ソ連合同隊
 1981年エベレスト アメリカ医学研究遠征(アメリカン・メディカルルート)

 などが電子書籍として出版(一部は予定)されている。

 詳細はこちら→ http://www.johnevansclimbing.com/

 特に1974年の米ソ合同によるパミール遠征は、若きジェフ・ロウが第19回共産党大会峰にフレンチテクニックで氷壁を登っている姿が日本でも山岳雑誌で紹介されてましたなあ。
 今回電子書籍・私家版として出版されたシリーズですが、アメリカ登山史のみならず、パミール、ヒマラヤ登山史においても貴重な記録になることでしょう。

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ビブリオバトル参戦記 人を通して本を知る。本を通して人を知る。

毎年お世話になっている、山形県朝日少年自然の家。
年度初めにサポーター(ボランティアスタッフ)の研修兼顔合わせがある。
例年は野外のアクティビティが中心になるのだが、今年はビブリオバトル。

ビブリオバトルとは、

1.発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
2..順番に一人5分間で本を紹介する。
3.それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを2~3分行う。
4.全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員一票で行い、最多票を集めたものを『チャンプ本』とする。
                          ビブリオバトル普及委員会、ビブリオバトル公式ルールより

という「書評合戦」のようなものである。

 以前、山岳ジャーナリストの柏澄子さん率いるMJリンクで「山の本を持ち寄って紹介し合う」というイベントが開催された事を知り、そういうのっていいなあと思っていたところ、ここ最近流行っているのか、時折耳にする「ビブリオバトル」。

 よし、自分も参加してみよう、と思ったのが3月。
 しかし年度末の群馬出張、沖縄の社員旅・・もとい社員研修で集中して準備に取り組む時間がない。
 つーか、紹介する本どうするよ?

 マニアな山岳書は避けて、以前読んだヨハンナ・スピリ著「アルプスの山の娘」に決定。
 小手先のプレゼン技術など、口ベタな私に身につかないだろうから、隙間時間を用いて何度も読み返す。
 ビブリオバトルのある「サポーターの集い」の前日は、勤務先の朝礼で一言スピーチの当番の日。
 口ベタな私が2日連続して人前で話ししなくてはならないわけで、頭がパンクしそうだ。

 たまたま少年自然の家研修担当のノリさんと電話する機会があったので、
 「発表時間って1人何分くらいですか?」
 「公式ルールだと5分ですよ」
 「え?公式ルール?」

 このとき初めてビブリオバトルに公式ルールがあることを知る。
 それによれば1人発表は五分以内。
 聴衆には資料・レジュメの配布もNGらしい。
 え~5分も原稿無しで話すなんて無理無理。 原稿読みながらのビブリオバトルで勘弁してもらおう。
 ノリさんに最後にこう言われる。
 「こういうドキドキの経験もいいでしょ。」
 少しは前向きに考えよう。

Img_1110m
 紹介したい本をもう一度読み返し、プレゼンの構想をメモ書き。
 youtubeで実際のビブリオバトルを観戦、メモ書きしたプレゼン内容を修正。

 そうこうしているうちに、ビブリオバトルが開催される「サポーターの集い」は明日。
 前夜に泥縄式で原稿をまとめ、iPhoneのストップウォッチを見ながら3回音読し、余計な部分を削る。
 
 そして当日。
 「サポーターの集い」アイスブレイクの一環としてビブリオバトルが開催。
 予選として4人一組でテーブルに座り、一人ずつ本を紹介しあう。
 私が着席したテーブルでは、私以外の3名は全員自然の家職員の方ということで、出来レースで私が予選突破(笑)

 ビブリオバトル決勝に進んだ4冊は、

 ヨハンナ・スピリ著 アルプスの山の娘(私)
 歌野晶午著 葉桜の季節に君を想うということ 
 小室淑恵著 人生と仕事の段取り術
 草刈 秀紀著 生物多様性の基礎知識

 という実にバラバラなラインナップ。
 厳密にはビブリオバトル公式ルールでは原稿読みながらの紹介はNGなのだが、そこはなあなあでごまかす(笑)
 私以外の3人はしっかり原稿無しで本の紹介。みんな凄い・・・

Img_1109m
 ビブリオバトル 紹介後のディスカッションの様子。スクリーンにカウントダウン式のタイマーが映され、時刻を気にしながらのプレゼン。

 投票の結果、チャンプ本は「葉桜の季節に君を想うということ」に決定。
 おおっ、ミステリー小説といえば1度読めばおなかいっぱいという感じだが、2度3度読み返したいミステリーってなんだろう。そそられる・・・

 企画したノリさんいわく、今回のビブリオバトルは決してプレゼンのトレーニングとしてではなく、本を通じて人を知る、ということが目的。

 予選のとき、別テーブルを眺めると、いつもお世話になっている工藤さんが月刊誌「BEPAL」片手に熱く語っている。あー俺も聞きてえ・・・
(BEPAL誌は生物に関して良記事が多いため、山形県自然博物園ブナ林ガイドスタッフの間でも評価が高い)

 同じサポーターで私より15ほど年上のはじめさん、なんと絶版本の山と渓谷社刊の賀曽利隆本を持ってきている。
 この日の夜、懇親会という名の飲み会ではじめさんと賀曽利隆の本、ツーリングの話から始まり、私が昔は山岳部の合宿後に自転車で旅していたことなど、二人で積もる旅話が炸裂。
 長らくサポーター活動を共にしていながら、はじめさんの知らない一面を覗くことができた夜。

 口が達者な山岳ガイドのセンセイ方と違い、私は口ベタ&コミュニケーション下手だからこそ、ガイド山行でも悔しい思いは幾度となく味わっている訳でして。
 ビブリオバトルとか、最近はTEDとか、巧いプレゼンってとても興味があるんだよね。
 でも巧い下手以前に、プレゼン通じて相手を知る、という事にも気づかされました。

煮ても焼いても喰えない私のビブリオバトル原稿はアーカイブとして保存しておきます。
「2015.4.11.pdf」をダウンロード

ビブリオバトル公式ウェブサイト 公式ルール参照はこちら

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『One Day as A Tiger : Alex Macintyre and the Birth of Light and Fast Alpinism 』

One_day John Porter著『One Day as A Tiger』を読了。副題にあるとおり、イギリスのクライマー、アレックス・マッキンタイア(Alex Macintyre)の伝記であり、アレックスの生涯を通じて登山史におけるアルパインスタイルの芽生えと発展を描いた作品。著者のJohn Porterはイギリスのトップクライマーであり、1977年のコー・イ・バンダカー、そしてアレックス最期の山である1982年のアンナプルナ南壁を共にしていた、まさに本書を書くにふさわしい方である。

 私が若かりし頃、たしか穂高の滝谷だったか、とにかく崩れやすいアプローチのガレ場を下っていた時のこと。
 同行していただいた山岳部の大先輩から、
「アレックス・マッキンタイアみたいに、こうなるなよ」
 と、大先輩は落石で頭がグキッと折れ曲がるジェスチャーで私たち現役部員を脅かしながら、岩場の取り付きを目指していた。

 冒頭からアンナプルナ南壁での惨劇から始まる。
 フランスのルネ・ギリニとアンナプルナ南壁を登攀中、落石を頭に受け亡くなったアレックス・マッキンタイア。
 ほんの拳(こぶし)大の石が頭部に当たり転落という、まさに不運としか言いようのない事故死であった。
 本書はイギリスにおけるヒマラヤ登山、クリス・ボニントンによる大遠征隊のマネジメントの様子など登山隊組織の背景から細かく説明され、いかに「アルパインスタイル」が芽生えたかが描かれている。

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アレックス・マッキンタイア(Alex Macintyre 1954~1982)近影
本書ではこの写真のキャプションとして「食糧もシュラフも無く、一晩中歌を歌っていた」とある。
アレックスが活躍した70年代、彼が好んだザ・フーなどUKパンクロックの名前も同書を彩る。

 アレックス・マッキンタイアといえば、ポーランドのボイティク・クルティカらと組んだ成果が伝えられ、「ボニントン一家」と称されるイギリスの一派とはまた違う「国際派」といった印象を受けていた。
 その背景には、イギリスのBMCとポーランド山岳会の深い交流が続けられていたことが記されている。
 ポーランドのタトラ山脈での厳しいクライミングを通じてイギリス、ポーランドの岳人たちはお互いを認め、合同登山を組むことになった。
 イギリス側のメンバーに家庭の事情で参加できない者がでたため、たまたま参加することになったアレックス・マッキンタイア。そこから運命の歯車が動き出していく。

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ヒンズークシュ山脈のコー・イ・バンダカー(Kuh-e Bandaka 6812m)北東壁 1977年、ボイティク・クルティカ(ポーランド)、イギリス側はアレックス・マッキンタイア、ジョン・ポーター(本書の著者)らが初登

 イギリス・ポーランド合同隊が目指したのは、ヒンズークシュ山脈のコー・イ・バンダカー。率いるはポーランドのアンジェイ・ザワダ。
  登山隊ははるばる陸路からソ連経由でアフガニスタン、ヒンズークシュを目指すのだが、時は折しも東西冷戦のまっただ中。
 トラブルを避けるため、イギリス側のメンバーは書類上ロシア人風の偽名を使ったりと裏技を駆使して、登山隊はアフガニスタンを目指す。
 この過程、「鉄のカーテン」に閉ざされたソ連圏を鉄道で横断するための苦労、アフガニスタンに至るまでの描写が非常に長く感じられる。
 「白い雪山が見えた」などというところは、(遠征登山を経験している方ならわかっていただけると思うが)読んでいてホントに拳を握ってしまう、そんな苦労を経て登山隊はヒンズークシュ山脈に入る。

 移動の列車の中で、クルティカから北東壁登攀のプランをうちあけられる時の様子が印象に残る。

 クルティカ 「あのさ、バンダカーなんだけど」
 マッキンタイア「え、なにそれ、暖かいやつ?冷たいやつ?」
 クルティカ 「ちがうよ、山だよ」

 こんな調子なのだが、彼らは雨あられと降る落石をかいくぐり、コー・イ・バンダカー北東壁を登り切った。
 下山後のマッキンタイアがイギリス側のメンバーにこっそり漏らした感想は、
 「あいつら俺たちを殺す気か?」

 とはいえ、二人はこの登山で信頼関係を築き、1978年クルティカに誘われチャンガバン南壁を共に登ることになる。
Al2
チャンガバン遠征隊(左から、ボイティク・クルティカ、クシストフ・ジュレック、ジョン・ポーター(本書の著者)、アレックス・マッキンタイア)

 ヒマラヤ登攀の記録のみならず、BMCにおいて果たした役割、そして彼を巡る幾人もの女性関係など私生活にまで踏み込み、アレックス・マッキンタイアの人生が描かれている。
 彼の人生はすなわち、徹底的に装備も人も切り詰めた「アルパインスタイルによるクライミング」の進化の記録に他ならない。
 アルパインスタイルといえば、日本では即メスナーという固定観念にとらわれているクライマーの爺が多い。
 物量・人数にモノを言わせた大遠征隊の一方、少人数・ワンプッシュのクライミングをヒンズークシュからヒマラヤ8000m峰の未踏ルートに見事に開花させたイギリス、ポーランドの岳人達の足跡が事細かに記録されている。
 
 タイトルの『 One Day as A Tiger 』 は、『One Day as A Lion』 (羊として1000年生きるより獅子たる一日を生きよ)という古くからの格言を言い換えたもの。
 まさに夭折としか表現できない、アレックス・マッキンタイアの短い人生。
 彼がアルプスでアイスクライミングを初体験してからアンナプルナで死ぬまで、わずか10年ほどの出来事なのだ。
 
 無知無教養なマスゴミが商業登山の成果をもてはやす一方、先鋭の若手クライマーには常識となったアルパインスタイル。本書はその黎明期の貴重な記録であり、日本ではその成果しか知られていないアレックス・マッキンタイアの、短くも輝ける日々の記録。本書は2014年バンフ・マウンテンブックフェスティバルにおいてグランプリ受賞。

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