受験生の夜

息子の大学受験付き添いの為、某県某市に移動・滞在。

うちの息子、宿泊用具はモンベルのトートバッグに、衣類はポリ袋に詰めて空気を抜き突っ込んでいる。

(やっぱりこいつ山岳部員だ・・・)

無事、某市に移動。試験後、夕方迎えに行く。

地下鉄の長いエスカレーターで聞かれる。

息子「みんな、なんで階段使わないの?」

私「楽だからだろ」

息子「みんな怠惰すぎるよ」

と、息子はスタスタと誰もいない、長大な階段を登っていく。

(やっぱりこいつ山岳部員だ・・・)

私も何の疑問も無くエスカレーターを使っていたので、息子に「若さ」と「年齢」を見せつけられる。

宿にチェックイン。

ベースブレッド(完全栄養食のパン)にハマっている息子は外食はしないという。

父親はウキウキ・・あいや、1人さびしく近所のインド料理屋にて久々のインド料理とラッシー。

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ビジネスホテルに戻り、静かな部屋で

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シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を読む。

ブログをご覧の皆様の応援には申し訳ございませんが、息子は既に浪人を決めている。今年の受験は経験を積むことが目的だ。

浪人されると経済的にも苦しいのだが、私自身が海外登山など、やりたいことをやらせてもらった。娘、息子のやりたいことは借金してでもやらせてあげたいと決めている。

明日は受験2日め。緊張している息子にはかける言葉もなく、それぞれの部屋で夜を過ごす。

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韓国の巨星 キム・ヨンド氏逝去

韓国登山界の重鎮であり、日本登山界の良き理解者であるキム・ヨンド(金永棹 김영도)氏が去る2023年10月21日、京畿道の自宅で逝去。99歳だった。

キム・ヨンド氏は韓国では1977年の韓国初のエベレスト登山隊隊長を務め、成功に導いたことで知られる。

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韓国エベレスト隊帰国後、オープンカーパレードでのキム・ヨンド氏(左)

気が進まぬまま誘われて政治の道に入り、朝鮮戦争後で荒廃していた韓国において、予算を獲得して登山文化推進・環境保護のため山小屋建設を推進した功績でも知られる。

しかしキム・ヨンド氏の真の功績はその膨大な読書量、そして山岳書に対する揺るがぬ情熱である。もともと氏の登山のスタートは「日帝」時代に大島亮吉の著作に触れたことが始まりであった。

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月刊「MOUNTAIN」山岳書特集号の表紙を飾るキム・ヨンド氏

当ブログの参考記事

『岳人備忘録』が韓国人に与えた衝撃 2011.02.26

キム・ヨンド『登山家にとって山とは何か』2012.11.26

輝ける大島亮吉 2012.04.09

キム・ヨンド氏によって韓国では様々な海外クライマーの山岳書が翻訳・出版され、その充実度は日本を上回るといっても過言ではない。

そして2019年、故・谷口けい氏の評伝『太陽のかけら』が氏によって翻訳、谷口けいの存在は韓国でも知られることとなる。

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韓国語版『太陽のかけら』表紙

「韓国語版あとがき」として翻訳者キム・ヨンド氏の一文が韓国語版『太陽のかけら』には掲載されている。

ご縁があり、2021年にこのあとがき全文を翻訳する機会に恵まれた。ご依頼をうけての翻訳だったため、いつものチャランポランな翻訳ではなく、私の自宅隣家にお住まいの同世代夫婦の奥様(韓国人)にも翻訳をチェックしていただいた。その一部を紹介したい。

『翻訳者あとがき こんな女性を初めてみた

  2019年初め、私は意外にも日本の若い女性クライマーと一ヶ月を過ごした。

  正確に言うならば、その女性の40年の人生に魅かれ、彼女の評伝を読んでついに翻訳まですることになったという話だ。その本がまさに『太陽のかけら ピオレドールクライマー谷口けいの輝く青春』だ。

(中略)  

 私は谷口けいの評伝『太陽のかけら』を私達の言葉に翻訳したが、それはこれまでやってきた翻訳作業とは少し異なった。仕事を終えた時、私はただその中に没頭し、主人公のように過ごした気分だった。それからある瞬間、彼女が目の前から消えたら、私は机から頭を上げて遠い山を眺めた。茫然自失という言葉がこれかとも思った。』

読書を通じて「日本の若い女性クライマーと一ヶ月を過ごした」疑似体験をする、という表現は、キム・ヨンド氏の文章によくみられるレトリックである。

 読んでいただければわかるのだが、評伝の題材となった谷口けい、そして一般読者の心に寄り添う文章が「あとがき」の範疇を超えているのである。

 キム・ヨンド氏は「日帝」時代の体験をいたずらに否定することなく自身の体験として受け入れ、それゆえに韓国では「親日」のレッテルを貼られながらも(韓国社会において親日とは中傷表現の一つである)、韓国から真摯に日本の登山界を見つめ続けてきた人物である。(詳細は上記に記載した参考記事をご覧いただきたい)

偉大な登山の先達、日本の登山文化の良き理解者の逝去に、心から哀悼の意を表したい。

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ヘルマン・ブールは英雄なのか

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クリムヒルド・ブール(Kriemhild Buhl)著『MIO PADRE HERMANN BUHL』を読む。
著者はヘルマン・ブールの長女。(上記画像、表紙の髭の男性がヘルマン・ブール、女の子は著者クリムヒルド・ブールの子供時代)
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一定の年齢の山屋には説明不要であろう。オーストリア出身、若い頃は貧しさゆえ自転車で何百キロもの山道を走り岩壁に取り付き、困難な岩壁を陥すハングリーさをもち、1953年、それまで30人以上が死亡した未踏峰ナンガ・パルバット(8126m)の単独による初登頂に成功する。さらに1957年には当時未踏だった8000m峰ブロードピーク(8051m)にも初登頂を果たすものの、その直後にトライしたチョゴリザ(7665m)登山中に雪庇を踏み抜き行方不明・死亡した。32歳の生涯だった。
 その「超人」「鉄人」ぶりにヘルマン・ブールを尊敬する日本の岳人は多い。

一方、残された遺族はどんな人生を、どんな想いで送ったのか。
その点に光を当てたのが本書である。

ヘルマン・ブール、できちゃった婚でオイゲニエ夫人と結婚。子供は3姉妹に恵まれる(ヘルマン・ブールは男児を期待して頑張ったようですが・・・)

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3姉妹に囲まれるオイゲニエ夫人(右から2人目)

チョゴリザの遭難死後、国民的英雄の子供達ということもあり娘たちの進学は政府から保証されていたが、生活まで保障されたわけではない。オイゲニエ夫人はペンション「ハウス・ヘルマン・ブール」を建てて生計をたてる。

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ハウス・ヘルマン・ブール全景

 そこそこ繁盛したようで、海外の山岳名著の翻訳で知られる故・横川文雄氏が学生を連れて度々滞在したことも本書に記されている。
オイゲニエ夫人は社会的にも「ヘルマン・ブールの未亡人」であることを最大限に利用し、国境越えの旅行などで国境警備員を巧く言いくるめる場面などが描かれ、非常にしたたかな女性として描かれている。女手一つで3姉妹を育てていくための強さと言えるだろう。
 一方、貧しいポーランド人クライマーが宿泊した際にはペンション従業員が「共産主義者め」と毒づくが、オイゲニエ夫人は「共産主義者じゃないわ、クライマーなのよ」と、サラミサンドイッチをリュックに忍ばせる場面が描かれる。強さ・したたかさだけではなく優しさも兼ね備えた女性である。

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成長した三姉妹 左からクリムヒルド、イングリッド、シルビア 1974年撮影

 3姉妹はやがて成長し、思春期を迎え、父親不在、母親だけの家庭に反発していく。
 末娘のイングリットは悪い男友達と一緒になり、薬物に走り、薬物中毒で命を落とす。

著者クリムヒルドは亡き父と亡き妹を重ね合わせ、父ヘルマン・ブールについて「自由に雲の上をめざす、ヒッピーの原形に近いのではないか」という評を下す。

クリムヒルド・ブールは自身も結婚し家庭を持ち、そして母親オイゲニエ・ブールの心境を理解し始める。

そしてナンガパルバット登頂50周年のセレモニーにオイゲニエ夫人、クリムヒルドの2人がパキスタンに招かれ大歓迎を受ける。
そこで述べられるクリムヒルドの想い。

『何度も何度も、夫のことが話題になり、未亡人である彼女がどうやって生き延びたのか、誰も知ろうとしない。英雄的な行為は、あらゆる側面を陰に追いやる。しかし、日常の困難を堂々と、倒れることなく乗り越えることの方が、よほど英雄的ではないだろうか?彼女の人生の苦労が、私の中で積み重なる。しかし、最近の彼女は、そんな苦労を忘れて、過去の思い出に酔いしれたいようだ。もしかしたら彼女は、主人公の老いや日常生活の消耗にさらされることなく、結婚を乗り切った愛の夢を守っているのか?日常生活―彼女はこの難問を乗り越えたが、ヘルマンは日常生活の匂いを嗅いだだけで狂人のように巣から逃げ出さなかったのだろうか? 』

ヘルマン・ブール、アルピニズム、またその崇拝者に対する強烈なアンチテーゼである。
本書のラストは航空機に乗りこみ、上空から白く光るナンガパルバット、ブロードピーク、そしてチョゴリザを眺めるオイゲニエ夫人が描かれ、「彼女は幸せなのだ」と力強い言葉で締めくくられる。

私自身はアルピニズム批判、ヘルマン・ブール英雄視に疑問を投げかけようという気満々で本書に取り組んだ。

しかし実際には、著者クリムヒルドの想い~やがて自分が家庭をもつ立場になり、そこで親の苦労を理解し共感する~に自分の経験も重ね合わせ、私自身の両親に対する後悔の念や幾つもの思い出を思い起こす結果となった。

本書『MIO PADRE HERMANN BUHL』(我が父ヘルマン・ブール)はクリムヒルド・ブール著『Papa Lalalaya』のイタリア語版である。ドイツ語原著『Papa Lalalaya』は、クリムヒルド・ブールが幼児期に初めて発した言葉を書籍タイトルにしたもの。本人いわく「パパ、ラララヤ」とは「パパ、ヒマラヤ」という意味で口にした言葉とのこと。

残念ながら英語版は出ていないので万人に勧めるわけにはいかないのだが、あえて当記事タイトルを繰り返し書こう。

ヘルマン・ブールは英雄なのか?

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ケネディ大統領を支えたクライマー

Susan Schwartz著『JFK's Secret Doctor』を読了。

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アメリカのケネディ大統領を秘密裏に治療した医師、そしてガンクスの岩場開拓に精力を注いだクライマー、ハンス・クラウスの伝記である。

1905年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国に生まれたハンス・クラウスは、非常に恵まれた家庭に育った。具体的には次のとおりである。

・少年期はジェイムス・ジョイスに英語を学ぶ。

・父から登山を教えられ、エミリオ・コミチ、ジノ・ソルダら伝説級のクライマーと親交をもつ。

・資産家の父の庇護の下、アメリカに移住。

・アメリカ移住後、医師としての人脈から故ダドリー・ウルフ(1939年アメリカK2隊の遭難者)未亡人から紹介を受け、フリッツ・ヴィースナーと出会い、生涯の友となる。

などなど。
貿易業で財を成した父親は国際感覚に優れ、そのため一家は第一次、第二次の両大戦時は十分な資産の恩恵を受けて過ごしていた。
エミリオ・コミチとは一緒にチマ・グランデ北壁を2度登るなど、コミチと対等に渡り合える優秀なクライマーだった。しかしクライミング中に友人の転落死を目前にし、その衝撃から父親の望む貿易業ではなく、整形外科の医師を志すようになる。

富裕層の恵まれた人生の自慢話を延々と読まされるのか・・・と思いきや、非常に痛快で面白い本である。その面白さは、ガンクスの岩場を開拓したパイオニア、「整形外科」医療のパイオニアとしての人生、両面を描いていることに由来する。

本書の舞台となるガンクスの岩場は、フリッツ・ヴィースナー(アメリカ登山史黎明期を築いた偉大な岳人)が「発見」した岩場で、ハンス・クラウスと2人で開拓したのが始まり。
2人して、どこを登っても初登になるという天国のような時代である。

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ハンス・クラウス(左)とフリッツ・ヴィースナー(右) 写真:Climbing誌

この本で強烈に印象に残る場面が、ハンス・クラウスがヴィースナーと出会ったばかりの頃のエピソード。
ガンクスの岩場近くで宿泊した際、月夜を見上げた晩について、『I knew then I could survive New York.』と語る。

ニューヨークといえば報道番組などでマンハッタンの街並みが映る度、「この街って、優秀な金融マンとか飛び出てデキる奴しか生きていけないんだろーな」と私は思っていた。
そんな街で、ガンクスという岩場とクライミング仲間に出会ったことで「生きていける」確信が持てたというハンス・クラウス。
クライミングがいかに人生に影響を与えるのか、その意義を感じさせる言葉である。

その一方、若い後進クライマーには「クライミングバムにならないように」「クライミングは趣味として、きちんと仕事をもつように」と教えていたという。ハンス・クラウスの苦労人としての言葉、堅実な性格が現れているといえよう。

ハンス・クラウスはアメリカ移住前、偶然知り合ったサーカス芸人の経験談をヒントを得、ギプスで長期間固めて治療することが常識だった整形外科治療において、温熱療法などを用いてギプス固定を一切用いない治療法を模索・実践していった。

整形外科医療のパイオニアとして、ハンス・クラウスは「K-Wテスト(クラウス・ウェーバ―テスト)」、日本でも現在用いられている筋肉テスト法を生み出す。医師として働く過程で、アメリカの子供はヨーロッパの子供に比較して体力的に劣っている事実が判明する。生活の利便性が発達したアメリカ社会ゆえ、国民の体力が低下していたのだ。「戦勝国アメリカの子供が、戦争で疲弊したヨーロッパの子供より貧弱なわけがない」と反発するアメリカの医学会。
その対立の中で、ハンス・クラウスは地道に研究と医療を進めていく。

彼は「赤ひげ」的な医師で、治療費の支払いを三段階に決めていた。クライマーと貧困層の人々は治療費無料、中間層は一部支払い、富裕層からは全額支払い、である。専属の会計士は毎年「もう無料で治療する余裕はありませんよ」と苦言を呈していたという。

本書の主題である、ジョン・F・ケネディ大統領の「極秘裏の」医療スタッフとしての活躍。
ケネディはもともとアジソン病という病に侵されていたが、大統領の座に上り詰めるため、政敵やメディア、国民に対してもその事実は伏せられていた。そのため大統領を治療・ケアするということは絶対の秘密が条件だった。筋肉にも悪影響を及ぼすアジソン病のため松葉杖を使用していたケネディは、ハンス・クラウスを主治医として迎える。
そこは世界一超多忙なアメリカ大統領、常に電話や側近との打ち合わせなど過密にスケジュールが詰まっている。
大統領の治療は秘密という条件を呑む一方、国家緊急事態以外は治療の邪魔をしないという条件を呑ませるハンス。
ところがある日、ケネディを診察中のハンスに秘書が「申し訳ございません、緊急の電話が・・・」と割って入る。
「え?」と驚くハンスに、秘書は「大統領のお母様からの電話でして・・」と申し訳なそさうに答える。
その日以来、診察中断が許されるのは「国家緊急事態」と「母親からの電話」の2項目となる。母は強し。

それはさておき、そこはホワイトハウスという世界。
ケネディの政敵、メディア、お抱え医師同士の反目というカオスな世界の中で、ハンス・クラウスはあくまでも医師の立場で大統領と実直に接し(時には遠慮なく大統領に説教した)、その姿勢から大統領スタッフにも支持されていく。
ケネディ大統領の医師を務めている間、アメリカ初のエベレスト登山隊に勧誘されるが、医師としての仕事を優先させるため、あっさり誘いを断る。この1963年のアメリカ隊は初のエベレスト西稜登攀を果たす成功を収め、「登山隊の帰国を歓迎するパーティーを開催しては?」と大統領に口添えしたのはハンス・クラウスである。

そしてケネディ大統領の暗殺という悲劇。
ケネディ暗殺の研究者に知られている仮説として、常用していたコルセットをケネディが使用していなかったら、ダラスでの暗殺の際に助かっていたのではないかという説がある。
凶弾の初弾を受けて身体が傾いたものの、コルセットによって姿勢が直立していたため頭部に次の銃弾を受けてしまった、というのが仮説の主旨である。
このコルセットを外すことを前々から主張・説得していたのがハンス・クラウス。後に公開された文書によって、当時は既にケネディの背中の筋肉はほぼ治癒していた状態だったことが明らかにされている。しかしながら、その後の運命は皆さんご存じのとおりである。

アメリカのクライミングといえば、1960~1970年代の「クライミングバム」によって築き上げられたと言われる。たしかにヨセミテやアラスカを舞台とする、極限を目指したクライミング史は彼らによって支えられていったのだが、黎明時、フリッツ・ヴィースナーやハンス・クラウスのような富裕層の人間がアメリカのクライミング(登山)の土台を形成したという事実は、日本ではあまり知られていないのではないだろうか。

前述の通り、恵まれた富裕層の自慢話かと思われた本書。
読み進むにつれ、医師としてクライマーとして活躍しながらも謙虚に人、山、自分自身の人生と向き合うクライマーの姿を、本書に見出すことができる。
登山史には出てこないクライマー、ハンス・クラウスの誠実な生き方が描かれた本書を、多くの方々にお勧めしたい。

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Jan morris著『CORONATION EVEREST』

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『Snow conditions bad stop advanced base abandoned yesterday stop awaiting improvement』(雪の状態悪く 昨日 前進ベースキャンプを放棄 回復待つのは止める)

1953年5月、エベレストがイギリス隊によって初登頂された日、The Times紙の特派員ジェームス・モリスが送ったエベレスト初登頂を知らせる通信文はこのような内容だった。まるで正反対の内容だが、いわゆる「暗号文」である。

本書『CORONATION EVEREST』は、エベレスト初登頂のスクープをイギリス本国に送るべく奮闘した新聞記者ジェームス・モリスの手記である。

ヘリコプターで次々と移動し、8000m峰14座スピード記録とやらがもてはやされる現代。1950年代、8000m峰初登頂時代の、しかも登頂したヒーローではなく、裏方で頑張った人の物語が読みたいなあ・・・と思って選んだのが本書。

1953年、著者ジェームス・モリスは登山経験もなく特派員として英国エベレスト登山隊に参加したが、特にインタビュー独占権など特権があるわけでもなかった。ガーディアン紙など同じイギリス他社の記者だけでなく、世界最高峰初登頂というスクープを狙い世界各地から新聞記者が集まり、初登頂の知らせを虎視眈々と狙っていた。

しかも今のように衛星電話やネットなどあるわけではない。近代的な通信手段である無線はナムチェバザールにある無線局経由でカトマンズへ、カトマンズ駐在のTimes記者からインドへ、インドからロンドンに伝えられるというシステムだった。

その間、エベレスト初登頂というスクープが外部に漏れる危険性は大いにある。

そこでジェームス・モリスは通信手段を考えた。伝書バト、通信文を瓶詰して激流の川に流す、果てはチベット仏教の僧侶にテレパシーで送ってもらう(当時は真剣に考えてたらしい)等々・・・

結局採用されたのは、エベレストベースキャンプからナムチェバザールまでメールランナーを走らせること。

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1953年、登頂を果たした英国エベレスト登山隊(左から3人目がヒラリー、左から5人目がテンジン、右端が著者ジェームス・モリス)

さらに通信文は暗号で送ることになった。暗号として、次のように取り決められた。

意味・・・暗号

書き出し ・・・ 雪の状態悪し

エドモンド・ヒラリー ・・・ 前進ベースキャンプ放棄

ジョン・ハント(隊長) ・・・ 第五キャンプ放棄

ジョージ・ロウ ・・・ 第6キャンプ放棄

テンジン ・・・ 回復待つ

シェルパ ・・・ 酸素ボンベを待つ

これらを組み合わせて「エベレスト初登頂」を知らせた通信文が、本記事冒頭に記したモリスの通信文であった。

ジェームス・モリスは南京錠のかかるキャンバス製バッグに通信文を入れ、メールランナーにしつこいほど「途中で誰とも話しないこと、安全に、黙って行け」と繰り返し命じるところは、世紀のスクープをモノにした記者の緊張感が伝わる場面である。

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登山活動中、隊長のジョン・ハントに「(女王の)戴冠式に間に合うかな」といわれる場面がある。

1953年のエリザベス女王戴冠式の日にエベレスト登頂のニュースがもたらされたというのはよく知られたエピソードである。

戴冠式の日に合わせるため、モリスが初登頂の情報を秘匿していたのではないかと後に疑惑がもたれるのだが、本書を読む限りでは、そんな余裕は全く無い。たしかに女王戴冠式を強く意識していたようだが、モリスは第2キャンプで初登頂を知り、その日のうちに僚友の協力を得て必死にベースキャンプまで下山、急ぎ通信文をまとめメールランナーに託したのだった。下山途中、知人のジャーナリストに出くわすが、英国隊の成功を誤魔化して別れる。嘘も方便、である。

さて、エリザベス女王戴冠式の日にエベレスト初登頂をイギリス本国に知らせた新聞記者の苦闘談、だけではない。

1950年代の古きネパール・カトマンズ、ヒマラヤ登山の様子もイキイキと描かれている。

後にインド隊が発見したと主張するヒマラヤ山中の湖について、「インド隊ではない、私とシェルパが見つけたのだ。エリザベス湖と命名した」と記す。未踏の地がゴロゴロしていた、なんとも素晴らしい描写ではないか。

ヒマラヤ登山が、エベレスト登山が男の夢だった時代のストーリー・・・といえば、今現在では「性差別」と言われるだろうか。Morris3

晩年のジャン(ジェームス)・モリス

著者のジェームス・モリスは後年、1964年に性転換手術を受け、名前もジャン・モリスとして女性として人生を生きる道を選んだ。

ジャーナリストとしての優れた記事の他、作家・文筆家として知られ、「戦艦大和」(未邦訳)を著し日本とも縁が深い。

1950年代、世界最高峰初登頂を人々に伝えるため苦心した人物の物語は、登山家のそれとは異なる視点で非常に興味深いものだった。

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石牟礼道子全句集

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ハードな現場作業、出しても出しても続く見積書、登山活動と家庭の事情。

会社から自宅に戻ると、喰って寝る状態。2週間近く、明かりを灯したまま眠り込む日々。

そんな日々でも文字と離れがたく、選んだのが石牟礼道子全句集。

先日のガイド山行の帰り、NHKラジオ第2「こころをよむ 危機の時代のうたごごろ」という番組を聴きながら高速道を走っていた。

番組の中で、歌人の今野寿美氏が絶賛していたのが石牟礼道子の俳句。

散文ですらまともに書けない私にとって、言葉を凝縮した芸術である短歌、俳句なんて遠い星のような世界である。

番組の中で絶賛されていた俳句が

祈るべき 天とおもえど 天の病む

私が句集で特に印象に残ったのは、

死におくれ 死におくれして 彼岸花

凝縮された言葉の塊を走り読みして、また現場作業の日々が続く。

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藤森晶子著『丸刈りにされた女たち』

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藤森晶子著『丸刈りにされた女たち』を読む。

第二次世界大戦終戦直後、フランスでドイツ人男性と関係を持ったフランス人女性が見せしめに丸刈りにされ迫害された。その事実を追求した著者のルポ。

フランスではこの迫害の史実は完全にタブー化され、本書も学術書・ルポというよりは著者の体験談をまとめた著作に近い。

著者は調査のためにフランスに留学・滞在し調査を試みるが、ドイツ人と恋愛関係に陥ったフランス人女性のわずかな体験談を得ることができたものの、「対独協力者」としてのフランス人女性には遭遇できずじまいであった。

約70年前の史実でさえ、残された物証といえばわずかな写真と映像のみ、関係者は固く口を閉ざし、ほとんどが故人となりつつある。

証言を得る事でしか成り立たない「現代史研究」の困難さを痛感させられる。

本書に対しては「卒論本」「考察が足りない」「情緒的」などの数々の批判はあるが、私はそうは思わない。わずかな証言しか得られなかったとしても、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作と、本質的には何ら変わらないはずであろう。

本書はフェミニストや反戦団体の平和主義者によく引用されているようだ。

コロナ禍による閉塞感伴う3年目、もはやウイルスとの闘いというよりも各個々人との価値観の違いが鮮明になりつつある現在。

私は本書を通じて、戦争の愚かさはもちろんだが、コロナ禍の今も直面する「正義という目に見えない存在の不確実性」を突きつけられた一冊だった。

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PETER BOADMAN著『 THE SHINING MOUNTAIN』

去る5月2日、ニュージーランド隊が46年ぶりに、インド・ガルワールヒマラヤのチャンガバン(6864m)西壁の第2登に成功した。

ちょうど現場作業も忙しい時期と、所属するガイド団体の人事等々が重なり、頭も一杯だったのだが、正直、こう思った。

(46年前の、1976年のチャンガバン西壁初登って、何が凄いんだろう?)

少人数でのヒマラヤ登攀ということであれば、メスナー・ハーベラー組のガッシャブルム峰アルパインスタイルという記録がある。

ヒマラヤの困難なルートというのであれば、同じイギリス隊のアンナプルナ南壁登攀という記録がある。

チャンガバン西壁登攀って、何が凄いんだろう?

海外の山岳メディアがとりあげるから?

池田常道老が評価するから?

それは、今まで散々海外山岳メディアの記事をパクってきた当ブログの在り方に自分で疑問を持つことにもなるのだが、海外メディアがとりあげるから自分もとりあげるやり方に疑問を持ったのだった。

私が知りたいと思ったのは、ピーター・ボードマンとジョー・タスカ―が、なぜチャンガバン西壁に向かったのだろう、ということ。そこにどんな人間ドラマがあったのだろう。

残念ながら、二人とも故人となってしまっている現在、それを探るには遺された著書を紐解くしかない。

S1_20220703213101前置きが長くなったが、そんな理由でピーター・ボードマン著『THE SHINING MOUNTAIN』を読み始めた。

本書によれば、ピーター・ボードマンは1975年のエベレスト南西壁登山隊に参加、猛者ぞろいの登山隊の中であまり活躍もできず、【2022.7.11追記 ボードマンはパルテンバと共に第2次アタックに成功】したものの、大人数の登山隊の中で鬱積する想いがあった。

そこへ現れたのが、ディック・レンショーと2人でドゥナギリ峰をアルパインスタイルで陥したジョー・タスカ―。

チャンガバン峰はジョー・タスカ―の紹介で見つけ、それまでペアを組んだことは無かったが、気の合った2人はチャンガバン西壁という目標に向かうことになる。

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チャンガバン西壁と、その初登ルート

注目すべきはチャンガバン西壁遠征計画に対するイギリスのクライマー達の反応である。ボニントン、ダグ・スコット、ドゥーガル・ハストン、ジョー・ブラウンといったベテラン勢は皆、否定的な反応を示す。彼らの登山歴を思えば「おまえが言うな」の世界である。イギリスの「MOUNTAIN」誌編集長ケン・ウィルスンには「既婚者の行くルートじゃねえよ」と言われる始末。

チャンガバン西壁計画を推してくれた少ない人物の一人が、ドン・ウィランス。日本では酒癖の悪いイメージがまかり通っているが、本書でそのイメージは変わった。やはり一時代を築いたクライマーだけあって、先見の明があったのだろう。

チャンガバン西壁登攀の画期的な意義として、ヒマラヤの岩壁にビッグウォールクライミングの手法を持ち込み、2人という小人数で陥したことが高く評価されている訳だが、その陰には地道なトレーニングが積み重ねられていた。

当時ジョー・タスカ―は耐寒訓練も兼ねて冷凍倉庫で働いていた。彼の手引きで2人はビバーク用ハンモックを冷凍倉庫に持ち込み、大量のアイスクリームに囲まれながら、冷凍倉庫の中でハンモックビバークの訓練を行っていたのだ。

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チャンガバン遠征でのジョー・タスカ―(左)、ピーター・ボードマン(右)

本書は、遠征の始まるきっかけから準備、キャラバン、登攀、下山とオーソドックスな記録形式をとった登山記である。激しいクライミングシーンばかりではなく、「退屈しのぎの読書本を交換しあった」遠征暮らしまで克明に記されている。遠征登山を経験した方なら「ああそう」という場面も多かろう。

2人の信頼関係は1982年のチョモランマ北東稜遠征、山頂を目指したまま行方不明になるまで続く。

ピーター・ボードマンの遺体は1992年の日本・カザフスタン合同隊によって発見されるが、ジョー・タスカ―の行方は不明のままである。

既に当ブログでも記事にしているが、『ボードマン・タスカ―賞』という山岳文学に贈られる賞が存在する。

あいかわらず現場作業で頭も体も一杯の日々だが、少しずつでも二人の記録を紐解いてみたい。

メディアやウィキペディアを参照して動画を作ったり記事を書くのは、他の方にお任せしたい。私は「登頂した」「記録を達成した」という成果の陰にある「ドラマ」を見つめてみたいと思う。

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【ウチの】Cooking With Columbo【カミさんがね】

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ガチなクライマーの山行記に口飽きしたので、TVドラマ『刑事コロンボ』にまつわる料理レシピ集を読む。

放映された各話ずつ、料理レシピがまとめられている。

 著者ジェニー・ハンマートン(Jenny Hammerton)は切手・郵便物の骨董品店で映画俳優の料理レシピ本に出会い、それから映画俳優の料理レシピを追求・研究している方。自らも映画産業に関わり、本書出版以前から自身のブログ『Silver Screen Suppers』が有名な女性ブロガーである。

私自身は小学生の頃から、私の読書遍歴に多大な影響を与えた従兄が大のコロンボファンであったため、NHKで放映していた頃には毎回欠かさず視聴していた。従兄「コロンボの大好物はチリなんだ」私「ふ~ん」

 ワクワクしながら、まずドラマ視聴者人気投票ベスト1の『別れのワイン』(原題Any Old Port in a Storm)の章を読む。あれ?掲載されているのは、犯人役を演じたドナルド・プレザンスのカレー料理レシピ。 あー、このガッカリ感。各話毎、犯人役を演じた俳優にまつわる料理レシピが記載されているのでした。

 とはいえ、日本の刑事コロンボファンにもおなじみ、

 コロンボが劇中で料理してみせたオムレツ

 コロンボの大好物チリ(チリコンカン)

は漏れなくレシピが収録されている。せっかくなので何か料理を再現したいところだが、殺人現場でゆで卵をポリポリ喰ってるコロンボ、もっと簡単な食事があるだろうと思いましたがありました、劇中でたまに出てくる「コロンボサンド」。これもしっかり本書には記載されています。

62話「恋に落ちたコロンボ」の劇中、殺人現場の厨房を勝手にのぞいてレーズンを取り出し、ピーナツバターを塗ったパンにパラパラふりかけるシーンがあります。

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勤務先で安く入手した食パン(私の勤務先、建設会社なのにパン屋もやってます。。。)

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ピーナツバターがっつり塗って、

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刑事コロンボにちなみカリフォルニア産レーズンを45粒載せます。45粒というのは、著者ジェニー・ハンマートンが映像見て実際数えたそうな。

 食べてみると、ピーナツバターの甘味とレーズンの甘味が重なって違和感無いです。というか徹底的に甘いです。

 お気づきの方もおられると思いますが、アメリカのピーナツバターは甘くないので、コロンボが喰っているサンドはレーズンの甘さが際立っているのかもしれません。私はお子ちゃま舌なので、アメリカの甘くないピーナツバターは苦手、日本の水飴たっぷりのピーナツバターの方が好みです。

 かなり甘いパンを食いながら、コロンボなみに頭脳明晰になりたいものです。

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クライミングは危ない (棒読み)

やっぱりクライミングって危ないよね~(棒読み)

Theledge

イギリス映画『The Ledge』が公開・・・・イギリス作品で3月からDVDリリース、B級臭プンプンですが・・・

ストーリーは、ケリーとソフィーの女性ペアがクライミングのため入山、そこで男性4人組と出会います。

エロエロな理由から男たちによるソフィー殺害を目撃してしまったケリー、岩山へ必死の逃走を試みる、というストーリー。

トレイラーといいつつ、ほぼダイジェスト版の予告編をご覧あれ。

 

ポーターレッジがスリラー映画の舞台になる、クライマー必見!(たぶん)

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