『第2回蔚州世界山岳映画祭』 の不都合な真実

去る9月21日から5日間にわたり韓国・蔚州郡で開催された『第2回蔚州世界山岳映画祭』。

各韓国メディアは国際イベントとして無難に報道していましたが、韓国の時事ジャーナル紙が痛いところを突いた報道を展開しています。

朴槿恵・前政権時から韓国各地の山岳地で問題になっているケーブルカー建設問題に関して、ゲストとして招かれたリック・リッジウェイもガツンと物申したようです。

「自然と共存」問いただすことになった蔚州世界山岳映画祭の課題 by 時事ジャーナル(韓国)2017.9.27

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「自然と共存」問いただすことになった蔚州世界山岳映画祭の課題
9月25日に閉幕・・・上映作品増大など、見た目拡大にも運営システムの粗雑

チェ・ジェホ 記者

 国内最初で最大の山岳映画祭として注目を集めた、第2回蔚州世界山岳映画祭が9月21日に開幕され、5日間にわたって21カ国97編の上映スケジュールを終えて幕を閉じた。

 昨年第1回の時よりも上映作品が19編増え、出品作品も78編(第1回は40カ国182編 → 第2回は31カ国260編)に増加するなど、世界的な山岳映画祭として発展する可能性を確認できた点で、主催者である蔚州映画祭事務局は舞い上がっている雰囲気だ。
 しかし、25億ウォンの予算をかけた国際イベントとしては貧弱な付帯行事プログラムに加え、映画祭の最も重要な上映館チケットに関連した粗雑な運営システムは、昨年第1回の時とあまり変わりなかったという指摘を受けている。
 蔚州世界山岳映画祭が、主催側が掲げるようにイタリア「トロント」、カナダ「バンフ」とともに世界3大山岳映画祭に成長するために解決すべき課題は何だろうか。

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去る9月21日、UMFF開会式の様子 蔚州世界山岳映画祭事務局提供

「このまま世界3大山岳映画祭に成長できるか」

 第1回蔚州世界山岳映画祭が開かれた昨年9月30日、キム・ギヒョン蔚山市長は当日午前中まで開幕式に参加しないつもりだった。市役所で当日朝に発送する日程表に、キム市長の代わりに行政副市長が開幕式に出席として名簿に記載されていた。キム市長は最終的にこの日の夕方の開幕式に出席し、会場で持前の明るい表情を維持したが、当日の朝は副市長を代わりに国際イベントに出席させようと決心するほど不満を持っていたものと思われる。

 キム市長の当日不参加のハプニングは、映画祭の名前をめぐって蔚山​​市と蔚州郡が神経戦を繰り広げたことから始まった。蔚山市は予算10億ウォンを支援する条件で映画祭の名称に「嶺南アルプス」や「蔚山」を用いることを要求したが、蔚州郡は最後まで地域名を譲らなかった。

 蔚州郡がこのような独自の路線を進んで失ったのは、10億ウォンの予算だけではない。蔚山市は今年広域市昇格20周年を記念する「蔚山訪問の年」と銘打って巨大な広報マーケティング戦略を繰り広げたが、蔚州世界山岳映画祭の広報は、蔚州郡の役割だった。

 5日間の蔚州映画祭に集まった観衆は約6万人と映画祭事務局は推定した。昨年の第1回で事務局が明らかにした観衆は、5万3000人だった。しかし、イベント期間中に会場を往来した周辺関係者は、昨年に比べて会場が広く感じられるほど訪問者が少ないと口をそろえる。

 野花漫画フェスティバル、ツリークライミング、全国スポーツクライミング大会、ガンウォルジェで開かれた山上音楽祭「蔚州オデッセイ」など、家族単位やスポーツ愛好家が参加するプログラム会場は参加者でにぎわった。しかしながら映画祭の中心であるべき「映画上映館」周辺は寂しいほどで、映画祭は全国の映画ファンを集めるには限界を表わした。

 このような寂しい上映館の雰囲気は、無料で行われている映画チケットのずさんな運営システムと無関係ではなかった。当初映画祭事務局は、オンライン予約以外に観覧席の20%を現場で発券すると約束したが、開幕翌日になって突然上映日に関係なく事前予約することができるように方針を変え混乱を招いた。

 週末の上映時間に間に合うよう当日券を入手しようとしていた観光客は「売り切れ」という案内に失望して引き返した。臨時上映館3棟も含め4箇所の上映館では、「売り切れ」という案内とは異なり前売券をストックしておいて、会場が見つからない団体のために主催者側は冷や汗を流したという裏話もある。

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去る9月23日、蔚州世界山岳映画祭会場で特別講演をおこなうリック・リッジウェイ氏の様子。 蔚州世界山岳映画祭事務局提供

蔚州推進・神仏山ケーブルカー - 山岳映画祭との共存方法は・・・

 今回の映画祭で主催側が精魂込めたプログラムの中で欠かせないのは、今年初めて制定された「蔚州世界山岳文化賞」だった。受賞者は、7大陸最高峰を世界で初めて登頂した記録を保持し「地球の息子」という敬称を持っているアメリカのリック・リッジウェイ氏である。彼は会場で特別講演と特別展示会をおこない、蔚州地域「嶺南アルプス」と縁を結んだ。

しかし、登山家であり環境活動家に変身した彼には、蔚州郡が推進する「神仏山ケーブルカー」が不満だった。

 リック・リッジウェイ氏は記者会見で「山は野生そのままに保存しなければならない。そしてケーブルカーには反対する」と表明し、映画祭関係者たちを困惑させた。 彼は「山に登った時、野生が与える魔法を感じることができて自然から安らぎを受けることができる」 として 「車に乗って、駐車場に駐車をして、ケーブルカーに乗って展望台まで上がって、再びケーブルカーに乗って降りてくるのは優れた人間の姿ではない」と批判した。

 映画祭発足を先頭に立って主導してきた蔚州郡は、今後は映画祭運営主催を法人にして世界的山岳映画祭として発足させていくという立場だ。
 蔚州郡の方針通りならば、来年9月には第3回蔚州世界山岳映画祭は神仏山の頂上と連結されたケーブルカー駐車場の真下で開かれることになる。

 「自然との共存」をスローガンに掲げた蔚州世界山岳映画祭が、映画祭の存在理由と現実の環境の間で、どんなスタンスを取るかにより今後、名実共に世界山岳映画祭に発展するかどうかを分けるものと見られる。

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以上引用おわり

なにかと「世界的」なタイトル好きな韓国ですが、この蔚州世界山岳映画祭に賭ける意気込みはものすごいものがあります。
昨年の第1回のゲストとして韓国に招かれたのがラインホルト・メスナー、そして欧米ではその名が知られている山岳ジャーナリストBernadette Macdonaldを招いたところに私は韓国山岳界の「本気」を感じた次第。

チケットの問題は「ケンチャナヨ」な韓国社会ではまあご愛敬として、神仏山のケーブルカー問題は痛いところを突かれました。

 あの雪岳山でも経済効果を期待してロープウェイ建設計画が浮上、計画に反対する自然保護・登山関係者に逮捕者がでるほど反対運動が白熱していました。
 朴槿恵政権が終末を迎えたことによりロープウェイ建設も白紙に戻されましたが、最近になってゾンビのように再浮上しているようです。
 当該記事の神仏山ケーブルカー計画のように、経済効果を期待する賛成派と自然保護を訴える反対派との対立が続いているところもあります。計画はかなり推進されているようですが、各関係省庁の対立もあり、ケーブルカー建設が実現するかはまだ予断を許さない状況、といったところです。

第3回蔚州世界山岳映画祭が韓国のみならず世界的な山岳イベントとなりうるか、ケーブルカー建設計画という環境問題の行方にも注目したいと思います。

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【訃報】 ノーマン・ディーレンファース氏 逝去

 1963年のアメリカ隊を率い、ホーンパイン、アンソールドらによるエベレスト西稜縦走を成功させた、ノーマン・ディーレンファース(Norman G. Dyhrenfurth)氏がオーストリア・ザルツブルグの病院にて老衰のため亡くなりました。99歳でした。

Norman Dyhrenfurth dies; led Americans’ 1963 Everest expedition by TheMercuryNews 2017.9.27

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1960年、ダウラギリをめざすスイス隊に参加したノーマン・ディーレンファース氏

 もともとヒマラヤ登山家・登山史家として知られるギュンター・デーレンファース、女性登山家の先駆者であるヘティ・ディーレンファースの子として1919年にスイスで生まれ、第二次大戦前に一家はアメリカに渡りました。
 UCLAでは映像芸術を学び、スイス出身ということもありカメラマンとして52年のエベレスト隊、55年のローツェ隊、60年のダウラギリ隊に参加、8000m峰の初登・黄金時代を経験します。

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UCLAにてアルフレッド・ヒッチコックと面会するノーマン・ディーレンファース氏(中央)

60年のダウラギリ隊参加の際、ついに1963年アメリカ隊のエベレスト登山許可取得に成功。
1963年5月1日、南東稜から2名登頂、つづく5月21日には西稜~南東稜の初縦走を成功させます。

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母親であるヘティ・ディーレンファース(1892~1972) 1934年にシア・カンリ(7315m)に登頂、女性登山家としての世界最高到達点の記録を20年間保持していました。

1971年にヨーロッパ、インド、日本から精鋭が集った国際登山隊で西稜上部完登と南西壁登攀を狙いますが、個性の強い隊員同士が反目、失敗に終わります。

その後は目立った登山活動には関わらず、映像関係者として『アイガー・サンクション』、『氷壁の女』などの作品でアクション監督を務めました。

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晩年のノーマン・ディーレンファース氏。
手にしているのは、1936年ベルリン五輪においてナチ・ドイツが両親の登山活動に対して授与した金メダル。

ヒマラヤ登山史を飾った人物がまた1人、世を去りました。
膨大な物量作戦の結果とはいえ、1963年に見事な西稜縦走を成功させた先達に哀悼の意を表します。

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リック・リッジウェイ、月刊誌『人と山』で語る

リック・リッジウェイといえば、古い山屋な方には著作『ちょっとエベレストまで』で知られていることでしょう。
若い方には環境活動家として知られているかもしれません。
1978年のK2アメリカ隊でジョン・ロスケリーと共に無酸素でアメリカ人初登を果たした人物です。
私個人としては、後のボルネオ島横断などの冒険行を高く評価されるべきだと思っています。

さてそのリック・リッジウェイですが、最近韓国で開催された蔚州山岳映画祭において『世界山岳文化賞』を授与されることが決定、これに伴い韓国の月刊『人と山』にインタビュー記事が掲載されました。

Rick Ridgeway 「2017蔚州世界山岳文化賞」受賞者 米国の山岳文化伝道師 by 月刊『人と山』2017年8月号

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文 シン・ヨンチョル編集員 写真キム・テミ在米カメラマン

 アメリカに「アジア」という変わった名前を持つ女性がいる。その女性を主人公とする本『父の山』は登山家リック・リッジウェイが書いた本である。韓国語にも翻訳されて好評価を受けた。半紙に染みこむ墨汁のように感情移入し、涙が流れた本。肌の色や言語は違っても、山と人との関係に対する洞察は同じものなのだろうか。

 ストーリーは、古いモノクロ写真のように古典的な話だ。 1980年10月、リッジウェイは、アウトドアメーカーを起業して有名なイヴォン・シュイナードとチベットを訪問する。ミニヤコンガ(MinyaKonka 7556m)を登るためだ。その過程を取材するために、ナショナルジオグラフィックのカメラマン、ジョナサン・ライト(Jonathan Wright)も同行する。
 厳しい登山の中、雪崩に遭いジョナサンはリッジウェイの膝の上で死ぬ。当時、アメリカのジョナサン家には生後16ヶ月の娘、アジア(Asia)がいた。赤ちゃんがニッコリ笑ってくれるだけで世界のすべての父親は幸せである。仏教に深い関心があったジョナサンは、赤ちゃんが生まれる前に「アジア」と命名しておいたのだ。

 登山を中止したリッジウェイはジョナサンの遺体を収容し、ケルンを積み上げた後、帰国する。リッジウェイが住んでいたベンチュラはパタゴニア本社のある所だ。同じ地区に住んでいたジョナサンの娘アジアは、パタゴニア創業者イヴォン・シュイナードの娘、そしてリッジウェイの娘と年齢が近く、同じ学校に通って成長した。リッジウェイ夫婦は、アジアを実の娘のように愛した。リッジウェイが見守る中でアジアは成長し、パタゴニアでアルバイトをして登山も学んだ。

「ある年の夏の終わりでした。アジアが私に尋ねたんです。私のお父さんはどんな人であったか、と。父の顔も知らないまま成長したアジアでした。父の説明を聞いたアジアは、私にチベットにある父の墓に連れて行ってくれと頼んできました。いつの日か、アジアからそのような質問を受けることを私は期待していました。」

 そしてアジアが19歳になった1999年、父の墓を見つけるためチベットを訪れる。登山旅行に仏教、哲学、登山などの複数のストーリーをまじえて人生を凝視する物語。二人は父ジョナサンが登れなかったミニヤコンガを訪れ、ケルンを探すというストーリーの本だ。

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ベンチュラ、パタゴニア本社

 パタゴニア本社で握手を交わしたリッジウェイは相変わらずだった。パッと笑う表情と太い皺は仮面に似ている。今回もやはりショートパンツにサンダル姿。アウトドア会社特有のコンセプトだ。

「私たちは、格式を問わない自由奔放な伝統を守っています。それがアウトドアの本質ではないでしょうか?以前にお会いしてからもう7年が経ったんでしたっけ?」

暑い8月だが太平洋に近く、涼しい感じがする。本社入口の左側に、従業員の子供のために会社が運営する幼稚園がある。子供たちの笑い声も7年前のままだ。

「私の娘もこの幼稚園出身です。今はこの会社で私と一緒に働いてまして、孫娘も今この幼稚園に通ってます。私たちは、三代ここに通っていますよ。」

もちろんジョナサン・アジアもこの幼稚園出身だった。会議室でリッジウェイに面会した。彼にたずねた最初の質問は、まさにアジアの近況だった。アジアは、ニューヨークのナイキ本社に勤務し、スマートな夫に出会って結婚し、今は子供を2人もつ母親であるという。

「私の娘のようなアジアは「父」を見つけ、その時のチベット旅行で、自分自身が抱えている「陰」を克服しました。アジアの性格は明るく変わり、社会生活にも成功して落ち着きました。アジアが幸せに暮らしているのが嬉しい。私たちは、アジアを愛してるんですよ。」

 人と山の関係を包括する山岳文化は特別である。偉大な自然と山の前では限りなく小さい存在、それが人間である。それでも、その小さく弱い人間は、もの言わぬ山に向かって絶えず挑戦し、達成し、時には挫折する。
 そのプロセスが感動であり、悲しみがあり、深いストーリーテリングが存在する。そんな経験が一体化されている正しい山岳文化を創造することができるだろう。まさにリッジウェイのような人が経験した「山」である。知恵と経験が山岳文化の地平を広げてくれているのだ。

「本題にはいりましょう。まず、「2017蔚州世界山岳文化賞」受賞おめでとうございます」

「ありがとう。実際、受賞の知らせを聞いて驚きました。初めて韓国支社を通じて知らされてから、蔚州世界山岳映画祭を知りました。調べてみると、世界的に知られ始めた山岳映画祭のようですね。非常に望ましい山岳文化がまさに映画祭だ。映像にまさる大きな破壊力はない。私も映像を制作していたからわかります。そのような面で私がアメリカでも貢献している部分がありますよ。」

 リッジウェイの言葉は示唆するところが大きい。彼はアメリカ在住で最もインテリジェントな登山家であり、純度の高い山岳文化を生み出している。彼が発表した多くの著作は、米国で人気を集めている。自然と山のノンフィクションでありながら、小説よりも面白いからだ。リッジウェイはニューヨークタイムズ選定10大ベストセラー作家にもとりあげられた売れっ子作家でもある。
 それだけではない。映像で20編余りの山岳・探険ドキュメンタリーを直接監督・製作したドキュメンタリー監督だ。映像では米国で有名な「エミー賞」」を受賞した。また、米国を網羅したアドベンチャーの写真・映画会社を運営したりと、山岳文化賞に本当にふさわしい人選である。

 リッジウェイの登山界の先輩でもあるイヴォン・シュイナードに抜擢され、2000年からパタゴニア理事会メンバーに抜擢され、今日まで社会貢献担当副社長を務めている。青い目の白髪、そしてラフに着こなしたシャツとショートパンツ、素足にサンダル姿であるリッジウェイ。この会社の社主であるイヴォン・シュイナードに初めて会った時も同じ服装だった。そうして見ると、シュイナードとリッジウェイは本当によく似ている。小柄でハンサムではないが、顔で山に登るわけではないように、野生にふさわしい表情で人生を太く生きている。まさに「小さな巨人」と呼ぶにふさわしい。

骨の髄からの環境論者

「この写真を見てください。イヴォン・シュイナード、私、ノースフェイス創業者のトンプキンス(Tomkins)です。パタゴニアでカヤックを漕いで撮った写真です。そのトンプキンスが溺死して亡くなる直前に、自然を楽しんでいたその時の写真です。わずか1年8ヶ月前の話だ。」

 会議室に設置された写真には、シュイナードとトンプキンス、リッジウェイ、もう一人の男性が見えた。 2人乗りカヤックにはトンプキンスとリッジウェイが一緒に乗っていた。パタゴニアの悪名高い強風が湖に吹き、カヤックが転覆した。水温は摂氏4度と冷たかった。リッジウェイは他のカヤックによって救助され、トンプキンスは急いでヘリ輸送されたが、結局病院で死亡した。低体温症が死因だった。 2015年12月、野生の土地パタゴニアの湖で起こった悲劇だった。 72歳の生涯を終えたトンプキンスや68歳のリッジウェイは、すなわち「走り続けるお爺さん」たちである。

「事故は私の人生観も変えた。」

 写真を撫でるリッジウェイの目元に涙がにじみ、山で結んだ長い友情、パタゴニアへの無限の愛情。その歴史は古くにさかのぼる。 1968年トンプキンスと彼らは未知の世界だったパタゴニア・フィッツロイ登山を目指した。

「ダグラス・トンプキンスはイヴォン・シュイナードなど友人と古いフォードバンに乗って、アルゼンチンとチリの国境に沿ってパタゴニアのフィッツロイ登山に出かけ、その過程をドキュメンタリー映像に収めました。それが山岳映画の古典とされている映画「Mountain of Storms」です。 2010年、私はクリス・メルロイ監督と一緒にその旅を新たに撮影したドキュメンタリー「180 Degrees South:Conqueror of The Useless」を撮りました。映画と一緒に本も同時に出版しました。」

 1968年の旅を再訪する内容のこの映画は、全米で上映され好評を得た。それだけこれらの愛情が深いパタゴニアはイヴォン・シュイナードによってアウトドアブランド名にも選ばれた。フィッツロイの稜線のイラストにパタゴニアのロゴが飾られたものである。ノースフェイス、パタゴニアはそれぞれアウトドア事業に大きく成功し、パタゴニア保護活動を始めた。

「私たちは、漠然と自然保護をするものではありません。消えていく様々な在来種に安全な生息地を提供して、「搾取する経済」から「節約とエコツーリズムの経済」へと転換を模索するものです。だからトンプキンスを主軸に、私たちは、ディープ・エコロジー財団(DEF)を作りました。パタゴニアの野生の土地を購入して開発不可能な公園を作り始めました。チリ、アルゼンチン政府の公園を寄贈して国立公園に指定してもらう計画を実行し始めたんです。」

 リッジウェイの言葉通り、これらの財団は、世界で最も広大な私有地を購入し、その地に野生公園を作った。地球の大陸の端、チリとアルゼンチンの広大な森林と草原の公園の規模は、ソウルの面積の15倍にもなる220万エーカー、約27億坪もの広さだ。これだけで終わらず、国立公園になったアルゼンチンのモンテレオン(Monte Leon)、チリパタゴニアのコルコバード、アルゼンチン最大の野生湿地エステロスデルイベにも公園を作った。

 このような膨大な実績があるため、リッジウェイは環境活動家としても米国で評判が高い。年をとってもパタゴニアでカヤックを楽しんで公園を作る老人。そういえばショートパンツ姿のリッジウェイの足の筋肉は目立つ。彼はその足の力だけで、2004年には手作りリヤカーを引いて、無人のチベット・チャンタン高原500kmを歩いて横断した。絶滅危惧種チルー(chiru)を探すためだ。 2009年、リッジウェイはナショナルジオグラフィックが1年に1人選ぶアドベンチャーベストに選ばれた。彼は世界的なノンフィクション作家であり、写真家であり映像プランナーだ。また、ナショナルジオグラフィック、ABC、NBC、ESPNなどの放送チャンネルに探検ドキュメンタリーを提供するエンターテイメント会社の代表を務めたこともある。

自然は子孫に借りて使うことに感謝

 パタゴニア創業者イヴォンシュイナードとリッジウェイは、多くの登山と探検を一緒にして友情を築いてきた仲だ。韓国で言えば、「長い登山の先輩・後輩」の関係だ。

「ここで働くことになるとは私も予想しなかった。悪友のシュイナードの勧誘が素晴らしかった。自然を保全し、保護するために先頭に立ってほしいという言葉だったから。会社で私がしていることはまさにそれです。環境関連の本を出版し、団体を見つけて後援すること。当社の総売上高の1パーセントを環境のために寄付している。大きな金額です。私たちの環境保護のアイデアは、米国各地に広がり、今では売上高の一定部分を基金に差し出す企業がすでに千社を超えました。」

 そういえばリッジウェイは、会話の中で言い過ぎと思うほどに「環境」を前面に押し出していた。特定の宗教を持たないリッジウェイ。自然主義者らしく万物の根本となる自然を理解しようと努力すると同時に、「自然教」を信じる信徒のようにも見える。

「以前にアフリカのケニア山を登ったことがある。その時アイスクライミングを余儀なくされました。ところが、その氷河がもうなくなってしまった。気候温暖化のためです。私たちの子孫はそんな風景を写真でしか見ることができない。環境の搾取や破壊は、子孫から借りている自然に対して罪を犯していることです。」

 彼が書いた本やドキュメンタリー映像で強力なリッジウェイのメッセージを垣間見ることができる。先に述べた絶滅の危機に瀕しているチルーを保護するためのチャンタン高原横断記「THE BIG OPEN」もそうだ。彼のベストセラー「キリマンジャロの影」もやはり、環境告発であった。キリマンジャロの氷河が溶けており、共生しなければならない動物が絶滅に追い込まれている。自然と人間の貪欲さへの告発本である。

「根本的にアメリカ人は、いや世界は、自然に対する考え方を変える必要があります。地球は一つしかない。生物学的年齢のためにもう激しい登山を離れ、自然をより深く勉強することになりました。大自然に移った私の関心は、すべての感覚を動員して新たに大自然に目が開いたと言える。誰かが、私たちが地球に影響を与えることに警鐘を鳴らさなくてはならない。それが、私が山岳文化を見つめる基準点となります。」

 パタゴニアは3億ドルに達する年間売上高で、税金控除前の1%に達する資金を環境のために運用している。そのためパタゴニアは優良企業として、環境保全事業のリーディングカンパニーとして注目されている。リッジウェイは登山という目的のある自由生活を止めてまで副社長に就任した。会社を通じて自然保護の夢をかなえるためである。作家としての想像力豊かなリッジウェイが、パタゴニアの理想を促進するのに最も適任者だったのだ。

「出版事業部新設もその一環です。書籍発刊は金のためのビジネスではありません。環境と野生、冒険に関連する本をすでに何冊も発行してきました。その本を介して会社の考えを広く知らせるというの目的もあります。」

 会議室の隣には、リッジウェイが制作した山と探検に関連する書籍が何冊も置かれている。話を続けるリッジウェイの言葉は、そのまま文章にしてもかまわないほどに論理整然としていた。そして、自然を何故「神」のように支え、考えなければならないのか、傾聴する価値のある発言だった。

「韓国の登山家たちに自然に対する考えをコメント?簡単ですよ。世界のすべての登山家がそうでしょうが、プロセスを重要視しなければなりません。自然に苦しめられ生き延びている登山家たちが、率先して環境を守らねばならないということです。地球は一つだけです。真の登山家なら、それをまず理解しなければなりません。」

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学者への道と自然への道

「あなたは、蔚州世界山岳映画祭の選定委員会で、投票によって第1回山岳文化賞受賞者に決定しました。その知らせを聞いてどのような感想を抱きましたか?」

「驚きました。クリス・ボニントンのように有名な登山家の中から私が選ばれたのが驚きでした。そして率直に言ってありがたいと思いました。生涯かけて追求してきた、自然と山岳文化の総合的な努力を評価されたようで。」

 総合的な努力とは、何をさすのか。自然と共存する人間の思考、つまり山岳文化をさすものである。その点から蔚州世界山岳映画祭は、適切な受賞者を選んだわけだ。現存する最高の登山活動と探検、人間との関係を考察する作家であるゆえに。
 リッジウェイはもともと学者を目指していた。1975年、リッジウェイは米国の名門大学バークレー校の全額奨学金を受ける条件で、地球物理学の5年の博士課程に入学した。しかしその後、エベレスト登山隊に参加することを打診された。 1976年のアメリカ独立200周年記念エベレスト遠征であった。リッジウェイはためらうことなくエベレストを選んだ。

「今は人口の多い都市となったが、オレンジ畑が並ぶLA近郊オレンジ郡が私の故郷です。 1963年だから、私は15歳の頃だっただろう。オレンジ畑が建物に占領されるのが嫌で山に通い始めました。その山で素晴らしい先輩たちと出会い、彼らにクライミングや山を学んだ。その山にはまっていたとき、ナショナルジオグラフィックの表紙で、米国初のエベレスト登頂者ジム・ウィテカーの表紙写真を見たんです。」

 少年登山家リッジウェイにとって、ジム・ウィテカーは英雄だった。そして、その人のようになることを切実に願った。 1976年に彼はエベレスト遠征に参加した。青年リッジウェイは遠征隊員に抜擢されるほどクライミング能力を認められたものである。その時は頂上に立てなかったものの、エベレスト登山ドキュメンタリー映画チームを助け、映画製作を学ぶことができた。それは大きな経験になった。帰国後はエベレスト登山の本を書き、自分のカメラで撮影した写真とドキュメンタリーフィルムをナショナルジオグラフィックに売りつけ、自分だけのメディア経歴を積み始めたのだ。

「驚くべきことが起こりました。 2年後の1978年に、私にとって英雄であるジム・ウィテカーが隊長として私をK2隊員に呼んでくれたんです。どんなに感激したことか。憧れた英雄とチームになれる瞬間でした。」

 その登山でリッジウェイは、ジョン・ロスケリーと共に無酸素でK2登頂に成功する。 アメリカ人初のK2登頂という快挙であった。 15歳の少年の英雄だったジム・ウィテカーのように、リッジウェイも79年のナショナルジオグラフィックの表紙に堂々と顔が掲載された。
 リッジウェイがバークレー大学で勉強を継続していれば、私たちは偉大な探検家であり山岳文化の伝導師に会うことはなかっただろう。 だが、彼は安楽な将来が保障された学者の道よりも自ら大自然への道を選択した

180°SOUTHを出品したい

 映像にまさる破壊力はない。蔚州世界山岳映画祭が短期間に世界の支持を受けた理由もそこにある。リッジウェイがデイビー・ムーアなど、ハリウッドの有名監督と共同で製作した映画がある。米全域で公開された「180°SOUTH」というドキュメンタリーだ。この映画の中で共同制作を担当したリッジウェイは、同じタイトルの本も出版した。ハリウッドスタイルがそうであるように、映画も数年間、大金をかけて製作された。パタゴニアを愛した彼ららしく、そこに生きる自然と登山に取り組む人間を出演させ、野生の映像と自然保護の正当性を促進するというコンセプトであった。

「蔚州映画祭に出品をするとすれば、今まで作ってきた多くの映像のうち、どれを選びますか?」

私は尋ねた。リッジウェイは、放送界や映画界を行き来し、多くの作品を所有しているからである。

「180°SOUTHだ。それほど完成度が高い。また、2年前に私と一緒にカヤックを漕いでいて亡くなったダグラス・トンプキンスが出演したので縁も深い。 1968年トンプキンスとイヴォン・シュイナードなどが一緒に古いフォードバンに乗って追い求めたパタゴニア。そのフィッツロイ初登攀の登山をドキュメンタリー映像として記録した「Mountain of Storms」を現代的に再現したものだ。ユーチューブで見ることができるよ。」

「7年前に初めてお会いしてから、再び作成した映像や本はありますか?」

「ありません。既に述べたようにパタゴニアに公園を作るなど大変忙しかったんです。私たちは自然保護に全力を尽くしています。しかし、作家として文章に対する渇望は感じますね。いくつか構想はありますが、本当に忙しくて書く暇がありません。」

「あなたは、いくつかの権威ある賞を受賞しました。それだけ文章をよく書きます。文章の勉強をした経験は?」

「ないですよ。大学で、別の私の願望を発見することができたんです。 私が大自然の中で行う行為を、文章に移す面白味を知ったんです。クライミングや探険に必要なお金のためにペンキ塗りなど片っ端から仕事をした。 今考えればドンキホーテそのまんまですが、その時がおもしろかった。」

 大学を卒業したリッジウェイは職もなく、1970年代初めLA近くの岩場やヨセミテで時間を過ごした。当時リッジウェイは、「私の救いだった」と言うほどだった。それが山の先輩であるイヴォン・シイュナードとの出会いだ。 2000年に自分が作った冒険・探検の写真とフィルムを売る事業をしていたリッジウェイは、イヴォン・シュイナードからパタゴニア入社オファーを受けることになる。そして2003年の理事に就任、2005年には環境担当副社長となり、今日まで勤務している。

セブンサミットという言葉を作った人

「向こうに、みすぼらしいトタン屋根の工場が見えますか?私がベンチュラに移ったとき、シュイナードにはその工場が全てだった。現在は博物館ですが、これがグローバル企業パタゴニアのはじまりです。今、私たちの会社は、米国の若者が入社を希望する優良企業となりました。」

 リッジウェイの著作の中で、韓国でも人気を呼んだ 『不可能な夢はない』 というタイトルの本がある。その本の中で韓国の登山家たちもよく知っている「セブンサミット」という言葉は、彼が最初に作りだした。石油会社社長だったディック・バスと、ワーナー・ブラザーズ映画会社フランク・ウェルズ社長がリッジウェイを訪れた。初心者が世界初の7大陸最高峰登頂をしようとするため援助を求めたのだ。

「50歳を超えたアマチュア登山家に実際には「不可能な夢」です。しかし、それを克服するのが登山家の精神ではないか?だから承諾しました。」

 リッジウェイは、実際に彼らと共に7大陸最高峰のクライミングに成功する。たくさんの資金を持つ社長が各大陸の最高峰をすべて登るという発想が痛快である。本来、山岳文化が魅力的なのは、山ではなく山に登る人間の話だ。その登山を終えた後、リッジウェイが発行した 『不可能な夢はない』 がまさにそれである。
 長い時間にも、リッジウェイの話しぶりは柔らかく静かである。青い目の探検家の無邪気な表情と首の太いシワが似合う。ショートパンツに素足、そこにスリッパを履いた姿が見栄えが良い。彼が自然とともに生きてきた年月を雄弁するようかのように堂々としている。

「韓国の登山家ヤン・スンオさんは私たちの会社に勤務したことがあり、よく知ってます。私たちは一緒にティトンに登山旅行に行ったりもした。引退?私にはそんなことはありません。作家に引退はありません。会社でも引退するつもりはありません。まだすることがたくさん残ってますからね。」

 リッジウェイは最近は幸せな日々だと語る。トンプキンスの忘れられない事故の後、同社の幼稚園で孫娘や娘に会えれば人生幸せであると考える。リッジウェイには2女1男の子供がいる。娘はクライマー、息子はサーファーだ。イヴォン・シュイナードの娘とソン・ジュンオクの娘、そしてリッジウェイの娘は、最初に話したアジアと同じ高校を出た。リッジウェイの娘がそうだったように、孫娘が代を継いで会社の幼稚園で大きく育つ。父のように子供たちも友情をはぐくみ続けているのだ。

「長い時間ありがとう。私はあなたがより文章を多くの書き込みを望みます。あなたの文章のファンですから。」

 約束した時間を超えて取材日程が終わった。リッジウェイの写真を撮影して、通訳をしていたカメラマン、キム・テミさんは好奇心で目が輝いていた。インタビューが終わる頃には、尊敬の眼差しに変わっている。

「蔚州が韓国初、最大の山岳映画祭ということは知っています。 9月には蔚州世界山岳映画祭で会いましょう。全世界の大陸にそびえる山、数え切れない山岳文化こそ、徐々に、その多様性で、より注目されるでしょう。私は蔚州の文章を書きます。アメリカの山岳映画祭との連携も考えてみましょう。山岳文化で互いに連携する相乗効果があることを知っていますから。」

 会社の門の外まで見送ってくれたリッジウェイと握手を交わした。太陽が輝く太平洋に白い帆のヨットが浮かび、サーファーが波に乗っていた。生涯を自然とともに生きてきたリッジウェイ。
 「年齢とは、生物学的分類であるだけ」という言葉が、ふと浮かんだ。

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 私事ですが、初めての子(娘)が生まれたとき、家族・親類から「お前が名前を決めろ」と言われたもので悩んだ結果、ジョナサン・ライトのエピソードにちなみ「亜細亜」と命名しかけたのですが、お前が決めろと言ったはずの家族・親類に猛反対され撤回した思い出があります。しくしく。まあ結局ワルテル・ボナッティのエピソードから娘の名前を命名したけど。
 リック・リッジウェイ氏の健康とますますの活躍を祈ります。

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ロシア隊、ラトックⅠ峰断念

ロシアのアレクサンドル・グコフ、ワレリー・シャマロのペアが挑んだラトックⅠ峰北面。
降雪に苦しめられ、食料・ガスの残量も少なくなり時間切れで敗退した模様です。

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二人が登ったライン(赤線) 

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ワレリー・シャマロ(Валерий Шамало)

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アレクサンドル・グコフ(Александр Гуков)

2人は8月17日にBCを出発、ラトックⅠ峰北面にとりつき、予定を変更して北尾根を右側にまわりこんだルートを登りましたが降雪に苦しめられ、食料・ガス残量が乏しくなり8月28日の到達点(6500~6700mと思われる)を最高点として下降したものです。
2人の健闘をたたえるとともに、ラトックⅠ峰北面はまた未踏のまま、次のクライマー迎えることになります。

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ロシア隊、グレートトランゴ南西壁に新ルート「インシャラー」開拓

去る7月23日、ロシア・クラスノヤルスク隊がグレート・トランゴ(6286m)南西面に新ルート「インシャラー」開拓に成功しました。

Сибирские альпинисты в составе сборной совершили первопроход в горах Пакистана by sib.fm 2017.8.14

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今回ロシア隊が拓いたのはナンバー9、オレンジ色のライン。ルート名称は「インシャラー(神の思し召しのままに)」

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登攀の様子

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登攀に成功した3名(左から右に)イゴール・スツダルツェフ、イワン・テメレフ、アントン・カシェフニク 

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3人は11日かけて標高差1500mの壁を登り切り、南峰を踏んで下降しました。
毎日の降雪に悩まされ、食料制限も行い登り切ったとのこと。
上記画像はチョコを口にして6時間下降を続け、最後の懸垂下降を終えてお疲れの様子。

グレートトランゴ南西面は上記画像のように既成ルートが多く、ロシアのクライミングサイトでは今回の「新ルート開拓」に関して、既成ルートの継続ではないかと少し議論になっているようです。
それでも壁の「空白」地帯を登るため、イワン・テレメフのコメントでは90m進むのにスカイフック130回掛け替えたりと、かなり苦労した模様。

今シーズンのロシア人クライマーは、ベテランのセルゲイ・ニーロフらがバフィン島に入山、順調に登っているので続報が待たれます。

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ロシア隊、ラトックⅠ峰北壁へ

今夏特に注目すべき登山隊として、ロシア隊が難攻不落のラトックⅠ峰北壁に挑みます。

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信頼できるロシア情報筋によれば、メンバーはタムセルク南西壁中央バットレスを初登したアレクサンドル・グコフ、冬のナンガパルバットを経験しているワレリー・シャマロのペア。
7月27日、2人はロシアを出国、パキスタンに向かった模様。
ルートの詳細は明らかにされていませんが、ジム・ドニーニ、ジェフ・ロウらが挑んだラインが挙げられています。

ロシア隊によるラトックⅠ峰北壁のトライは2012年に続く試み。このときは6200mに到達したところでメンバーの体調不良もあり断念という結果でした。

アレクサンドル・グコフ、ワレリー・シャマロはいずれもロシアのアルパインクライミングにおけるトップクライマー。
幾人ものクライマーを退けたラトックⅠ峰北壁に、この2名がいかに挑むのかが注目されます。

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中国当局、外国人による2017年秋チベット側の登山を規制

 スペインのDesniverとシンガポールメディアで微妙に報道内容が異なっていますが、中国当局が今年2017年秋シーズンのチベット側の登山を規制する模様です。
 原因は、今春に意図的に違法越境して行われた、ポーランドのアダム・アダムスキーによるチョモランマ南北縦走が影響したものとみられています。
 
El Gobierno chino cancela los permisos a las montañas del Tibet para este otoño by Desnivel 2017.6.8

中国将禁止外国登山客 今年秋天从西藏攀登珠峰 by Cannel8news 2017.6.8

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Desnivel ウェブサイトに掲載された、中国チベット登山協会の告知文書

シンガポールメディアでは、今秋禁止されるのはチョモランマ北面、外国人のみで中国人登山者はOKと報じられてますが、Desnivelではチベット側全般と報じています。
 今回の中国当局の措置でさっそく影響を受けているのは、スペインのカルロス・ソリアで今秋予定していたシシャパンマ峰遠征をキャンセル、ダウラギリに目標を切り替えたとのこと。

 捕捉しますが、エベレスト/チョモランマ登山において、なんらかの理由で入国許可を得ず中国側に下りちゃったあははは~ん、とういうのは過去にも数例あります。

参考サイト 伊のシモーヌ・モロー、中国から国外退去処分 by 当ブログ2006.5.29

2009年のシモーヌ・モローもネパール側からエベレスト登頂後、チベット側に下降。このときはシモーヌ・モローは国外退去処分で済みました。
年は忘れましたが、エベレスト西稜を登山中のベルギー人ジャン・ブルジョワ氏は滑落事故でチベット側に落っこちたものの、幸運にも軽傷で済み、そのままチベット側に入り、おとがめなしでネパール側に引き渡されていました。

今シーズンのアダム・アダムスキー氏の例は意図的な違法越境ということで中国当局の逆鱗に触れた模様。Desnivel誌は2018年シーズンはさらに規制が厳しくなりそうと論評しています。

 現実問題として、ヒマラヤ登山には各国の入国管理法という法律が関わっています。
 その国の政治体制にいかに問題があろうと、法は順守しなければなりません。
 ヒマラヤの無許可登山を自慢気にインタビューで語るキチガイ爺が日本にもいるようですが、無許可・違法登山の結果が現実として後々に続くクライマーたちの大きな障害になることを知るべきでしょう。

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マルコ・プレゼリ氏の言葉

スロヴェニアのマルコ・プレゼリ氏、今春は若手2名と共にインド・キシュトワルヒマラヤに遠征中です。

Trije slovenski alpinisti v Kašmir by DREVNIK 2017.4.5

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インド・キシュトワルヒマラヤのアルジュナ峰(Arjuna 6230 m Photo by Marko Prezelj)
 
 遠征期間は5月24日から6月30日までの予定、目指すルートはアルジュナ峰西壁。インタビュー記事によれば、未踏の西壁はグーグルアースで探し出したとのこと。
 アルジュナ峰は1981年に主峰、82年に南峰がそれぞれポーランド隊に初登された既登峰。

 メンバーは、
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マルコ・プレゼリ(上)、アーバン・ノバク(右)、アレシュ・チェセン(左)の3人。
若手といっても、アーバン・ノバクはやはりインドヒマラヤ・セロキシュトワル東壁で、アレシュ・チェセンはハグシュ北壁でそれぞれマルコ・プレゼリと組んで登攀、ピオレドールに輝いた猛者です。
チームの構成、超ベテランのプレゼリは1メンバーとして、アーバン・ノバクがリーダーを務めているところがニクいですね。

 上述のDREVNIK の記事はマルコ・プレゼリ氏へのインタビューで構成されているのですが、後半は今春ドイツ・ババリアアルプスで下降中に亡くなったスロヴェニアの若手クライマーについて言及しています。
 内容はアルパインクライミングにおけるリスクに関してですが、長年にわたり極限的なクライミングを行ってきた経験から、「運命」としか説明し難い「リスク」について語ります。
 
 それでもなお、なぜクライマーは死のリスクを冒しながら山に向かうのか。
 記事の最後を締めくくるのは、マルコ・プレゼリ氏の言葉です。

『Nekdo, ki najraje sedi za računalnikom, bo težko razumel, da lahko človeka žene še kaj več.』

(ずっとパソコンの前に座っている者には、それより大事なことがあることに気がつかない。)

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エドゥルネ・パサバン、無事出産

プレモンスーン期でヒマラヤ各地から吉報・悲報が届く今日この頃。

正統あるぴにずむ派の報道は他のクライミングサイトにお任せして、ナナメ横いく当ブログとしてはやっぱりこのニュース。

 女性初の8000m峰14座登頂を果たしたスペインの エドゥルネ・パサバン(Edurne Pasaban 43歳)が無事お子さんを出産した模様です。おめでとうございまーす。

Edurne Pasaban raggiunge il suo più grande sogno: è nato Max! by Montagna.tv 2017.5.3

Edurne
無事出産した息子Max君を抱くエドゥルネ・パサバン

 メディアでは報じられず、高所登山やる者にとっては広く知られている事ですが、高所医学の研究結果では8000m級のような高所に滞在すると人間の精子に異常が発生することが知られています。
 またシェルパ族など高地民族の女性に不妊症などが統計的に多いとも言われています。
 高所登山をやる者にとって、「子作り」って実はとてもデリケートな問題であるわけです。

 上記Montagna.tvも報じていますが、エドゥルネ・パサバンは38歳当時、自分の卵子を凍結保存。今回はその卵子を用いて無事出産に成功したとのこと。

 つい先日SNSで、とあるクライマーが「結婚・家庭をもつことだけが人生ではない」との意見を書いているのを拝読して「うーん」というのが私の正直な感想でした。この辺の書き方は慎重さを要求されますが、あくまでも私の正直な感想です。

 私の8000m峰遠征を会社で推してくれた取締役が「結婚するかしないかは個人の生き方、考え方だ」という思想の持ち主で、私はそういう方の下で20代を過ごしてきましたし、私の周辺には 「結婚しない人」 「子供を作らない人」 「子供ができない人」 は少なくないので、それぞれそういう生き方もありだよなという認識はあります。

 でもエドゥルネ・パサバンが困難を乗り越えて高齢出産に成功したという報道を知り、やっぱり女性にとって出産は一大事だよな、という思いです。
 ちなみにMontgna.tvの記事のタイトル、出産について 『grande sogno』 (最大の夢)と表現しています。

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故・田部井淳子氏と原発事故

この記事に書くことは、もしかしたら田部井淳子女史に近しい方には知られたエピソードかもしれない。

不勉強な私は田部井氏の著書を全て読んでいる訳ではないし交流もなかったので、確かめる術もない。
既に関係者の方に知られたエピソードであれば、諒とされたい。

Eve
左から、田部井淳子氏(エベレスト女性初登、1939~2016)、潘多氏(中国 エベレスト女性第2登、北面女性初登1939~2014)、ワンダ・ルトキェビッチ(ポーランド エベレスト女性第3登、1943~1992)

2016年10月20日、エベレスト女性初登を果たした田部井淳子女史が逝去。
その報を受けた私は、会員登録しており貴重な情報をもたらしてくれるロシアのクライミングサイトに訃報を転載した。

数日後、田部井淳子氏が旧ソ連のエルブルース峰(5642m)に遠征した際の関係者から、コメントを頂戴した。
コメントは田部井氏の思い出に関する長文で、同内容の英文が併記してあった。
そのサイトは外国人が書き込むことはあまりないので、外国人であるスレ主の私むけに英語で書いて下さったのだろう。

その方は92年当時、エルブルースの山小屋に常駐するパトロールの方だった。
旧ソ連の山域では「国際キャンプ」という形式で外国人が入山可能で、政府のスポーツ機関が一括して登山者を集め、登山活動をマネジメントしていく中で登るという方式がとられていた。

書き込みの概要を記すと、

・田部井淳子氏率いる13人の日本隊は、週末を挟んで現地に到着。

・週末のため宿泊施設や関係者も休暇だったり、登山隊の通訳は登山経験もなく、受け入れ体制に齟齬があった。

・登山隊は悪天の中で登山を強行、登頂に成功したものの、風がひどかったのでコメント主がサポートに出動、登山隊全員を無事迎え入れた。
・コメント主は、田部井氏から登山行程とサポート体制について当初の契約と違うと抗議を受けた。

・コメント主は「自分の仕事は全ての登山者を救援サポートすることで、ガイド・支援員のマネジメントに関しては自分の業務の範囲外であること」を主張。さらに、 「あなたへの支援は十分ではなかったかもしれないが、私は女性初のエベレストサミッターを支援することが出来て光栄に思っています」と答えた。

・登山から三ヶ月後、田部井氏から謝罪と感謝のとても温かい内容の手紙が届いた。登山隊メンバーが誰であるか説明付きの写真も同封してあった。

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そして私が最も印象深く受け取ったのが、次の書き込みである。

コメント主の娘は、1986年のチェルノブイリ原発事故の影響で甲状腺の腫瘍で療養中だった。
治療のために缶詰の海藻を食べさせるなどしていたが、甲状腺腫瘍に効く投薬治療が日本で開発されたと知り、コメント主は「ワラにもすがる」思いで田部井氏に連絡をとった。

田部井氏はすぐに日本から医薬品を送ってくれ、娘は投薬のおかげで回復しました。

その言葉で書き込みは締めくくられている。

田部井氏のエルブルース登山から19年後。
東日本大震災による、福島の原子力発電所の事故。
そして放射能による災厄。

チェルノブイリの影響で甲状腺を患った子供のため、治療薬を日本から送った田部井氏は何を思っただろう。

田部井氏が東北の高校生を富士山に連れて行った原動力には、一人の子供のために治療薬を日本から送ったことと同様、「次の世代」を支えようという確固たる意志があったのだろう。

登山の先達として、ご冥福をお祈り致します。

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