家政婦は見た

家政婦は見た。
はるかな高峰に立つ夢を。

白天当保姆,夜里爬楼,她去登了世界最高峰(昼は家政婦をこなし、夜はビルを登り、世界最高峰に行く) by 8264.com 2017.12.6

以下引用開始
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昼は家政婦をこなし、夜はビルを登り、世界最高峰に行く

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 フィリピン人家政婦といえば、何を連想しますか。
 彼女達は故郷を離れて住み込みで働き、収入は高くはありません。
 しかし香港在住歴21年のフィリピン人家政婦、46歳のリザ・アベリノは自力で資金と休暇を貯め、ヒマラヤを登り、キリマンジャロの山頂に立ちました。登山に行く度、彼女は常に唯一のフィリピン人、唯一の家政婦です。

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 普段の彼女は、香港在住の約35万人の外国人家政婦と同様、一日中雇い主の家の世話をします。一回海外登山する毎に、リザは1~2年の給料を費やします。しかし彼女にとって重要なのは金でもステイタスでもなく、さらに彼方をめざすことです。

 現在、彼女は少し名前が知られ、登山の援助を希望する人がいるとしても、彼女は支援を受けず、支援金をすべてフィリピン人家政婦組織の支援金として寄付してもらっています。彼女は登山することによって、フィリピン人家政婦達へのイメージを変えたいと考えています。

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 香港では法律により、外国人家政婦は雇用主の家に住所を定めます。リザの仕事は週6日、毎朝8時に雇用主Juliet(右)の子供を学校に送り、それから家事をこなし、夜は子供を寝付かせ、1日の仕事が終わります。


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 日曜日は外国人家政婦唯一の休日です。彼女たちはいつも広場や公園に集い、故郷の食物を食べたり、チャット、家族とFaceTimeで話したり・・・これが彼女たちの休日の過ごし方です。

 香港に来て初めの数年、リザは広場の上に座っていましたが、彼女はその環境が好きになれませんでした。とても騒がしく、その上見知らぬ他人が彼女たちの写真を撮っていきました。

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 2006年のとある日曜日、とても暑かったのでリザは図書館へ涼みに行きました。そこで一冊の香港登山ガイドブックを読み、彼女は山登りを始めました。

 最初の山登りは雇用主の家の近くにある「黄泥涌」でした。彼女は高いところから香港を眺めることを経験し、かつて感じたことのない美しさ、リラックスした気分を味わいました。それから日曜日ごとに、リザ山登りに行きました。

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 当時の雇用主がリザに香港の登山グループを紹介してくれました。会員に自己紹介する時、皆の職業は金融業のホワイトカラー、医者や教師で、リザは長い時間をかけてコンプレックスを克服しました。

 山友達はリザが道を覚える能力に長けていることを見出し、時にはリザが引率者の役目を果たしました。1度、登山に参加した外国人女性がフィリピン人家政婦の引率と知り、リザの能力を疑いとても戸惑いました。しかし見事な引率登山で事実を証明し、最後には外国人女性はリザにビールを奢ってくれました。

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 香港の外国人家政婦の最低賃金は毎月4310HKドル(訳者注・日本円で約62600円)です。外国人家政婦のほとんどは女性で、彼女たちは香港に来て普通1つの目的しかありません。生活を切り詰め仕送りし、家族の暮らしを良くすることです。リザの初めの数年もそうでした。

 しかしリザの結婚生活は幸福ではなく、不公平感を感じ始めていました。
「夫は仕事も探さず、月末に私の仕送りを待ち、私にどんな生活をしているのかたずねることもない。」
 リザはもう家に仕送りしないこと、家に帰らないことを決心し、稼いだ給与のほとんどを登山につぎ込みました。

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 香港には40以上のハイキングコースがあり、リザはとても親しんでいます。彼女はもはや卑屈でなく、家政婦であることを堂々と言うことが出来ます。

 一昼夜をかけて100キロにおよぶウォーキングイベントを完走した後、彼女は右手首にトンボ、サンスクリット語で「今をつかみ、この瞬間を掴む」という最初のタトゥーを入墨した。 リザは言う、「トンボは半年しか生きられないが、全力で生きる」

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 リザはずっとヒマラヤ山脈にあこがれていましたが、彼女はこれまで雪を見たことがありませんでした。更に雪の上を歩いたこともありません。2014年、彼女はまず日本をめざし、一度雪山を登ることを決意します。

 領事館では、リザが初めて日本を旅行する外国人家政婦でした。そのためビザの取得には多くの書類が必要でしたが、2週間待たされ、ついには領事館に電話して彼女はビザの取得がかないました。

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 彼女は連続して13時間登り続け、3189mの日本第5位の槍ヶ岳に登りました。

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 2015年5月、リザは2年かけて給与を貯め、初めてのヒマラヤ山脈を目指しました。6189mのアイランドピーク登頂を計画し、彼女は友達に登山装備を借り、自身は靴とアイゼン、防寒着をそろえました。

 氷河に囲まれたエベレスト峰の南側、アイランドピーク。5087mのエベレストBCに到着した後、リザは50度以上の急斜面を4時間登り続けましたが、アンダーウェアの品質が不良で汗が排出されず、服が濡れてしまい、リザは風邪をひいてしまい、進むことができませんでした。

 断念したとき、2年間かけて貯めたお金のことを思い涙があふれましたが、彼女は再び来ようと考えました。

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 ガイドは彼女に対して、本当にアイランドピークに登りたいなら、少なくとも週3回以上山に登ることが必要とアドバイスしました。

 リザは、月曜から土曜まで一日中働き、夜間にハイキングはできないと考え、雇用主の家の近くに21階建アパートを見つけ、15キロのダンベルを背負い、階段を登り続けている。

 初めは脚力が不十分で呼吸も乱れましたが、毎週3回は階段を登りに行き、少しずつ足どりと呼吸が楽になっていきました。

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 1年後の2016年、リザは再びヒマラヤ山脈に行き、今度はアイランドピークの5900mに到達、山頂まで200mまで迫りました。しかし目前に垂直の氷壁が立ちはだかり、リザの脚力ではよじ登ることができませんでした。
しかし彼女はそれでも自分の進歩を喜びました。

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 リザは自身にヒマラヤ山容のタトゥーを入れた。彼女はヒマラヤに戻り、いつか山頂に登ることができると言う。

 リザの話を聞き、彼女により良い支援をしたいとスポンサーの申し出もあったが、リザは登山2行くためにお金を節約したいと考えている。それは登山を楽しむためだ。彼女は本当に支援したいと考えるならば、フィリピン人家政婦を支援するNPOに寄付することをスポンサーにお願いしました。

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 2017年7月、アフリカ・キリマンジャロ山への旅に出発する前、フィリピン人家政婦の支援機関「The Help for Domestic Helpers」に依頼し、フィリピン人家政婦が自分の権利を守る方法・自分の資産を管理する方法を学ぶためのオンライン寄付プラットフォームを作った。

 タンザニアでは、リザは一日6時間から8時間かけて8日間登り続け、キリマンジャロ山5,895mに登頂、このように仲間のために募金を行いました。

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 リザはJuliet一家のために働き、すでに8年が経ちました。最近、10年間の契約を更新しました。 4歳と11歳の雇用主の子供たちは、リザがとても好きで、2人とも寝る前にリザを抱き締め、おやすみなさいを言います。

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 残念なことに、リザは自分の子供を15年間見たことがない。今は24歳の双子の男子です。リザは2人の子供の写真を1枚しか持っておらず、写真をしまい込んでいるが、もう見つからないかもしれない。

 フィリピンの家族は、彼女が非常に悪い母親であることを2人の息子に話し、彼女はそれを受け入れた。

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 リザは日曜日に雇用主の子供を連れて山に登った。たまに雇用主の子供を連れて香港の山に登るが、彼女は2人の息子とヒマラヤやキリマンジャロの話をする機会は、ありません。

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 息子達が彼女がやってきたことを少しでも誇りに思い、そしていつか再び出会えることを、願っています。

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以上引用おわり

 私はどうにも「高所遠足」という言い方が好きではない。
 高峰を目指す以上、一人一人の「思い」というものがあるからだ。

 金にモノを言わせて「七大陸日本人最年少」とやらでメディアに祭り上げられる小娘がいる一方、地道に給与を貯め、スポンサーの申し出は仲間たちコミュニティ改善の寄付にまわし、コツコツと自分の夢を実現させていく人もいます。

 この記事で取り上げられているフィリピン人家政婦リザ・アベリノ(Liza Avelino)はTEDx(TEDのフランチャイズ形式の地方版)にも出演し、そこそこ名前も知られるようになりましたが、今も家政婦として地道に働き、地道にトレーニングし、次の目標を目指しているようです。
 彼女の姿をとりあげた動画がこちらです。↓

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ミック・ファウラー、癌闘病を告白

イギリスのミック・ファウラーが癌と診断され、闘病の様子をバーグハウス公式ウェブサイトで告白しました。

A PERSONAL UPDATE – WHY THE MICK AND VIC REUNION-2 WAS DELAYED – MICK FOWLER by berghaus 2017.12.5

Mick
10日間、自身の身体にチューブを挿入され、化学療法に挑んでいるミック・ファウラー (Photo by Mick Fowler)

兆候は自身の大便の色がおかしいと思いつつ放っておいたところ、奥様にも診察を勧められ、内視鏡検査の結果、癌を告知されたとのことです。

現在は本人が画像を公開している化学療法の他、放射線療法も進めているとのこと。

ジェフ・ロウの場合もそうですが、なにゆえ神は真のアルピニストに病魔という試練を与えるのか。
死よ、驕るなかれ。

ミック・ファウラー氏の全快を心よりお祈り致します。

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2017年 ピオレドール・ロシアおよびクリスタルピーク賞ノミネート

ロシアおよび旧ソ連圏のクライマーによる素晴らしいクライミングに贈られるピオレドール・ロシア(ロシア山岳連盟選定)、クリスタルピーク賞(ロシアの山岳誌選定)のノミネートチームが先日発表されました。
今年は次のチームが選ばれています。

●トランゴ・ネームレスタワー6237m 南西壁「Claire de Lune」(1999年スイス隊開拓)ルート登攀 2017年7月15日~22日 ルート長1620m 6B VI A4 コンスタンチン・マルケビッチ、ドミトリー・スコトニコフ、アレクセイ・クロシュキン
Cp10

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登攀の様子

●カナダ マウント・アスガード2011m 北西壁「ラタトスク」ルート開拓 6B ルート長1265m ドミトリー・ゴロフチェンコ、セルゲイ・ニーロフ
Cp1

C21
ルートを伸ばすセルゲイ・ニーロフ
ルート名の「ラタトスク」は北欧神話に出てくるリスのこと。天と地を駆け巡るイメージで命名したそうです。
セルゲイ・ニーロフのコメントでは、アスガード登攀を思いついたきっかけの一つとして、レオ・ホールディングの動画に影響されたとのこと。ネット動画の影響力は小さくないですね。

●中国・四川省 Kamailong 東面 「アムステルダムへの道」開拓 6A~6B ルート長970m マリナ・コプティバ、ガリーナ・シビトーク 
Cp2

C22
しばらく大きな遠征をひかえていたマリナ・コプティバ、ガリーナ・シビトークでしたが、女性クライマーのための遠征助成金を受け、中村保氏著作の地図集からヒントを得て今回の遠征を決めました。いつものパートナーであるアナスタシア・ぺトロワは残念ながら山麓で体調不良となり2人での登攀となりました。

●サバ峰5300m北壁冬季登攀 2017年1月10~15日 1600m コンスタンチン・マルケビッチ、ドミトリー・スコトニコフ、アレクサンドル・パルフェノフ
Cp5

●プンギ6538m南東壁 初登攀 ユーリ・コシェレンコ、アレクセイ・ロウチンスキー
Cp12

C32
登攀の様子

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以上の5チームはビオレドール・ロシアにノミネートされているチームです。
同時に、これら5チームはクリスタルピーク賞にも重複してノミネートされています。

次にクリスタルピーク賞にノミネートされている他隊を紹介します。

●ハンテングリ・ポベーダ 冬季連続登頂 2017年1月~2月 セルゲイ・セリベルストフ、アレクセイ・ウサートフ、セミョーノフ・ドベルニチェンコ、ミハイル・ダニーキン
Cp3

●ノルウェー・ロフォーテン 2017年7月20~22日「北極のオデッセイ」 ドミトリー・パーノフ、アンドレイ・パーノフ、アナール・ジミーロフ 6A A3 950m
Cp4

●ケニア山5188m東壁北東バットレス 2017年9月30日~10月3日「ボストーク(東)」ルート開拓 5B 630m アレクサンドル・ユーリキン、アレクセイ・オフチニコフ、セルゲイ・グルジー
Cp6

●チャパエフ峰6371m 南西壁新ルート「チェッカー(サーベル)」 IV、4、AI 90、M4 デニス・ウルブコ、マリア・カルデリ
Cp7

●東サヤン山脈 無名峰「トロイ」ルート開拓 2017年7月11日 5A 550m
Cp8

●グレート・トランゴ「インシャラ」開拓 2017年7月9日~23日 6B 1850m イゴール・スツダルツェフ、イワン・テメレフ、アントン・カシェフニク
Cp9

●ポベーダ峰~ヴァジャ・プシャヴェラ峰縦走 2017年8月3日~8月10日 アレクサンドル・パルフィオノフ、アントン・レズネフ、アレクセイ・シュカレフ、ワデム・カーリキン
Cp11

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以上がクリスタルピーク賞にノミネートされているチームです。

ピオレドール・ロシアは12月2日、ロシア山岳連盟の審査員によって結果が発表される予定です。

クリスタルピーク賞は12月9日に結果が発表予定です。
こちらは審査員投票の他に今年も一般投票が予定されており、
Sen
私も2票の投票権持ってますので、よーく考えて投票してみます。

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ロシア隊、プンギ南東壁完登

 信頼できるロシア情報筋によれば、ロシア人ペアがネパールヒマラヤ、プンギ(Phungi 6538m)南東壁の登攀に成功しました。

Phungi

メンバーはアレクセイ・ロウチンスキー(2014年タムセルク南西壁中央バットレス初登)、ユーリ・コシェレンコ(2003年ワレリー・ババノフと共にヌプツェ東峰南東バットレス初登)の2人。

10月26日にBCを発ち、雪氷壁をたどって10月28日16時30分に登頂、30日にはBCに無事下降。
登攀中はひたすら寒かった、とのコメントを伝えています。

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パンドラ(Pandra 6,700m)北東壁、陥つ

 去る10月18日、カンチェンジュンガ山群のパンドラ(Pandra 6,700m)北東壁がフランス隊によって完登されました。

Pandra4

Mathieu Détrie, Pierre Labbre y Benjamin Védrines abren una gran línea al Pandra (6.700 m) by Desnivel 2017.11.3

マシュー・デトリー(Mathieu Détrie)、ピエール・ラブレ(Pierre Labbre)、ベンジャミン・ヴェドリーヌ(Benjamin Védrines)のトリオは10月16日に北東壁にとりつき、6000m、6400mでビバーク、18日14時に登頂、19日にはBCに無事下降した。

2016年の日本隊 (2015年の谷口けい隊か?) のラインを踏襲するのではなく自分たちのラインをたどったとしている。

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今回のフランス隊のライン

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10月16日、北東壁にとりつく

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10月18日、頂上直下の雪壁

彼らが登攀した北東壁のラインは「Peine plancher」(短期懲役刑)、(1200 m、ED、WI6、M6)と命名されました。

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フランス隊の3名。キャプションが無いので誰が誰だかわかりません。
先日のヌプツェ南壁を登攀した「髭ギャング」にならって「ハゲギャング」にしたとか。流行なのか!?

公開されている散髪の様子↓

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2017年 ピオレドールアジア賞は、

11月3日18時より韓国・ソウルで開催されたピオレドール・アジア賞の審査および表彰式において、

2017年ピオレドール・アジア賞はシスパーレ北東壁の平出・中島ペア、
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2歳の我が子と共に表彰台に立つ平出氏

2017年ゴールデン・クライミングシューズ賞は、韓国のチョン・ジョンウォンに決定しました。
Po3
表彰台に立つチョン・ジョンウォン氏

そしてピオレドールアジア・生涯功労賞は、
Po1
インドのハリシュ・カパディア氏に贈られました。

本家ピオレドールの生涯功労賞は欧米・西ヨーロッパ人に偏向していますが、ハリシュ・カパディア氏がインドヒマラヤ登山に貢献してきた功績を考えるならば、十分に本家ピオレドールの生涯功労賞の資格があると当ブログでは主張しておきます。

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2017年 ピオレドールアジア・ノミネートチーム

今年も韓国の月刊誌『人と山』主催のビオレドールアジアに、日本、韓国、中国から登山隊がノミネートされました。
ノミネートされたチームは次の通りです。

12th PIOLETS D'OR ASIA 最終候補チームのプレビュー by 月刊『人と山』2017年11月号

以下引用開始
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12th PIOLETS D'OR ASIA

最終候補チームのプレビュー

 純粋で進歩的な登山を展開し、アジアの登山家たちを激励し鼓舞する意図で制定された、ピオレドールアジア賞も今年で12回を迎えた。登山のオスカーと呼ばれるこの賞は過去11年間、アジア山岳文化の発展を牽引し、アジアの登山家たちに未来志向的な登山の方向を提示してきた。
 すなわち、アルパインスタイルの速攻軽量登山、高難度を追求するクライミング、山を畏敬し自然を保護するアルピニズム本来の純度を強調しつつ、酸素ボンベや人為的な補助、固定ロープやシェルパなどの支援を受けて達成した結果がプロセスより重んじられることができないことを知らしめ、また商業主義に染まった登山・破壊的な登山行為にも警鐘を鳴らした。

 ピオレドールアジア審査委員会は今年も、このような基調を実践したチームをアジア山岳連盟加盟国およびアジア各国の登山専門誌から推薦を受けた後、厳正な審査を経て、最終的な候補3チームを選定した。
 夢をかなえるための情熱一つで挑戦と冒険を躊躇しないアジアの若き登山家たちに会ってみよう。

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ダラムスラ(6,446m)北西壁新ルート
New Route on the Northwest Face of Mt. Dharamsura(6,446m)
KOREA TEAM

 韓国を代表するアルピニスト、キム・チャンホ隊長率いる「2017コリアンウェイプロジェクト・インド遠征隊」が新ルート開拓という素晴らしい成果を収めた。
 しかし成果よりも高く評価される点は、挑戦と探検精神を実現しつつ、将来を担う若手登山家育成を目的とした点である。インドのヒマチャルプラデシュ州のクルー山群に入った5人の遠征隊員は高所順応を順調に済ませ、4人がダラムスラ北西壁に挑戦、アルパインスタイルによる4泊5日のクライミングで新ルート開拓に成功した。
 この北西壁は過去に試みられた記録がない新鮮な目標である。この登攀は、韓国遠征隊がヒマラヤにおいてフリークライミングで開拓した最高難度と評価した。コリアンウェイプロジェクトは、今後も優れた成果を上げることが期待される。ピオレドールアジア審査委員会は、今年の韓国を代表する当チームを最終候補に選定した。

ダラムスラ北西壁新ルート
対象 ダラムスラ(6,446m)北西壁
位置 インド・ヒマチャルプラデシュ・クルー山群
ルート 北西壁新ルート
クライミング方式 アルパインスタイル
隊員 キム・チャンホ、アン・チヨン、ク・キョジョン、イ・ジェフン 4名

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チョーラ東峰(6,163m)新ルート
New Route on Chola East(6,163m)
CHINESE TEAM

 今年は中国においても優れたクライミング成果があった。もちろん海外登山の環境が整っているとはいえない彼らの舞台はヒマラヤよりは四川省近くの未踏峰である。それでも中国の若いアルピニストたちの挑戦は止まることはない。
 3名の中国人青年ガオ・チュン、リウ・ジュンプ、チェン・シャンシャンドンは四川省のサンルイ山群北に位置するチョーラ山を目指した。彼らが目標にしたのは、この山の最高峰である東峰(6,163m)。西峰(6,149m)は1988年に日中合同隊によって登頂されたが、東峰はまだ未踏峰として残っていた。
 東峰頂上直下は強風にさらされた100mの長いリッジで、転落の危険性が高く老練な登山経験と確実な確保技術が必要であり、決して簡単なルートでは無い。しかし彼らは2017年8月9日、頂上に到達した。ビオレトール審査委員会は、中国を代表して今年の優れた登山を成し遂げた同チームを最終候補に選定した。

チョーラ東峰新ルート
対象 チョーラ東峰(6,163m)
位置 中国四川省サンルイ山群
ルート 東峰新ルート
クライミング方式 アルパインスタイル
隊員 ガオ・チュン、リウ・ジュンプ、チェン・シャンシャンドン 3名

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シスパーレ(7,611m)北東壁新ルート
New Route on the Northeast Face of Mt. Shispare(7,611m)
JAPAN TEAM

 平出和也と中島健郎。
 このデュオは2017年に素晴らしい登山をやり遂げた。シスパーレ北東壁の初登攀である。パキスタン、カラコルム・バツーラ山群の2,700mの壁は、これまでに数多くのアルピニストの胸をときめかせた。シスパーレそのものは1974年ポーランド・ドイツ学術遠征隊が1,500mの固定ロープを使い35日かけて初登頂した山である。
 平出和也はシスパーレに4度、北東壁は2度の試みの末、ようやく成功を収めた。これはアルピニストが不屈の精神を一般大衆に示した模範的な事例といえよう。平出和也は谷口ケイと共に2008年カメット(7,756m)南西壁を初登攀し、すでにヨーロッパのピオレドール賞を受賞した経験を持つ。
 今回彼は中島健郎とペアを組み、アルパインスタイル5日間でシスパーレ北東壁を登り、自分自身の目標にピリオドを打った。ピオレドールアジア審査委員会は、このチームをためらうことなく、最終候補に選定した。
 
シスパーレ北東壁新ルート
対象 シスパーレ(7,611m)北東壁
位置 パキスタン・カラコルム バトーラ・ムズターグ
ルート 北東壁新ルート
クライミング方式 アルパインスタイル
隊員 平出和也、中島健郎 2名

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以上引用おわり

同時に優れたクライマーに与えられる「ゴールデンシューズ賞」には、韓国からチョン・ジョンウォン、日本から一宮大介、中国からベテランの王清華がノミネートされています。

参考記事 当ブログ 中国の王清華、中国人初の5.15a(9a+)に成功

「人と山」の紹介記事を読む限り、平出・中島ペアのシスパーレがぶっちぎりのような気がしますが、ノミネート3隊の中で唯一隊員が公募制だった韓国隊の「若手育成」という持続性のあるテーマがどう評価されるか、中国隊による未踏峰をアルパインスタイルで陥した成果がどう評価されるのか。
11月初めの表彰式の結果を待ちたいと思います。

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『第2回蔚州世界山岳映画祭』 の不都合な真実

去る9月21日から5日間にわたり韓国・蔚州郡で開催された『第2回蔚州世界山岳映画祭』。

各韓国メディアは国際イベントとして無難に報道していましたが、韓国の時事ジャーナル紙が痛いところを突いた報道を展開しています。

朴槿恵・前政権時から韓国各地の山岳地で問題になっているケーブルカー建設問題に関して、ゲストとして招かれたリック・リッジウェイもガツンと物申したようです。

「自然と共存」問いただすことになった蔚州世界山岳映画祭の課題 by 時事ジャーナル(韓国)2017.9.27

以下飲用開始
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「自然と共存」問いただすことになった蔚州世界山岳映画祭の課題
9月25日に閉幕・・・上映作品増大など、見た目拡大にも運営システムの粗雑

チェ・ジェホ 記者

 国内最初で最大の山岳映画祭として注目を集めた、第2回蔚州世界山岳映画祭が9月21日に開幕され、5日間にわたって21カ国97編の上映スケジュールを終えて幕を閉じた。

 昨年第1回の時よりも上映作品が19編増え、出品作品も78編(第1回は40カ国182編 → 第2回は31カ国260編)に増加するなど、世界的な山岳映画祭として発展する可能性を確認できた点で、主催者である蔚州映画祭事務局は舞い上がっている雰囲気だ。
 しかし、25億ウォンの予算をかけた国際イベントとしては貧弱な付帯行事プログラムに加え、映画祭の最も重要な上映館チケットに関連した粗雑な運営システムは、昨年第1回の時とあまり変わりなかったという指摘を受けている。
 蔚州世界山岳映画祭が、主催側が掲げるようにイタリア「トロント」、カナダ「バンフ」とともに世界3大山岳映画祭に成長するために解決すべき課題は何だろうか。

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去る9月21日、UMFF開会式の様子 蔚州世界山岳映画祭事務局提供

「このまま世界3大山岳映画祭に成長できるか」

 第1回蔚州世界山岳映画祭が開かれた昨年9月30日、キム・ギヒョン蔚山市長は当日午前中まで開幕式に参加しないつもりだった。市役所で当日朝に発送する日程表に、キム市長の代わりに行政副市長が開幕式に出席として名簿に記載されていた。キム市長は最終的にこの日の夕方の開幕式に出席し、会場で持前の明るい表情を維持したが、当日の朝は副市長を代わりに国際イベントに出席させようと決心するほど不満を持っていたものと思われる。

 キム市長の当日不参加のハプニングは、映画祭の名前をめぐって蔚山​​市と蔚州郡が神経戦を繰り広げたことから始まった。蔚山市は予算10億ウォンを支援する条件で映画祭の名称に「嶺南アルプス」や「蔚山」を用いることを要求したが、蔚州郡は最後まで地域名を譲らなかった。

 蔚州郡がこのような独自の路線を進んで失ったのは、10億ウォンの予算だけではない。蔚山市は今年広域市昇格20周年を記念する「蔚山訪問の年」と銘打って巨大な広報マーケティング戦略を繰り広げたが、蔚州世界山岳映画祭の広報は、蔚州郡の役割だった。

 5日間の蔚州映画祭に集まった観衆は約6万人と映画祭事務局は推定した。昨年の第1回で事務局が明らかにした観衆は、5万3000人だった。しかし、イベント期間中に会場を往来した周辺関係者は、昨年に比べて会場が広く感じられるほど訪問者が少ないと口をそろえる。

 野花漫画フェスティバル、ツリークライミング、全国スポーツクライミング大会、ガンウォルジェで開かれた山上音楽祭「蔚州オデッセイ」など、家族単位やスポーツ愛好家が参加するプログラム会場は参加者でにぎわった。しかしながら映画祭の中心であるべき「映画上映館」周辺は寂しいほどで、映画祭は全国の映画ファンを集めるには限界を表わした。

 このような寂しい上映館の雰囲気は、無料で行われている映画チケットのずさんな運営システムと無関係ではなかった。当初映画祭事務局は、オンライン予約以外に観覧席の20%を現場で発券すると約束したが、開幕翌日になって突然上映日に関係なく事前予約することができるように方針を変え混乱を招いた。

 週末の上映時間に間に合うよう当日券を入手しようとしていた観光客は「売り切れ」という案内に失望して引き返した。臨時上映館3棟も含め4箇所の上映館では、「売り切れ」という案内とは異なり前売券をストックしておいて、会場が見つからない団体のために主催者側は冷や汗を流したという裏話もある。

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去る9月23日、蔚州世界山岳映画祭会場で特別講演をおこなうリック・リッジウェイ氏の様子。 蔚州世界山岳映画祭事務局提供

蔚州推進・神仏山ケーブルカー - 山岳映画祭との共存方法は・・・

 今回の映画祭で主催側が精魂込めたプログラムの中で欠かせないのは、今年初めて制定された「蔚州世界山岳文化賞」だった。受賞者は、7大陸最高峰を世界で初めて登頂した記録を保持し「地球の息子」という敬称を持っているアメリカのリック・リッジウェイ氏である。彼は会場で特別講演と特別展示会をおこない、蔚州地域「嶺南アルプス」と縁を結んだ。

しかし、登山家であり環境活動家に変身した彼には、蔚州郡が推進する「神仏山ケーブルカー」が不満だった。

 リック・リッジウェイ氏は記者会見で「山は野生そのままに保存しなければならない。そしてケーブルカーには反対する」と表明し、映画祭関係者たちを困惑させた。 彼は「山に登った時、野生が与える魔法を感じることができて自然から安らぎを受けることができる」 として 「車に乗って、駐車場に駐車をして、ケーブルカーに乗って展望台まで上がって、再びケーブルカーに乗って降りてくるのは優れた人間の姿ではない」と批判した。

 映画祭発足を先頭に立って主導してきた蔚州郡は、今後は映画祭運営主催を法人にして世界的山岳映画祭として発足させていくという立場だ。
 蔚州郡の方針通りならば、来年9月には第3回蔚州世界山岳映画祭は神仏山の頂上と連結されたケーブルカー駐車場の真下で開かれることになる。

 「自然との共存」をスローガンに掲げた蔚州世界山岳映画祭が、映画祭の存在理由と現実の環境の間で、どんなスタンスを取るかにより今後、名実共に世界山岳映画祭に発展するかどうかを分けるものと見られる。

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以上引用おわり

なにかと「世界的」なタイトル好きな韓国ですが、この蔚州世界山岳映画祭に賭ける意気込みはものすごいものがあります。
昨年の第1回のゲストとして韓国に招かれたのがラインホルト・メスナー、そして欧米ではその名が知られている山岳ジャーナリストBernadette Macdonaldを招いたところに私は韓国山岳界の「本気」を感じた次第。

チケットの問題は「ケンチャナヨ」な韓国社会ではまあご愛敬として、神仏山のケーブルカー問題は痛いところを突かれました。

 あの雪岳山でも経済効果を期待してロープウェイ建設計画が浮上、計画に反対する自然保護・登山関係者に逮捕者がでるほど反対運動が白熱していました。
 朴槿恵政権が終末を迎えたことによりロープウェイ建設も白紙に戻されましたが、最近になってゾンビのように再浮上しているようです。
 当該記事の神仏山ケーブルカー計画のように、経済効果を期待する賛成派と自然保護を訴える反対派との対立が続いているところもあります。計画はかなり推進されているようですが、各関係省庁の対立もあり、ケーブルカー建設が実現するかはまだ予断を許さない状況、といったところです。

第3回蔚州世界山岳映画祭が韓国のみならず世界的な山岳イベントとなりうるか、ケーブルカー建設計画という環境問題の行方にも注目したいと思います。

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【訃報】 ノーマン・ディーレンファース氏 逝去

 1963年のアメリカ隊を率い、ホーンパイン、アンソールドらによるエベレスト西稜縦走を成功させた、ノーマン・ディーレンファース(Norman G. Dyhrenfurth)氏がオーストリア・ザルツブルグの病院にて老衰のため亡くなりました。99歳でした。

Norman Dyhrenfurth dies; led Americans’ 1963 Everest expedition by TheMercuryNews 2017.9.27

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1960年、ダウラギリをめざすスイス隊に参加したノーマン・ディーレンファース氏

 もともとヒマラヤ登山家・登山史家として知られるギュンター・デーレンファース、女性登山家の先駆者であるヘティ・ディーレンファースの子として1919年にスイスで生まれ、第二次大戦前に一家はアメリカに渡りました。
 UCLAでは映像芸術を学び、スイス出身ということもありカメラマンとして52年のエベレスト隊、55年のローツェ隊、60年のダウラギリ隊に参加、8000m峰の初登・黄金時代を経験します。

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UCLAにてアルフレッド・ヒッチコックと面会するノーマン・ディーレンファース氏(中央)

60年のダウラギリ隊参加の際、ついに1963年アメリカ隊のエベレスト登山許可取得に成功。
1963年5月1日、南東稜から2名登頂、つづく5月21日には西稜~南東稜の初縦走を成功させます。

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母親であるヘティ・ディーレンファース(1892~1972) 1934年にシア・カンリ(7315m)に登頂、女性登山家としての世界最高到達点の記録を20年間保持していました。

1971年にヨーロッパ、インド、日本から精鋭が集った国際登山隊で西稜上部完登と南西壁登攀を狙いますが、個性の強い隊員同士が反目、失敗に終わります。

その後は目立った登山活動には関わらず、映像関係者として『アイガー・サンクション』、『氷壁の女』などの作品でアクション監督を務めました。

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晩年のノーマン・ディーレンファース氏。
手にしているのは、1936年ベルリン五輪においてナチ・ドイツが両親の登山活動に対して授与した金メダル。

ヒマラヤ登山史を飾った人物がまた1人、世を去りました。
膨大な物量作戦の結果とはいえ、1963年に見事な西稜縦走を成功させた先達に哀悼の意を表します。

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リック・リッジウェイ、月刊誌『人と山』で語る

リック・リッジウェイといえば、古い山屋な方には著作『ちょっとエベレストまで』で知られていることでしょう。
若い方には環境活動家として知られているかもしれません。
1978年のK2アメリカ隊でジョン・ロスケリーと共に無酸素でアメリカ人初登を果たした人物です。
私個人としては、後のボルネオ島横断などの冒険行を高く評価されるべきだと思っています。

さてそのリック・リッジウェイですが、最近韓国で開催された蔚州山岳映画祭において『世界山岳文化賞』を授与されることが決定、これに伴い韓国の月刊『人と山』にインタビュー記事が掲載されました。

Rick Ridgeway 「2017蔚州世界山岳文化賞」受賞者 米国の山岳文化伝道師 by 月刊『人と山』2017年8月号

以下引用開始
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文 シン・ヨンチョル編集員 写真キム・テミ在米カメラマン

 アメリカに「アジア」という変わった名前を持つ女性がいる。その女性を主人公とする本『父の山』は登山家リック・リッジウェイが書いた本である。韓国語にも翻訳されて好評価を受けた。半紙に染みこむ墨汁のように感情移入し、涙が流れた本。肌の色や言語は違っても、山と人との関係に対する洞察は同じものなのだろうか。

 ストーリーは、古いモノクロ写真のように古典的な話だ。 1980年10月、リッジウェイは、アウトドアメーカーを起業して有名なイヴォン・シュイナードとチベットを訪問する。ミニヤコンガ(MinyaKonka 7556m)を登るためだ。その過程を取材するために、ナショナルジオグラフィックのカメラマン、ジョナサン・ライト(Jonathan Wright)も同行する。
 厳しい登山の中、雪崩に遭いジョナサンはリッジウェイの膝の上で死ぬ。当時、アメリカのジョナサン家には生後16ヶ月の娘、アジア(Asia)がいた。赤ちゃんがニッコリ笑ってくれるだけで世界のすべての父親は幸せである。仏教に深い関心があったジョナサンは、赤ちゃんが生まれる前に「アジア」と命名しておいたのだ。

 登山を中止したリッジウェイはジョナサンの遺体を収容し、ケルンを積み上げた後、帰国する。リッジウェイが住んでいたベンチュラはパタゴニア本社のある所だ。同じ地区に住んでいたジョナサンの娘アジアは、パタゴニア創業者イヴォン・シュイナードの娘、そしてリッジウェイの娘と年齢が近く、同じ学校に通って成長した。リッジウェイ夫婦は、アジアを実の娘のように愛した。リッジウェイが見守る中でアジアは成長し、パタゴニアでアルバイトをして登山も学んだ。

「ある年の夏の終わりでした。アジアが私に尋ねたんです。私のお父さんはどんな人であったか、と。父の顔も知らないまま成長したアジアでした。父の説明を聞いたアジアは、私にチベットにある父の墓に連れて行ってくれと頼んできました。いつの日か、アジアからそのような質問を受けることを私は期待していました。」

 そしてアジアが19歳になった1999年、父の墓を見つけるためチベットを訪れる。登山旅行に仏教、哲学、登山などの複数のストーリーをまじえて人生を凝視する物語。二人は父ジョナサンが登れなかったミニヤコンガを訪れ、ケルンを探すというストーリーの本だ。

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ベンチュラ、パタゴニア本社

 パタゴニア本社で握手を交わしたリッジウェイは相変わらずだった。パッと笑う表情と太い皺は仮面に似ている。今回もやはりショートパンツにサンダル姿。アウトドア会社特有のコンセプトだ。

「私たちは、格式を問わない自由奔放な伝統を守っています。それがアウトドアの本質ではないでしょうか?以前にお会いしてからもう7年が経ったんでしたっけ?」

暑い8月だが太平洋に近く、涼しい感じがする。本社入口の左側に、従業員の子供のために会社が運営する幼稚園がある。子供たちの笑い声も7年前のままだ。

「私の娘もこの幼稚園出身です。今はこの会社で私と一緒に働いてまして、孫娘も今この幼稚園に通ってます。私たちは、三代ここに通っていますよ。」

もちろんジョナサン・アジアもこの幼稚園出身だった。会議室でリッジウェイに面会した。彼にたずねた最初の質問は、まさにアジアの近況だった。アジアは、ニューヨークのナイキ本社に勤務し、スマートな夫に出会って結婚し、今は子供を2人もつ母親であるという。

「私の娘のようなアジアは「父」を見つけ、その時のチベット旅行で、自分自身が抱えている「陰」を克服しました。アジアの性格は明るく変わり、社会生活にも成功して落ち着きました。アジアが幸せに暮らしているのが嬉しい。私たちは、アジアを愛してるんですよ。」

 人と山の関係を包括する山岳文化は特別である。偉大な自然と山の前では限りなく小さい存在、それが人間である。それでも、その小さく弱い人間は、もの言わぬ山に向かって絶えず挑戦し、達成し、時には挫折する。
 そのプロセスが感動であり、悲しみがあり、深いストーリーテリングが存在する。そんな経験が一体化されている正しい山岳文化を創造することができるだろう。まさにリッジウェイのような人が経験した「山」である。知恵と経験が山岳文化の地平を広げてくれているのだ。

「本題にはいりましょう。まず、「2017蔚州世界山岳文化賞」受賞おめでとうございます」

「ありがとう。実際、受賞の知らせを聞いて驚きました。初めて韓国支社を通じて知らされてから、蔚州世界山岳映画祭を知りました。調べてみると、世界的に知られ始めた山岳映画祭のようですね。非常に望ましい山岳文化がまさに映画祭だ。映像にまさる大きな破壊力はない。私も映像を制作していたからわかります。そのような面で私がアメリカでも貢献している部分がありますよ。」

 リッジウェイの言葉は示唆するところが大きい。彼はアメリカ在住で最もインテリジェントな登山家であり、純度の高い山岳文化を生み出している。彼が発表した多くの著作は、米国で人気を集めている。自然と山のノンフィクションでありながら、小説よりも面白いからだ。リッジウェイはニューヨークタイムズ選定10大ベストセラー作家にもとりあげられた売れっ子作家でもある。
 それだけではない。映像で20編余りの山岳・探険ドキュメンタリーを直接監督・製作したドキュメンタリー監督だ。映像では米国で有名な「エミー賞」」を受賞した。また、米国を網羅したアドベンチャーの写真・映画会社を運営したりと、山岳文化賞に本当にふさわしい人選である。

 リッジウェイの登山界の先輩でもあるイヴォン・シュイナードに抜擢され、2000年からパタゴニア理事会メンバーに抜擢され、今日まで社会貢献担当副社長を務めている。青い目の白髪、そしてラフに着こなしたシャツとショートパンツ、素足にサンダル姿であるリッジウェイ。この会社の社主であるイヴォン・シュイナードに初めて会った時も同じ服装だった。そうして見ると、シュイナードとリッジウェイは本当によく似ている。小柄でハンサムではないが、顔で山に登るわけではないように、野生にふさわしい表情で人生を太く生きている。まさに「小さな巨人」と呼ぶにふさわしい。

骨の髄からの環境論者

「この写真を見てください。イヴォン・シュイナード、私、ノースフェイス創業者のトンプキンス(Tomkins)です。パタゴニアでカヤックを漕いで撮った写真です。そのトンプキンスが溺死して亡くなる直前に、自然を楽しんでいたその時の写真です。わずか1年8ヶ月前の話だ。」

 会議室に設置された写真には、シュイナードとトンプキンス、リッジウェイ、もう一人の男性が見えた。 2人乗りカヤックにはトンプキンスとリッジウェイが一緒に乗っていた。パタゴニアの悪名高い強風が湖に吹き、カヤックが転覆した。水温は摂氏4度と冷たかった。リッジウェイは他のカヤックによって救助され、トンプキンスは急いでヘリ輸送されたが、結局病院で死亡した。低体温症が死因だった。 2015年12月、野生の土地パタゴニアの湖で起こった悲劇だった。 72歳の生涯を終えたトンプキンスや68歳のリッジウェイは、すなわち「走り続けるお爺さん」たちである。

「事故は私の人生観も変えた。」

 写真を撫でるリッジウェイの目元に涙がにじみ、山で結んだ長い友情、パタゴニアへの無限の愛情。その歴史は古くにさかのぼる。 1968年トンプキンスと彼らは未知の世界だったパタゴニア・フィッツロイ登山を目指した。

「ダグラス・トンプキンスはイヴォン・シュイナードなど友人と古いフォードバンに乗って、アルゼンチンとチリの国境に沿ってパタゴニアのフィッツロイ登山に出かけ、その過程をドキュメンタリー映像に収めました。それが山岳映画の古典とされている映画「Mountain of Storms」です。 2010年、私はクリス・メルロイ監督と一緒にその旅を新たに撮影したドキュメンタリー「180 Degrees South:Conqueror of The Useless」を撮りました。映画と一緒に本も同時に出版しました。」

 1968年の旅を再訪する内容のこの映画は、全米で上映され好評を得た。それだけこれらの愛情が深いパタゴニアはイヴォン・シュイナードによってアウトドアブランド名にも選ばれた。フィッツロイの稜線のイラストにパタゴニアのロゴが飾られたものである。ノースフェイス、パタゴニアはそれぞれアウトドア事業に大きく成功し、パタゴニア保護活動を始めた。

「私たちは、漠然と自然保護をするものではありません。消えていく様々な在来種に安全な生息地を提供して、「搾取する経済」から「節約とエコツーリズムの経済」へと転換を模索するものです。だからトンプキンスを主軸に、私たちは、ディープ・エコロジー財団(DEF)を作りました。パタゴニアの野生の土地を購入して開発不可能な公園を作り始めました。チリ、アルゼンチン政府の公園を寄贈して国立公園に指定してもらう計画を実行し始めたんです。」

 リッジウェイの言葉通り、これらの財団は、世界で最も広大な私有地を購入し、その地に野生公園を作った。地球の大陸の端、チリとアルゼンチンの広大な森林と草原の公園の規模は、ソウルの面積の15倍にもなる220万エーカー、約27億坪もの広さだ。これだけで終わらず、国立公園になったアルゼンチンのモンテレオン(Monte Leon)、チリパタゴニアのコルコバード、アルゼンチン最大の野生湿地エステロスデルイベにも公園を作った。

 このような膨大な実績があるため、リッジウェイは環境活動家としても米国で評判が高い。年をとってもパタゴニアでカヤックを楽しんで公園を作る老人。そういえばショートパンツ姿のリッジウェイの足の筋肉は目立つ。彼はその足の力だけで、2004年には手作りリヤカーを引いて、無人のチベット・チャンタン高原500kmを歩いて横断した。絶滅危惧種チルー(chiru)を探すためだ。 2009年、リッジウェイはナショナルジオグラフィックが1年に1人選ぶアドベンチャーベストに選ばれた。彼は世界的なノンフィクション作家であり、写真家であり映像プランナーだ。また、ナショナルジオグラフィック、ABC、NBC、ESPNなどの放送チャンネルに探検ドキュメンタリーを提供するエンターテイメント会社の代表を務めたこともある。

自然は子孫に借りて使うことに感謝

 パタゴニア創業者イヴォンシュイナードとリッジウェイは、多くの登山と探検を一緒にして友情を築いてきた仲だ。韓国で言えば、「長い登山の先輩・後輩」の関係だ。

「ここで働くことになるとは私も予想しなかった。悪友のシュイナードの勧誘が素晴らしかった。自然を保全し、保護するために先頭に立ってほしいという言葉だったから。会社で私がしていることはまさにそれです。環境関連の本を出版し、団体を見つけて後援すること。当社の総売上高の1パーセントを環境のために寄付している。大きな金額です。私たちの環境保護のアイデアは、米国各地に広がり、今では売上高の一定部分を基金に差し出す企業がすでに千社を超えました。」

 そういえばリッジウェイは、会話の中で言い過ぎと思うほどに「環境」を前面に押し出していた。特定の宗教を持たないリッジウェイ。自然主義者らしく万物の根本となる自然を理解しようと努力すると同時に、「自然教」を信じる信徒のようにも見える。

「以前にアフリカのケニア山を登ったことがある。その時アイスクライミングを余儀なくされました。ところが、その氷河がもうなくなってしまった。気候温暖化のためです。私たちの子孫はそんな風景を写真でしか見ることができない。環境の搾取や破壊は、子孫から借りている自然に対して罪を犯していることです。」

 彼が書いた本やドキュメンタリー映像で強力なリッジウェイのメッセージを垣間見ることができる。先に述べた絶滅の危機に瀕しているチルーを保護するためのチャンタン高原横断記「THE BIG OPEN」もそうだ。彼のベストセラー「キリマンジャロの影」もやはり、環境告発であった。キリマンジャロの氷河が溶けており、共生しなければならない動物が絶滅に追い込まれている。自然と人間の貪欲さへの告発本である。

「根本的にアメリカ人は、いや世界は、自然に対する考え方を変える必要があります。地球は一つしかない。生物学的年齢のためにもう激しい登山を離れ、自然をより深く勉強することになりました。大自然に移った私の関心は、すべての感覚を動員して新たに大自然に目が開いたと言える。誰かが、私たちが地球に影響を与えることに警鐘を鳴らさなくてはならない。それが、私が山岳文化を見つめる基準点となります。」

 パタゴニアは3億ドルに達する年間売上高で、税金控除前の1%に達する資金を環境のために運用している。そのためパタゴニアは優良企業として、環境保全事業のリーディングカンパニーとして注目されている。リッジウェイは登山という目的のある自由生活を止めてまで副社長に就任した。会社を通じて自然保護の夢をかなえるためである。作家としての想像力豊かなリッジウェイが、パタゴニアの理想を促進するのに最も適任者だったのだ。

「出版事業部新設もその一環です。書籍発刊は金のためのビジネスではありません。環境と野生、冒険に関連する本をすでに何冊も発行してきました。その本を介して会社の考えを広く知らせるというの目的もあります。」

 会議室の隣には、リッジウェイが制作した山と探検に関連する書籍が何冊も置かれている。話を続けるリッジウェイの言葉は、そのまま文章にしてもかまわないほどに論理整然としていた。そして、自然を何故「神」のように支え、考えなければならないのか、傾聴する価値のある発言だった。

「韓国の登山家たちに自然に対する考えをコメント?簡単ですよ。世界のすべての登山家がそうでしょうが、プロセスを重要視しなければなりません。自然に苦しめられ生き延びている登山家たちが、率先して環境を守らねばならないということです。地球は一つだけです。真の登山家なら、それをまず理解しなければなりません。」

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学者への道と自然への道

「あなたは、蔚州世界山岳映画祭の選定委員会で、投票によって第1回山岳文化賞受賞者に決定しました。その知らせを聞いてどのような感想を抱きましたか?」

「驚きました。クリス・ボニントンのように有名な登山家の中から私が選ばれたのが驚きでした。そして率直に言ってありがたいと思いました。生涯かけて追求してきた、自然と山岳文化の総合的な努力を評価されたようで。」

 総合的な努力とは、何をさすのか。自然と共存する人間の思考、つまり山岳文化をさすものである。その点から蔚州世界山岳映画祭は、適切な受賞者を選んだわけだ。現存する最高の登山活動と探検、人間との関係を考察する作家であるゆえに。
 リッジウェイはもともと学者を目指していた。1975年、リッジウェイは米国の名門大学バークレー校の全額奨学金を受ける条件で、地球物理学の5年の博士課程に入学した。しかしその後、エベレスト登山隊に参加することを打診された。 1976年のアメリカ独立200周年記念エベレスト遠征であった。リッジウェイはためらうことなくエベレストを選んだ。

「今は人口の多い都市となったが、オレンジ畑が並ぶLA近郊オレンジ郡が私の故郷です。 1963年だから、私は15歳の頃だっただろう。オレンジ畑が建物に占領されるのが嫌で山に通い始めました。その山で素晴らしい先輩たちと出会い、彼らにクライミングや山を学んだ。その山にはまっていたとき、ナショナルジオグラフィックの表紙で、米国初のエベレスト登頂者ジム・ウィテカーの表紙写真を見たんです。」

 少年登山家リッジウェイにとって、ジム・ウィテカーは英雄だった。そして、その人のようになることを切実に願った。 1976年に彼はエベレスト遠征に参加した。青年リッジウェイは遠征隊員に抜擢されるほどクライミング能力を認められたものである。その時は頂上に立てなかったものの、エベレスト登山ドキュメンタリー映画チームを助け、映画製作を学ぶことができた。それは大きな経験になった。帰国後はエベレスト登山の本を書き、自分のカメラで撮影した写真とドキュメンタリーフィルムをナショナルジオグラフィックに売りつけ、自分だけのメディア経歴を積み始めたのだ。

「驚くべきことが起こりました。 2年後の1978年に、私にとって英雄であるジム・ウィテカーが隊長として私をK2隊員に呼んでくれたんです。どんなに感激したことか。憧れた英雄とチームになれる瞬間でした。」

 その登山でリッジウェイは、ジョン・ロスケリーと共に無酸素でK2登頂に成功する。 アメリカ人初のK2登頂という快挙であった。 15歳の少年の英雄だったジム・ウィテカーのように、リッジウェイも79年のナショナルジオグラフィックの表紙に堂々と顔が掲載された。
 リッジウェイがバークレー大学で勉強を継続していれば、私たちは偉大な探検家であり山岳文化の伝導師に会うことはなかっただろう。 だが、彼は安楽な将来が保障された学者の道よりも自ら大自然への道を選択した

180°SOUTHを出品したい

 映像にまさる破壊力はない。蔚州世界山岳映画祭が短期間に世界の支持を受けた理由もそこにある。リッジウェイがデイビー・ムーアなど、ハリウッドの有名監督と共同で製作した映画がある。米全域で公開された「180°SOUTH」というドキュメンタリーだ。この映画の中で共同制作を担当したリッジウェイは、同じタイトルの本も出版した。ハリウッドスタイルがそうであるように、映画も数年間、大金をかけて製作された。パタゴニアを愛した彼ららしく、そこに生きる自然と登山に取り組む人間を出演させ、野生の映像と自然保護の正当性を促進するというコンセプトであった。

「蔚州映画祭に出品をするとすれば、今まで作ってきた多くの映像のうち、どれを選びますか?」

私は尋ねた。リッジウェイは、放送界や映画界を行き来し、多くの作品を所有しているからである。

「180°SOUTHだ。それほど完成度が高い。また、2年前に私と一緒にカヤックを漕いでいて亡くなったダグラス・トンプキンスが出演したので縁も深い。 1968年トンプキンスとイヴォン・シュイナードなどが一緒に古いフォードバンに乗って追い求めたパタゴニア。そのフィッツロイ初登攀の登山をドキュメンタリー映像として記録した「Mountain of Storms」を現代的に再現したものだ。ユーチューブで見ることができるよ。」

「7年前に初めてお会いしてから、再び作成した映像や本はありますか?」

「ありません。既に述べたようにパタゴニアに公園を作るなど大変忙しかったんです。私たちは自然保護に全力を尽くしています。しかし、作家として文章に対する渇望は感じますね。いくつか構想はありますが、本当に忙しくて書く暇がありません。」

「あなたは、いくつかの権威ある賞を受賞しました。それだけ文章をよく書きます。文章の勉強をした経験は?」

「ないですよ。大学で、別の私の願望を発見することができたんです。 私が大自然の中で行う行為を、文章に移す面白味を知ったんです。クライミングや探険に必要なお金のためにペンキ塗りなど片っ端から仕事をした。 今考えればドンキホーテそのまんまですが、その時がおもしろかった。」

 大学を卒業したリッジウェイは職もなく、1970年代初めLA近くの岩場やヨセミテで時間を過ごした。当時リッジウェイは、「私の救いだった」と言うほどだった。それが山の先輩であるイヴォン・シイュナードとの出会いだ。 2000年に自分が作った冒険・探検の写真とフィルムを売る事業をしていたリッジウェイは、イヴォン・シュイナードからパタゴニア入社オファーを受けることになる。そして2003年の理事に就任、2005年には環境担当副社長となり、今日まで勤務している。

セブンサミットという言葉を作った人

「向こうに、みすぼらしいトタン屋根の工場が見えますか?私がベンチュラに移ったとき、シュイナードにはその工場が全てだった。現在は博物館ですが、これがグローバル企業パタゴニアのはじまりです。今、私たちの会社は、米国の若者が入社を希望する優良企業となりました。」

 リッジウェイの著作の中で、韓国でも人気を呼んだ 『不可能な夢はない』 というタイトルの本がある。その本の中で韓国の登山家たちもよく知っている「セブンサミット」という言葉は、彼が最初に作りだした。石油会社社長だったディック・バスと、ワーナー・ブラザーズ映画会社フランク・ウェルズ社長がリッジウェイを訪れた。初心者が世界初の7大陸最高峰登頂をしようとするため援助を求めたのだ。

「50歳を超えたアマチュア登山家に実際には「不可能な夢」です。しかし、それを克服するのが登山家の精神ではないか?だから承諾しました。」

 リッジウェイは、実際に彼らと共に7大陸最高峰のクライミングに成功する。たくさんの資金を持つ社長が各大陸の最高峰をすべて登るという発想が痛快である。本来、山岳文化が魅力的なのは、山ではなく山に登る人間の話だ。その登山を終えた後、リッジウェイが発行した 『不可能な夢はない』 がまさにそれである。
 長い時間にも、リッジウェイの話しぶりは柔らかく静かである。青い目の探検家の無邪気な表情と首の太いシワが似合う。ショートパンツに素足、そこにスリッパを履いた姿が見栄えが良い。彼が自然とともに生きてきた年月を雄弁するようかのように堂々としている。

「韓国の登山家ヤン・スンオさんは私たちの会社に勤務したことがあり、よく知ってます。私たちは一緒にティトンに登山旅行に行ったりもした。引退?私にはそんなことはありません。作家に引退はありません。会社でも引退するつもりはありません。まだすることがたくさん残ってますからね。」

 リッジウェイは最近は幸せな日々だと語る。トンプキンスの忘れられない事故の後、同社の幼稚園で孫娘や娘に会えれば人生幸せであると考える。リッジウェイには2女1男の子供がいる。娘はクライマー、息子はサーファーだ。イヴォン・シュイナードの娘とソン・ジュンオクの娘、そしてリッジウェイの娘は、最初に話したアジアと同じ高校を出た。リッジウェイの娘がそうだったように、孫娘が代を継いで会社の幼稚園で大きく育つ。父のように子供たちも友情をはぐくみ続けているのだ。

「長い時間ありがとう。私はあなたがより文章を多くの書き込みを望みます。あなたの文章のファンですから。」

 約束した時間を超えて取材日程が終わった。リッジウェイの写真を撮影して、通訳をしていたカメラマン、キム・テミさんは好奇心で目が輝いていた。インタビューが終わる頃には、尊敬の眼差しに変わっている。

「蔚州が韓国初、最大の山岳映画祭ということは知っています。 9月には蔚州世界山岳映画祭で会いましょう。全世界の大陸にそびえる山、数え切れない山岳文化こそ、徐々に、その多様性で、より注目されるでしょう。私は蔚州の文章を書きます。アメリカの山岳映画祭との連携も考えてみましょう。山岳文化で互いに連携する相乗効果があることを知っていますから。」

 会社の門の外まで見送ってくれたリッジウェイと握手を交わした。太陽が輝く太平洋に白い帆のヨットが浮かび、サーファーが波に乗っていた。生涯を自然とともに生きてきたリッジウェイ。
 「年齢とは、生物学的分類であるだけ」という言葉が、ふと浮かんだ。

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 私事ですが、初めての子(娘)が生まれたとき、家族・親類から「お前が名前を決めろ」と言われたもので悩んだ結果、ジョナサン・ライトのエピソードにちなみ「亜細亜」と命名しかけたのですが、お前が決めろと言ったはずの家族・親類に猛反対され撤回した思い出があります。しくしく。まあ結局ワルテル・ボナッティのエピソードから娘の名前を命名したけど。
 リック・リッジウェイ氏の健康とますますの活躍を祈ります。

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