妻にミシンを買ってあげたい アリ・サドパラ

 2月18日、パキスタン・スカルドで行われた記者会見において、冬季K2登頂を目指したまま行方不明になった3名のクライマーについて、「死亡宣告」がなされた。

 欧米人クライマー偏重の日本の山岳メディアが決してとりあげることのない、パキスタンのアリ・サドパラについて、アメリカのAlpinist誌が秀逸なインタビュー記事を掲載している。私自身の記憶のためにも、以下に引用したい。

Muhammad Ali of Sadpara by Alpinist 2019.5.2

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Amanda Padoan執筆記事

 2016年2月、パキスタンの登山家、ムハンマド・アリは、-62度の風の中でナンガパルバット冬季初登頂を果たした。これは冬季8000m峰に残る大きな課題の1つだった。しかし、この登山は彼のサバイバルの一つに過ぎない。彼にとって最初のサバイバルは、幼少時代だった。

 彼の11人兄弟のうち、8人は生き延びることができなかった。パキスタン北部、彼の出身地であるサドパラ村では、出生時または病気による幼児の死亡が普通の出来事だった。喪失感は彼の母親フィザを悩ませた。彼女の最後の子供であるアリが1976年に生まれたとき、彼女は何としてでも彼を生かすことを決心し、6歳まで彼を母乳で育てた。それまで、彼女は彼が危険な目に合わないようにと願っていた。

Sadpara

サドパラ村の風景

 アリは「母の母乳が私を山に登るために十分な強さに育てた」と語る。そして、すぐに彼は「登山」に関わることになる。サドパラ村の誰も、その努力を「登山」とは呼ばない。アリにとって、それは単なる仕事だった。少年の頃、彼は高山の牧草地への道をたどり、世話をするヤギよりも速く急なモレーンを駆け上がった。はるか下のサドパラの村は、岩山に溶け込み、濁ったターコイズブルーの湖のそばに集落が存在している。上部には緑豊かな放牧地が広がり、広大な高原が野花で覆われてた。アリはそこで冬のための飼料を刈り取り、40kgの草を束ねて背負い、村に運んだ。夏の間、彼はこの4000メートルの高地を何十回も登り返した。

 山々は彼にとって第二の故郷のように感じたが、その脅威を過小評価することはなかった。子供の頃、アリはあらゆる災害を目撃した。サドパラ村の上部には、厚い氷河のセラックとモレーンが雪溶け水を貯めていた。アリが9歳の時、この天然ダムが決壊した。下の湖の水位は一瞬で上昇し、洪水が村を襲い、壁を壊し、ポプラを根こそぎ倒し、すべての牛を溺死させた。水が引いた頃、アリの両親は植林を行い再建を試みた。サドパラ村は、夏と冬、そして祈りの季節を周期的なリズムで繰り返し、歳月が流れていた。

 19歳、アリは結婚の時期がきていると感じた。風習により、若い女性ファティマに近づくことは妨げられ、自分から彼女を誘うことができなかった。彼の叔父が結婚の提案をもちかけ、ファティマの両親はそれを受け入れた。結婚はアリに不安な幸福をもたらし、妻を養うためのプレッシャーを感じていた。さらに、生まれたばかりの息子、サジッドも養わなければならない。彼は再び山に向かった。外国の登山隊のポーターは、転職可能な最高の仕事だった。カラコルム山脈のベースキャンプに25kgの荷物を運ぶだけで、1日3ドル相当を稼げるのだ。K2、ブロードピーク、ガッシャブルムは見慣れた光景だが、まだ登頂をイメージすることはなかった。アリは、帰り道に運ぶ荷物、つまり収入を2倍にするチャンスを夢見ていた。ラッキーな数人だけが、その仕事にありつけた。

 彼が能力を得るには時間を要し、他人には明確に見えるものを理解するのに時間を要した。少しずつ、アリは「良い荷物」と「悪い荷物」を見分けることを学んだ。遠征隊のリーダーが荷物を分配した際、なぜ誰も灯油を持ちたがらないのか不思議に思った。たぶん、何人かはタバコを吸うし、荷物に引火するのを恐れたのだろう。アリにとって、残された灯油缶は小さくコンパクトな荷物に見えた。へこみや漏れがないかチェックし、大丈夫だったので背負い籠に追加した。その後、何時間にもわたって背負い籠の中で液体が揺れ、道でバランスを崩した後、経験豊富なポーターがなぜ燃料を避けるかに気が付いた。

 ほとんどのポーター同様、アリはビーチサンダルと粗末な道具で険しいバルトロ氷河を横断した。仕事の2日目、彼はサングラスを落とした。ポーターでもある叔父のハッサンは、落としたサングラスを見つけポケットにしまった。10代の若者は、雪原に到達するまで、落としたものに気が付かなかった。眩しさが彼の目を焼き、アリは彼の背負い籠を探しまくった。ハッサンは彼を見つめ、必死になっているアリに忠告とともにサングラスを渡した。「山での小さなミスは、大きくなる。今回の事はお前の視力を駄目にしたかもしれないぞ。」

 以来、アリは定期的に彼の貧弱なギアを再確認し、一歩一歩が不安定に感じられる風景の中でも、何事にもチャンスを逃さないようにした。「インシャアラー」とアリは唱えながら、何が起こっても神の意志だと確信した。しかし彼は、神の加護が人間の不注意や無謀にまで及ぶのかと疑問にも思った。正常な人々が山頂を目指す姿、すなわち象徴的な行為や情熱の一形態としての山に登る、という考えは、彼の心を揺さぶった。アリにとって山頂とは、反対側に行くために到達する場所に過ぎなかった。それでも彼は、氷河のリスクを読み取ることに長けた、テクニカルクライマーへと成長した。さらに高所に行かないと稼げないので、さらにリスクを取るようになったのた。

 パキスタン軍のトラックがサドパラ村を訪問してポーターを募集した際、アリはそのチャンスに抗えなかった。当時、パキスタンとインドは、中国への戦略的回廊であるシアチェン氷河をめぐり、長年にわたり紛争を続けていた。アリは世界最高所の戦場に向かった。夜、彼は氷壁を登り、遠く離れた峠で待つ兵士に物資を運び、暗闇が「結婚式の爆竹のように執拗に」思われる砲撃から守ることを祈った。繰り返し、彼は小さなミスがどれほど大きくなるかを見てきた。何人かのポーターがタバコに火をつけた。このかすかな光が彼らの思惑を裏切った。数分以内に、迫撃砲弾がキャンプを襲い、2人の男性が中にいたはずのテントが倒壊した。ほんの数ヤード離れていたアリは、彼らが死んでいくのを聞いていた。

 商業登山は、犠牲者がいないわけではないが、戦場よりはましだ。安全な世界を提供しているように見えた。「シアチェンの後、私はもう何も恐れていませんでした。クライミングでは、生と死の2つの結果があり、どちらの可能性も受け入れる勇気を見いだす必要があります。」

母フィザは、家にいてジャガイモを栽培するようにとアリを説得した。

「しかし、探検する魅力的な山があります」と彼は言った。「外国人が山を登るためにお金を使いたいのなら、なぜ私は助けてはいけないのか?」

 2006年から2015年まで、遠征隊員として、アリはナンガパルバットとガッシャーブルムI峰、II峰の登山に参加した。アリはK2で8350mに到達し、ボトルネックを乗り越えたが、彼の野心は、キャンプ設営、フィックスロープ、彼らが管理できる範囲内でガイドするクライアントのニーズに縛られていた。

 彼らの安全に気を取られ、自分のことはほとんど考えていなかった。

 そして2012年、サドパラ出身の高所登山家が冬季ガッシャーブルムI峰で行方不明になった。ニサール・フセインはアリの幼少期からの友人で、彼の死は地域社会に大きな打撃を与えた。ニサールは妻、息子、二人の娘を残した。今では3人の子供の父親となったアリは、自分の人生は他人のものであることを理解している。アリは、妻のファティマが静かに恐ろしさを表現するのを聞いていた。「アリ!」彼の母親は、より大きな声で言った。「この仕事は危険すぎる」

 しかし、彼は登山をやめようとは思わなかった。登山は農業にはない爽快感を与えてくれたのだ。登山は特に冬季を得意としていた「ヨーロッパ人は凍えることはないんだよ」と彼は母フィザに言った。「テント、手袋、ダウンスーツが支給されるんだ」

「冬は冬なんだよ」と彼女は答えた。

 2015年1月。
 アリは不在の言い訳を思い付き、ナンガパルバットの冬季初登頂を試みるために出発した。嘘をついたことは彼を悩ませた。しかし、アリは病弱な母親が心配することを恐れていた。

 結果として、心配する材料はたくさんあった。気温はマイナス47度前後で推移し、山頂から約300メートル下では強風が吹き荒れ、彼は方向感覚を失った。「私のメンタルの中の「地図」が消えてしまった」とアリは回想する。「夏にナンガパルバットを2回登頂し、地形を知っていると思っていたが、冬に見た光景と記憶が一致しないんだ。」

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2015年1月、ナンガパルバット山頂直下から下山直後のアリ・サドパラ(左から2人め)

 アリの混乱が脳浮腫の発症かもしれないと恐れた2人の外国人登山家、アレックス・チコンとダニエル・ナルディに伴われて下山した。一週間後、アリは家族に彼の不在を説明するつもりで家に帰った。しかし、彼がサドパラに到着したとき、母親が呼吸するにも苦労している事に気づいた。フィザがどこに出かけたのかを疑い、彼女はもう決して彼を手放さなかった。アリは最後の数ヶ月間、彼女を看病し、何も告白することはしなかった。

 もしチコンとナルディが新たな試みをしなかったら、彼は冬の登攀を完全に諦めていたかもしれない。頂上付近でアリの記憶が途切れたとき、彼は2人を失望させたかのように感じた。アリは彼らに何の借りがあるというのだろうか。彼らとの雇用関係は曖昧だった。フェアな手段で登るプロの登山家にとって、高所ポーターを雇うのは妥協の産物だ。アリの役割は無給の「対等なパートナー」だった。しかし実際には、彼はしばしばルートをリードし、彼は労働によって彼のギアの費用を稼ぎ、他の人が辞めれば、彼も辞めることが期待されていた。

 多くのハイレベルな遠征隊と同様に、2016年の歴史的なナンガパルバット冬季登攀に緊張が高まった。チコンとナルディは、タマラ・ルンガーとシモーネ・モロと合流した。しかし、ナルディと彼らとの関係はすぐに悪化し、ナルディは帰国を決心した。問題は、アリのダウンスーツはナルディの所有だったことだ。

 風速は時速45km、気温はマイナス34度。山頂を目指すには、アリのウェアは十分暖かいものではなかった。アリの強さに感銘を受けたモロは、自分の服を貸与することを申し出た。モロは予備のダウンスーツを含む、スポンサーのギアを大量に持ちこんでいた。それはアリにぴったりだった。

 2月26日のサミットの日、アリは借りたスーツを着て、山頂直下でモロが到着するまで待ち、最後の3メートルを一緒に登り、双子の蜂のような写真を撮った。モロは、パキスタンの登山家がパキスタンの山で歴史を作るのを目撃することに喜びを感じた。「エベレストにテンジンがいたように、ナンガパルバットにアリがいる。」と彼は言った。アリはその瞬間を淡々と語る。明け方、彼は7100mのテントを出て、山頂の台地に向かって岩の迷路をナビゲートした。「日の出の暖かさに勇気をもらった」と彼は言う。

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シモーネ・モロと共に冬季ナンガバルバット初登を果たしたアリ・サドパラ(左)

 その後は有名人に囲まれ、アリは他のサミッターと共に祝うため、スペインとポーランドに飛んだ。しかし、ヨーロッパの仲間達とは異なり、アリのスポンサー獲得は実現しなかった。彼はその理由を口には出さない。小麦の脱穀、ジャガイモの収穫、牛の世話、壁の修繕、屋根の葺き替え、子供たちの教育、自分の仕事は山ほどある、とサドパラ村に戻ったアリは言う。

他の人生が良い、と彼は言う。それは、彼が何者かになりたかったことを思わせる。
夢について尋ねられたとき、アリは2つの夢を打ち明けた。


妻のために、ミシンが欲しい。
自分のために、K2の冬季登頂を果たしたい。

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人類初のK2冬季登頂。

それと同じくらいの大事な夢が、奥様にミシンを買ってあげる事。

Ali

アリ・サドパラ、永遠に。

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K2冬季登頂さる

1月16日、現地時間17時、冬季K2の登頂にネパール隊が成功した模様。

メンバーは、

Nirmal Purja
Gelje Sherpa
Mingma David Sherpa
Mingma
Sona Sherpa
Mingma Tenzi Sherpa
Pem Chiri Sherpa
Dawa Temba Sherpa
Kili Pemba Sherpa
Dawa Tenjing Sherpa

の10名です。

8000m峰で唯一冬季未踏だったK2。

その山頂に最初に立ったのは、デニス・ウルブコでも、アレックス・チコンでも、屈強なポーランド人でもなく、シェルパ族を中心とするネパール隊でした。

アルピニズムの歴史を振り返る時、外国人登山家を「支えて」きたシェルパ達が主体的に困難な目標 冬季K2、冬季8000m峰最後の牙城に取り組んできました。

8000m峰登山の一般大衆化と共に、商業登山、高所遠足などと言われながらそれらの登山をサポートし、8000m峰登山で実力を磨いてきたシェルパ達が冬季K2を陥した事は、21世紀のアルピニズムの流れを象徴する出来事だと私は思います。

ひたすらに、全員の無事下山を祈ります。

登頂のニュースとともに、著名登山家セルギ・ミンゴテがK2下部キャンプ間で滑落、意識不明という報道も流れています。

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【速報】K2冬季登頂目前か

1月16日、パキスタン現地時間16時現在、ネパールチームがK2山頂直下10~20m地点にて、待機中。仲間たちの到着を待って山頂に立つ模様です。ソースはSkardu.pk。

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講演『地球のタイムカプセル~南極』

 山形県村山市の甑葉(しょうよう)プラザで開催された、東北マウンテンガイドネットワーク代表・高村真司による講演会『地球のタイムカプセル~南極 』を聴講。

 南極観測隊は発足当時とは異なり、近年は野外経験の少ない隊員・研究者が増えているため、「フィールドマネージャー」という山岳ガイドの参加枠がある。観測隊員の安全管理を担う任務である。高村代表は第59~61次にわたり観測隊のフィールドマネージャーを務めていた。

 ガイド仲間向けの内輪の報告は聴いていたが、フォーマルな形式の講演を聴講したく参加。

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野外活動を知らない一般市民向けにかみ砕いた講演内容で、観測隊における自身の役割のお話。

20201213_151114展示品として、南極の氷が展示されてました。

太古の空気の香り・・・かな・・・

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【訃報】ダグ・スコット 逝去

ヒマラヤ登山のアルパインスタイルを推し進めてきたバイオニア、イギリスのダグ・スコットが12月7日、自宅で安らかに亡くなりました。79歳の生涯でした。

Doug Scott: Everest summit mountaineer dies aged 79 by BBC 2020.12.8

春先、手術不可能な脳腫瘍に罹っていることをある筋から知らされていましたが、早すぎる死でした。

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晩年のダグ・スコット近影

冒頭に「ヒマラヤ登山の・・」と書きましたが、そもそも氏は世界的なビッグウォール・クライマーと記されるべきでしょう。

その著書『ビッグウォール・クライミング』は世界的にも多大な影響を与えてきました。

1ハイカーにすぎない私も、もちろんその内の1人です。規模はビッグウォールとは言えないものの、『ビッグウォール・クライミング』に記載されていたことが、私がアメリカのデビルズタワーを登った理由の一つでした。

 ある国際山岳シンポジウムで、8000m峰14座全山登頂の渦中にいたメスナーが「ヒマラヤ登山から離れようと思っている」と発言した際、ダグ・スコットがメスナーに「歳取ったな!」と直言したことが強く印象に残っています。

 それほどの情熱をもってヒマラヤ登山、軽量・速攻のアルパインスタイルの道を拓いた氏は、

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2015年、クリス・ボニントンと共に室内氷壁を楽しむダグ・スコット

晩年は仏教を学び、ヒマラヤ山麓に生きる人々をサポートする活動に力を注ぎました。

エベレスト南西壁初登という華やかさだけでなく、玄人好みのルートを拓いて行った氏の生い立ち・人生は、当ブログでも過去記事に記しました自伝『UP AND ABOUT』に詳しく記されています。

 

 誰もが王義之になれるわけではない。それでも人は王義之に近づこうと筆を走らせる。

 誰もがセザンヌになれるわけではない。それでも人はセザンヌに近づこうと絵を描く。

 ヒマラヤ登山を目指す者にとって、ダグ・スコットとはそんな存在ではなかっただろうか。

Ogre 

1977年バインターブラック峰にて、両足を骨折したまま四つん這いで必死に下降するダグ・スコット

偉大な登山家の死に、哀悼の意を表します。

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Bernadette McDonald著 『 WINTER 8000 』

8000

荘厳な、レクイエム(鎮魂歌)である。

Bernadette McDonald女史の新作『WINTER 8000』を読む。

8000m峰の冬季登頂史を14章、すなわち14座全てにわたり網羅した本である。

この本を読むにあたり、私は2つのテーマを抱いていた。

1. 北海道大学山岳部による1982年ダウラギリ冬季登頂はどう扱われているのか。

2. 2013年3月、ブロードピーク冬季初登を果たして還らなかったポーランド人、マチェイ・ベルベカを巡る人間模様はどうだったのか。

の2つである。

 

 1.の北大山岳部の件とは、1982年12月13日、80年代当時ネパール政府の定義する冬季(12月1日から2月15日まで)に従いダウラギリ冬季「初」登頂を果たした北海道大学山岳部の登頂の事である。

 ヒマラヤ登山の冬季の定義が「冬至から春分の日まで」が一般的となった現在では、1985年1月21日、イェジ・ククチカとアンジェイ・チョクが登頂したポーランド隊が冬季初登とされている。

 この事がどのように描かれているかに関心があった。

 読み進めて第3章、ダウラギリの話はいきなりイェジ・ククチカの登場から始まる。ええ~!北大の成果はガン無視ですか!?

 日本の大学山岳部の成果、残した登山報告書が後々の欧米の登山家に多大な影響、すなわちヒマラヤ登山史に影響を与えた、というのが持論の私にはモヤモヤするものが残るので、Bernadette McDonald女史に直接問い合わせた。

 「北大山岳部を取り上げなかったのは登頂日が12月13日だったからですか?」

 女史からは「その通り! 初登であったとしても、完全なる「冬」でなければ記録に加えられませんでした。」と明快な答が返ってきた。

 とはいえ、シシャパンマの章では2004年12月11日に登頂したジャン・クリストフ・ラファイユに関してはしっかり記述している(後に論争となるシモーヌ・モロー、ピオトル・モラフスキーの事を主題とするのに必要だったのだろう)。女史は触れていないが、やはり8000m峰冬季登頂の歴史=ポーランド人クライマーの苦闘史というイメージがあるのだろうと推測する。

 

2.のマチェイ・ベルベカとは、当ブログでも追悼記事を書いたポーランド人クライマーの事である。

 1988年冬、ポーランド隊隊員としてパートナーが脱落したにもかかわらず単独で山頂を目指したマチェイ・ベルベカは、一人、ついに冬のブロードピーク山頂に立つ。

 世界初の冬季カラコルム8000m峰登頂の栄光に輝いた・・・かに思われたが、実はマチェイが登頂したのは前衛峰で主峰ではなかったことが帰国してから明らかになる。隊員達は、登頂の状況から「彼が登ったのは前衛峰ではないか」と薄々気づいていた。

 何故、自己主張の塊ともいえる西洋人、特に主張が強いといわれるポーランド人達は、マチェイに真実を黙っていたのか。私の疑問はそこにあった。

 本書によれば、隊長であり智将であるアンジェイ・ザワダも前衛峰登頂であることに気が付いていた節がある。マチェイは強力なクライマーゆえ、そのまま主峰に進めば死ぬとアンジェイは考えていたらしく、無線でも余計なことは口にしなかった。

 しかし早々にアンジェイがポーランド本国に「ブロードピーク冬季登頂成功」として知らせたのはなぜか。クシストフ・ビエリツキは真実はわからないまでも推測として、「アンジェイにとっては「誰が」「いかに」は問題ではなく、隊が登頂に成功したことが全て。軍隊のような登山だが、こんな考え方は今の世代の人々にはわからないだろう。」とコメントしている。

 そもそも、誰も口を出せないような、壮絶な単独下山を果たしたマチェイ。帰国後、一瞬の栄光をつかみながら、同僚のアレクサンドル・リボフの手記によって前衛峰登頂が明らかにされ、人間不信に陥るマチェイ。そして2013年、再び冬のブロードピークに挑み、登頂に成功しながら還らぬ人となったのは当ブログの前掲記事のとおりである。

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1986年1月11日、カンチェンジュンガ冬季初登を果たした後のクシストフ・ビエリツキ(左)とイェジ・ククチカ(右)

あまりに有名な写真であるが、冬季8000m峰初登を果たした後の疲弊感とポーランド人の強靭さが同時に表れているような感想を抱く

 

 さて、長年の付き合いからポーランド人贔屓のBernadette McDonald女史であるが、我が日本隊に対して
「If anyone deserved a winter ascent of annapuruna, then it was Japanese.」(冬のアンナプルナ登頂にふさわしい者がいるとすれば、それは日本人である)と賛辞を送っている。すなわち1987年の群馬岳連隊による冬季アンナプルナ南壁登攀について詳細に記述されている。それだけでなく「超人的」と女史が評する故・山田昇氏、故・斎藤安平氏によるアルパインスタイルによる冬季マナスル、JAC東海隊によるローツェ南壁冬季初登にもページを割いている。

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夫、マチェイ・ベルベカが行方不明のままのブロードピークを訪れた妻のエワ・ベルべカ(2018年、病没)

 

 当ブログでは旧ユーゴスラビアのヒマラヤ登山史を記録した『ALPINE WARRIORS』を「壮大な叙事詩」と記した

 冬季8000m峰。

 経験者いわく「地獄のような世界」を登攀し山頂に立つために、どれほどの犠牲を払ってきたことだろう。本書でとりあげられたクライマーは日本人も含め、多くは故人となっている凄まじさ。

 第5章カンチェンジュンガでは、女史は

『The cost of climbing can be extremely high.』

と綴り、凍傷のような肉体の傷だけでなく「人生の犠牲」を払ってきたクライマー達にも心を寄せる。

 クライマー個人だけではない。冬の8000m峰から還らなかったクライマーの家族達にも、死は暗い影を落とす。

 それゆえ私は本書を叙事詩ではなく、「荘厳なレクイエム」と評することにする。

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K2 2018夏 登山報告書

 先日の小谷部明追悼集「すかり」に続き、郡山市在住の保坂昭憲氏より、北日本海外登山研究会登山隊報告書『K2 2018夏 登山報告書』をお送りいただいた。

Repo

同隊は日本人隊員6名、ハイポーター2名の登頂に成功するものの、渡辺康二郎隊員がボトルネックで滑落死してしまった。

記録を詳細に読むと、困難な山の代名詞であったK2も公募隊全盛となっている現実、「今現在のK2」がよくわかる内容になっている。

隊長であった故・小谷部氏はネパールから来たシェルパ主導のルート工作を避けるために現地に最初に乗り込む形で主導権を握ろうとするのだが、後からやってくる大手公募隊とやはり調整をとらなければならず、さらには隊のテントや装備、デポ品の無断使用などが横行する現実と向き合わなければならなかった。

 そのような「8000m峰の今」とは別に、私が最も興味深く拝読したのは、報告書と併せて送られてきた保坂氏ご自身による、渡辺隊員の事故処理の記録である。私情を挟むことなく簡潔に、事実を時系列に記したその記録はまさに貴重な記録といえる。

 私は保坂氏の記録を幾度も読み返し、今のヒマラヤ登山隊では失われつつある「事務局」の存在と必要性、さらには「組織」の存在意義まで思いを巡らせた。

 ライトエクスペディション。 

 アルパインスタイル。

 掛け声は勇ましいが、いざ事故が発生したとき、人間は現実を突きつけられる。

 遠く離れたパキスタンでの事故、保険、死亡証明、ご遺族との対応等々。

 「登山の反社会性」などとウェブやツイッターで威勢のいい事を書いている輩は多いが、ひとたび事故が発生すれば、法と行政という社会のシステムから逃避することはできない。

 自宅に届いたK2隊の報告書は、そのことをあらためて自戒する、保坂氏からの教えでもあった。

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会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』

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 ご縁があり、郡山在住の登山家 保坂昭憲氏より会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』を送っていただいた。

 故・小谷部明氏は2018年に北日本海外登山研究会K2登山隊を隊長として成功に導き、2019年2月、中央アルプス宝剣岳で亡くなられたクライマー。

 室蘭工大ワンゲルOBである氏は山スキーと沢を得意とし、会津山岳会でも存分にその才能を発揮。

 それだけでなく日本山岳耐久レース、山岳スキー競技会、MTBオリエンテーリング世界大会など、狭い分野にこだわらず貪欲に活躍していた。

 驚かされるのはその几帳面さと研究熱心さ。厚い追悼集の大部分を占める小谷部氏自身による手記は、失敗も成功も、まるで医師のカルテを覗いたように (いや、たとえでして、私医師のカルテ読んだことないけど) 冷静に綴られている。

 その生涯で3度挑んだK2登山の記録。初めての遠征では高所順応に苦しみ、周囲のメンバーとのプレッシャーを感じながらも、決して自分のペースを乱すことなく行動している点に、強靭な意思が現れているといえよう。

  また、このような会報を出版物として発行できる会津山岳会の「地力」に敬意を表したい。

 かつて『山と渓谷』、『岳人』の数ページを彩っていた「山岳団体の会報紹介」のページは各団体の動向を知る手がかりとなっていたのだか、WEB全盛の今では知る人も少ないのではないだろうか。

 紙の出版物なんて古いと言われそうだが、近年になってニフティやヤフーがホームページサービスから撤退し、貴重な山行記録がWEB上からあっさりと消えている現実を思えば、そうとも言えまい。

 まだまだ活躍が期待される年齢であった故・小谷部明氏にあらためて哀悼の意を表します。

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ジョー・ブラウン逝去

 イギリスの重鎮、ジョー・ブラウンが2020年4月15日、イギリス・ウェールズ北西部ランベリスの自宅で亡くなりました。89歳でした。

 死因は明らかにされていませんが、どのメディアも「安らかに息を引き取った」と報じています。

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2012年に撮影されたジョー・ブラウン近影

 1955年に世界第三位の高峰カンチェンジュンガの初登を果たしていますが、イギリスはじめ各国のクライミングサイト、一般メディアも「クライマー」としてのジョー・ブラウンにスポットがあてられています。

 当ブログでも過去にジョー・ブラウンを紹介してますので、

 あの人は今 ジョー・ブラウン(Joe Brown)、祝・80歳 by 当ブログ2010年9月26日

 当ブログでは、各国クライミングサイトがあまり取り上げない、カンチェンジュンガ登頂にまつわるエピソードを中心に追悼します。

 1930年、ジョー・ブラウンはイギリス・マンチェスターに7人兄弟の末っ子として生まれ、学校を出てすぐ配管工見習い、建設作業員の職につきます。

 16歳のときにコリン・カーカスの著書『Let' go climbing』(日本でも森林書房から出版された邦訳「クライミングに行こう」を読んだ山岳関係者は多いはず)に影響されて登山とクライミングを始めます。

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著書の表紙にもなったsea stack(スコットランド北部・海岸部の岩場)を登る若き日のジョー・ブラウン

 チョモランマに消えたマロリーに代表されるような上流階級の人々とは一線を画し、労働者階級の一人としてイギリス各地の岩場に困難なルートを拓き、ヨーロッパアルプスでもその才能をいかんなく発揮します。

 「酔っ払い」ドン・ウィランスと素晴らしいコンビを組み、「軽量化」のためアイゼンも持たずw ドリュ西壁を速攻で登攀。その時のコメントとして、

 「フランス人って、クラックでハンドジャム知らないんだ」

 そうです、工業用ナットを加工してクラッククライミングのプロテクションとして駆使し始めたジョー・ブラウンは、クラッククライミングを得意としていました。後のカンチェンジュンガ登頂でも、頂上直下の岩場でクラッククライミングの実力を発揮します。

 ドン・ウィランスと組んだヨーロッパアルプスでの成果から、1953年エベレスト初登頂を果たしたベテランメンバーぞろいのカンチェンジュンガ登山隊に最年少隊員(26歳)として招かれます。

 大学出身でインテリぞろいの隊員達。

 隊員の一人で脳外科医のチャールズ・エバンスを病院に訪ねていき、こんなやりとりがありました。

 エバンスが外科手術器具を手にして、

 「スレート(訳者注 : 粘板岩)をカッティングするときはこんなの使うんだろ ? 」

 配管工のブラウンは負けずに手術用ドリルを手にして

 「御冗談を・・・私はこれよりいい仕事しますよ ! 」

 ジョー・ブラウンによれば、社会的地位のギャップはクライミングへの愛情で埋めることができた、と語っています。

 その言葉が大げさでないことは、最年少隊員であるジョー・ブラウンがカンチェンジュンガ登山隊で第一次登頂隊員に選ばれたことからも推察できましょう。

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 人類として初めてカンチェンジュンガ「頂上」に立つジョー・ブラウン

 カンチェンジュンガ峰の登山は、ご存じの方も多いと思いますが地元住民との取り決めにより、聖なる山として真の頂上を踏まず、手前に立つことで登頂とされています。

 登頂時のことについて、真の頂上に立とうと思わなかったかとインタビューされ、ジョー・ブラウンはこう答えています。

「いいえ。誘惑すら無かったです。私にとって山頂に立つことは意味がありません。私はクライミングの喜びのために山に登っています。喜びは頂上でおしまいです。あなたもそこに行けば、そう思うでしょう。旗を立てる必要もありません。当時ではあまりみられない行為でしょうがね。私たちは持っていきませんでした。その写真に写っている場所、そこが私たちが立ち止まったところ(頂上)です。」

 まさにクライマー魂ともいうべき答えではありませんか。

 蔵書を引っ張り出して当時の記録を読み返すと、登頂前夜の最終キャンプで「彼ら二人は(ジョー・ブラウン、ジョージ・バンド)はすごくぜいたくな夕食を食べた」と書いてある。

 2人はいったい何食べたんだ?

 Alpine Journal 1955年No.291号にジョージ・バンドが記した登頂記では、

 粉レモンで作ったレモネード(砂糖多め)、アスパラガスのスープ、マッシュポテトと子羊の舌の缶詰、食後にココア

 だ、そうです。

 その穏やかな人柄、無類のジョーク好き、クライミングに対する飽くなき情熱。

 ジョー・ブラウンの逝去を報じる一般メディア、UKCサイト、コメント欄いずれにも、『End of an era』(一時代の終わり)と表現されていたことが、彼の存在の大きさを物語ります。

 Joe41955年、カンチェンジュンガ登頂後のジョー・ブラウン近影

偉大な登山家の死去に、哀悼の意を表します。

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2019ピオレドールロシア、スチールエンジェル決まる

 去る12月7日、ロシアの首都モスクワ中心部、ヴォルフォンカ公会堂にて、ロシア山岳連盟主催のピオレドールロシア、旧ソ連圏の女性クライマーの成果に贈られるスチールエンジェル賞の式典が開催されました。

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Pio2 式典には約400名もの登山関係者が集まり、ゲストとして8000m峰14座スピード登頂で話題の人となったニルマル・プルジャが招かれました。

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 2019年のピオレドールロシア賞は、パキスタン・ハーン渓谷のタングラタワー初登を果たしたデニス・プロコフィエフ(左)、マリーナ・ポポワ(中央)、ニコライ・マチュシン(右)のパーティーが選ばれました。困難な未踏ルートを初登したことが高く評価された模様です。

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 一般投票によるオーディエンス賞として、キャゾ・リ西壁新ルート「ドラゴンの道」開拓・登頂したロストフ隊(アンドレイ・ヴァシリエフ、イヴァン・オシポフ、ドミトリー・リバルチェンコ、ヴィタリ・シピロフ)が選ばれました。ステージに立つのはアンドレイ・ヴァシリエフ(左)、ヴィタリー・シピロフ(右)

旧ソ連圏の女性クライマー達のクライミングを表彰する、2019年のスチールエンジェル賞に輝いたのは、

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 プチジョラス(3650 m)北西壁のアヌークルート(M.ピオラ、V.スプルングリ 1990)とコンタミヌルート(A.コンタミヌ、P.ラブラン、M.ブロン、1955)の混成ルート (ED-6c~6a + A0 II )を登攀した、ナタリア・テプロヴァ、オルガ・ルカシェンコ(サンクトペテルブルク)のペアが選ばれました。

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 アックスのパーツで天使を模したスチール・エンジェル賞トロフィーを受け取るオルガ・ルカシェンコ。ちなみにトロフィーのプレゼンテーターはニルマル・プルジャがつとめました。

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