K2 2018夏 登山報告書

 先日の小谷部明追悼集「すかり」に続き、郡山市在住の保坂昭憲氏より、北日本海外登山研究会登山隊報告書『K2 2018夏 登山報告書』をお送りいただいた。

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同隊は日本人隊員6名、ハイポーター2名の登頂に成功するものの、渡辺康二郎隊員がボトルネックで滑落死してしまった。

記録を詳細に読むと、困難な山の代名詞であったK2も公募隊全盛となっている現実、「今現在のK2」がよくわかる内容になっている。

隊長であった故・小谷部氏はネパールから来たシェルパ主導のルート工作を避けるために現地に最初に乗り込む形で主導権を握ろうとするのだが、後からやってくる大手公募隊とやはり調整をとらなければならず、さらには隊のテントや装備、デポ品の無断使用などが横行する現実と向き合わなければならなかった。

 そのような「8000m峰の今」とは別に、私が最も興味深く拝読したのは、報告書と併せて送られてきた保坂氏ご自身による、渡辺隊員の事故処理の記録である。私情を挟むことなく簡潔に、事実を時系列に記したその記録はまさに貴重な記録といえる。

 私は保坂氏の記録を幾度も読み返し、今のヒマラヤ登山隊では失われつつある「事務局」の存在と必要性、さらには「組織」の存在意義まで思いを巡らせた。

 ライトエクスペディション。 

 アルパインスタイル。

 掛け声は勇ましいが、いざ事故が発生したとき、人間は現実を突きつけられる。

 遠く離れたパキスタンでの事故、保険、死亡証明、ご遺族との対応等々。

 「登山の反社会性」などとウェブやツイッターで威勢のいい事を書いている輩は多いが、ひとたび事故が発生すれば、法と行政という社会のシステムから逃避することはできない。

 自宅に届いたK2隊の報告書は、そのことをあらためて自戒する、保坂氏からの教えでもあった。

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会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』

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 ご縁があり、郡山在住の登山家 保坂昭憲氏より会津山岳会発行『すかり 小谷部明追悼号』を送っていただいた。

 故・小谷部明氏は2018年に北日本海外登山研究会K2登山隊を隊長として成功に導き、2019年2月、中央アルプス宝剣岳で亡くなられたクライマー。

 室蘭工大ワンゲルOBである氏は山スキーと沢を得意とし、会津山岳会でも存分にその才能を発揮。

 それだけでなく日本山岳耐久レース、山岳スキー競技会、MTBオリエンテーリング世界大会など、狭い分野にこだわらず貪欲に活躍していた。

 驚かされるのはその几帳面さと研究熱心さ。厚い追悼集の大部分を占める小谷部氏自身による手記は、失敗も成功も、まるで医師のカルテを覗いたように (いや、たとえでして、私医師のカルテ読んだことないけど) 冷静に綴られている。

 その生涯で3度挑んだK2登山の記録。初めての遠征では高所順応に苦しみ、周囲のメンバーとのプレッシャーを感じながらも、決して自分のペースを乱すことなく行動している点に、強靭な意思が現れているといえよう。

  また、このような会報を出版物として発行できる会津山岳会の「地力」に敬意を表したい。

 かつて『山と渓谷』、『岳人』の数ページを彩っていた「山岳団体の会報紹介」のページは各団体の動向を知る手がかりとなっていたのだか、WEB全盛の今では知る人も少ないのではないだろうか。

 紙の出版物なんて古いと言われそうだが、近年になってニフティやヤフーがホームページサービスから撤退し、貴重な山行記録がWEB上からあっさりと消えている現実を思えば、そうとも言えまい。

 まだまだ活躍が期待される年齢であった故・小谷部明氏にあらためて哀悼の意を表します。

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ジョー・ブラウン逝去

 イギリスの重鎮、ジョー・ブラウンが2020年4月15日、イギリス・ウェールズ北西部ランベリスの自宅で亡くなりました。89歳でした。

 死因は明らかにされていませんが、どのメディアも「安らかに息を引き取った」と報じています。

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2012年に撮影されたジョー・ブラウン近影

 1955年に世界第三位の高峰カンチェンジュンガの初登を果たしていますが、イギリスはじめ各国のクライミングサイト、一般メディアも「クライマー」としてのジョー・ブラウンにスポットがあてられています。

 当ブログでも過去にジョー・ブラウンを紹介してますので、

 あの人は今 ジョー・ブラウン(Joe Brown)、祝・80歳 by 当ブログ2010年9月26日

 当ブログでは、各国クライミングサイトがあまり取り上げない、カンチェンジュンガ登頂にまつわるエピソードを中心に追悼します。

 1930年、ジョー・ブラウンはイギリス・マンチェスターに7人兄弟の末っ子として生まれ、学校を出てすぐ配管工見習い、建設作業員の職につきます。

 16歳のときにコリン・カーカスの著書『Let' go climbing』(日本でも森林書房から出版された邦訳「クライミングに行こう」を読んだ山岳関係者は多いはず)に影響されて登山とクライミングを始めます。

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著書の表紙にもなったsea stack(スコットランド北部・海岸部の岩場)を登る若き日のジョー・ブラウン

 チョモランマに消えたマロリーに代表されるような上流階級の人々とは一線を画し、労働者階級の一人としてイギリス各地の岩場に困難なルートを拓き、ヨーロッパアルプスでもその才能をいかんなく発揮します。

 「酔っ払い」ドン・ウィランスと素晴らしいコンビを組み、「軽量化」のためアイゼンも持たずw ドリュ西壁を速攻で登攀。その時のコメントとして、

 「フランス人って、クラックでハンドジャム知らないんだ」

 そうです、工業用ナットを加工してクラッククライミングのプロテクションとして駆使し始めたジョー・ブラウンは、クラッククライミングを得意としていました。後のカンチェンジュンガ登頂でも、頂上直下の岩場でクラッククライミングの実力を発揮します。

 ドン・ウィランスと組んだヨーロッパアルプスでの成果から、1953年エベレスト初登頂を果たしたベテランメンバーぞろいのカンチェンジュンガ登山隊に最年少隊員(26歳)として招かれます。

 大学出身でインテリぞろいの隊員達。

 隊員の一人で脳外科医のチャールズ・エバンスを病院に訪ねていき、こんなやりとりがありました。

 エバンスが外科手術器具を手にして、

 「スレート(訳者注 : 粘板岩)をカッティングするときはこんなの使うんだろ ? 」

 配管工のブラウンは負けずに手術用ドリルを手にして

 「御冗談を・・・私はこれよりいい仕事しますよ ! 」

 ジョー・ブラウンによれば、社会的地位のギャップはクライミングへの愛情で埋めることができた、と語っています。

 その言葉が大げさでないことは、最年少隊員であるジョー・ブラウンがカンチェンジュンガ登山隊で第一次登頂隊員に選ばれたことからも推察できましょう。

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 人類として初めてカンチェンジュンガ「頂上」に立つジョー・ブラウン

 カンチェンジュンガ峰の登山は、ご存じの方も多いと思いますが地元住民との取り決めにより、聖なる山として真の頂上を踏まず、手前に立つことで登頂とされています。

 登頂時のことについて、真の頂上に立とうと思わなかったかとインタビューされ、ジョー・ブラウンはこう答えています。

「いいえ。誘惑すら無かったです。私にとって山頂に立つことは意味がありません。私はクライミングの喜びのために山に登っています。喜びは頂上でおしまいです。あなたもそこに行けば、そう思うでしょう。旗を立てる必要もありません。当時ではあまりみられない行為でしょうがね。私たちは持っていきませんでした。その写真に写っている場所、そこが私たちが立ち止まったところ(頂上)です。」

 まさにクライマー魂ともいうべき答えではありませんか。

 蔵書を引っ張り出して当時の記録を読み返すと、登頂前夜の最終キャンプで「彼ら二人は(ジョー・ブラウン、ジョージ・バンド)はすごくぜいたくな夕食を食べた」と書いてある。

 2人はいったい何食べたんだ?

 Alpine Journal 1955年No.291号にジョージ・バンドが記した登頂記では、

 粉レモンで作ったレモネード(砂糖多め)、アスパラガスのスープ、マッシュポテトと子羊の舌の缶詰、食後にココア

 だ、そうです。

 その穏やかな人柄、無類のジョーク好き、クライミングに対する飽くなき情熱。

 ジョー・ブラウンの逝去を報じる一般メディア、UKCサイト、コメント欄いずれにも、『End of an era』(一時代の終わり)と表現されていたことが、彼の存在の大きさを物語ります。

 Joe41955年、カンチェンジュンガ登頂後のジョー・ブラウン近影

偉大な登山家の死去に、哀悼の意を表します。

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2019ピオレドールロシア、スチールエンジェル決まる

 去る12月7日、ロシアの首都モスクワ中心部、ヴォルフォンカ公会堂にて、ロシア山岳連盟主催のピオレドールロシア、旧ソ連圏の女性クライマーの成果に贈られるスチールエンジェル賞の式典が開催されました。

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Pio2 式典には約400名もの登山関係者が集まり、ゲストとして8000m峰14座スピード登頂で話題の人となったニルマル・プルジャが招かれました。

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 2019年のピオレドールロシア賞は、パキスタン・ハーン渓谷のタングラタワー初登を果たしたデニス・プロコフィエフ(左)、マリーナ・ポポワ(中央)、ニコライ・マチュシン(右)のパーティーが選ばれました。困難な未踏ルートを初登したことが高く評価された模様です。

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 一般投票によるオーディエンス賞として、キャゾ・リ西壁新ルート「ドラゴンの道」開拓・登頂したロストフ隊(アンドレイ・ヴァシリエフ、イヴァン・オシポフ、ドミトリー・リバルチェンコ、ヴィタリ・シピロフ)が選ばれました。ステージに立つのはアンドレイ・ヴァシリエフ(左)、ヴィタリー・シピロフ(右)

旧ソ連圏の女性クライマー達のクライミングを表彰する、2019年のスチールエンジェル賞に輝いたのは、

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 プチジョラス(3650 m)北西壁のアヌークルート(M.ピオラ、V.スプルングリ 1990)とコンタミヌルート(A.コンタミヌ、P.ラブラン、M.ブロン、1955)の混成ルート (ED-6c~6a + A0 II )を登攀した、ナタリア・テプロヴァ、オルガ・ルカシェンコ(サンクトペテルブルク)のペアが選ばれました。

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 アックスのパーツで天使を模したスチール・エンジェル賞トロフィーを受け取るオルガ・ルカシェンコ。ちなみにトロフィーのプレゼンテーターはニルマル・プルジャがつとめました。

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ピオレドール・ロシア2019ノミネート

ロシア山岳連盟によって公開された、2019年ピオレドール・ロシアにノミネートされたクライミングは次の通りです。

 

1.キャゾ・リ(6186m) 西壁「ドラゴンの道」初登 ネパール・ヒマラヤ 2019年10月2~9日 6B

アンドレイ・ヴァシリエフ イワン・オシポフ、ドミトリー・リバルチェンコ、ヴィタリ・シピロ

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2.タングラタワー 5820m 初登 6B 2019年7月30日~8月2日

デニス・プロコフィエフ、マリーナ・ポポワ、ニコライ・マチュシン

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3.トライデント峰 初登頂 5780m 6A
マルケピッチ・コンスタンチン、デニス・シュシュコ、ヴァレリー・セミョーノフ

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4.ブロクピーク峰 初登頂 5239m 6A パミールアライ・トルキスタン山脈 2019年8月6日~10日
 アレクサンダー・パルフィヨノフ、ヴャチェスラフ・ティモフェフ、アレクセイ・スハレフ

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5.ジャヌー東壁(山頂には到達せず)

 セルゲイ・ニーロフ、ドミトリー・ゴロフチェンコ

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6.ガッシャブルムⅡ峰 新ルート「ハネムーン」開拓・単独登頂 2019年8月1日

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 補足します。

 タングラタワーとトライデント峰は、ロシアの若手クライマー達が集い、パキスタンのハーン渓谷の未踏の壁・峰を登る「ハーンプロジェクト」として入山、めぼしい壁を登ったものです。

 デニス・ウルブコは新婚の奥様と入山しましたが奥様がアプローチ途上で負傷したため、単独で登山を敢行したもの。

 今年のピオレドール・ロシアは、ゲストに8000m峰14座最速登頂で話題の人となったニルマル・プルジャを招いて12月7日に開催されました。受賞結果はまた後日。

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【悲報】ミック・ファウラーが

癌を克服し、人工肛門を付けた身体でヒマラヤの困難な峰に挑むミック・ファウラー。

今秋、ビクター・サンダースと共にインド・シッキムヒマラヤChombu(6362m)に2度目の遠征に赴きました。

経験深い二人ですら「今までにない」と言わしめる長い悪天続きに悩まされながらも、山頂260mと迫ります。

そこで二人が襲われた災難、それは

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食 中 毒 による下痢と吐き気でした。

Food poisoning stymies Mick Foler's and Vic Saunders's second Chombu attempt   by grough 2019.11.11

 

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2度目の遠征となるChombu北壁(中央左の壁)

 二人は9月末にイギリスを発ち現地に飛びますが、「モンスーンのような」悪天続き、さらにアプローチ途上の橋が流されるなどの障害が発生。それらを乗り越え、10月10日に北壁に取り付き、4日かけて6100m地点に到達。

 山頂までは容易な斜面を残すのみとなったところで、口にしたフリーズドライ食品が原因の食中毒と思われる下痢・嘔吐に襲われたとのこと。

幸い二人は無事にベースに帰還、2日間の休養で回復。既に二人はイギリスに帰国しました。

ミック・ファウラーいわく、

「天候も、コンデションも、許可証取得の雑事もひどいものでしたが、不思議なことに、私達はいつかまた再訪すると感じてます。シッキムにはとても特別な想いあり、チョンブにはとても思い入れがあります。

 遠征で最も重要な、そして勇気づけられたことは、オストメイト(訳者注 : 人工肛門を付けた人)であることは、まったく妨げにならないということです。

 前回の遠征は天候に登山活動を妨げられましたが、今回は高高度で十分な時間を過ごしました。いつものようにバーグハウスのギアは非常に優れた性能を発揮し、人工肛門を使用しても支障ないことがわかりました。ですからチョンブについての失望はさておき、ヴィックと私はもう将来のエキサイティングなプランを決めています。」

 オストメイトでありながら食中毒もなんのそのでヒマラヤの壁に向かうミック・ファウラー。次の計画が期待されます。

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ロベール・パラゴ逝去

フランスの名登山家、ロベール・パラゴ(Robert Paragot )氏が10月24日、癌のため亡くなりました。92歳の生涯でした。

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ロベール・パラゴ氏近影

日本では『ザイル仲間の二十年』という書籍でその存在を知った方も多いかと思います。

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 1927年フランス・パリ近郊のビュリオン出身、農家育ちで14歳から山を始め、フォンティーヌブローの岩場で技術を磨いてきました。

 1950~60年代にかけてリュシアン・ベラルディ二という素晴らしいパートナーを得てグラン・カピュサン東壁・北壁にルートを拓き、アコンカグア南壁登攀、さらにはムスターグ・タワー、ジャヌー登頂を果たします。

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ジャヌー山頂に立つロベール・パラゴ 

1971年には隊長としてマカルー西稜(ウエスト・ピラー)にトライ、ヤニック・セニュール、ベルナルド・ミュレを山頂に送り込みました。

その後はフランス山岳会会長などの役職をつとめ、2012年にはその高所登山におけるクライミングの成果からピオレドール生涯功労賞(ワルテル・ボナッティ賞)を受賞しました。

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グラン・カピュサン北壁を登攀中のロベール・パラゴ

 その逝去をフランス各紙がとりあげていますが、その多くが「パリジャン」パリを愛した山男として報じています。

 フランス・シャモニを拠点に活躍する仲間達とは異なり、パリという街を愛した彼は山岳ガイドの道を選ばす、自動車修理工を経てタイプライター職人として生計を立て、数々の岩壁を陥していきました。

 偉大な登山家の逝去に、哀悼の意を表します。

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リンクサール主峰、ついに陥つ

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 1979年、立正大学体育会山岳部登山隊が東面から挑み退却、以後も欧米の先鋭クライマーの挑戦をはねのけ40年間未踏を誇ったパキスタン・カラコルム山脈のリンクサール(Link sar)主峰7041mがついにアメリカ隊によって登られました。日時・ルート詳細は不明です。

 メンバーは今回が4度めのトライとなるスティーブ・スウェンソン(65)、グラハム・ジンマーマン(33)、クリス・ライト(36)、マーク・リッチー(61) という老若取り合わせた4名。

American Team Summits 7,041-Meter Link Sar  by ROCK AND ICE 2019.8.7.

2015年7月、イギリスのジョナサン・グリフィスらによって北西面から西峰は登頂されていました。

参考サイト:当ブログ カラコルムの未踏峰リンク・サール西峰陥つ

 

未確認ながら、スティーブ・スウェンソンらは今回も東面から登頂した模様。同氏はリンクサール峰の情報を得るため、わざわざ我々立正大学山岳部に問い合わせしてきており、1979年の登山隊報告書も読んでいます。4度めの挑戦にして登頂を果たしたアメリカ隊に賛辞を送ります。

 

 リンクサール西峰が登頂されたとき、お世話になっている山岳部の大先輩からいただいた言葉が、「青春が終わった感じ」。

 私が彼女もいない寂しい青春をささげた8000m峰など、今や登山素人の芸能人が登る山に成り果てましたが、「それも時代の変化」と、私は自分を誤魔化してきました。

 感情的な言葉など聞いたことがない大先輩の「青春が終わった・・・」という一言を目にしたとき、リンクサール峰は、先輩にとってはそういう山だったんだ、と少し衝撃をもってその言葉を受け止めていました。

 65歳にしてリンクサール峰に登頂したスティーブ・スウェンソン氏。

 面識はありませんし、岩と雪の高所登山を目指す情熱など私にはありませんが、自分のやりたいことを追求する執念を教えられた思いです。

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私は山で涙を流さない クシストフ・ビエリツキ

2019年ピオレドール、生涯功労賞「ワルテル・ボナッテ賞」にポーランドのクシストフ・ビエリツキ (Krzysztof Wielicki) が選ばれました。

これに先立ち、ポーランドの大手ポータルサイトOnetにDariusz Faron記者の 『私は死ななかった』と題する、クシストフ・ビエリツキの半生をふり返るインタビュー記事が掲載されました。

Nigdy nie szedłem po śmierć by onet 2019.3.15

以下引用開始

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ドンブローヴァ・グルニチャ、ポゴリア。

 数ヶ月もすれば、水着に日焼け止め、タオルを身にまとった観光客が都会から押し寄せるでしょう。しかし今は時間が止まったかのようです。湖は凍り、森の上には赤れんが造りの家々が並んでいます。その中に、広い庭園のある美しいモダンな家があります。

 クシストフ・ビエリツキが中に案内してくれます。

 中に入ると、印象的なリビングルームがあります。一方の棚には山岳文学(クシストフの著書)、もう一方にはミステリー小説。壁に掛けられた世界地図(おそらくマナスルかK2と思われる)。

 一見したところ、伝説のヒマラヤニストに招かれたとは想像も出来ないでしょう。最近、ロシアの登山家がここを訪れた際にもクシストフは聞かれました「ロープやピッケルはないんですか」ありません。ビエリツキがその登山の功績で得たメダルの類いを捜そうとしても無駄です。カタジナ(夫人)は彼に言いました:「ただ壁があるだけですよ。」そこで彼は屋根裏部屋に連れて行かれました。

 窓の外の美しい太陽と湖まで、ほんの数分。クシストフはライトブルーのジャケットを着用し、少し歩くことを勧めました。

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 80年代初頭、ニューヨークで射殺されたジョン・レノンのために世界中が哀悼の意を表していました。 チェスワフ・ミウォシュ(訳者注:共産主義体制下ポーランドの反体制派の詩人)がノーベル賞を受賞しました。ポーランドは灰色の時代でした。ラジオからはコラ(訳者注:女性ロックシンガーでポーランド・ロックのカリスマ的存在)の曲が流れていました。

 クシストフ・ビエリツキとレシェック・チヒが、エベレストの冬季登頂に成功しました。それは世界で初めての、冬の世界最高峰登頂でした。ビエリツキにとってそれは自由を意味していました。スポーツパスポートを使えば、鉄のカーテンを往来することができたのです。妻は遠征に出かける前に言いました「あなたにはチャンスがあるのよ、行ってらっしゃい」。翌年にはカラコルムで成功を収め、他の8000m座を目指すようになります。やがて彼は、支払うべき代償がいかに高いものか、気づかされることになります。

- 私は家族と別れました。幾度も私は数ヶ月間、家を空けていました。家族はそのような状況にどれだけ耐えられることでしょう。私には山がありましたが、家族を失いつつあることに気付きませんでした。家族よりも山が重要でした。

娘と人生の話題について触れるとき、彼女は時々尋ねます。

- お父さん、そのときどこにいたの?。

 現在、彼は人生を別の観点から見ています。彼には10歳の息子がおり、もう危険なことはしないと話しています。遠征に赴く前には、得るものと失うもの考えます。遠征隊に参加する機会はますます減りつつあります。

 ビエリツキ家の玄関には目印があります。郵便受けとゴールポストです。クシストフの息子はサッカーをしています。週4回の練習、土曜日の練習試合、日曜日の公式試合。息子はレヴァンドフスキ(訳者注:ポーランドのサッカー選手)のような有名選手になって高級車を運転すると父に語ります。彼はまた別の人生プランを持っています。もしサッカー選手にならなければ、ユーチューバーになりたがっています。クシストフは、何やら沢山の「いいね」を集める仲間たちという位しか、ユーチューバーのことがわかっていません。

- 私は息子が成長するのをみつめてきました。彼が世界にどのように興味を持っているか、どのように変化しているか・・・私にとって最も悲しいことは(おそらくそれは適切な表現ではありませんが)娘と息子の思春期のことです。以前、子供たちが何年生か尋ねられたとき、私は答えることができませんでした。私は言いました「5年生か、6年生かな」より長い遠征に出かけたとき、娘たちは私の首にぶら下がっていて大泣きしました。どうすればいいかわかりませんでした。私の目にも涙が流れました。結局、私はこの苦痛を軽減する方法を思いつきました。夜中に出発したんです。朝、子供たちは母親に尋ねました。

- お父さんはどこ?

- 遠征に行ったのよ。

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 ビエリツキは決して山で泣いたことがないと主張する。山岳協会会長と一緒にセリーナ・ククチカの家に行き、イエジ・ククチカの死を告げるとき、彼は涙を流しそうになりました。しかし彼らは何も言う必要はありませんでした。セリーナはすでに全てを知っていました。多くの涙が流れました。ククチカの息子マチェクは、学校から帰ってきて何が起こったのか知りました。彼はランドセルを床に投つけ、部屋に閉じこもりました。

 ビエリツキは別の話をします。ワンダ・ルトキエビッチの行方不明を伝えるため、アンジェイ・ザワダ達と母親を訪ねました。彼らは何も言えなかった。母親が彼らを見た時、言いました。

「わかってます、わかってますよ・・・ワンダは修道院にいるんです」

 脳が悲劇的な知らせから自衛するのでしょう。ワンダの母親はほんの一瞬で物語を作り上げ、彼女はワンダの生存を信じていたのです。

 登山家達の死に際して、私たちの誰かがドアをノックして、家族に知らせるのは伝統でした。時代は変わりました。現在では家族がテレビのニュース速報のテロップで悲劇を知る可能性があります。

(中略)

 ビエリツキは長い間、2013年の冬季ブロードピーク遠征でのマチェイ・ベルベカとトマシュ・コワルスキの死について語ることはありませんでした。彼によれば、当時はこんな状況でした。

アルトゥール・ハイゼルが隊を率いる予定でしたが、彼は予想外にもクシストフに電話してきました。

- 私はもう十分やったんだ、行ってくれませんか。

- 行くよ。

 ハイゼルは(アダム)ビエリツキ、マレク、コワルスキの3人の名前のカードを彼に渡しました。クシストフは一人欠けていると考えました。1988年、単独でマチェイ・ベルベカがいわゆる前衛峰に到達したことを思い出したのです。彼は電話しました。

- マチェイ、登頂するチャンスがあるぞ。行くかい?

- 私はもういいよ。別の所に行く予定があるんだ。

しかし3週間後、ベルベカは電話をかけ直した。

- 私は行くよ。

カラコルム。
 ビエリツキはあたかも悪い予感を打ち消すかのように、神経質にテントの周りを歩き続けました。何かがおかしい。4人が山頂に向かい、ビエリツキは彼らに早めに出発するように勧めたが、どういうわけか彼らはそうしなかった。

 アダムとマレクが山頂に立ち、降りる途中、彼らはベルベカとコワルスキと遭遇します。しかしビエリツキはそのことをまだ知りません。アタックチームは自分達で判断します。ビエリツキはアダムの事を懸念していました。なぜ何時間も無線に出ないのか?

最後に、ベルベカの声が無線で聞こえました。ビエリツキはすぐに尋ねます:

- アダムはどこだ?

- 彼らはすでに降りた。

- すぐそこから下りないと死ぬぞ!

 数時間後、他の2人は頂上から下降しました。トマシュ・コワルスキが無線に出ました。彼の声には恐れもパニックもない。彼は助けを求めることもない。まるでレストランに座っているかのように話します。

 クシストフはトマシュにすべてうまくいくだろうと言いますが、しかし、彼はそれを自分で信じていませんでした。彼はトマシュが決して戻らないことを知っていました。彼にはもう希望がありませんでした。

 トマシュはクシストフに、すべて上手くいっていると伝え、自分でそう信じています。しかし、彼の体は既に低体温状態にあり、脳は本来の機能を果たしていませんでした。

- トマシュ、どうしている?

- 何もしていません...私は進みます...

- マチェイを見かけたか?

- どこかで...私は思う...それは...

- 手袋はあるか?

- 一つ(沈黙)。もう一つは無くなった。

 遠征後、コワルスキの家族は遠征隊隊長としてクシストフ・ビエリツキが任務を果たさなかったとポーランド山岳協会に訴えました。

 ビエリツキは答えます。 - いかなる論争にも加わるつもりはない。彼らには起こったことを評価する権利があります。私は息子を失った両親の痛みを、想像することしかできません。

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ブロードピーク遠征から帰国後、報告会にて

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 最近、クシストフは2018年1月にナンガパルバットで亡くなったトマシュ・マツキェビッチの夫人であるアンナ・ソルスカのインタビューを読んだ。その内容は、救助活動前にk2登山隊からヘリを飛ばせたのではないかというもので、クシストフは申し訳なく思っています。しかしビエリツキがソルスカと会うならば、彼にはそのようなヘリは無かったと言うことになるでしょう。

 私たちのコミュニティでは、トマシュは疎遠な存在でした。私達と山岳協会でトレーニングを共にしました。様々なトレーニングの後、信じられないほど頑固で強く、私は彼の頑健さに感心しました。 ナンガパルバットは彼にとって「聖杯」だったのです。(訳者注:原文ではGraalem 、アーサー王伝説に出てくる財宝である聖杯を意味する) 私は彼の行動を見守っていましたが、彼とエリザベスがうまく高度順化できず山頂を目指したときに少し不安に思いました。

 奇跡的にパキスタン大使館協力の下、救助隊を組織することに成功した。陸軍は6000m以上の高度は飛べないと言ってきたので、トマシュを収容する方法はありませんでした。仕方なかったのです。

 アンナ・ソルスカ夫人は、私は隊員を危険にさらすことはできず、救助隊を送ることができなかったことを知らなければなりません。私は送りたくは無かった。私は誰か救助活動に行きたいか皆に尋ね、ほとんどの隊員が手を挙げた。そのとき初めて、私は誰かを任命する機会があることを知りました。

 キンスホーファールートの通称「鷹の巣」まで、エリザベートだけで下降するのは不可能です。これが実現できたのは、女性はよりよく順応し、より精神的な強さがあったからでしょう。

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 私は山の中でもう戻れないだろうという状況になったことはありません。1988年ローツェ遠征中には最も重要な経験をしました。整形外科に処方されたコルセットを着用して登っていましたが、低体温症になりかけ、時折、意識を失うかのような感覚を覚えました。下りる度に、ひどい激痛が走りました。

 同僚が双眼鏡で私を見ており、彼らは私がゆっくり歩いているのを見ました。私に向かって小さな黒い点が第2キャンプから出発したのが見えました。誰かが私の方へやって来るという事実は私に大きな力を与え、そしてついにテントにたどりつきました。

 私のキャリアの中で後悔は何もありません。私が繰り返さないことが一つ、あります。ナンガパルバット遠征です。私は一人で、山を完全に知っているわけではありませんでした。私を待つことになっていた遠征隊は登山を終えて帰国していました。私は前に進むべき「シンボル」を探していました。そして私は見つけました。 美しい太陽が輝いていたんです。

 6200 mで、私は大きな危機を迎えました。私の顎にできた潰瘍はとても痛く鎮痛剤を飲みました。それから私は昏睡状態に陥り、幻覚が始まりました。私は過去の自分を見ました、私の子供の頃からの情景が目の前で点滅しました。その後、今までの人生が幻覚として見え、24時間が経過しました。

 私がナンガ・パルバットから戻ってこなければ、皆に狂人呼ばわりされるでしょう。そして彼らは正しいでしょう。

 しかし、私は戻ってきました。
(訳者注:クシストフ・ビエリツキは1996年、8000m峰14座めとしてナンガパルバットに単独登頂を果たしている)

 おかしいと思われるでしょうが、サンダル履きでガッシャブルム近くのベースキャンプにたどり着いたことを覚えています。あなたがこのタイプの履物で氷河の上を行くことができるか、誰もが疑問に思うでしょうが、保証しますよ。可能です。とにかく、私たちはさまざまなことに賭けていました - 誰もが水なしで、食料なしで山頂に立てるか...私たちは様々な愚かな考えを持っていました。

 今日、人々は何も拒否することはできません。世界はこの点で絶望的です。誰もがいろいろな物を持っている必要があります、それはなぜかは、わかりません。私は何かで、ベルリンには人が必要とするよりも7倍以上の商品があると読んだことがあります。

私は息子との会話を覚えています。息子に言いました:

- 私が10歳の頃、家には電気が無かったんだよ。

- テレビをどうやって視たの?

- テレビなんか無かったよ。

- どうやって生きてたの?

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1950年代に撮影された、ビエリツキ一家


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 先のK2冬季遠征の間、私は世界が変わったことを感じました。私は山で数千枚の写真を撮影しました。その中で、1枚も「自撮り」を撮っていません。私の時代だったら、誰かが「自撮り」を始めたら、同僚は脳に酸素を取り込まなければと思うでしょう。 (「おい、大丈夫か?」)。

最近私はラジオでジャーナリストのWaglewski氏と対談しました。彼は尋ねました

- あなたは本当に携帯電話を持っていないんですか?

- はい。私にとってそれが何だというんでしょう。 グジェゴシュ・マルコフスキ(Grzegorz Markowski 訳者注:ポーランドの著名歌手)も持っていないと聞きました。そのために私たちは会うことができません、約束する方法がないからです。

 私たちがソーシャルメディアですることといえば、ナルシズムに関連したものです。我々は自分の人生を自画自賛します。幸せになるために、料理の写真や海岸にいることや、女の子と別れたことを知る必要はありません。

 しかし、もちろん文明の発達に反対するわけではありません。登山隊の隊員がインスタグラムに写真を、ある者は写真をFacebookに、ある者はライブ中継していても、私はまったく気にしません。それは私の世界ではないということです。

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 メディアはK2登山隊への期待を膨らませました。 「我々だけがそこに立ちいることができる」、「国家登山隊」、「ポーランド人のためのK2」。選ばれた国は山に勝利する。すべてが国民的なものです。まもなく、窓の外の茂みや家の前の塀まで国民的なものになるでしょう。

 私はいまだにデニス・ウルブコと友情を保っています。私に知らせずに彼は一人で山頂を目指しました。私は緊張を和らげ、デニスを守ろうとしましたが、不信感がありました。私は彼に言いました。

- 聞いて下さい、あなたが望むなら、何でもインタビューの中で話しなさい。しかし遠征の後で、今ではない。それは登山隊に悪い影響を与えるんだ。

 しかし彼は聞かず、ソーシャルメディアで私たちの活動を批判しました。子供達も本当に怒っていました。質問がありました。なぜ彼は自分自身でポーランドの市民権を持ちながら「ポーランド人」を批判するのですか? 私はこんな声を聞きました。

- 私がフランスの登山隊のために参加したならば、フランスについてそのようなことを書くことはないだろう。

 次回のK2遠征を控えて、組織上の問題は資金調達であると言われています。そうではありません。私たちは容易に資金を調達できるでしょう。最大の問題は、私たちが十分に強力なポーランド人を集められるかどうかです。いくつもの課題があります。

 1つの選択肢はチームを分けることです。 昨年、私は登山隊を2つのグループに分けることは倫理的ではないと思っていました。今は、登山隊を分割することが唯一の希望と考えています。

 私がまた隊長になるかどうかはわかりません。申し出があれば、私はおそらく拒否しないでしょう。けれど・・・知るよしもありません、k2を登るには弱すぎる登山隊を、私は率いたくはありません。

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 ビエリツキは長年の経験から、登山隊を管理するのは簡単だと主張しています。誰もが彼の意見に賛同しているわけではありません。

 ニューズウィーク誌の記事で、クライマーの一人は匿名で語っています。クシストフはグジェゴシ・ラトー(Grzegorz Lato 訳者注:ポーランドのサッカー選手出身の政治家)に似ています。素晴らしい選手であり、PZPN(ポーランドサッカー協会)のボスです。あまりにも自分の願望にフォーカスを当てすぎている、と。

 ビエリツキはこの記事について大声で笑った。彼によれば、それは昔のことだといいます。隊長として登山隊を率い始めたとき、彼自身の登山タクティクスを実行しました。アンナプルナに10人で遠征した際には、まず第一に彼が山頂に立たなければなりませんでした。他の9人は「それから」でした。

 しかしそれは変化しました。彼が語るように、隊長は隊員以上に精神的負担も大きいものです。彼はすでに自分やるべきことに専念しています。

 しばらく前のこと、長く面白い幸せな人生を送る方法を思いつきましたが、もう先は長くありません。幾つかのアイデアは実行中です。年をとっても、彼は湖の岸辺で長い時間を過ごすつもりはありません。古い探検を思い出すことも、古い写真帳を閲覧することもしません。本当の想いは窓の外にあると常に主張しているので、テレビの前で冬の夜を過ごすことはないでしょう。十分な体力がある限り、山に行くでしょう。彼にとっては、それが幸せなのです。

 妻はクシストフと一緒に映画館に行くのが難しいと不平を言います。彼のせいではありません。ビエリツキは微笑みながら言います。

- 眠くならない映画を監督する奴がいない。それだけです。

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以上引用おわり

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チェコ隊、チャムラン北西壁新ルートから登頂

優秀なソロクライマーが相次いで亡くなり、日本人には鬼門ともいえるネパール・ヒマラヤのチャムラン(7319m)。

5月20日、チェコを代表するアルパインクライマー、マレク・ホレセク(Marek Holecek)とズデニェク・ハチェク(Zdeněk Háček)のペアがチャムラン峰北西壁、新ルートからの登頂に成功しました。

Mara s Hackem na Chamlangu: Vylezeno!  by  horyinfo.cz 2019.5.20

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チャムラン峰北西壁、赤線が今回チェコ隊が登攀したライン

 「さあ行くぞ!待ち続けている日は終わった」そうfacebookにコメントを書き、マレク・ホレセクらは5月16日、BCを出発。

5日間かけて北西壁を登攀、5月21日現在、南稜を下降中。

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登攀2日目の2人 マレク・ホレセク(左)、ズデニェク・ハチェク(右)

成功を喜ぶと共に、無事の帰還を祈ります。

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