【訃報】ピット・シューベルト氏 逝去

 名著『生と死の分岐点』の著者であり、23年にわたりDAV(ドイツ山岳協会)会長をつとめ、「安全の帝王」の異名を持つピット・シューベルト氏が2024年3月5日に亡くなりました。88歳でした。死因は明らかにされておりません。

Nachruf: Pit Schubert im Alter von 88 Jahren verstorben by ALPIN.de 20240305

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ピット・シューベルト氏 近影

ピット・シューベルト(クラウス・ピーター・シューベルト)は1935年に現ポーランド領のヴロツワフ出身。
1960年代から先鋭クライマーとして名を馳せ、六大北壁をはじめヨーロッパアルプスのほぼすべての北壁を登攀しています。
30回以上の初登攀を記録、1976年にはアンナプルナ4峰南壁を初登して山頂に立ちました。

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1976年、アンナプルナ4峰南壁初登を果たし、凍傷によりミュンヘン空港で背負われて帰国するピット・シューベルト氏。「安全の帝王」と呼ばれたクライマーも、ヒマラヤの自然の猛威に足指全てを失いました。もちろん、足指を失った後も専用のクライミングシューズとアイゼンを開発、クライミングにカムバックしました。

1960年代当時、まだ普及していなかったヘルメットをクライミングで積極的に使用、おかげで九死に一生を得るなどの自身の経験だけでなく、取得した工学学位の知識、航空宇宙産業の技術を登山・クライミングに流用、用具の開発や安全啓蒙に力を注ぎました。

1978年~2000年にわたりDAV(ドイツ山岳協会)会長、1996年~2004年までUIAA安全委員会委員長を務め、2008年以降はUIAA名誉会員となります。
登山用品の安全規格の成立とクライミングボルトの安全性に特に注力、日本では『生と死の分岐点』(原題 Sicherheit und Risiko in Fels und Eis)が知られていますが、ヨーロッパでは多数の著書を出版し、安全啓蒙に努めたことで知られています。

偉大な登山の先達の逝去に、哀悼の意を表します。

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さよなら、リトル・カリム

2022年4月4日、パキスタン・ラワルピンディでパキスタン人クライマーが肝臓ガンのために亡くなった。

モハマド・カリム(1950 or 1951~2022)、通称「リトル・カリム」。

その痛快かつ冒険にあふれた人生を綴った良記事を、パキスタンの日刊紙DAWNから引用します。

Adventure: The incredible tales of Little Karim  by DAWN 2014.6.12
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冒険 リトル・カリムの驚くべき物語

オバイド・ウル・レーマン・アバシ執筆記事 2014年6月22日

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リトル・カリムと筆者

 1978年、イギリスの著名登山家クリス・ボニントンは、K2登頂を目指す登山隊のポーター約200人を選抜していた。スカルド出身のモハマド・カリムという、背が低く笑顔の素敵な男性が、ボニントンに何度も声をかけた。しかし、ボニントンは何度もこう言った。「君は小さすぎるから、メンバーにはなれない」。
 
 カリムは気落ちしながらも、どうしても選ばれたい。ボニントンの周囲に忍び寄り、素早く大男の足の間に頭を入れ、身長2mのイギリス人を肩に担ぎ、広いグラウンドを走りまわったのである。集まったポーターたちは大笑いしたが、ボニントンはこのパフォーマンスに感心した。そしてカリムは念願かない、K2遠征隊に参加することになったのである。

 これはスカルドの高所ポーター、モハマド・カリム(通称リトル・カリム)の物語である。65歳のカリムは、カラコルムの山々を登る著名な登山家たちをサポートしながらも、どこかつかみどころがなく、謙虚な性格で、人生が与えてくれた冒険の機会に感謝している。

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リトル・カリム

 何度も会う約束をしたのだが、いつもすれ違ってしまい、惜しいところで逃してしまう。数週間前、共通の友人からリトル・カリムがスカルドにいて、彼の村フーシェに向かうところだと知らされた。幸いにも私たちは彼に連絡を取ることができ、ランチに招待することができた。30分後、リトル・カリムとその息子は、私たちのテーブルにやってきた。

 カラコルム山脈のクレバスには、勇気、美徳、損失、絶望などの物語が鳴り響いている。そのことを誰よりもよく知っている男がいる。
 なぜ、彼は他のカリムではなく「リトル」カリムなのですか、と私は率直に尋ねた。

 リトル・カリムは独特の高笑いを返した。

「1979年、フランス隊がK2に挑戦したときのことです。カリムと呼ばれるたびに3人が反応しました。同名のカリムが3人いたんです」と笑う。「この問題を解決するため、隊長は私たちにビッグ(大)、ミディアム(中)、リトル(小)と名付けたんです。」

 リトル・カリムは、スカルドの緑豊かな谷間にあるフーシェという人里離れた村で生まれた。村の周りには雄大なカラコルム山脈がそびえ、彼は幼い頃からその魔力に魅せられていた。

「バルチスタンでは家族毎に牧草地が決められていて、それを守り、世話しなければなりません。私の家族はゴンドゴロ地区の高い場所を割り当てられていました。両親はこの谷の羊飼いで、ゴンドゴロの高い牧草地に初めて行ったのは、まだ6歳でした」

 1960年代半ばに育ったカリムは、フーシェを通過する登山家はいなかったと記憶している。幼いカリムは、村の友人たちと丘に登ったり、村の周りを長い間ハイキングしたりする遊びをしていたが、親には不興を買った。

「親に怒られながらね。でもこの遊びは私に恍惚感と自由を与えてくれた。この遊びが大好きで、そこから離れることができなかった。当時から、偉大なガイドと高所ポーターになりたいと思っていました」

 ある日のこと、村に続く、いつもは人気のない登山道に、新たな訪問者が現れた。

「今でこそポピュラーなゴンドゴロ峠を越えるルートも、当時は知られていませんでした。ある夏、私たちが遊んでいると、登山者の一団が氷河を下りてきました。向こうから下りてくる人を見たことがなかったので、興奮して駆け寄り、温かく迎えました」

「バルティ語以外の言葉は知りません。でも小さな男の子が駆け寄り歓迎する姿に登山者たちは好感を持ったようです。5歳児に見えたのか、キャンディやビスケットを一握りずつくれた。それが、登山家という特殊なアスリートとの最初の出会いでした」。

 カリムが実際に登山隊の一員となるには、10年以上の歳月が必要だった。1976年、カリムは友人と共に、多くの登山隊がポーターを雇うスカルドへ向かった。

「10代だったけど、まだ10歳くらいに見えたよ」と、伝統的なお茶を飲みながらリトル・カリムは言う。「でも、誰も相手にしてくれませんでした。皆、私を "小さな男の子 "だと言って拒絶したんです。25キロの荷物を運べるかどうか、信用されなかったんです」と笑いながら言う。

「どの登山隊にも選ばれず、落ち込みました。諦めかけていた時、スイス隊から、使える人材がいないとのことで引き抜かれましたが、重い荷物を運べるかどうかは疑っていたようです」。

 高所ポーターに選ばれたことと、生まれて初めてお金を稼ぐことができたことに興奮したカリムは、この登山が自分にとってキャリアアップにつながるとは予想だにしなかった。

 スカルドのシガー谷にあるユノまでトラクターで登り、そこから先は徒歩で移動した。
「2日目、チョンゴ村の近くで一休みして、川を渡って向こう岸に行くことになりました。川を渡るには、その川にかかる木の橋を渡るしかないと思ったんです」。

「橋にまたがり、手を引いて渡り、他の人を待ちました。みんな私のサインを理解し、指示通りに動いてくれました。金髪の若い女性が橋を渡ろうとして川に落ちました」

 その頃には、レストランの従業員も加わっていた。リトル・カリムの武勇伝と美徳の物語は、私たちを魅了した。ウェイターが椅子を引いてくれた。皆、この語り部に注目している。

「若い女性が必死で助けを求めて泣いていました。溺れるというような叫び声と、耳をつんざくような川の音が、なんとも恐ろしい。みんな唖然としていましたが、私はこのような災難に遭うことは覚悟していました。一刻の猶予も許されず、飛び込んで女性を引きずり出しました。驚いたことに、スイス隊は誰も彼女を助けようとはしなかったんです」とカリムは続ける。

「その夜、リエゾンオフィサーが私を褒めて、夕食に招待してくれたんです。特に私が助けた若い女性は、私に抱きつき、命を救ってくれたことに感謝してくれました。それで翌日の私の荷物は他のポーターに配られ、私は助けた女性の荷物だけを持つことになったんです。この譲歩と彼らの愛情を、私はキャラバン中ずっと楽しんでいました」。

彼の英雄的な行動により、カリムは初めて登山隊と一緒に7000m級の山頂に登ることができた。

 しかし、それ以後の挑戦は本人も認めるように、身長の高さもあり、大変なものだった。多くの登山隊に認められたものの、遠征隊は当初、カリムを同行させることをためらい、代わりに背が高く体格の良い高所ポーターを常に好んだ。しかし、その度にリトル・カリムは、反対意見が間違っていることを証明してきた。

「ボニントンさんとは頂上まで行けず、6600m地点で断念せざるを得ませんでした。でもイギリス人と登ったことは幸運の兆しだったようです。その後すぐに成功への扉がすべて開かれました」と、リトル・カリムはカップを手に取り、お茶をもう一口飲んだ。

特にフランス人は、モハマッド・カリム・バルティと素晴らしい関係を築いた。

 1985年、フランスのドキュメンタリー映画作家ローラン・シュヴァリエが「リトル・カリム」という映画を監督し、フランスはじめヨーロッパ各地で多くの賞賛を得た。監督は1997年に2度目、今度は「Mr.Karim」という映画でカリムを撮影し、さらに3度にわたり同じテーマの映画でカリムを撮影した。リトル・カリムはその後、フランスの映画賞の審査委員長に選ばれたが、これはパキスタン、特にギルギット・バルチスタンにとって名誉なことである。

 同じく1985年、フランス人のジャン・マルク・ボアバンの登山隊が、ガッシャブルム2峰の山頂からボアバンのハンググライダー飛行のために到着していた。リトル・カリムは、25kgのグライダーを標高8,035メートルの頂上まで運ぶために選ばれた。「重いグライダーを肩に担いでいたら、フランス人のカメラマンが面白半分に私を撮影し始めたんです。帰国後にテレビ放映したところ、フランス中の人が私の技量に驚きました」と、彼は誇らしげに語った。

 この時、リトル・カリムはヨーロッパの登山界ではかなり有名になっていたが、ボアバン隊での成功で一躍有名になった。「フランス人は私をスーパーマンとして扱い始め、大きな尊敬と名誉を与えてくれました。」

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高所で行動中のリトル・カリム

 もちろん、リトル・カリムがスーパーマンであるという評判は、理由がないわけではない。

 ある時、ブロードピークの第3キャンプで、若い女性クライマーが体調を崩した。カリムはベースキャンプに滞在中で、ベースから彼女のために薬を持って出動した。3時間弱で登頂し、彼女の命を救った。

 そして1986年、ブロードピークから下山中、スペイン人クライマーがギブアップしたときのことだ。7700m地点で体力が切れて座り込んでしまい「もう歩けない」と仲間に告げたのだ。涙を流しながらリトル・カリムに「自分を置いていってくれ、先に行ってくれ」と懇願した。

「皆はそのスペイン人を置いて、700m下った。彼も死を覚悟していた。でもその時、私は殺人を犯していると思ったのです。彼はその高さでは生きていけないのです」とリトル・カリムは振り返る。

 リトル・カリムは、スペイン人を救出するために戻った。カリムは、ハーネスとウェアで簡易ソリを作り、スペイン人クライマーを第3キャンプまで運んだ。倒れたクライマーはテントで一晩休んで、たっぷりと食事をとり、元の世界に戻っていった。「完全に回復したとき、そのスペイン人は私に抱きつき、涙が止まりませんでした。その時のことは今でも覚えていますよ」。

 リトル・カリムも、登山中の事故で一緒に登った多くの人が亡くなっているが、彼は幸運にも生きている。クレバスに落ちたとき、3度ほど死と隣り合わせになった。最も深いところでは35mまで落ちたが、そのたびに無事に引き上げられた。眼下には暗く恐ろしい世界が広がっており、そこから未知の冥界から悪魔がうなり声を上げているような、不気味な氷河の音が聞こえてきたという。

 60代前半のリトル・カリムは、故郷のフーシェ村で小さな食料品店を営んでいる。1999年から2000年にかけて黄疸が出たため、7000m以上の山への登山は制限された。「戻ってから医師から7000m以上の高所には行かないようにと言われました。でも、それはカラコルムを登れないという意味ではなく、特定の高度以上には行けないという意味だったのです」

 リトル・カリムは、地元の子供たちのために学校を建て、教育を施し、登山家になるための訓練を行うなど、村のために少しでも役に立とうとした。しかし、彼のアイデアは地域社会からはほとんど支持されなかった。「私は今でも、自分の住む地域を発展させたいという夢を持ち続けています。道路を整備し、学校と青少年のための訓練学校をつくり、地元の人たちに働く機会を与えるべきだ」と彼は主張する。

 一方、スカルドゥ周辺の旅行会社は、観光客や登山家を誘致するために、リトル・カリムの名前や写真をウェブサイトに使っている。しかし、リトル・カリムはそのことを何も知らず、彼の名前や写真の使用料も受け取っていない。

 彼は、山の空気を吸うことだけを考えているのだ。

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 リトル・カリムと日本隊との接点は、なんといっても1981年の早稲田大学隊によるK2西稜初登、大谷映芳氏、ナジール・サビール氏の登頂を支援したことが挙げられるでしょう。

 1980年代、日本の「先鋭」と呼ばれるクライマー達が「8000m峰では他人を助けてはならないし自分が窮地に陥っても助ける必要はない」と啖呵を切っていましたし、私もそう教わってきました。

 その一方、リトル・カリムが身をもって示した「ヒューマニズム」。

 記事の執筆者Obaid Ur Rehman Abbasi氏が締めくくる、『彼は、山の空気を吸うことだけを考えているのだ。』

 メディアに売り込むのが巧い「アルピニスト」がもてはやされ、パキスタン人クライマーは山岳メディアにも一切取り上げられない風潮の中で、1人の「人生の登山家」が世を去ったといえましょう。

 偉大な先達の死に哀悼の意を表します。

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ピオレドールロシア、ライブ中継と式典を中止【2022年2月27日訂正】

【記事訂正 当初「選考と式典中止」と記事を書きましたが、実際に中止されたのは「Youtubeによるライブ中継と式典」であり、ピオレドールおよびスチールエンジェル賞の授与は予定どおりモスクワ市内で行われました。ここに訂正いたします。山岳ジャーナリストの森山憲一様のツイッターならびに多くの皆様のリツィートで不正確な情報が流れてしまい、申し訳ございません】

 2020~2021年シーズンの旧ソ連圏クライマーによる素晴らしいクライミングに贈られるアワード『ピオレドール・ロシア』、旧ソ連圏の女性パーティによるクライミングに贈られる『スチール・エンジェル』のライブ中継と式典(主催・ロシア山岳連盟)が開催予定の2月26日当日になって中止となりました。

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既にウクライナとの緊張が高まっていた2月19日にはロシア山岳連盟ウェブサイトにて

『この困難な瞬間に、私たちはFAR(ロシア山岳連盟)の集会をキャンセルしないことに決めました。悲劇は承知していますが、2年間のブランクは長すぎ、アスリート達の活躍を無視することはできませんでした。山は真の友情の場であり、政治に無関係の場であることにご留意ください。』

とのアナウンスが流れ、youtubeではライブ配信の用意がなされ、2月26日を迎えた当日、開催中止となる異例の事態となりました。

理由はもちろん、ロシアのウクライナ侵攻に関係します。

ロシア山岳連盟スタッフで広報担当、自身もスチールエンジェル受賞のクライマーであり、本イベントマネージャーのイリーナ・モロゾワがロシアのクライミングサイトにて、心情を吐露しています。全文を紹介します。

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山 - フリーゾーン

イリーナ・モロゾワ(Irina Morozowa) 2022年2月25日

 まず初めに、以下に述べる意見は、あくまでも自由人でありクライマーである私個人の意見であり、他の誰の意見とも一切関係はなく、いかなる組織、ビジネスパートナー、友人、さらには家族の意見も反映していないことに注意されたい。

Freezone

 自由人である私は、外から押し付けられた意見、見解、行動、特に政治的な性質のものは好みません。

 以前、私が登山を始めた80年代は、政治とは無縁の環境でした。かつて人々は、社会体制の重圧から逃れるために山へ行きました。選挙に参加する代わりに、クズネツチノエの岩場に行くわけで、選挙のために丸2日の休日と訓練をサボるなどというのは、誰も思いつきませんでした。

 何が変わったのでしょうか?登山が変わったか?世界が変わったのか?人なのか山なのか?どうして政治が私たちの山頂の上に位置しているのでしょうか。

 本日、FARイブニング(訳者注:ロシア山岳連盟の集会)、ピオレドールロシア、スチールエンジェルのセレモニーの生中継の中止が決定しました。この決定は、FAR役員と今夜のイベント主催者に対する世論の圧力によるものです。

 私は自由人として、そのような圧力に反対します。現在、私はモスクワから遠く離れた場所に住んでいますが、パンデミックや世界革命のニュースを押し付けられるだけでなく、素晴らしいルートを辿って表彰されるアスリートの表情を見たいと思っています。

 政治など汚らわしいものは、山奥には存在しない。

 人間だけでなく、鳥や生き物の命にさえ畏敬の念を抱くのです。だから、ウクライナや地球の裏側の国のように、同じ政治のために平和な人々が苦しんでいるのを見ると、悲しくなるのです。

 しかし、スポーツ選手の表彰式や中継を中止するような行動で、本当に事態が解決すると思っているのでしょうか?そんなことをして、本当に敵対関係がなくなるのでしょうか?

 それとも、今は誰かのスポーツの功績を喜ぶべき時ではないとお考えですか? 何百万人もの人々が土曜日の夜にバーで酔っぱらい、ディスコでパーティーをしていないと信じるのは、本気でナイーブなのでしょうか?

 私は、政治に、戦争に、意識操作に、そしてスポーツを通して、山を通して、私たちのクライミングと成果を通して、侵略にノーと言うことを強く勧めます!

 そして、ロシアやヨーロッパなど世界各国に住む私の友人が、自分の意見を持つ権利を認めず、抗議の意味を込めて私との友情を断とうとするならば、彼らはそもそも私の友人ではなかったし、意味のない絆を切るべき時なのです。友人とは、たとえ考え方が違っていても、相手の主張を受け入れられなくても、自分の意見を持つ権利を尊重する人たちのことです。

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※太文字強調は原文のまま

なお、ロシア山岳連盟のピオレドールロシア特設ページのコメント欄には、アレクサンドル・グコフの名義で『主催者は今の状況で今夜を過ごすつもりは無いでしょうね?』とコメントを寄せています。本人であるとすれば、タムセルク南西壁ダイレクトで第23回ピオレドール受賞のアレクサンドル・グコフのコメントと思われます。

 昨年ロシアメディアで話題になりましたが、旧ソ連登山史を語る上で欠かせない登山家、エフゲニー・アバラコフの死因について報道されました。従来、日本など諸外国では「アバラコフは住まいのガス漏れによる中毒死で亡くなった」とされていましたが、ロシアの情報公開によれば、スターリンによる粛清(暗殺)の可能性が高い、という報道でした。

 「21世紀の今、戦争なのか」とSNSで語る人は多いのですが、私達がウクライナに見る光景は、プーチンがスターリンに成り代わっただけの世界なのかもしれません。

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ヒマラヤ小鉢

1月2日、カミさん実家にて正月の挨拶。

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 私の母はもう作らなくなってしまったが、義母はまだ達者なので料理も現役バリバリ。山形の郷土料理「ひょう干し」。雑草といわれるスベリヒユを干して煮付けた料理である。個人的に、スベリヒユの料理は味からしてこれが一番だと思う。

 義母から「大事にとってあるよ」と見せてもらったのが、

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義母いわく「ヒマラヤの小鉢」。

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小鉢の底には、私がチョモランマ北稜のイエローバンドで採取した砂質石灰岩が埋め込まれている。

 

カミさんと結婚した時、出席者に渡す引き出物として、「ヒマラヤの石で作った小鉢」を思いついた。

もともとは、故・植村直己氏が五大陸最高峰の山頂の石を砕いて「ぐい呑み」を作り、お世話になった方に配った、というエピソードからヒントを得たものだ。

イエローバンドの石灰岩を携えて製作をお願いしたのは、地元・山形市平清水地区の 七右エ門窯

御主人に「石を砕いて混ぜた粘土で小鉢を作ってほしいんですが」とお願いしたところ、「それじゃ、せっかくの石が入っているかわかんないでしょ、埋め込む形にしたら?」と逆提案を受けた。

そこで石を埋め込む形で話が進みかけたのだが、

「石、何個か分けてくれる?試験焼きしたいんだけど。」

「試験焼き、ですか?」

「その石が焼き窯の高熱に耐えられるか、実際に焼いてみないとわかんないのよ。熱で溶ける場合もあるのよ。」

早速に試験焼きを依頼。ドキドキする日数を過ごし、イエローバンドの石灰岩は七右エ門窯の高熱に耐えてくれた。御主人から「石、大丈夫だったよ」とOKが出てから、製作を依頼。

小鉢のうわぐすりは何色か選べたのだが、即答で群青色を指定した。標高8000mで見た、思わずサングラスを外して肉眼で見た濃い青空をイメージしてお願いしたのでした。

 

小鉢を作ったのは覚えているけど、現物はしまい込んで忘れてました。

正月、義母のおかげで久しぶりに現物を手にする。

「高所遠足」大いに結構。遠足には思い出が必要です。

今はサミットプッシュの日に何百人もの登山者がエベレスト/チョモランマ山頂に集中する時代。倫理観に鋭い方からは石を持ち帰ってくるなんて、と怒られそうだ。 1シーズン、1ルートに登山隊は1隊、なんてネパール政府のレギュレーションがあった時代は、もう昔話である。

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ピオレドール・ロシア2021ノミネート

ロシア登山連盟(RAF)が選定する、ピオレドール・ロシア。

世界的なコロナ禍にも関わらず、その広大な領土内に素晴らしい山域を有するだけあって、西側諸国の山岳メディアはなぜか話題にも触れませんがロシアおよび旧ソ連領の山行だけでも素晴らしいクライミングが展開されています。

今年2021年のピオレドール・ロシアにノミネートされたクライミングは次の通りです。

1. アク・スウ北壁Tukhvatullinルート第2登・冬季初登

アレクサンドル・パルフェノフ、ラトミール・ムハメジャーノフ、ビャチェスラフ・ティモフェフ、アレクセイ・シュカレフ、ニコライ・ステパノフ

Pr1

2. 4818峰 無名ルート初登 登攀距離1020m、VII +(UIAA)、6b + / 6c(fr)、A3(50m)、ED / ED +

マリーナ・ポポワ、マリア・デュピナ、ナジェズダ・オレネバ 

Pr2

3. スヴァローグ峰 新ルート初登 6B 8月11日~14日

アレクサンドル・パルフェノフ、ラトミール・ムハメジャーノフ、ビャチェスラフ・ティモフェフ、アレクセイ・シュカレフ、ニコライ・ステパノフ

Pr3

4. 軍事測量団峰(邦訳によっては「軍事地形学者峰」) 「即興曲」ルート初登 5B  8月10日~8月29日

セルゲイ・ニロフ、ドミトリー・ゴロフチェンコ、ドミトリー・グリゴリエフ

Pr4

5. コスモス峰北壁 初登 9月25日~30日

アレクサンドル・グコフ、ビクトル・コヴァル

Pr5

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チェコ隊、アマダブラム西壁を直登

先日掲載したチェコのズデニク・ハクによるアマダブラム西壁直登。

ズデニク・ハク、ヤクブ・カーシャの2名による登攀は成功、無事BCに下山しました。

チェコのクライミングサイトでは当初「初登攀」と表記されていましたが、アメリカ隊ダイレクトルートの再登と判明した模様です。

Americká cesta na Ama Dablam by Horyinfo.cz 2021.11.12

Amaczech

ズデニク・ハクらペアによる今回の登攀ライン

アマダブラム西壁ルートをふりかえりますと、

Westfacedefinitve

画像 : uk.ask.com

1.ノーマルルート1961
2.日本隊1980
3.日本隊1985
4.Smid(チェコ)1986;
5.アメリカンダイレクト1990
6.山野井1992
7.イギリス隊2001
8.フリーチベット2065(イタリア)2008

と各ルートが拓かれています。

とはいえ、今回のチェコ人ペアの登攀はコロナ禍のネパールにあって意欲的なクライミングと評されていいのではないでしょうか。

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チェコのズデニク・ハク、アマダブラム西壁ディレティシマ目指す

チャムラン北西壁を陥したチェコのズデニク・ハクが、アマ・ダブラム西壁ディレティシマを目指す模様です。

Pokus o prvovýstup na Ama Dablam by Horyinfo 2021.11.9

 

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左の点線がイタリア隊が2008年に拓いた「Free Tibet 2065」ルート、赤線が現在ズデニク・ハクがトライ中のライン

ズデニク・ハクは今秋、6人のメンバーと共にノーマルルートからアマ・ダブラムに登頂を済ませ、それから許可取得のための6000ドルを「かき集め」、今回のトライにこぎつけた模様。新ルートを目指すメンバーに関しては不明です。

 先日のスロベニア隊によるTsoboje峰(6663m)新ルートといい、現在のギアと技術をもって、再び「ディレティシマ」志向の再来でしょうか。ズデニク・ハクの成果が期待されます。

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マレク・ホレチェクらバルンツェ北西壁を登攀

今シーズン・プレモンスーンのヒマラヤでは、エベレスト、ダウラギリのBCでコロナ禍が発生している現実が一般メディアに取沙汰されました。

その一方で、チェコのベテラン、マレク・ホレチェク(Marek Holeček)とラドスラフ・グロー(Radoslav Groh)ペアがネパールヒマラヤ・バルンツェ(7129m)北西壁登攀に成功しました。
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赤いラインが今回チェコ・ペアにより開拓された「ヘブンリー・トラップ」ルート、黄色いラインが1995年のロシア隊による登攀ライン

マレク・ホレチェクらは5月21日に壁に取り付き、5月24日夜には頂上まで300m地点に迫りビバーク、5月25日4時、山頂に到達しました。

しかし、本当の冒険はそれからでした。

悪天候が下山を阻み、28日まで標高7000m地点で足止めを喰らい、食料も尽き、チェコメディアはじめ各国山岳メディアが懸念しておりましたが、29日、風が止んだ隙をついて一気に1000m以上を下降、30日早朝、ヘリでカトマンズの病院に直行・下山と生還を果たしました。

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カトマンズの病院で診察を終え、「痩せました」とポーズをとる二人。この登攀で体重10kg落ちたとのこと。

コロナ禍のためネパールの航空便が混乱しているため、6月5日現在、カトマンズでフライト待ちの二人。

マレク・ホレチェクいわく、パキスタンのマッシャブルムも狙っていたようですがコロナ禍で取りやめ、ドキュメンタリー映像製作や書籍執筆のため、「今夏はどこにも出かけません」とのことです。

 ヒマラヤ研究者の意見ではバルンツェには正確には北西壁は存在せず(隣接したバルンツェ北峰に北西壁がある)、西壁が正しいとのこと。

 今回マレク・ホレチェクらが登攀した壁は当然他のクライマーも目を付けていたわけでして、このバルンツェ「西壁」に最初にトライしたのは1995年、セルゲイ・エフィモフ率いる強力なメンバー総勢10名から成るロシア隊が極地法でルートを伸ばし、7日間かけて3名が西壁初登に成功しています。ちなみにロシア隊はマカルー西壁登攀へのステップとしてバルンツェ西壁を登攀したと記録されています。

 今回はアルパインスタイル・ワンプッシュによる西壁成功、そして悪天からの生還と素晴らしい登攀を展開したチェコ・ペアに賛辞を捧げたいと思います。

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クシストフ・ビエリツキ、クルティカに反論する

ヴォイティク・クルティカの「ポーランド登山界に対する批判」に端を発する一連の騒動ですが、Wyborcza紙においてクシストフ・ビエリツキの反論記事が掲載されました。

Wielicki odpowiada Kurtyce: Ryzyko jest wpisane w alpinizm. Każdy z nas przyjmuje do wiadomości, że może zginąć by Wyborcza 2021.4.30

(ビエリツキがクルティカに反論 リスクは登山固有のもの。私達一人一人が死のリスクを受け入れている)

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現在のクシストフ・ビエリツキ (Photo by Agencja Gazeta)

4月30日付のWyborcza紙において、クシストフ・ビエリツキの反論インタビューが掲載されました。
内容を要約すると、次の通りです。

「私は怒りを感じている。クルティカのインタビューを容認することはできない。」

ヴォイテク・クルティカには、彼の哲学を他人に押し付ける権利はありません。山への道は一つではない。沢山の選択肢があり、自分自身で選ぶことができるものだ。

「何年にも渡り、我々はヒマラヤに遠征し、多くのことを成し遂げ、登山史を作り上げてきた。我々は冬期登山を開拓した最初の人間だ。私の世代や前の世代の登山家は、ポーランドの登山の黄金時代ともいえる10年を築き上げてきました。ヴォイテク・クルティカはその中で大きな役割を果たしました。」

「今、彼は我々の山のコミュニティに爆弾を投げ込み、存命中の者だけでなく故人の業績をも貶めました。彼の意見では、私達は垂直の壁や困難なルートを避けた「高所ハイカー」ですが、ポーランド遠征隊はシェルパの支援を最小限に抑えたため、シェルパの方が固定ロープの使用を希望することもありました。時には倫理的、時には経済的な理由があるのです。」

その他、Wyborcza紙においてビエリツキは、クルティカが指摘した、著書での「ダウラギリ東壁ビエリツキルート」の表現、ビエリツキが伴っていた山岳事故、冬季カンチェンジュンガでアンジェイ・チョクの体調不良を見過ごしたとされていたこと、ワンダ・ルトキエビッチのアンナプルナ登頂「詐称」について反証しているのですが、ここでは割愛します。

クシストフ・ビエリツキの反論のキモは次の箇所でしょう。

「ワンダ・ルトキエヴィッチが山頂に達したと報告書に書いた。誰かが山頂に立ったと言うなら、彼らはそうだったと思います。私は他に何も興味がありません。」

「多くの人が登山をスポーツと考えています。山頂に到達したからといってメダルがないだけで、誰もそれにボーナスを払いません。それは名誉と個人的な誠実さに基づくものです。もちろん疑わしいときは調査が行われますが、特別なものはありません。」

「私たち一人一人は品位に導かれるべきであり、人々は信頼されるべきです。」

インタビュアーに「情緒的ですね」と尋ねられて
「おそらくはね。しかし、誰かが不思議に思ったら、彼はこの嘘と共に生きていかなければならず、毎日鏡で自分自身を見て、考えなければなりません:私は嘘をついた、と。これは容易なことではありません。嘘は重大な負担を負い、それは彼自身の問題です。

そしてビエリツキは、反論インタビューを次のように、クルティカとの関係修復を示唆する言葉で締めくくっています。

「(クルティカのインタビューの影響による)被害はすでに生じており、容易に修復することはできません。それは私についてではなく、私の世代について、過去の偉大な登山家について、です。彼のインタビュー後、大衆はクルティカを支持する人々、ビエリツキとポーランド山岳協会を支持する人々に分かれました。」

「誤った言葉は残りますが、私は人を信じています。また、登山の伝説的存在であるヴォイテク・クルティカは、自身の言葉を再考し、過去の人々に敬意を払うと信じています。」

 

 登頂詐称疑惑に対する姿勢に関しては、大いにクシストフ・ビエリツキを支持したい。

 日本のSNS界隈でも、ウーリー・ステックのアンナプルナ南壁単独登攀に疑問を投げかける投稿をみかけたが、私は個人的にウーリー・ステックの申告を支持する。

 Bernadette McDonald著 『 ALPINE WARRIORS 』の中で、マルコ・プレゼリがトモ・チェセンのローツェ南壁疑惑に対して「I believe him 」と言い切っている姿勢を、登山を真剣にやっている者ならば、あらためて再考願いたい。

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ビエリツキ、クルティカに対して民事訴訟の準備

ヴォイティク・クルティカがポーランドの日刊紙Wyborcza紙のインタビューにおいて、ポーランド山岳界を「痛烈」に批判。

その内容は、イェジ・ククチカの登山の否定、クシストフ・ビエリツキ、ワンダ・ルトキェビッチの登頂成果は偽りとする、かなりショッキングな内容です。

これに対してクシストフ・ビエリツキが激怒、民事訴訟の準備を進めています。

 

Wstrząs po wywiadzie z Wojciechem Kurtyką. Krzysztof Wielicki zapowiada kroki prawne by Wyborcza 2021.4.26

(ヴォイティク・クルティカのインタビューの衝撃。クシストフ・ビエリツキ、法的措置を発表)

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現在のヴォイティク・クルティカ (Photo by Agencja Gazeta)

問題となったクルティカのインタビュー内容を要約すると、次のとおりです。

「ポーランドの栄光を目指した遠征登山は、今や国を貶める遠征登山となった。」

「大規模な登山隊と小規模な自立した登山チームとの違いは、売春宿でセックスするか、親密なパートナーとセックスするかというようなものだ。」

 「最初の害毒は8000m峰14座登頂レースだった。ククチカは実際に何をしたというのか。ダウラギリ、チョー・オユー、カンチェンジュンガでは、他のメンバーが数週間にわたり高所キャンプを設営した後に入山し、登頂した。これは現在の商業登山における顧客参加登山の原型のようなものだ。」

「1975年、ポーランド隊がブロードピーク中央峰に初登頂した事になっているが、実際には登頂していない。ポーランド登山協会はじめ当時の関係者は皆知っているはずだ。」

「ワンダ・ルトキェビッチのアンナプルナ登頂は詐称だ。彼女は山頂に達していないのに登頂を主張した。登頂写真も非常に怪しいものだ。」

「1980年にマッキンタイアらとダウラギリ東壁を登り、ほぼ同じルートを1990年にビエリツキが単独で東壁を登ったが、「ビエリツキルート」と公表したことに唖然とした。」

「ビエリツキは多くのクライマーを死なせている。2012年のブロードピーク冬季登山隊、遡ってアンナプルナ・サウス峰遠征でもザイルパートナーを死なせている。」

「ククチカ、(クシストフ)ビエリツキ、(アダム)ビエリツキ、彼らを遭難事故のために非難するつもりはないが、鈍感すぎるし、仲間を救う機会があったはずた。86年の冬期カンチェンジュンガ登頂ではククチカ、ビエリツキは登頂に成功したが、体調不良(その後死亡)のアンジェイ・チョクを救助する機会はあったはずだ。ククチカとビエリツキは天国への偉大なドアマンなのか。」

などなど、かなり具体的な内容に突っ込んで批判を展開しています。

ヴォイティク・クルティカはポーランド登山界でも独特な立ち位置にいる存在ですが、ここまで他人に対して批判的な人間だっただろうか。

Wyborcza紙のクルティカのインタビュー記事全文に目を通した後、恩田真砂美さん訳の『アート・オブ・フリーダム』を速攻で読みなおしました。(さすがに原著を読み返す気力は無い)

たしかに同書後半において、イェジ・ククチカに対して痛烈な批判はしていますが、あくまでも情緒的な表現に留まっており、「登山隊がおぜん立てをした後に入山する」「商業登山の原型」などと具体的な事を挙げての批判はありません。

何かクルティカの腹の中に溜まっていたものがあったのか。

Wyborcza紙の続報によれば、既にクルティカはククチカの遺族には謝罪しているとのこと。ビエリツキとの関りについてはまだ報道されていません。

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